神の森
脱獄の事はみんなに黙っておこうと決めた。いつも通りの朝昼夜を過ごし、刑務所とは程遠いぬるま湯の生活を思い出すと、急に脱獄なんてする気が無くなった。だけどみんなは大切な事を一つ忘れていた。ぬるま湯に浸かってのぼせた者など、一生ここで過ごせばいい。私はやる、自分で決めた事だ。
今夜決行する。ばらさよ国天
「待っててくれ…迎えに行くから」
しかし、硬派な私の態度がまるっきり覆される出来事が出発直前に起きたのだ。今思えばあれから、私たちの様々な、大げさに言うなら奇跡が…始まったのかもしれない。
「え…」
出発前、夕食から帰り相部屋に戻った時…少し滑稽な光景が広がっていた。安東さん、谷山、ジェーン、みんながこぞって黒い布のような物で体を覆っては、帰って来た私の方をまじまじと見つめていた。
「遅い!ほら、もう行くんだよ」
私は仁王立ちしていたが、訳の分からないまま安東さんに渡された黒い布を纏った。黒い布を纏った瞬間、私は思い出した。
「黒の盗賊…」
それに気づいた途端、私は感涙を催した。みんなは決して史さんを見捨てていた訳では無かったのだ。
「そうよ、久々に私たち黒の盗賊が出撃するって事よ」
「ええ、広人だけに手柄を横取りされたくはないですわ、だから私もお伴します」
「そうですなジェーン殿、仲間思いでよろしい事です」
「お前は黙って、谷山」
「…はい」
いつも通りの我々の、いつも通りのふざけた会話。それだけでも懐かしい気持ちに駆られて、何でもできる気がした。今の我々ならば、絶対に負ける事はない。
「じゃあ、作戦内容を説明します」
安東さんが五個の石ころを地面に広げた。四個は集められたが、一個は離れた場所に置かれた。つまり、固まっている四個は我々を表し、残りの一個は…アールを表しているのか。
「まず谷山が夜な夜な一心不乱に掘り進めてくれた穴で、刑務所の外へと出ます」
「え、それで終わりじゃないですか?」
「肝心なのはここから。刑務所の外の森では、あの巨人達が監視をしていると言う噂よ…見つかれば死亡確定」
「うわぁ……」
刑務所の外に出る事自体は簡単であるが、刑務所の外の森を抜ける事、そしてアールと合流する事が何より難しいらしい。だから、我々はできるだけ離れないように行動して行かなければならない。
「全員が一心同体。全員が無事でなきゃ、黒の盗賊じゃないからね!全員生きるか全員死ぬ……異論はある?」
安東さんがそう告げても、我々の手は一つも上がる気配を見せなかった。我々の決意に満ちた顔は、我々の意思統一を表象していた。
「…じゃあ行こうか、史の所にね」
「…ええ」
「…ほいな」
「…はい」
ベルの音が刑務所内外に大音量で鳴り響いた時には、私たちはアールと合流を済ませて森の中に身を潜めていた。
「とりあえず第一関門は突破ね、よく頑張ったわ」
いつも通り、安東さんがリーダーとして黒の盗賊を指揮し、皆はそれに忠実に従うのだ。
今頃おそらく、刑務所の中は囚人達の喧伝で満腔しているだろう。私たちは伝説への一歩を踏み出したのだ。
「警戒が強くなる前に行った方が良いんじゃない?アンドウ」
アールは刑務所に長い間滞在していただけ知識も豊富であり、我々の為に的確なアドバイスを下してくれた。
「そうだね、行こう」
かの如く、我々は森の中を知恵と勇気で乗り切ろうとしていた。
しかし、刑務所側の対応は思った以上に早く、しばし苦戦を強いなければならなかった。アールによると、脱獄は重罪で過去一度もそれを試みた囚人はいないだとか…刑務所が天国のような居心地なので誰も脱獄したがらないそうだ。
「今頃あいつら、鼻で笑ってやがりますよ」
私は共に過ごした囚人達の顔を思い浮かべながらそう言った。
しばらくして、安東さんが何やら得体の知れない錠剤を持ってきた。
「みんなこれを飲んで」
「これは何ですか?」
その錠剤を、みんなはきょとんとして見ているのを見て、安東さんは我々を弄ぶように微笑した。
「これは体臭を消すために飲む物よ」
「ああ、あれか」
その瞬間、皆が納得した。
「風呂に入れない代わりにって配られる臭いを消すための薬…まさか五日分溜め込んだのですか?」
「ええアール、これくらいはするものよ」
「…尊敬しかないです」
その瞬間、渡したは満場一致でその薬を飲み、そして森の中から抜け出すべく最終オペレーションを実行することを決めたのだ。
「いい、必ず史を救うのよ」
「おう!」
「今は余計な事は考えない、ただ史を取り返す事だけを考えよう。色々とそれから決めよう…きっと何とかなる」
「勿論です。私安東さんの為ならずっと付いていきます」
「私もですな」
「乗りましたわ」
黒の盗賊はもう迷わなかった。文武両道の頼れるリーダー安東さん、武術模範谷山、チームの癒しジェーン、おまけの私。私たちは運命によって出会ったような…そんな気がしている。数ある星々の中で今ここに我々が集う、まさに運命だ、奇跡なのだ。
その時、私の目に得体の知れない何かが映った。
「あれ…」
感慨に浸りみんなの顔を改めて見渡したその時、私は私以外に五人目の影を見た気がしたのだ。ちょうど右の林の方向で微かに動く物体、まるで私たちを待ち狙うように…
「誰だ⁉︎」
私が気づいた時には、既に遅かった。
刹那、黒ずくめの巨体が電光石火の如く我々に襲いかかった。手には二本の鋭利な短刀、巨体とは思えないほど俊敏で無音…間違いない、奴は今までの奴と何か違った。クロウムなんて比にならないほど威圧感があり、勝てる気がしなかった。気づいているのは私だけのようだ。
「広人⁉︎どうしたの」
「逃げろ…」
「え……」
その瞬間、安東さんの腹のあたりを、何者かの刃が無音で貫いた。神速のクロウムの前になす術無く、呆気なく、そして完全に、美しく…皆に気づかれぬまま、刃物が安東さんの腹を貫いた時、私は恐縮した…嗚咽を催した。
「こんな所で…終わるのか?」
私には一瞬、時が止まって見えた…みんなが斬り刻まれていく目の前の光景が、私にはあまりにも苦痛で仕方がなかった。目を瞑りたくても、みんなに背を向ける事になりそうで怖かった。
「早く私を殺せ外道!」
そう叫ぶと、ほんの一瞬私と奴が目の前に向かい合った。全てを吸い込んでしまいそうな、美しい目をしていた。そして奴は表情を一つも変えずに、私の腹わたに芸術的な切り裂きをお見舞いしてくれた…私は痛みを感じなかった。何故か快楽すら感じた。こうしてみんなと死んでいける事に快楽を感じた。改めて、私は精神的におかしいと実感した…いつでもどこでもどの世界でも、私はこういう体験をしているようだった…そう思うと、やはり死ぬ事が嬉しかった。私が最後に見た光景は、白い神秘の光に包まれる我々の死に様だったのだ。
「やあ」
そう、私はそこで神を見た。
白い光は消え失せ、普段通りの陰湿な森に戻った。辺りには皆の屍が転がっていたが、私の悲しみは腹わたの傷と共に無くなっていた。代わりにあるのは、全てを忘れ去った後のような虚無感であった。
「みんなは心配いらない。君と二人で話す時間が欲しかっただけさ…少し手荒な真似をしてしまったけど、許してね」
神は白いフードを頭から膝下まで被っており、その姿はいくら密林とはいえとても目立っており、もはやフードの意義なんぞ失っていた。
「その笛貸して」
神は木像のように呆然と立ち尽くす私の首から笛を取り、それを吹いた。
美しい音色が、たちまち森全体に鳴り響いた。私はその音色に浄化されるように意識を徐々に取り戻し、やがて涙が溢れてきた。その涙には意味は無い。ただ目から水が湧き出るだけ…そんな涙だった。
「森の精霊たちよ、どうか私たちに心をお与えください。悲しさ、怖さ…全部を吐き出させてください」
笛を握りしめて、神は天に祈るようにして詠唱を始めた。
「あるのは知恵と勇気のみ、どうか生命の恵みを我らにお与えください」
私はその時、見えないはずのものを見た。
エメラルドグリーンに輝く、沢山の精霊たちが辺りに浮遊し、陰湿な森の中でまるで水と油のように一際光を放ち、私の周りを包み込んだ。精霊は数を増やし、私と神、みんなの周りを覆った。エメラルドグリーンに染まった世界が、心の邪念を取り払ってくれるようだった。不思議と涙がこぼれた。
「嫌な事があったら泣きなさい、泣けば忘れられる」
私の涙は止まらなかった。泣きたくなんでなかったのに、涙がぽろぽろこぼれた。
「…広人」
神はフードを取り、精霊たちに手を差し伸べて私に言い聞かせた。私は立ち尽くしたまま神の方を向いていた。
「私は君の運命を救済するための存在として表現した…だから君を正しい世界へと導くべく為に、私は幻想世界を君に見せた。君は夢や大切な物にはとても一直線に向かって行ってしまう。でもそれが時として仇となり、これからの未来、私達に影響を及ぼしかねないんだ」
「…私がそれほど大きな存在とでも言うのですか?」
「ああ大きい、とても大きな存在だ。だからこそ君の歩む道を是正しなければならない」
「是正って…だって私達は出会いも偶然のような仲なのですよ?」
「いいや、全てが必竟なのよ」
「必竟…」
私は行き着く島がないこの会話の結末を悟った。私にとっては劇薬である話の顛末はできれば聞きたくなかったし、何よりこうしている間にも監視の目が迫っている事だろう…
「早く逃げないと捕まりますよ?クロウムは五感に優れた奴らです…逃げるべきですよ」
しかし、神が
「心配無い」
と、まるでレモン汁のようにあっさりと返事したのを目の当たりにし、私は刹那尊敬した。
「とりあえず、まずは森を抜けないとね」
「はい」
「それから…迎えに行かないとね」
「え?」
「君の大切な人をね」
神はニコッと微笑んで、鬱蒼とした森の中に、まるで太陽の恵みのような力を与えてくれた。私はというと顔を左右に振って邪念を捨て、決意を決めて頬をパチパチと叩いた。
「神が精一杯サポートしよう」
神は手を差し伸べた。




