島田という男
即売会から一夜明けた火曜日。
授業中にもかかわらず友博は勉強に集中できずに小説のことばかり考えていた。
〝なんでボクの小説は売れないんだろ〟
中学生だった頃から夏休みなど長期休暇の時は、近隣でもっとも大きな図書館まで片道10キロ以上もママチャリを走らせて、1日かけて2、3冊の小説を読破するという生活をほぼ毎日していた。それほどまでに友博は読書が好きだった。ハッキリ言って、この学園にいる誰よりも読書量は多い自信はあるし、書いてきた小説の数だって負けてないはずだ。面白い自信はある。
しかし、実際に売れているのは、友博のほうではなく他の者の小説だ。
もちろん、読んでもないのに批判するのは愚か者がすることだし、売れているにはそれなりの理由があるはずだから、友博も彼らの小説を買って読んだことはある。
しかし、その内容は友博の目から見たら、とても小説と呼べるようなものではなかった。
比喩や情景描写などの地の分が極端に少なく、ほぼ会話のみで構成されている文章。多用される陳腐な擬音。現実世界では恵まれない境遇にあった主人公の異世界に転生したあげくにチート能力を手に入れて無双するとい承認欲求丸出しのストーリー。本当に自我があるのか疑わしくなるほど主人公にあっさり惚れてしまう美少女ヒロイン。ほとんどあらすじと言えるような長文タイトル。
彼らの作品の展開はどれも恐ろしいまでに似通っていて、まるで判で押したように量産されているのだった。
〝あいつらは馬鹿だから、ボクの書いた小説の面白さが理解できないんだ〟
そうだ。なにせここの塾生たちは高校生にもなって四則演算すらもまともにできなくて「タコは哺乳類だもん」と豪語するような正真正銘のド低能。さらには欲望の赴くままに喧嘩や乱痴騒ぎをくりかえすような人にして野犬と変わらないような性根。そんな人間に友博が書いた小説の繊細な感情の機微が理解できるはずがない。第一、今この学園で小説を書いている人間だって、友博のように心から小説が好きなのではなく、ただ腕っぷしの強い不良たちにチヤホヤされたいがために書いているだけなのだ。だからこそ、あいつらはその馬鹿どもに受けるような単純で分かりやすい刺激のある物語を恥ずかしげもなく書くことができるのだ。
〝もっと見る目がある人間なら、ボクの小説を評価してくれるはずだ〟
友博はそう自分の心を慰めるのであった。
授業が終わり、昼休みとなった時、食事を食べ終えた友博はトイレに入る。
〝よし。人はいないな〟
5つある小便器のうち使われているのはたったひとつ。友博は空いている4つの便器のうちの1つを選んでそそくさと用を足すのだった。
しかし、だ。
せっかく空いている時間帯を選んだにもかかわらず、友博がズボンのチャックを降ろすのと同時に次々と人がトイレに入ってきて、あっとういまに小便器は満員となる。そして、それと同時にひとりの男が取り巻きを引き連れてトイレに入ってくるのだった。
〝最悪だ〟
友博は己の不運を嘆く。
〝こうなることを恐れて、わざわざ空いてる時間を選んだのに、なんであの男が入ってくるんだよ〟
その男の名は時任。
血の気の多い奴が友博のクラスの中でも彼は腕っぷしの強さは確実に3本の指に入る。なにせ、日常生活がすでに暴力に支配されている魁義塾高校でわざわざ柔道部に入るほどの格闘ジャンキー。しかも190センチに迫る身長はクラスでもトップの体格の良さなので逆らえるものはほとんどいない。
しかし、時任の最も恐ろしいところは体格のよさでも腕っぷしの強さでもない。その弱者を徹底的に痛ぶるサディスティックかつ自己中心的な性格だ。
あれは友博たちが入学して間もない頃。
ちょうど、あの時も今と同じように小便器が埋まっていた。すると時任は先に小便器で用を足していた生徒の背中に「ホットションベンや」などと宣いながら、放尿。
背中に小便をひっかけられた生徒は友博と同じように気の弱く、身体のデカい時任に歯向かうことも出来ずに泣きながらすぐにその場を逃げ出していったのだ。断言できる。時任は弱者が慌てふためく様を絶対に楽しんでいた。その眼は確実に獲物を弄ぶことを悦ぶ肉食獣の目だった。
あの一件以来、クラスのカースト最底辺である友博は絶対に混んでいる時間帯にトイレに行かないことを心に誓った。
しかし、よりによって今のこの状況でトイレが混み出してきてしまい、時任という悪魔のような男と鉢合わせてしまうとは……。
小便をしている友博は背中越しの気配だけで時任が獲物を物色しているのは理解できた。
魁義塾高校でケンカの強い塾生はふたつに大別できる。ひとつは自分と同等か強い相手に対して闘争心を燃やすタイプ。もうひとつは自分よりも弱い人間をイジメて悦びを感じるクソ野郎。もちろん時任は後者である。
トイレ全体がヒリつくような凄まじい緊張感に支配される。はやく出し終えなければ……しかし、友博がそう焦れば焦るほど小便がなかなか出し切れない。しかし、だからといって、小便の途中で逃げ出すような真似をすれば、「床がテメェの小便のせいで汚れたじゃねえか」と時任に因縁をつける格好の材料を与えてしまう結果になってしまう。
そして、友博の背後ではジジジと、ズボンのチャックを下ろす音が鳴っているのだった。周囲の者たちは自分が標的から外れた事によって緊張感を弛緩させているが、友博の心は恐怖と絶望で固まる。絶体絶命である。
「時任、やめろや」
そんな時任を制する声がひとつ。
友博よりも前にトイレにいた生徒が、用を足し終えたので助けてくれたのだ。
「し、島田くん!」
驚きの声をあげる友博
助け舟を出してくれたのは、クラス一の秀才で友博以外では唯一アメリカの首都を言える事で定評がある島田だった。
「なんだ。島田。オマエ、時任さんのやることにケチつけるのか? ああ?」
品性の欠片も感じられない口調で顔を近づけてくる時任の取り巻き。しかし、そんな島田は威嚇には動じずに眼光を光らせる。
「オマエに言うとるんやない。ワシは時任に言うとるんや。金魚の糞は黙っとれ」
その島田の関西弁の迫力に押され、たじろぐ時任の取り巻き。
島田は優秀なのは勉学だけではない。入学直後におこなわれた体力測定でも抜群の成績を叩き出してクラスでナンバー1になっている、文武両道の見本のような存在。そんな相手に真正面から事を構えるのは得策ではないと思ったのだろう。取り巻きは視線で時任に助けを求めるのだった(それならば、初めから喧嘩を売るような言動をしなければいいだろうと思うのが、その浅はかさが魁義塾高校の塾生たる所以である)。
「なんだ。島田。文句あんのか?」
身長が190センチ近い時任は、自分よりも頭ひとつ分以上も小さい島田を見下ろしながら声にドスを利かす。
「ああ、そうや。時任、オマエらの弱いモンいじめは胸糞が悪うなるから、もう辞めろや」
しかし、そんな圧倒的な体格の時任相手にも一歩も引かないのだった。
「言うじゃねえか、島田。俺は前々からオマエのことはスカした態度が気にくわなかったんだ。いい機会だ。いっちょ、ここで本当の上下関係を理解させやるぜ」
ポキポキと指の関節を鳴らす時任。
〝うわ~! 展開、速いな~〟
その、80年代のヤンキー漫画ばりの喧嘩っぱやさに友博は驚きを禁じ得ないのだった。
「ええで。オマエのようなアホは言っても聞かへんやろうし、カラダで覚えさすしかないやろ」
そして、ふたりはコブシを構えて臨戦態勢をとる。
その頭脳と運動神経からクラスでも一目置かれる存在となっている島田だが、入学してから喧嘩をしたことは1度もない。血の気が多い生徒がバカ騒ぎしている時でもいつも教室の隅で静観している……島田はそんな生徒だった。
ただ、あれだけの言動を取っているわけだから、腕っぷしの強さには相当の自信があるのだろう。
しかし、まともに組み合ったら、さすがに不利すぎる。友博はそう思うのだった。
なにせ、島田の身長はクラスでもいちばん背が低い友博とそう変わりはなく。体重もおそらく50キロ台くらいだろう。時任は柔道の有段者。掴まれようものならば、一瞬で勝負は決してしまうのは間違いない。
「島田くん、本当に大丈夫なの?」
さすがに心配になり友博は島田に声をかけるのだった。しかし、島田はこれから喧嘩を始めるというのに涼しい笑顔でこう力強く言い放つ。
「へのつっぱりはいらんですよ」
おお、言葉の意味はよく分からんが、とにかくすごい自信だ。
そして、格闘技経験者である時任はそんな対格差の有利など百も承知なのだろう。鍋つかみのような大きな掌を広げて、島田に掴みかかろうとする。
だが、島田は表情を滑るスケート選手のような優雅な動作でその時任の攻撃をかいくぐるのだった。
「時任、オマエはこんな小さな身体のワシに負けるわけがないと思うてるやろ。けどな、パワーはデカくてもオマエの負けなんや」
「ああ? なんだと?」
ケンカの最中にもかかわらず繰り出される島田の憫笑の吐息に、時任は眉を吊り上げるのだった。
「オマエとワシとじゃ、ハートに燃えてる炎がちがうんや」
そして、島田はあっというまに時任の懐に進入すると、曲げた親指で中指の爪をこすり、その反動で勢いよく指を弾けさせる――いわゆるデコピンを時任の顎にヒットさせるのだった。
その瞬間、時任の瞳は光を失い、ヒザがぐにゃりと曲がる。そして、そのまま地響きのような巨大な音を立てて前のめりに倒れこむのだった。
「うわー! 時任さん。しっかりしてください!」
完全に白目を剥いて気を失っている時任を担ぎ上げる取り巻き。
「くそー。島田め。覚えてやがれ!」
そして、しっかり古典的な捨て台詞を吐いて、去っていくのだった。
いっぽう島田のほうはというと、とくべつ勝ち誇るわけでもなく、準備運動にもならないと言わんばかりに涼しい顔をしているのだった。
〝す、すげー。デコピン一発であんな大男を気絶させるなんてどんだけ強いんだよ〟
友博は驚きを隠せないのであった。
「ありがとう。島田くん。おかげで助かったよ」
友博は島田に頭を下げて、礼を述べる。
「おう」
しかし、島田はさも当然のことのように応じ、腹に巻いているサラシを巻き直すのであった。
人にして野獣に等しい性根の塾生が跋扈する魁義塾において、唯一といっていいほど知性を感じさせられる言動を取ることができる島田(真偽は不明だが、中学時代は日本でも有数の進学校に通っていたという話もある)。しかし、友博はこれまでまったくと言ってもいいほど会話をしたことがない。
低い身長と線の細い体躯、パッと見では女の子と言っても通用するくらい整った顔だちをしている島田。しかし彼がいつも着用しているは、いわゆる長ランと呼ばれる丈の長い学生服。それだけではなく腹には常にサラシを巻き、校内を上履きではなく雪駄で練り歩いているという一昔前の不良学生のようなファッションセンス。しかも口にはペパーミントのような葉っぱをいつも咥えているのだった。
「ちっ! ションベンが途中で時任が騒ぎ出したせいで、またフンドシを締め直さなあかん」
そう悪態をつく、島田がズボンの下に直用している下着は紛うことなき純白のフンドシなのであった。
そして、極めつけはこのフンドシである。
時代錯誤な魁義塾では、着用する下着はフンドシが望ましいと校則で明記されているが、さすがに守っている塾生はひとりもいない。この島田という男を除いては……。
友博の目にはある意味では島田という男は、クラスのどの塾生よりも特異に見え、それ故に安易に話をかけづらい印象を持っていた。
しかし、それは友博だけではないようで、クラスのほとんどの塾生にとってもそうだったようだ。トップクラスの頭脳と運動神経を有して一目置かれているにもかかわらず、島田はクラスの誰とも群れずに、単独で行動していることが多いのであった。
「オマエはたしか同じクラスの中井友博やったよなぁ」
島田が友博に尋ねる。
「うん。そうだけど」
「出身は千葉県。中学時代は同じクラスの男子に嫌がらせを受けて不登校になって、小説を書くのが好きな事もありほとんど引きこもりの状態が続いて、見かねた両親によって、この魁義塾に入学させられてしまう……」
「えっ? どうしてそんなことまで知ってるの?」
自らの個人情報が島田の口から語られて、友博は驚きを隠せない。しかし、島田はそんな友博のリアクションに頓着する様子もなく、なおも淡々とした口調で語り続けるのであった。
「そして、その趣味である小説の執筆はこの魁義塾に入った後も続けていて、先日の即売会でも新作の小説を発表している」
そして、島田はサラシの中から友博が書いた小説を取り出す。しかも、それは1冊だけではない。友博が入学してから今まで書いた小説を島田はすべて持っているのだった。
全身に鳥肌が立ち、思考がまとまらないほどに狼狽する友博。
しかし、島田は多くは語らない。友博の耳に口を近づけ、友博だけに聞こえる声でこう囁く。
「史上最強の男が最強の男を誘いにきた.。ひとりで作品をつくるのも一度なら、ふたりでつくるのも一度。機会が二度キミのドアをノックすると考えるな」
そして、雪駄の足音を響かせて島田はトイレから出て行くのだった。