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幻想世界物語  作者: 森 日和
双生史
6/35

ジェントルマン

「あららあ、こんなとこで酩酊して…」

「先輩、もはやこれは酩酊を通り越して泥酔なのでは…?」

「……まあいい、とにかく起こすぞ!」

ふと、何かに持ち上げられだ私は、そのまま宙に浮いた。それは怖いものである。なぜなら足がつかないし、そもそも人は浮かないから。

私はその怖さ故に、ようやくあちらとこちらの界隈あたりに彷徨っていた魂が、こちらへと戻って来た。

「お、気づいたっぽいですよ」

「そうか。おーい俺が分かる?」

日本語を話す……警官。

私は一体、先程まで何をしていたのだろう…。

急に頭が冷えて、全身に回っていたはずの酔いが醒めた。

「ここは!……どこですか?」

私は慌てたそぶりを見せたらしい。当然だ、何せそこは人生たったの一度すらも見たことがない、見知らぬ土地なのだ。

「どこって……ここは奈良の生駒山あたりだけど?」

「奈良……」

不思議なことに、聞いたことのある地名だった。しかし、私の記憶の中に“奈良”という単語は存在しなかった、これだけは確かである。過去幾度となく私はその名を聞いたことがあったのだが、おそらくそれはデジャブか何かの類なのだろう。

警官に「奈良ってどこですか?」と聞くと、やれやれと呆れた顔をされた。

「もう二時だよ、朝の。君、家に送ってあげるから、家はどこだい?」

「家…それは……」

「まさか、住所も忘れたの⁉︎」

「…はい」

警官は私のことを、実に泥酔したものと捉えているようだったが、決してそうではない。私はいたって正常なのだ。


ここでいう家とは、私の記憶の中に微かに残っている、かの二階建ての、路地裏の奥に鬱蒼と屹立している例のアレのことだったが、それの詳しい場所は知らなかったので、私は警官の質問に答えることができなかった。

「そうか…君名前は?」

名前…そういえばかつてそんなものもあった気がする……私は思索を巡らせた。

「安東…?です」

それは私が一番、聞き覚えのある名前だった。それだけに、この錆びた脳みそからもその名前が発せられた。

「安東くんか、なるほど…ごめんね、住所分からなかったら君を家には送れないや」

「いえ、いいんです…住所は分からないけど、家はすぐそこです」

「そうか、そりゃ良かった」

私には、この鬱陶しい警官どもを振り払うための嘘をつけるだけの頭はあったし、そもそも、決して酩酊などしていなかった。


これは、牀上施牀な無限夢の続きなのだろうか。

私も、実は薄々気づいていた。過去の夢の、お茶っ葉のように、微かに残る記憶。

しかし、夢の記憶とはすぐに色褪せてしまうものであり、永遠に記憶として鮮明に残ることは非常に稀である。

なのに…なぜか私の記憶には、鮮明な…記憶自体は消えかけだが、とにかく、雰囲気だけでも、鮮明であった。

意味の分からないことを言ったのなら謝ろう、しかし私は、たった一晩のレム睡眠の間に見た夢が、なぜか長年私が積み重ねてきたもののように、懐かしく感じられ、そしてその記憶は少ないながらも、私の心の中で今も、紛れもなく生きている!


私は一体、何をしていたのだろう…

不思議であった。今先程まで、私はとんでもなく素晴らしい体験をしたらしいことは分かっていた。なぜなら今この時も、体が鳥肌を立てているのだから。

しかし、それが思い出せないでいた。

名前すらも…私は忘れそうになった。

「安東……」

安東、これが私の名前だ。私の名前のはずだ。いや、私の名前なのか⁉︎

そんなことは、どうでもよくなった。

「とりあえず、私は我が道を進むしかないのか…」

私はひたすら、生駒山なる場所を歩いた。私の足は震えが止まらず、勾配の激しい道々を歩くのはかなり苦戦したが、私の足は思った以上に強靭で、倒れることはなかった。




満月が西の空へと消えていく。

辺りは暗闇で、蟋蟀の声と醜いモスキートーンが聞こえる。

私はかれこれ五時間は歩いたであろう、生駒の山の中に迷い込んだ私は、今この瞬間、死を覚悟していた。

体は疲労困憊を極め、道無き道を永遠と右往左往し、

死に対して恐れを抱かない今の私は少しおかしいようだ。おそらく私は夢の中で幾度となく死んだのだろう、それで慣れたのではないか、死というものに。

「……あり得ない」

そうとも、お前は正しい。死というのはいくら生涯を全うして長く生きた者も、夢半ばで死んでいった者も、幼くして肉体を失い、輪廻転生した者に対しても、神様は一度しか、死というものは与えられない。

それに慣れたという者がいるならば、私はそいつを浅瀬仇波なお調子者と見なし、末代まで馬鹿にし尽くしてやろう。

そんな窮地特有の訳のわからない人生論を述べているところ、暗闇の中歩く私の前に光が差した。

それは神秘的であり、まるで神々が私を迎えに来たようだった。

「おお…これは…とうとうお召しになるのか」

そうして私は、意識を失った。しかし死にはしなかったのだろう、私には分かる。なぜならば、走馬灯なるものが、ひと時たりとも流れなかったのだから。


「君君、さすがにこんな夜道を懐中電灯なしに歩くのはちょっと無理があるぞ。だが目覚めてくれたのなら、私も安泰だ」

「はぁ……」

狭い山小屋で、真ん中には何処かイメージ通りの囲炉裏があり、私が目覚めると、隣の下部屋でせっせこと何かを作っている男がいた。何処かで見たような顔だったが、それもまた記憶の片鱗として消えている。

「私はね、ここで三十年暮らしているんだ」

「はい……」

「いいご主人に恵まれずに執事も辞めて、隠居生活さ」

「はい…」

長い髪を後ろで結び、痩せ細ってはいたその姿は、私に尋常ではない違和感を与えた。それよりも、おじさんの作ってくれた山菜炒めはまさに絶品だった。

「料理は科学さ、どれだけ素材の味が劣ってようと、調理次第でその差はある程度なら埋められる」

「いや、これはある程度って問題ではないと思いますよ!料理人にでもなったら」

「ははは…いや、今回のこれはね、世界一美味しい、格別の調味料を使ったからね、私の実力じゃないさ」

「格別の調味料?」

「そう、君自身の問題だよ」

おじさんの言うことには一言一句力とオーラがあり、私は彼が尋常ではない人間であることを察した。電気のないこの部屋は蝋燭で明かりを賄っているものの、神秘的な明け方の空の淨暗に溶け込んでいた。

「私はね、またもう一度執事をやることになったんだよ」

「そうなのですか」

「ああ、今度は倉敷に行くんだ」

「いいご主人さまだと、いいですけどね」

「そうだな」

そう言っておじさんは高笑いした。

「君、名前を教えてくれないかな?残念ながら、顔はよく見えないんだ」

「はい…安東です」

「ほう…」

私が名前を伝えると、おじさんは私の耳元で囁いた。耳が痒かったが、声は出さずに済んだ。

「明日にはここを発つんだ、心配ならば、この山の山頂付近の洞窟に行きなさい。きっと手がかりがある」

「手がかり…ですか」

「ああそうだ、それから礼を言っておく、ここを発つ前に独りで寂しく散歩していた私に、死にかけではあったが話す相手をしてくれたこと」

「いえ、感謝するのはこちらの方です!」

「そうか、ほら、もうこの家は鍵を閉めるから、行きなさい」

「はい、ありがとうございました」

おじさんは片手を振って私を見送った。その直後、おじさんの背後から真紅の朝日が昇った。私は眩しくて、顔を背けた。





「ここ、倉敷」

悪い夢から解放された私だが、また八百屋のおじさんに変な冗談をつかれた。私は確かに先程まで悪い夢の中にあり、朝日が昇ると同時に目覚めて、道端に倒れていた体を起こした。記憶が無いので弁明はできない。昨日お酒でも飲んだのだろう、記憶を失ったことは認める。しかしながらこれら些か度がすぎるのではないか?前日まで東京で漫画を描いていた私が、一夜で倉敷にまで飛べるはずがなかろう。

「冗談…ですよね?」

「冗談なんかついてねぇ」

八百屋のおじさんは曇りなき顔で私に言った。もしもこの八百屋から商品を盗る者がいれば、おじさんは地の果てまでそいつらを追いかけて八つ裂きにするかもしれない。

しかし、人を第一印象で語るのはタブーだ。



しばらくして

私は一銭もお金を持っていなかった。だから、空腹で何も食べることができないまま、静かに死を待つ私の元に一人のジェントルマンが現れた時は、まるで彼が光り輝く神様のように見えた。彼の背後から、真紅の朝日が昇った。

「はい、お食べなさい」

逆光でよく見えなかったが、彼が食べさせてくれたものは、黒毛和牛なんて比にならないほどおいしかった。

「な、何じゃこりゃ!」

「ははは、特製の白米ですよ」

「これ、どんな隠し味を⁉︎」

「それはあなたの問題です」

「はい……」

結局、彼は隠し味について何一つ教えてはくれなかったが、別れ際にこう言った。

「お前さん、お金がないようで」

「はあ……確かにそうですが」

「だったら、生駒の山に行きなさい。服も新調してあげるし、お金は私が出そう」

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