エピソード11 言について
良心 : この世界の根源であり、愛と光の神による言によって、全ては誕生いたしました。 一即一切に到るまで、この言によって成り立ち、この言によって、成らないものはありません。この世界が、まるごと、神の世界だからです。
暗夜 : とてもそういうふうには、思えません。「全てのもの」と言われますが、周りを見渡せば、そこまで高尚なものには、感じられないものが、私にはあるのです。
良心 : 心の捉え方によっては、一切は高尚なものになるということであります。心次第です。また、それも、一重に、神による他力である言が働いているからこそであります。たとえば、この埃や塵といったものでさえ、言から産まれていることに気が付いて下さい。塵や埃があることによって、継続力や勤勉性や、清らかさ、憐憫などを人間に与えていることに、もっと心の目を注意して観想してみて下さい。あなたが悪臭を放っていると感じている、ドブでさえも、元々は清らかな水であり、ドブになることで濾過を促進し、一体感が増して、本来の有り方に戻ることが出来るという、尊い愛のプロセスを通過している、ということなのです。ですので、第五感で感じるものが、必ずしも、全てではありません。人間の心はもっともっと、豊かなものです。このような霊感を甘受し、交流する心である第6感や、神の御意志や御心、御声を甘受し、体現していく第7感までの可能性が、人間にはあるのです。
このようなことに気づいて、あらゆるものの見方や捉え方を、一度見つめ直してみましょう。そうするとコペルニクス的転回が心の中で起こり、様々な逆説に気が付き、第6感や第7感が豊かになり、セレンディピティが起こり、あなた自身の潜在能力が大きく開花されていきます。あなたは、それだけ真剣に我が事のように、神の御経綸を感じようと、しているからこそ、そのような疑問を持っていられるのです。そのことに気付いて、良い意味で、もっともっと自身を信じてみましょう。信じる心が育っていきますと、全ての原型である、イデアに近付くことが出来ます。そしてそれが聖域まで到達しますと、一気に、目覚めていき、輝かしい神の世界へと再び、邂逅することが実現していきます。
言とはすなわちキリストを意味します。キリストとは、この世界の全てを創造された一者と、合一した愛と光の生命そのものです。ですから、キリストとは、特定の誰かに与えられた特権のようなものではありません。誰もが皆に、平等に与えられている心であり、意識や精神であり、生命そのものなのです。良心を育んでいき、全体性の指針や秩序とし、回復させ、第7感をも取り戻していき、定着した時に、一人一人にキリスト再臨が起きます。私でしたら、マオ・キリストです。
このように、キリスト者になる為に、人は、神の大慈悲の元で、輪廻転生を繰り返しながら、整えられて、完成されていきます。キリスト者とは、自分が語ったことが、そのまま世界を創造する御力を有している者達なのです。ヨハネによる黙示録では「口には蜜のように甘いが、腹には苦い」と出てきます。口にして、語ったりすることは、時には、とても気持ちが良いものでもありますが、いざそれを行動し、実践すると、なると、なかなか難しいことです。至難の業です。キリスト者が「愛」と語たり、体現した時には、その人の個性を通した至高の「愛」がそこに必ず創造され、周囲の人々のキリスト意識を必ず、蘇生させ、育む力を宿さなくては、本物のキリスト者にはなれません。キリスト者とは、それを実践出きる者達であります。
これまでの歴史の中でも、キリストを求め、キリストの道を歩もうとした人々がいます。それが、神秘主義者と呼ばれている人々です。私は、まさに、その道を歩む者の一人です。
暗夜 : そのようなキリストの道を歩むことなんて、到底出来ません。神秘主義者になれるような、資格や資質が私にはないのです。
良心 : まさに、その心掛けこそが、神秘主義者なのです。あなたは、すでに、キリストの道を歩んでいることを、今、示して下さいました。モーセがシナイ山に「十戒」を授けられた時には、まさに、暗夜さんのような心境だったのです。喜んで下さい、そしてこれから語る言葉をよくよく覚えておいて下さい。天では自分を低くする者が、高められ、自分を高くする者が、低められるからです。あなたのような小さき花に出逢えて、私は、嬉しく思います。ああ、可愛いき子羊よ。




