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白百合の涙  作者: 雨足怜
アヴァンギャルド編

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13/96

13戦闘前に

 王国の襲撃に備えて私たちが活動を開始してから、二日。


 嵐の前の静けさが続く森の中で、私は無数の簡易拠点をこしらえていた。一か所に一日分の水や食料を隠しおき、それを点在させる。

 目印は、木の枝につけた小さな傷。目ざといアヴァンギャルドの仲間であれば気づけるほどの小さな傷は、恐らく敵には見つけられない、私たちにとっては道しるべにもなりうる大切な印だった。

 ぽつりと、頬に雫が落ちた。


「……雨?」


 気づけば木漏れ日は色を失い、森の木々は深い緑に染まっていた。パラパラサアサアと枝葉に落ちる雫が音を立てる。

 外套のフードをかぶる。気温が急激に低下したらしく、肌寒さからくしゃみが出た。


 時刻は夕暮れ。

 夕立で雨が終わってくれればいいのだけれど、と枝葉の隙間から見上げた空は真っ黒に染まっていた。

 この後もひたすら雨が続きそうで、私はさっさとやることを済ませてしまおうと森の奥へと走り出した。


 ふと、視界を人影が横切った気がして足を止める。

 二足歩行の、ひょろりとした影。多分、アヴァンギャルドの誰かだろう影が向かった先を、幹に体を隠して覗き込む。

 走り去っていく背中が視界に入った。確か元貴族で、政争の中で貴族を多数毒殺した容疑でアヴァンギャルドに入れられた男。普段は木の洞の中でブツブツと現状を嘆くばかりだった無能の筆頭が活動をしていることが不思議で、私は気配を消して後をつけた。


 他のアヴァンギャルドの者たちであれば容易に気づかれたであろう私のつたない隠形も、ろくに戦闘をしてこなかったために能力に変化のない彼相手ならば何の問題もなかった。

 彼は尾行を警戒する様子なく、迷いのない足取りをしていた。それどころか、彼はまるで森に脅威が無いように、怯えることなく枝葉を鳴らしながらずんずんと歩いていた。そう、これまでひたすらに魔物の脅威に怯えていたはずの彼の足取りには、恐怖はなかった。

 勇み足で森を進む彼の姿に、私は言いようのない違和感を覚えた。


 男の足が止まる。きょろきょろと周囲を見回す姿を確認して、私は慌てて木の影に身を躍らせた。

 男のすぐ側の木の上から、一人の影がひらりと地上に降り立った。極彩色のカラフルな服を身に着けた女は、単独行動ばかりで私も良く知らない人物だった。確か、呪術師だったか。

 彼女は男と顔を突き合わせて二言三言言葉を交わし、やがて二人並んで、私に背を向けて森の奥へと向かっていった。


 後を追うべきか迷って、結局私はそこに留まることにした。私は、自分の能力を過信していない。少なくともアヴァンギャルドで真っ当に戦ってきただろう女を相手に、私が気づかれることなく後をつけるのは不可能だと思われた。今、完全に動きを止めて静止している状態であれば、このまま引き返して怪しげな行動をとる二人組について報告することができる。

 私は、キルハたちに二人の情報を告げるべく、気配が遠くに消えるまでその場にとどまって。


「ッ⁉」


 頭上に違和感。

 咄嗟に前方へと飛び出せば、頭上から降って来た何かが私の股の間を通って勢いよく地面に突き刺さる音がした。

 多分、ナイフか何か。


 風を切り裂いて進む音を聞きながら、私は四肢を使って跳ねるように立ち上がって剣を抜いた。

 音の正体へと、剣を振るう。

 ナイフ。ぶつかった刃物同士が甲高い音を響かせ、頭部へと迫っていたナイフを弾き飛ばすことに成功して。

 緑の液体が、飛び散る。多分、毒。

 回避――に意識を取られた。視界に、敵の姿がない。

 背後に音。

 剣を側面へと差し込む。

 金属音。

 敵は背後に――


 そこで、私の体からがくりと力が抜けた。そのまま、うつぶせに倒れる。

 鼻腔を土のにおいがくすぐった。それから、視界の端に毒々しいナイフが映る。緑色の液体が塗られたナイフの表面からは、うっすらと緑の蒸気が昇っていた。

 揮発性の麻痺毒にやられたのだと思う。私の体は、動けと念じてもピクリともしなかった。


 足音がする。視界に影が落ちる。私は何とか眼球を動かして影の方を睨む。

 そこには、先ほど男と共に姿を消した、極彩色の衣服を身に纏った女の姿があった。銀の髪の毛先が、雨に濡れてだらりとフードの中から垂れ下がっていた。深い紫の瞳は、感情を宿していない、ひどく恐ろしい色をしているように思えた。

 私に対して麻痺毒を使うあたりに、彼女が私の魔法対策をしていたことを見て取れた。つまり、彼女は多分、元から私を害する意志があったということで。


 影に飲まれたその姿の胸元。色鮮やかなローブの奥に光る銀の徽章には、月と薔薇が描かれていた。それは、キルハ曰く王国が秘密裏に抱える魔女たちの組織の証。


 アヴァンギャルドという組織にすでに裏切り者が潜んでいることを、なんとしてもキルハたちに伝えないといけなくて。

 けれど、蓋を開けた小さなガラス瓶から香る匂いを嗅がされてすぐ、私の意識は闇に落ちていった。






「……多分、来たね」


 夕暮れから、しとしとと降り続ける雨は未だに止む気配がなかった。


 夜。

 湿った冷たい風が、不吉な音を立てながら吹き抜ける。僕は集まったメンバーを見回した。アベルに、ディアン、そしてマリアンヌ。そこには、予定通りいけば日暮れ前に帰って来るはずのロクサナの姿はなかった。多分、何か想定外の事態があったのだと思う。敵に接触して逃走しているか、既に囚われているか。


 本当は、すぐにでも捜索に行きたかった。ロクサナが行方不明だということに気が気でなくて、けれど自分はここでしなければならないことがあるから、ロクサナを探しに行くなんてことをできるはずがなかった。

 魔具を有効に使って王国の部隊に重い一撃を食らわせるのは、僕以外にはできない。いや、できなくはないだろうけれど、僕がいたほうが格段に上手くいくだろうことは明らかだった。

 マリアンヌが眉間に深くしわを刻みながら森の奥をにらむ。


「裏切ったんじゃないでしょうね」

「それはないよ」


 自分でも驚くほど強い言葉が、喉を震わせた。殺気すら籠った声に、マリアンヌがびくりと体を震わせた。

 ロクサナに限って、裏切りはないと思う。少なくとも、彼女が王国側についている可能性はゼロに等しい。理不尽に重い罪を負わされ、魔女だからと嫌悪される彼女が、国に尻尾を振る可能性は低い。さらには、魔法によって蘇るたびに記憶を失っているはずの彼女は、王国が万が一に備えてアヴァンギャルドに忍ばせて置いた刺客としては使い勝手が悪すぎる。何を忘れるかもわからない人間を国が使うとは考えにくい。そしてこれまでの彼女との交流から、彼女の記憶が死と共に欠落していっていることが事実だと、僕は知っている。

 大切な記憶も、約束も、彼女はすでに覚えていないようだったから。


 そして貴族たちが欲してやまない不老不死に繋がりそうな力を持つロクサナに捕らわれた後待ち受けるのは悲惨な未来だ。だから、ロクサナは裏切らないし、裏切れない。


「ありえないよ。ロクサナは敵じゃない」

「じゃあなんで帰ってこないのよ。一人で逃げたって考えるのが自然じゃない。だって彼女は、死なないでしょ。一人で魔物の住処のさらに奥に逃げ込めば、生き延びることだって不可能じゃないでしょ⁉」


 ヒステリックに叫ぶマリアンヌに、言葉を叩きつけてやりたかった。

 大切な記憶を失い、自分が自分でなくなることを覚悟しなければならないロクサナは、そんな手段を選ばないと。魔法の代償の重さを、教えてしまいたかった。けれど、それはあまりにもロクサナに対する配慮を欠いた行為だ。記憶を失っていくことを言いふらしてしまっては、どんな悪意に目を付けられるか分かったものではない。

 どれほど辛い経験をしても、死を繰り返せばロクサナはその記憶を忘れる。彼女は、悪人の都合のいい感情のはけ口にされかねない。だから、彼女の魔法に関して不用意に言いふらすなんてことは、決してしては行けない。ただ、彼女が自分を蘇生させる魔法を使えるということだけが分かっていれば、共闘には十分なのだ。


 多分、ディアンとアベルはロクサナの記憶の問題を知っている。だからこそ、二人の顔にはロクサナが裏切ったという考えは少しも見えなかった。心配そうに瞳を揺らすディアンと、戦い――あるいは快感を得る場――を予感して体を震わせるアベル。

 いつも通りのアベルを見て、どこかこわばっていた体から力が抜けた。


 大丈夫、ロクサナは無事だ。少なくとも、彼女は死なないのだから。

 今ほどロクサナの魔法に感謝したことはなかった。


 息を吸い、気持ちを落ち着ける。

 まだ怖さはあった。今度こそロクサナは僕の全てを忘れてしまうんじゃないかという恐怖があった。何度も殺されているのではないかと、心配した。けれど、そんな感情は今からの戦いに役に立たない。無駄な思考は、魔物にでも食わせておけばいい。


 ひとしきり苛立ちを僕にぶつけたからか、マリアンヌは息を荒らげながらもそれ以上ロクサナの裏切りの可能性を言及することはなかった。

 大丈夫、ロクサナは裏切っていない。


 彼女が、僕たち全員を欺くほどの詐欺師でなければだが。


「さて、準備はいいね?」


 ディアンが、アベルが、そしてマリアンヌが不承不承と言った様子で、頷いた。三人の視線を受けて、僕もまた強くうなずく。

 拳を握る。手が、震えていた。大丈夫だと、自分に言い聞かせる。これは武者震いだ、自分たちは必ず勝利する。ロクサナは助かる。だから、落ち着け――


「行こうか」


 そうして、僕たちは長く拠点として利用したアヴァンギャルドの一角、アベルの城である滝付近から歩き出した。

 向かうは森。

 無数の罠を仕掛けた、王国の暴虐へと鉄槌を下す審判の場へと、僕たちは向かった。


 大丈夫、全てはうまくいくはずだ。

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