10交渉
息を吸う。吐く。
目を閉じて、自然に意識を同調させる。心の中にある拒否感を、頬を撫でる風に乗せて体から吐き出す。
目を開く。聞こえてくる変態たちの会話に、少しずつ耳が腐っていく。
ディアンとアベルのもとに踏み込んでいく勇気は、まだ足りなかった。けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。今にも王国は準備を整えて私たちを殺しにやってくるかもしれないのだから。
アヴァンギャルドに放り込まれて、いらなくなったら殺される。そんなあり方は御免だし、死という逃走ができない私は、戦う以外の選択肢がない。
想像もできない絶望の日々の一端を考え、私はその恐怖の運命にあらがうために決死の覚悟で前へと一歩を踏み出した。
大地に縫い付けられたように動かなかった足は、歩き始めればすいすいと前へと進んでいった。
そうして、私はアベルとディアンの前にたどり着いて。じっと見つめていれば、二人は次第に会話を止めていった。
変態たちの視線が、私に突き刺さる。変態二人に、常識人の私……変態に染まらないようにしなければ。
……ひとまず、確認をしておこうか。
「それで、どこまで話は進んだの?」
「話?……ああ、王国と戦うために協力してくれってあれか」
「ねぇロクサナさん、ボクも一緒に戦うっすよ。ねぇ、いいっすよね?」
顎髭を撫でながら斜め上を見上げてうなずくアベルの肩をグイと押して、ディアンが顔を近づけて来た。反射的に意識が足元に行ってしまうのは、かつてどういうトリックを使ったのか、靴を履いていた状態にもかかわらず、気づかぬ間に靴下を剥かれた経験があるからだ。あの時もディアンはこうして私の気を引いて窃盗に及んだ――のだが。
今のディアンは私に何かをすることはなく、ただ真剣な目で真っすぐに私の目を見ていた。
見たことのない顔だった。そうして、気づいた。私はディアンという人間のことなんて、およそ何一つ知らなかったのだと。
まあ、当たり前だ。変態に染まってなるものかと逃げ続けていた私はディアンときちんとした話をしたことはない。上っ面の話ばかりで、一歩を踏み込んだ話をしてこなかった。
いや、それはディアン相手に限った話ではないかもしれない。アベル相手でも、キルハやマリアンヌ相手でも、私は相手の懐に踏み込むことも、自分の心の奥に踏み込ませることもなかった……はずだ。記憶にある限りでは。
どうしてだろうと、考えて。
そして気づいた。私は、怖かったのだ。踏み込んで、関係ができたその先で嫌われるのが。恐怖のにじんだ目を向けられることが。だって、私は魔女だから。人々に嫌われる、魔法という異常な力を使う化け物の一人だから。そんな私を、弟は恐怖した。幼馴染として育った少女だって恐怖した。
マリアンヌは、同じ魔女だからそれほど恐怖しないかもしれない。でも、私自身が、私の魔法が気持ち悪くて。その感情は、死を乗り越えるほどに大きくなっていっていた。いつか彼らの中の恐怖や嫌悪の感情が許容値を越えれば、誰もが自分から離れていくと、そう思った。
だから、逃げた。魔女である私には仲の良い相手なんていてはいけないと思った。私は一人でいいと思った。それなのに、月下の枝の上で並びあった際、私はキルハが隣にいることに安堵した。私は一人じゃないと、そう思えて、胸が張り裂けそうだった。人のぬくもりに、人とのかかわりに、飢えていた。
だから、私のこの思いは、恋とか愛とか、そういうモノじゃないはずだ。共闘の邪魔になるような余計な感情なんていらない。
私のこの、自分が嫌われるかもしれないという恐怖も、仲良くなってしまうことで喪失時の悲しみが大きくなることを避けようとする思いも、余計な感情で。
私は自分が生き残るために、それらの余計な感情を捨て去り、清濁併せのみながら一歩を踏み出さなければならないのだと、そう思った。
舌で唇を舐める。肉食動物ににらまれたウサギのように、ディアンが肩を震わせた。その視線が、下に向く。
要警戒。
――落ち着け、今このタイミングでディアンが私の靴下を奪おうとすることはない、はずだ。
「ディアン。どうして私たちに協力しようと思ったのか、聞かせてくれない?」
背後でマリアンヌが全力で首を横に振っている気配を感じた。必死な気配を背中に受けながら、私は真っすぐディアンを見つめた。
ディアンの視線が上がる。一瞬、私の背後に向いたその目に動揺がにじんだが、すぐにその色はいつもの笑みの裏に飲み込まれていった。キルハが、ディアンを恐怖させるような顔をしていたのだろうか。どうにもディアンはキルハにおびえている節があるように思う。
ディアンの顔にあるのは、いつもの軽薄な笑み。けれどその目には、確かな覚悟の色があった。
「生きたいからっすよ。そして、ボク一人では生き延びられないっていう確証もあるんすよ。別に、変態だからって馬鹿だっていうわけじゃないっすからね。少なくとも今のアヴァンギャルドでは、ボクが協力しましょうって言って受け入れてくれるのは、ロクサナさんたちしかいないっすよ。みんな、協調性がなさすぎだと思わないっすか?」
「……私も思うよ。もう少し集団行動をしてくれれば、夜に襲撃を警戒して浅い眠りをしている必要はなくなるんじゃないか、なんてね。でも、ディアンが自分の欲求のままに生きていなければ、女性陣の真っ当な類の人が協力をしてくれる可能性もあったかもしれないわよ?」
「真っ当、ってなんすかね?」
突きつけられた言葉が、私の思考を真っ白にした。
それは――なんだろか。真っ当な人として即座に思い浮かぶのは、王国で平和に暮らしている人々の姿だ。私の家族、村の人、顔も知らない王国中で必死に日々を生きている人々。ああ、彼らは真っ当だろう。汗水たらして今日の糧を得て、誰にも迷惑をかけることなく日々をコツコツと生きていく。そして彼らが真っ当ならば、私たちアヴァンギャルドの者は誰もが真っ当とは言い難い。なんとなく、無意識のうちにアベルの方を見た。
強く頷いたアベルは、何を思ったかディアンとがっちり肩を組んだ。
「真っ当っていうのは、絶望的な状況にあっても希望を捨てずに日々を生きている者のことだ。俺たちみたいにな」
そう言われればそんな気もした。私たちは、実質的な死刑である流刑の中でも、生きるために必死に戦っている。生きるために抗う私たちは、生物としては真っ当なのかもしれない。一方で、こんな絶望的な状況に置かれても狂気に身を滅ぼさないというのは、逆に人間として壊れているような気もする。それに、アヴァンギャルドの中でもアベルやディアンのような変態が真っ当かと聞かれれば、間違いなく私たちは否と答える。
「アベルは自分が真っ当だと思うの?」
「ああ、真っ当だと思うぞ。俺は、痛みを受け入れる人間じゃなかったらこの場所では生きていけなかった。痛みに快感を覚えることで、俺は心折れずに今ここで生きているんだ。そう考えれば、俺のこの性癖だって、生きるための手段の一つでしかないだろ?」
「生きるための手段……」
「ああ、お前の魔法だってそうじゃないか?魔法を手にした時の詳しい話は聞いたことがないから知らないが、ロクサナ、多分お前は心のどこかで魔法を望んで、求める未来をつかんだタイプだろ」
私は、魔法を望んだのだろうか?望んだから、神か何かは私にこの呪いのような力を与えたのだろうか。死ねない私は、魔法を手にすることによって望む未来を手にしたのだろうか。
魔法を手に入れた時のことを、思い出した。弟を守りたいと思った。弟のその恋人の未来を、私が守らないといけないと思った。我武者羅に飛びかかって、死にかけて、けれど私はあきらめきれなかった。まだ死ねないと思った。まだ私は使命を果たしていないと思って。二人を守りたいと、死の間際、消えていく意識の中でそう願ったのかもしれなかった。
そして私は、弟と幼馴染を救い、望む未来を手にした――はずだ。その、はずなのに。
どうして私の心は、張り裂けそうな痛みを感じているのだろうか。
「お前の魔法のように、俺たちには逆境の中において自分を前に進めていく原動力が必要だったんだよ。あるいは、光無い暗闇で自分の足元を、進路を指し示す光が欲しかったのかもな。だから俺は、恋人に踏まれた痛みを快楽だと脳で変換して、快感を武器に、これまでアヴァンギャルドで足掻いてきたんだよ」
「アベルは、昔は痛みが好きではなかった……?」
「当り前だろ。痛みが好きなんて、現実逃避でしかないからな。そんなことはわかっているんだ。ただ、痛みを幸福と勘違いしておけば、痛みしか感じられない状況に置かれても何とか生きていける。真っ当な精神性を持っていた俺は、そうやって壊れることでしかこの世界で生きていくことはできなかったんだよ」
そう、寂しく笑って。ディアンの肩から手を離したアベルは空を見上げてすっと目を細めた。アベルの後輩にあたる私も、アベルの恋人という女性のことを知らない。アヴァンギャルドで知り合ったのか、それ以前の知り合いなのか、何一つ知らない。アベルは、それを語っていない。
それはつまり、そういうことだ。
悲し気な瞳の理由が、私にもなんとなくわかる気がした。
多分、アベルの恋人は自殺したのではないだろうか。それから、戦いの中で全てがどうでも良くなって、抗うことをやめたか。壊れることで生きながらえたアベルを置いて、壊れきれなかった恋人は死んでしまったのではないか。
それはただの妄想で、けれど寂寥に揺れるアベルの瞳ににじむ涙の輝きが、あながちズレた予想ではないと私に伝えていた。
お前はどうだと、アベルはディアンに聞いた。クシャリと顔を歪めて、ディアンはうつむく。警戒――は必要なさそうだった。
わずかな躊躇いと共に話し始めようとしたディアンは、それから盛大なくしゃみをした。ずぶぬれのアベルに肩をつかまれていたせいで肩のあたりが濡れ、さらには飛び散る水しぶきで服はわずかに色を変えていた。そのために体が冷えたようだった。
一方、全身が濡れているディアンは寒さを感じていなさそうだったのが印象的だった。
「ひとまず体を乾かさない?」
私の提案に、ディアンは一も二もなくうなずいた。
パチリ、パチリと火の粉が爆ぜる。両手を炎にかざしていたディアンが、熱のある吐息を漏らした。誰もが、ディアンの顔を見た。
揺らめく炎の光を瞳に湛えたディアンの顔には、全く感情がうかがえなかった。お調子者ないつもの軽薄さは鳴りを潜め、夜の世界に消えて行ってしまいそうな儚さがあった。
「……ボクは、しがない盗賊が襲った女の腹にできた子どもなんすよ」
ぽつり、ぽつりとディアンは語り始めた。
盗賊団にて、八つ当たりの対象にされながらも辛くも生き延びていたこと。所属していた盗賊団が捕縛される際に、盗品の一部を抱えて逃げ出したこと。力なく、学もなく、盗みのみを知っていたディアンは、親と同じように盗みに手を染めて一人生きていったこと。
とはいえ、ディアン一人で生きていくことなど不可能に近かった。すでにその場所でコミュニティを作っていた集団に排除され、ケガをした。ゴミをあさり、何とかその日を食いつなぐのがやっとな状況に陥って、けれどディアンは必死に生き続けた。
どうして、そこまでして生き続けることができたのだろうか。私の疑問はマリアンヌも抱いたようで、彼女は眉間に深いしわを刻みながらその訳をディアンに尋ねた。
「……生きることをあきらめなかった理由っすか?そんなの、怒りの一言っすよ。自分ばかりがこんな状況に置かれていることが許せなかったんすよ。理不尽な苦しみを感じて、道行く幸せそうな者たちが妬ましくて、羨ましくて、だから、必死に生きてきたんすよ」
さっさと死んでおけばよかったのに、とでも言いたげな響きを持つマリアンヌの質問に、ディアンは肩をすくめて答えた。
その怒りは、私も知っているものだった。
この世の理不尽に対する怒り。どうして自分ばかりがと、自らがおかれた現状を嘆く思い。それはたぶん、私だけが共感できる感情というわけではなかった。アヴァンギャルドという流刑にあった誰もが――アベルもキルハもマリアンヌも、皆が理解できる感情だっただろう。
だから、マリアンヌは納得を示すように一つ頷いた。続く質問がないことを確認して、ディアンは話を再開する。
理不尽な状況に置かれて、何とか生をつないでいたディアンは、その先で、一つの出会いをした。親が所属していた盗賊団の構成員とは比べ物にならない盗みの腕を持つ一人の女性――怪盗を自称する女に、ディアンは拾われることになったのだという。それはあるいは、出会いなどという生易しいものではなく、人さらいに等しかったという。後継者を探していたという女怪盗はディアンを連れ去り、教育を施した。やせ細ったディアンには酷でしかないほどの試練を前に、けれどディアンは腹の奥底に渦巻く怒りを原動力にして乗り越えていったという。
その中で、女がある提案をした。それが、女の所持品を一つ奪えば、その日の訓練を即座に終了するというもので。
「ボクが初めて彼女から奪取することに成功したのが、靴下だったんすよ」
いやまて、とアベルを除く私たち三人は心の中でツッコミを入れた。そこでどうして靴下になるのか、理解できなかった。上着とか、靴とか、装飾品とか、帽子とか、そういった手に入りやすいものがあって、なぜ靴下なのか。けれどディアンは私たちの疑問には気づいていないように話を続ける。
「そこには、ぬくもりがあったんすよ。生きているものの、確かな残り香が。それを強く実感しようと、ボクは靴下を鼻に押し当てて、目覚めたんすよ。そこには、確かな生があって、自分が今ここに生きているということを、初めて実感した気がしたんす」
もう、何と答えるべきかわからなかった。途中まではひどくシリアスだったディアンの話は、一瞬で変態性の発露へと変化した。マリアンヌは鳥肌が立った腕をさすり、キルハは苦い顔をしながらディアンから視線を逸らす。私は、ただぼんやりとディアンの顔を見ていた。
キルハは思考を放棄していた。
「そんなわけで、ボクにとって靴下というのは、自分が生きていることを実感するためのアイテムであり、手段なんすよ」
「……あんたが変態だってことは嫌というほどわかったわよ。で、どうしてわたくしたちに協力しようという話につながるのよ」
ディアンの変態性は分かった。だが、それだけ。今の話を聞いても、ディアンがどうして私たちと共闘しようという結論に至り、その提案をしてきたかはわからなかった。
そんな私たちとは違って、アベルとキルハは分かったような様子で小さく頷いていた。男だけにわかる何かが、今の話にはあったのだろうか。
ディアンは、続きを話そうとしない。
私の疑問の視線に気づいたのか、キルハが顔を上げて、私を見て、それからアベルに視線で尋ねた。言ってもいいのか、と。
少しだけ頬を赤らめたディアンが頷いたのを確認して、キルハは私とマリアンヌの顔の間で視線を行き来させながら口を開いた。
「つまり、ディアンはもう一度師匠である怪盗の女性に会いたいってことだよ。その理由が、親愛なのか、恋愛的な感情からなのか、あるいは弟子である自分がまだ生きていることを伝えたいのか、怪盗として成長した腕を見てほしいのか……そのあたりは分からないけれどね」
そうなの?と私とマリアンヌがディアンを見る。耳まで赤くしたディアンはうつむき、燃える焚火をじっと見つめる。
パチリと火の粉がはぜる音とともに、ディアンがポツリとつぶやいた。
――好きだったんだよ、と。
そう、とただそれだけ答えて、私はディアンとその師匠である女性について思いを馳せた。厳しい師匠は、けれど自分の後継者に選んだディアンに、ともすれば愛情深く接したのだろう。そして、仕事でへまでもしたのか、ディアンは捕まって、アヴァンギャルドに入れられて、彼女は弟子を失った。
師匠の女性は、今でもディアンを探しているだろうか。愛弟子を救い出すために、国を相手取って盗みを働いていたりするのだろうか。
もしそうだとしたら、それは素晴らしい師弟愛だと思う。
「……つまり、師匠に会いたいからディアンは私たちと共闘したい、ってことね?」
こくりと頷くディアンを見てから、私とキルハ、マリアンヌの三人で顔を見合わせる。口火を切ったのは、キルハだった。
「僕は賛成だよ。王国がどれだけ本腰を入れて僕たちを滅ぼそうとしてくるかは不明だけれど、とにかく戦力は多いほうがいい。ディアンなら協調性もあるし、連携も十分だよ」
「わたくしは反対よ。できればアベルとだって一緒に行動したくないの。できることなら、変態との共闘なんて死んでもお断りなのよ。……けれどまあ、状況が切迫しているから譲歩してあげるわよ。わたくしの靴下を盗まない、足に触れないって約束してくれるのなら考えてあげないでもないわ」
二人は、そうして私を見る。反対一、一応中立が一。多数決は私にゆだねられて、そして。
「私も賛成。少なくとも対人戦において、ディアンほど相手の裏をかくことができる人を私は他に知らないもの。ディアンの協力があれば、戦力で劣っていても相手を出し抜けるかもしれない」
決定ね――やや諦観をにじませながらマリアンヌがつぶやいて、それから私たち四人の視線は、沈黙を保っていたアベルのほうへと向かった。そういえばアベルから協力を受諾するという言葉を聞いていなかったことに気づいた。
まさかこのタイミングで協力を拒まれることはないだろうと祈りながら、私たちは視線を交錯させ、キルハが代表して口を開いた。
「王国の手から逃れるためには、呪術師が死んでいるかどうか、つまり僕たちを縛る呪術が無効になっているか確かめる必要があるんだ。そしてそれは、呪術の痛みに耐えられるアベル以外にはできないことだ。だから、協力してほしい。全員で生きてこの地獄から脱出するために」
「もちろん協力するとも。痛みを感じることができるのなら、俺が拒否する理由はないからな」
ガシ、とアベルとキルハが手を握る。
戦力の中心はキルハとディアン、特攻が可能な私に、かゆいところに手が届くオールラウンダーなマリアンヌ、そして逃走可能かを判断するアベル。
アヴァンギャルドに属する者を皆殺しにしようとする王国に対抗するための戦力が、こうして集結した。




