上手い小説と面白い小説
焼けるような鋭い痛みが友博の頬を駆け抜け、目の前で火花が飛ぶ。
殴られた衝撃によって、友博はそのまま地面に倒れこんでしまうのだった。
「中井、テメェはなんで殴られてるのかは分かってるよな?」
「わかってるなら、今度はおとなしくしといたほうが身のためだぜ」
ひと気のない校舎裏に呼び出された友博は速攻で江戸川派のふたりの不良に殴り飛ばされ、一方的にリンチを受けるのであった。
「うううぅ……」
地面に這いつくばっている友博の頬にべっとりと土が塗れる。
「おら! いつまで寝てんだよ」
しかし、江戸川派の不良はそんな友博の脇腹を靴先で容赦なく蹴り上げるのだった。
顔に塗れた土を拭う気力も奪われるほど徹底的に痛めつけられる友博。しかし、それでも友博は顔をあげ、視線に確固たる抗議と批判の意志を込めるのだった。
だが、友博が睨みつけているのは、直接、危害を加えているふたりの不良ではない。そのふたりの不良たちのすぐ傍で友博が殴られている様子を腕組みしながら見守っている大柄な男である。
彼こそが、友博のクラスの筆頭をめぐる2大勢力のうちのひとつでトップに君臨する江戸川その人である。
友博を威嚇して大声をあげている2人の不良とは対称的に、江戸川自身は友博に暴力を振るわない。ただ、目を細め、口角をあげて笑いながらその様子を見守っているだけだ。しかし、友博にはそのにやけヅラが不気味で仕方がなかった。口角をあげて目尻を下げているにもかかわらず、その目はまったく笑っておらず、心根がまったく読み取れないからだ。
〝この卑怯者め〟
友博は心の中でそう毒づく。
先程から友博に危害を加えているのは、取り巻きのふたりのみ。それは前の授業の剣道の時もそうだった。江戸川自身は友博に指一本ふれない。その典型的な悪役じみた立ち振る舞いに友博は嫌悪感を覚えるのだった。
そもそも島田のことが本気で気に喰わず、クラスの筆頭になりたいのならばさっさと自ら島田に勝負を仕掛ければいいのだけの話だ。しかし、それをしないのは、たった一撃でライバルであった時任を葬り去った島田の戦闘力が恐ろしいのからだ。そして、その一方で島田はいつも物静かに佇み、時任や江戸川のように派閥や徒党を組んだりはしていない。だからこそ江戸川は島田にシンパが現れて仲間を増やし、自らの派閥を上回る勢力に成長する事を何よりも恐れているのだ。
このリンチはそんな島田の味方をする友博へ報復であると同時に、江戸川派以外のクラスメイトへの警告でもあるだ。「もし、島田の仲間になるのなら次にこうなるのはオマエだぞ」という。
絶望に打ちひしがれる友博。そんな時、友博の耳にガマガエルの鳴き声のような歌声がこだまする。
「はじめて言葉を交わした日のその瞳を忘れないで~」
そして、その重低音の歌声はどんどんと大きさを増していくのだった。
「あなたを苦しめ~る~。すべてのことから~」
その歌は80年代に一世風を靡した流行歌。乙女のやさしさと包容力に満ちた歌詞とはミスマッチすぎる野太い歌声に友博は困惑する。しかし、友博はこの声の主を知っている。そして、それは友博だけではなく、江戸川たちも同じだったようだ。奴らもお互いに顔を見合わせている。
「守ってあげたい!」
そう高らかに宣言して颯爽と登場する島田。これがマンガならば「バーン!」などという文字が背景に書かれている場面だろう。
「島田、テメェ!」
驚きの声と共に気勢をあげる江戸川派の取り巻き。
「黙れ」
底冷えするほどの殺意にあふれた島田の眼光に取り巻きどもは一瞬で震えあがる。
島田はその取り巻き共の敵意にあふれた威嚇をたった一言で封殺してしまうのだった。役者が違う……友博はそう思うのだった。
そして、島田は「オマエらみたいな小物にはようはない」と吐き捨て、江戸川のもとに歩み寄る。
「よう。江戸川。こうやって差し向かいで話すんは初めてやな」
ドスの利いた口調でそう語りかける島田。しかし、江戸川は先程と変わらぬ目の笑っていない笑みで無言を貫くのであった。
「なかなか汚いマネしてくれるやないか。この落とし前どうつけるつもりや。ああ?」
次の瞬間、江戸川が右手をあげると、取り巻きどもと共にこの場から立ち去ろうとするのだった。
「島田。今日のところは引いてやる」
今まで沈黙を貫いていた江戸川がようやく口を開き、前腕で顔を覆い隠す。
「だけど、次に会った時がキサマの命日だということを覚えておけよ」
そして、次の瞬間、前腕をあげる江戸川。露わになった顔は、恵比寿から阿修羅になっていた。先程の笑顔から一転、歯列を剥き出し、血走った目を限界まで見開きながらこめかみに青筋を浮かべて強烈に島田を威嚇する江戸川。そのあまりの変わりように友博は慄く。
「出た~。江戸川さんの必殺顔面返し!」
そして、そう囃し立てる取り巻きども。
「はっ、オマエは大魔神か?」
しかし、島田は平然とした表情で吐き捨てるだけであった。
「中井、大丈夫か?」
江戸川たちが立ち去った後、島田は友博に肩を貸してくれる。
「うん。けっこう殴られたけど、なんとか大丈夫だよ」
「そうか。すまんなあ、ワシのせいでこんなことになって」
「ううん。島田くんのせいじゃないから気にしないで」
そして、島田は友博の怪我の手当てをしてくれるのだった。
「あいつらは、ワシに仲間ができて勢力が拡大するのがなによりも怖いんや」
「うん。きっとそうなんだと思う」
島田の呟きに友博は返答する。
「なんせ、江戸川がワシに勝ってるところなんて兵隊の数の多さくらいやからな」
「ボクは島田くんの部下や兵隊じゃないのにねぇ」
「ホンマやな」
目と目がお互いに微笑みを交わし合う友博と島田。
そうだ。友博と舎弟だとか部下だとかいう上下関係ではない。もっと純粋な文学を愛する対等な間柄なのだ。
「ところで……」
島田が再び口を開く。
「この前のことは考えてくれたか?」
その途端、友博の顔が曇りだす。
「ごめん。ボクは島田くんとは友達でいたいけど、一緒に小説を書くというのはやっぱり……」
そう友博が言葉を発した瞬間、島田は鳩が豆鉄砲をくらったような顔になる。
「なに言うとんねん。たしかにワシは一緒に作品を創りたいと言うたけど、それは小説ちゃう。漫画や」
「ま、漫画?」
「そう、漫画や。漫画も小説もどちらもすぐれた創作物の表現方法やけど、このワシらの学年の即売会で売られているのは小説ばかり。今まで誰ひとり書いたことがない。それはなぜか? やっぱり漫画は小説よりも技術的なハードルが高いからや。文字さえ書ければ小説レベルの文章に達するまでそんな時間はかからんけど、絵が描ける人間でも漫画を描けるようになるまではかなりの時間がかかる。そのうえ、今の日本の教育制度では文字が書かれへん人間は滅多におらんが、絵は書かれへんっていう人間は少なくない。事実、プロの小説家でも絵が描かれへんから漫画を諦めたっていう人間は少なからずおる。そやから、この即売会ではただのひとつの作品も発表されたことないんは、ある意味では当然とも言える。
けどな、戦後間のない1949年に『漫画の神さま』と呼ばれた虫塚神威がストーリー漫画の技法を編み出して以来、漫画はエンタメ系の創作物の王様であり続けた。売られていないだけで、本当は小説やなくて漫画を読みたいっていう塾生は山ほどおるはずや。そんな状況でワシらが漫画を描いてみぃ。きっと熱狂なんて言葉では済まされへんほどうちの塾生は夢中するで」
島田は瞳を輝かせて笑い、その伝法な物言いとは対照的な整った歯列を見せつけるのであった。
そして、「あー、あと、『いや、虫塚神威以前にも映画的なコマ割りや長編漫画を描いてた人間はおったから、虫塚神威ストーリー漫画起源説は間違いや』やっちゅうオタク臭い反論は無しやで」と付け加える。
いっぽう、友博はその突拍子もない勧誘に驚き、固まっていた。
そして、一瞬で根こそぎ刈り取られた思考を再び重ねると、ようやく粘りついた喉から声を絞り出すことができたのだった。
「なにを言ってんだよ。島田くん! 小説じゃなくて漫画だなんてなおさら無理だよ」
「なんでや?」
「そもそもボクは漫画なんて描いたことないよ」
「小説は書けるんやろ? それやったら、表現方法を文章から絵に変えるだけやから、後は簡単やろ」
あっけらかんとそう言い放つ島田。
〝無茶苦茶だ〟
さっきまで漫画は小節よりも技術的ハードルが高いなどと発言しながら、今はこの言い草。支離滅裂の島田理論としか言いようがない。
「なに言ってんだよ。とにかく小説じゃなくて漫画なんてなおさら無理だよ」
「オマエはそれでええんか?」
立ち去ろうとする友博。しかし、島田は静かだが、よく通る声でささやき、友博の動きにくさびを打つのであった。
「なにがさ?」
問いかける友博。
「オマエはこのまま小説で創作を続けても、うちの学校じゃあ誰にも読んでもらわれへんで」
「……ッ!」
痛いところを突かれて友博は唇を噛みしめる。
「そ、それはこの学校の生徒の奴らが毎日毎日ケンカに明け暮れているような下品な馬鹿ばかりだからだよ。あいつらにボクの小説の文学性なんて理解できっこない」
「つまり、読者がオマエの小説に気づいていないだけやと?」
「そうさ。ボクの小説は島田のように『分かる人間』が見たら面白い作品なんだ。でも、あいつらは教養やセンスがない馬鹿だからその面白さに気づけないんだ。でも、ボクは諦めないよ。本当に面白い作品はいつか認められるはずなんだから!」
コブシを握りしめ、そう断言する友博。
しかし、その友博の気合とは裏腹に、次の瞬間、島田の瞳に寂寥や哀れみに似た色が駆け抜ける。そして、浅く目を閉じ、一拍置いた後に深く長い息を吐くのであった。
「たしかにうちの塾生はろくに九九も覚えることができず織田信長の死因すら知らんような奴らばっかりや。そんな奴らが大航海時代のヨーロッパを舞台にした貴族の恋愛モノなんて理解できへんっていう意見は一理あるし、本当に面白い作品はいつか認められるっていう理想に関してはワシもそうあってほしいと願っている」
まっすぐと友博をみつめる島田。
「けどな、ひとつ。たったひとつ言わしてくれ。
まず前提条件が間違うとる。オマエの作品が受け入れられへんのは読者のセンスがないからやない。ただ単純に面白うないからや」
「な、なに言ってるんだよ」
言葉を詰まらせる友博。
「ボクの小説は面白い。島田くんだってそう言ってくれたじゃないか!」
「ちゃう! ワシはたしか『上手い小説』やとは言うた。けど、『面白い小説』やとは一言も言うとらんで」
「う、『上手い小説』?」
「ああ、そうや。この前も言うたけど、地の文がほとんどなくセリフだけで状況や心情も説明している小説がほとんどを占める中、オマエの作品だけは比喩も使った一定の水準の文章力で小説の体を成しとった。ストーリーもきちんと起承転結を意識して構成していて、演出面に関しても省略すべきとこは省略して、強調すべきとこは丁寧に描写してあった。なにより、舞台となる大航海時代のヨーロッパの貴族の生活に関してきちんと調べてるんがよう分かった。こういうとこを怠ると作品は途端に薄っぺらくなるもんや。
けどな、悲しい事にオマエの作品は面白くはないねん。読者が次の話を観たくなるようなドキドキやワクワク、ストーリーや設定にインパクトや強烈なまでのヒキ……総じて『ケレンミ』っちゅうもんがまったくないからや」
平然とそう言い放つ島田。
しかし、今やその言葉は音として耳には聞こえてはいるが、友博の心には響いてはいなかった。
「なんだよ、それ。ボクの作品を面白いって思ってくれてたんじゃないのかよ?」
肩を震わせ、青ざめた顔でまるで最後の望みを託すかのように問いかける友博。
「何度も言うが、たしかにオマエの小説書きとしての技術力はうちの塾生の中では誰よりも高い。小説を教えてくれるカルチャースクールの講師やったら『お上手ですね』と褒めてくれるやろう。けどな、『面白く』はない。人を惹きつける『ケレンミ』がまったく存在せえへんからや.」
「うるさい!」
気がつけば、友博は握りしめていたコブシを島田に振りあげていた。
その拳撃を島田は避けることなく、感情を押し殺した無表情で受け入れる。しかし、友博はそれだけでは飽き足らず、島田の両肩を掴んで、そのまま押し倒すのだった。
「オマエにボクの何が分かるんだ! ボクは小説に全てを捧げてきたんだ。ボクには……ボクには……小説しか……」
そして、馬乗りになってさらに島田を殴り続けるのだった。
「自分の作品を否定されたんや。悔しいやろ。腹立つやろ。それで気がすむならいくらでも殴ったらええ。けど、右手で殴るんはやめとけ。その手はワシと一緒に漫画を描く手やろ」
「黙れ! 黙れ! 誰がオマエなんかと漫画を描くもんか!」
ケンカ慣れしている島田にとってクラス最弱男子である友博のパンチなど蚊に刺された程度にしか感じないのだろう。
避けようと思えばいくらでも避けられるはずなのに、島田はその全てのパンチを受け入れる。
やがて、殴り続けた友博のほうが先に息が上がってしまう。島田の顔には一滴も血は流れていないのに、逆に友博のコブシには誤って歯の辺りを殴ってしまったせいで血が滲み出す始末だった。
島田に馬乗りになった体勢のまま、荒い呼気で立ち尽くす友博。
そして、友博の頬を流れる熱い湿り気が島田の胸板へと滴り落ちるのであった。
「中井、うちの塾生はたしかに馬鹿やが、作者の目が読者に向いとらんのうえに最初から馬鹿にしてるのを気ぃつかんほど鈍感やない。ええか。漫画にしろ小説にしろ作品ちゅうもんはアマチュアやったら作者だけで創っても何も問題ない。けど、プロ……もしくはプロを目指すんやったら読者と一緒に創るつもりやないとアカン。そして、オマエはこの悔しさを認めんと、創作者として一生、前に進まれへんで」
島田の直言を耳にしても、友博は何も答えず立ち上がる。
そして、そのまま無言で島田に背を向けて歩きだすのであった。