転輪
「ほら飲めよ」
「ん……誰だお前?」
「あら忘れた?山尾だよ山尾」
「山尾…?」
初めて会った男に馴れ馴れしく酒を注がれる複雑な気持ちが、私の中を駆けた。
「お前、この山尾様を知らないのか?」
「あ、ああ……ん?」
なんとなく見覚えのある顔だと思ったが、私の記憶の中に彼は見知らぬ存在として捉えられていた。私がきょときょとして目をそらすと、山尾は突然、机を大きく叩いた。
林檎のように熟した顔から、私は彼が酒癖の悪い人間であると推察した。
山尾が机を叩いた音で他のお客さんがこちらに振り向く。四面楚歌に降り注がれる視線に、私はさらにきょときょととしてしまった。
「おい、聞いてるのか⁉︎」
山尾の激昂した声に私は驚いた。
「俺は誰だ!」
「知らない!私はお前など知らん!」
「はぁ⁉︎」
その直後、山尾の右手が私の左頬を殴った。
その後の私の調査から、山尾は有名なバンドのボーカルをしているらしかった。
次の日、コンビニに置いてあった新聞には「bustersのボーカル山尾、暴力事件」と小さく書かれており、私はヒリヒリと疼く左頬を触った。
私は愕然とした。
まさかこのような形で、大金を手にすることとなるとは
とりあえず、私の歯を数本犠牲にして手に入れた命綱、慰謝料十万円をどう使うかによって、今後の人生が大きく変わることは間違いないと見た。
「さて、バイトでもすればなんとかなるかな」
私の中ではどうしようもなく悪い明晰夢からようやく逸脱して、好機をつかんだ気でいた。まさに、あの胡散臭い神様の言った通りだ。
自称、神は言った
「君は全くの無名の作曲家として何もいいことがないまま、最後には自ら死を選ぶ…でもね、君にはこの酒を飲む権利が認められた。喜びなさい、落ち果てた君の人生、変わるかもしれないよ」
そう彼女に告げられた途端に急に眠くなり、私はいつしか、かの山尾と二人きりの宴会の席に着いていたのだ。
宴会中、ちらほらと聞こえてきたのはやはり大阪の地名だった(さすがに堺と河内長野は私も知っていた)。
「ここは、まだ大阪なのか」
私は故郷への郷愁の思いに駆られた。
「ここなら家賃は五千円だけど?」
私が即断で契約を決定させたこの物件は、なんと家賃は五千円ながらも、設備はシャワー、トイレ、キッチンなど充実しており、内装も決して派手ではないが慎ましくベージュが色づき、この物件は決して五千円で収まるような物件ではなかった。
事故物件というお墨付きがなければ、おそらく完璧であったであろう。
「ここでは昔、幼女が言うにも無残な死体で発見されまして、この価格なのです」
だがしかし私はそんなものには臆さない。五千円という甘い誘惑もそうだが、幽霊などという、目に見えないものを信じるのは馬鹿馬鹿しいと、私はきっぱりと断言しよう。
借り家暮らし生活、一日目
バイト先のレストランで慣れない接客業に追われて疲労困憊していた私は、夜、満月が南の空にかかる頃、帰り道の途中にあるコンビニでインスタントラーメンを購入した。
乾いた風に吹かれて喉が渇いたので、私は急いで家にある水道水を拝みたかったし、何より帰ればインスタントラーメンを食べることができる。
「インスタントラーメンを考えた人は天才だ!」(後に、私は安藤百福を尊敬するようになる。)
ところが、それが家と言うにはあまりにも新天地だったのか、いやはや他の理由があるのか、とにかく、家に帰るとすぐ、私の直感が異様な気配を感じ取った。
「な、何かいるのか⁉︎」
それは決して間違いではない。私の直感は勘というより、感と言った方が正しい。私は未来予知に迫るほどの直感の持ち主で、商店街の一等賞を過去三度当てたほどだから、自身の感には自信があるし、信頼を置いている。
電気をつけて恐る恐る、リビングルームを覗き見た私ではあったが、果たして腰を抜かすのか?と思いきや、それはあまりにもあっけない結末であった。
「おお、まさかの新入りさん?」
肌はアルビノに劣らぬ白さ、髪は巷間でいう金髪、そして白いワンピースを着ている。青い目でこちらを曇りなく見てくる、愛らしく小さい子どもが、そこにはいた。
「だ、誰だお前は⁉︎」
「ここの住人よ」
一日目から、なんとも波乱な展開である。
「住人だと…?待て待てここは俺の家なのだが」
「あら、私のこの服と格好とで察してみなさい」
実際、察していたのだ。だが察した通りのことがもし事実ならば、私は前言を撤回して、全形而上学的考察主義者の皆様に対して深く深く頭を下げなければならない。
「幽霊、本当にいるものなのか…」
「当たり前でしょう。見えないのはあなた自身の問題です」
「今は見えてるがな」
「…………」
幽霊という存在を目の当たりにしても、私は恐れることなく、寧ろ目前の金髪の幽霊は可愛らしかったので……
「インスタントラーメン食べる?」
と、ついつい聞いてしまったところ、彼女は険悪な目つきで私を睨んだ。
「いりません、私は食べなくても生きていける。と言うかは、どうあがいても死ねないから!」
「あらら、それはそれは災難」
私は何気ない様子で言葉を返したものの、彼女の顔が長い前髪の下で微かに歪んだことを、私は見逃さなかった。
彼女は、死ぬことが目的なのだろう。私は、不謹慎ではあるが、彼女を死なせたいと思った。死ぬことは決して恐れることではない。長年の人生の波乱の波の中から、死という救命ボートが私達を迎えに来て、やがて三途の川へと誘うのだ。
救命ボートに乗る条件は、どんな死に様であろうと、とにかく“この世で生を全うした”と死んだ者自身が心の底から思うことである。
彼女はおそらく……
「君はどうしたら死ねる?」
私がそう彼女に質問したのは、くどいようではあるが彼女の助力になりたいが故であり、さらには私に一片の心当たりがある故であった。決して不快な意味ではない。
「成仏させて」
やはり、わたしの思った通りであった。
「なるほど…生駒の神ならばやってくれるかもしれないな…」
私の口から、まさか生駒の神という単語が出るとは、私自身も驚いた。しかしそれこそが、この変な心当たりの正体だったのだろう。
「生駒?だいぶ遠いわね」
「うそ?ここ大阪だろ?」
「は…舞鶴ですよ?」
「……まさか京都だったとは…」
そんな他愛ない話も織り交ぜつつ、今宵の私たちの会談はそれから長く、長く続いた。途中の話は中略させてもらうとして、最終的に、私たちは生駒へと赴くことに決めたのであった。
それからというもの、私は生駒行きの旅のために、一週間後の二日連続あるバイト休みに向けてお金をコツコツと貯める努力をした。
「金剛山に葛城山、大阪奈良の辺りには沢山の高い山がそびえ立っているのだな…って、本当にいるのか…?」
金髪に白い肌、さらに信じられないことに幽霊である彼女は、姿を晒せば目立つからといい姿を消して、私についてくるというではないか。私とて舞鶴から生駒まで行くのは人生初めてであり、少し不安もある。
「ここに、いる」
こことは言われても全く分からない。姿を見せぬまま、彼女は返事した。
しかし、舞鶴を出てしばらく、彼女の音は全く聞こえなくなった。
何故だと思う?
それは私の問題でもあり、彼女の問題でもあった。
久しぶりに私は生駒への登山を経験した。
常人が導かれるであろう登山路から外れ邪道の道を突き進んだ先にかの神殿はある。
たが、かつてあったはずの神殿が、私がそこに着いた時には、跡形もなく消えてしまっていた。
確かに記憶にあるはずの洞窟神殿は何処に!
私は途方に暮れた。
そしていつしか、私は山奥を彷徨っていた。