beautiful moon
嫌いだ、美月といるときの自分が。
嫉妬心に駆られて、醜い本性を晒してしまいそうになる。
そんな自分が情けなくて、悲しくて、泣きたくなる。
美月は何も悪くない。
彼女は、とても素敵な女の子だ。
少々ふっくらとはしているが、色白で美人。
そして、いつでも笑顔を絶やさない。
誰にも分け隔てなく優しいし、カリスマ性とでも言うのか、多くの人を惹き付ける、不思議な魅力に溢れている。
私の尊敬してやまない、大好きな幼馴染み。
でも、美月の発するその輝きが、私の心に影を落とすのだ。
私は、今春から、とある県立高校に通う、ごく平凡な女子高生だ。
幼馴染みの美月とは、同じ陸上部に所属している。
私たちは、投擲種目をやっていて、他の部員たちと共に、毎日円盤や砲丸や槍を投げている。
いや、正確に言うと、私と美月は、槍投げは専門外で、トレーニングの一環で、たまに触らせてもらう程度だ。
私は、陸上初心者で、ましてや投擲など、少しもかじったことはなかった。
もともと運動は苦手で、小柄で体格にも恵まれていないので、ほとんどお遊びでやっているようなものだ。
そんな人間が、どうしてわざわざ高校から陸上部なのかと、疑問に思われるかも知れないが、それは、幼い頃から頼りにしてくっついていた美月と、なるべく一緒にいたかったからに他ならない。
そうでもしないと、学科の違う美月とは、なかなか一緒にいられない。
高校生にもなって、それほど私は美月に依存していた。
この学校の陸上部自体、さほど強くなく、初心者でも気軽に始められる雰囲気だったことも、ここに入部した理由ではある。
一方、美月は私と違い、スポーツ推薦で入学していることもあり、今後の成長と、好記録を期待され、本格的に練習に励んでいる選手だ。
放課後はいつも、校舎の脇にある部室でジャージに着換えた後、少し離れた場所にあるグラウンドへと向かう。
けっこう広い学校で、生徒数も多い。
美月と二人で歩いている途中、男の子からも女の子からも、いつも次々と声が掛かる。
野球部、テニス部、サッカー部など、これから各々の部活へと向かう子たち、それに、帰宅する同級生や先輩たちからも。
ただし、そのほとんどが美月に向けての言葉だ。
今日だってそう。
いつもと同じく、みんなが競うように美月に声を掛ける。
「あっ、美月、練習頑張ってねーー!」
「はーい」
「美月ーー! また太ったんじゃね?」
「失礼な! むしろ痩せたわ!」
「美月! また今度遊ぼうねーー!」
「おっけー」
横を歩く私は、まるで透明人間みたいだ。
それか、彼女のマネージャー。
美月といるといつもそう。
自分の存在が限りなく透明に感じられて、心がすうっと冷えてゆく。
真夏の太陽は、ジリジリと熱く肌を焦がしてゆくのに。
「美月?!」
誰かの叫ぶ声がする。
炎天下での練習中、視線の端で何かが揺らめく気配がして振り向くと、そこには美月が赤い顔をしてへたり込んでいた。
「美月! 大丈夫か?!」
「熱中症の初期症状かも知れないな」
「歩けるか? 日陰に移動した方がいい」
顧問の田中先生と奥田先生が、両方から肩を貸して、美月を日陰に移動させた。
「頭は痛くないか? 吐き気は?」
「……大丈夫……です」
「とりあえず、スポーツドリンク飲め!」
「はい……」
美月は弱々しい声で応え、マネージャーが差し出すコップに入ったスポーツドリンクをごくごくと飲んだ。
「たくさん飲んどけ」
「そんなには……無理です……」
「それでも飲め!」
美月は、何とか落ち着いた様子だったが、まだ怠そうにしている。
今日は一旦保健室で休ませた後、私が家まで送ることになった。
と言っても、いつも一緒に帰っているので、特別なことではない。
私と美月の家は、徒歩でも五分と離れていないのだ。
何とか歩ける状態まで回復した美月を、保健室へ連れて行った後、練習に戻ろうと歩いているときだった。
「佳也子ちゃん、美月、大丈夫だった?」
同じ陸上部の二年生、大澤涼真が追いかけて来た。
彼は、最近引退した三年生から、キャプテンを引き継いだばかりだ。
「もう大丈夫そうですよ。普通に話しも出来ますし」
「そうか。良かった……」
「先生に言われて来られたんですか?」
「それもあるけど、気になったから。俺、キャプテンだしさ」
彼は気さくで、こうやって誰にも分け隔てなく接してくれる。
私と美月が一緒にいても、ちゃんと二人に声を掛けてくれる稀有な存在だ。
それに、背が高く、細身で引き締まったスタイルと、アイドルのように整った顔立ちで、学年問わず、女の子たちから人気がある。
実は、私も彼に密かに憧れているし、美月もまた、彼に片思いしている。
「……あのさ、佳也子ちゃんて、美月とすごく仲いいよな」
「はい。幼馴染みですし、毎日一緒に練習してますから」
「幼馴染みなんだ。初めて聞いた……」
「それが、どうかしましたか?」
「いや、まあ、その……」
この人、どうしてこんなにそわそわしてるんだろう?
不審に思えるくらい、彼の様子はいつもと違う。
「ちょっと、あっちの方で話さないか?」
大澤涼真は校舎の裏手の人気のないところへと私を誘った。
なに? どういうこと? まさか……
私の胸の中を、仄かな期待が過ぎった。
「あのさ、実は俺、美月のことが気になってるんだよね……」
「!」
私は、動揺を隠し切れない顔をしていたことだろう。
「なにそれ?!」そんな台詞が、頭の中をぐるぐると巡っていたのだから当然だ。
「そんな驚く? 美月、女子にも男子にも人気あるじゃん」
「……そうですよ……ね」
だけど! それはみんなのアイドルとか、マスコット的な人気であって、断じて女の子としてモテてるわけじゃない! そうでしょ?!
ほら、またこれだ。
美月に対して、私はなんて失礼で、意地悪なことを考えるんだろう。
これだから、彼女に関わっているときの自分が嫌いなのだ。
他のみんなといるときは、私はもっと穏やかで優しい女の子でいられるのに。
私は、ドロドロとした、醜い感情を気取られないよう、彼から顔を逸した。
こんなどす黒い感情に微塵も気付かない様子で、大澤涼真は無邪気に話し続ける。
「でさ、ちょっと聞きたいんだけど、美月って誰か好きなヤツいるのかな?」
「……知らないです」
「そうなの? 佳也子ちゃんが知らないってことは、今は、特定の相手はいないってことかな……」
「……たぶん、そうなんじゃないですか」
何なの、何なの、何なの……
私の心に、少しづつ、真っ黒なインクが流し込まれ、じわり、じわりと嵩を増していく。
「美月ーー! 今日倒れたんだって? 大丈夫?」
「今日は、早く寝なきゃだめだよ!」
「美月、無理すんなよ!」
帰り道ですれ違う誰もが、美月を心配して声を掛けてゆく。
病み上がりの彼女に付き添って、手荷物まで持ってあげていると言うのに、私の存在は無いも同然だ。
心の中に流れ込んだ黒いインクは、はち切れんばかりに溜まり、今にも溢れてしまいそうだ。
「佳也子? どしたの?黙り込んで」
呑気な美月の声で我に帰るが、笑顔を向けることはできない。
私は、彼女を見ないようにしながら話す。
「……美月、もうすっかり平気そうだね」
「うん。まだちょっとだるいけどね」
「大したことなくて良かったね」
「ほんと。みんなのお陰で助かっちゃった」
「……あのさ、大澤先輩も心配してたよ」
「えっ、うそ! なんて?」
「……キャプテンとして、気になるとか」
「なあんだ。私のこと、個人的に気にしてくれてるのかと思ったよ」
パチン…… 何かが、音を立てて弾けた。
「……誰もがみんな、美月のことを好きなわけじゃない」
思わず、絞り出すような、それでいて、消え入るような声がでた。
私は、彼女を置いてスタスタと早足で歩き出した。
心の膜は弾け、黒いインクはどろどろと溢れ出し、私にはそれを止めることができず、また、止める気にもならない。
「佳也子?」
「佳也子ったら! どうしたの? 待ってよ!」
慌てたように美月が呼んでいるが、私は無視してどんどん歩く。
病み上がりの友人に対して、優しくできないばかりか、こんな拗ねた態度をとる。そんな自分にほとほと呆れ、情けなくて瞼が熱い。
「あーあ。また始まった」
美月のその言葉に、私は、思わず足を止めた。
「佳也子、そうやってときどき拗ねるよね。わけ分かんない」
追い打ちをかけるように、美月は言う。
「わけ分かんないって?」
私は小さく呟くと、彼女の方に向き直り、一気にまくし立てた。
「美月は、いつも自分が愛されて当然て顔してる! 羨ましいよ! 私みたいに、みんなの顔色を伺って媚びたりしなくても、誰からも愛されるんだからさ!」
「友だちも、先輩たちも、先生たちだって、いつも美月ばっかり見てるじゃない! 私なんて消えちゃえばいいんだ!」
私の目からは滂沱の涙が溢れ、声も体も震えが止まらない。
美月は、まくし立てる私を、青ざめた顔色で呆然と見つめている。
いつもの美月なら、誰かが泣いたり、落ち込んだりしているとき、優しくハグして話を聞いてくれる……
こんなに酷い言葉をぶつけながらも、そんな甘えた気持ちが、私の中にはまだあるのだ。
「……なんなの? 自分ばっかり可愛そうみたいな顔しちゃって!」
「!?」
なに? こんな台詞、美月が言うわけない。
彼女はいつも穏やかで、にこやかで、優しくて……
私は、驚きのあまり、泣くのも忘れて、美月をじっと睨みつけた。
美月の表情は、いつもと打って変わって、怒りと悲しみに歪んでいた。
「……私が何も努力してないとでも思ってんの? みんなの顔と名前、誕生日とかもだけど、頑張って覚えて、マメに声を掛けたりしてる!」
「本当は乗り気じゃなくても一緒に遊びに行くし、傷付くこと言われても平気なふりして我慢してる!」
「佳也子の方がよっぽど自由にやってるじゃない! 何にも努力しないでさ! 私が何言っても傷つかないとでも思ってるの?!」
「佳也子だけが、本音を言える親友だと思ってたのに、あんたは私じゃなくて、私の周りの誰かと繋がりたいんだね!」
「違う!」
「違わない!」
美月はその場に泣き崩れた。
私より体格のいいはずの彼女が、とても儚げで頼りなく見えた。
私の胸はひんやりと冷えて、罪悪感で押しつぶされそうになる。
誰かを泣かせてしまったのは初めてだっただろうか……
幼い頃、妹を泣かせたり、中学生の頃、母に反抗して泣かせてしまったことはある。
でも、友だちを泣かせたのは、おそらくこれが初めてだった。
高校生にもなってこんなことってあるんだ……
「美月が好き……あんたに憧れてる。でも、一緒にいると、ひとりでいるよりも孤独な気持ちになる……美月が羨ましくて、苦しいの……」
精一杯の勇気を出して、美月に自分の気持ちを言えた。
これで嫌われたって、もう、しょうがない。
本当は、そんなに簡単には割り切れないけど、覚悟の上で言った言葉だ。
「なんでよ……」
ぼそりと美月が呟く。
「私だって、佳也子が大好きだよ。あんたに憧れてたよ」
「えっ?」
「なんで驚くの? 佳也子は可愛いし、普通にモテるじゃん。それに、いつも飄々としててマイペースで……私も、そんな風に自然に生きたいよ」
「自然? 全然違うよ! 私はいつも無理してみんなに合わせてるんだよ!」
「私だってそうだよ!」
「はぁ?」
「なによ」
「美月は自然にしてるだけでみんなに好かれてるんだと思ってた」
「そんなわけないじゃん! 今のあんたに見せてる私が、自然な私だよ」
確かに、美月がこんなに感情を露わにするのは初めてだった。
誰の前でもにこやかだけど、それってある意味ポーカーフェイスだ。
美月のこんなぐちゃぐちゃの泣き顔、誰も見たことなんかないだろう。
それを、私にだけ見せてくれた?
私を好きで、憧れていてくれた?
本当に? 本当に?
私の瞳から、さっきとは違う種類の涙が溢れてくる。
私は、初めて自分から美月をそっとハグした。
「ごめん……」
何度も、何度も、そう言いながら、私は泣いている美月の背中を撫で続けた。