異郷の地
人は誰もが相碁井目であり、その理に反することは決してない。しかし、私は魔の世界に迷い込んだ。
最初はよく分からなかったが、気が付いてみると、私の周りには全くの見知らぬ世界が広がっていた。なぜこんな摩訶不思議な世界へと迷い込んだのか、甚だ疑問ではある。しかし、先程まで私がいた現実とはたいそう違って見えるその世界は、何か私を楽しませてくれる気がした。
私は現実に少々うんざりしていた。
浅瀬仇波な奴らが沢山いて、迷惑で、喧騒が起きて、生きる道が無くて、終いには川へと飛び込んでしまいたくなる、そんな現実。
悪因悪果という言葉をご存知だろうか?私はあの言葉が大好きなのだ。
悪いことをすれば、悪いことが返ってくる、皆に知ってもらいたい四字熟語、教訓として、私はこれを主張する。
反面、善因善果という言葉もある。良いことは報われる。つまり、あの机上の生命を全うするだけの現実世界から、いかにも私を楽しませてくれそうなこちらの世界に来れたのは、私が良いことをしていたからということだ。私はやっと、報われたのだ。
私が突如として現れたのは、世界のどこかにある、いや存在しない、石造りの建物が並んでいる市場である。魚の卸売や、赤い謎の果実が売られており、私の周りにいる人間は、全員長い布を纏っていた。
「何なのだ、ここは…」
先述の通り、私の心は楽しく踊っていた。こうした状況で、恐怖に震える者と期待に震える者とがいるであろう、私は後者だった。
「ーーーーーー」
老婆の声が聞こえたので、私は振り返った。
「ーーーーーーーー」
老婆は私の服をジロジロ見ながら、何かを言っているようだったが、老婆の話している言葉は、英語でも日本語でもない、全くもって私には理解不能の、謎語を話していた。
今思えば不覚だが、唐突に怖くなって私は走って逃げた。そして私の心は早くも掌を返した。
「一体何なのだこの世界は、早く私を家に帰してくれ!」
言葉が通じないのは全くもって予想だにしなかったことで、私はパニックに陥った。
「おやぁ、迷える子羊ちゃんかな?」
路地裏まで走り抜け、息を切らしながら走る私の前に、はたまた今度は謎の美女が現れた。しかし迂闊に信じてはいけない、なぜなら、直感がこう言っているからだ。
「彼女からとんでもなく危険な匂いがした」と。
「あら、なんだか私のこと、信用できないって顔しちゃってるね?」
ますます、怪しい…そもそも他の人とは違い、長い布を纏っていない。私は息を切らす自らの身体を圧して逃げようとしたが、足がすくんで動かなかった。
「大丈夫だから、確かに私は危ない人間だけど、あなたには何もしないよ?」
不敵な笑みを彼女は浮かべた…この女、ますます、怪しい!!
しかしだ、もう私は疲れていた。何もかもがおかしかった。話す気力すら私にはなかった。
「相当疲れてるんだね?」
今になって、私はやっと気づいた。
「日本語⁉︎」
「ん?何かおかしい?」
私は唖然とした、日本語を話せる人がいたということに。私は顔をくしゃくしゃにさせて、その女をまじまじと見た。
すごく…美人だ!
「いいから、おいで!」
私は言われるがままに、美女についていつた。
石造りの建物を、岩の壁と鉄の門が守る彼女の住まいは、3LDKの、あっちにいた私とは比べ物にならないほど広い、広い建物であった。
「私は、日本国内閣府所属特別機密捜査員の安東よ」
「へぇ…」
私は彼女の言ったことが真実であるか否かを理解するまでに、やや時間を要した。彼女は得意げな顔であったが、私はその答えを、国語的に見つけ出すことができた。
「嘘ですよね?」
「ん、なんで分かるのかな?」
「機密捜査員がそう堂々と名乗るわけないですよね⁉︎」
「あはは、ばれたか」
私は、してやったりとも思わなかった。正直なところ、時差ボケのような感覚に襲われていたのもあり、今の私は、感情の起伏がとても緩やかである。嫌なことをされても、罵詈雑言を浴びせられても、あっちに帰っても、大好きなドーナツが目の前にあっても、私は多分動じないだろう……
「ドーナツじゃないですか⁉︎」
「ええそうよ、たんとお食べ!」
前言を撤回して、謝罪します。
私はドーナツを、そこらの野良犬よりも醜く、貪るように食べた。彼女特製の、甘い甘いドーナツを補充したことで、私の気力はいつもの調子に戻った、というかいつも以上に異常だ⁉︎
「安東さんは、なんで日本語喋れるんですか?」
人の家に上がらせてもらい、助けてもらい、ドーナツを提供してもらい、私にとって安東さんは恩人であり聖人である。その聖人様にこうも軽々しく質問する私は誰がなんと言おうと浅瀬仇波な人間である。
しかし安東さんは女神のような顔(先程までの怪しい顔、私は掌を返す速さには自信がある)で話してくれた。
「私も、日本から来たからよ。これからよろしくね。日本人が一人しかいなくて心配だったんだ♪来てくれてありがとうね♪」
どうやら、向こうの調子も私と同じように異常であったようだ。異郷の地で同郷の者と出会った時の安心感、英語だらけの掲示板で日本語のコメントに出会った時の安心感、私は、私たちは、それを今たっぷりと感じている。
「さて、早速あなたには仕事をしてもらうよ?」
「へ?」
「ふふふ、とりあえずついて来なさい!あなたにドーナツを奢ってやったの、誰だったかしら?」
安東さんは恩人でえり聖人、と言った私の発言を撤回して、安東さんは世界の何処ぞに存在した、スパルタ国のスパルタ人としておく。私はこの世界に来てから、理解が追いつかないまま、まんまと彼女にはめられてしまったのだ。
私と安東さんは、現地人と同じように長い長い布を纏った。そして、安東さん先頭のもと、彼女の家から、暗い路地裏を進むこと約十分、全く人に会わないまま、怪しげな二階建ての建物へと連れられた。
「ようこそ!」
頭の上品な白毛が目立ち、長身痩躯な身体に黒い布を纏い、いかにも「おじ様」らしきジェントルマンが大声でお迎えしてくれた。
やはり日本語を話していた。
私が扉を開いて最初に見たのは、そんな、おじ様の至近距離での顔だったので、私は刹那、兢兢業業した。
「いや、さすが安東殿!こうも容易く人材を確保してくるとは!」
「いやぁ、朝飯前だよこんなの〜」
私は今この状況について、全く理解できていない。それもそうだ。そもそも「異世界」なるものに連れてこられたのも私には理解不能だ。ひょっとして善因善果ではなく、悪因悪果あるいは合縁奇縁の巡り合わせだったのかもしれない。だが現実よりはよっぽど期待できそうだ。
「君!」
ジェントルマンが私の両肩に手を置き、顔を近づけてきた。そんな、威勢のいいジェントルマンの顔を見ると、あっち側の詐欺師に見えて仕方がなかった。
「全く分かってなさそうだから、まず説明から始めるよ!」
正直に言う…このおじ様
うるさい。
「ちょっとおじ様、客人に迷惑ですよ!」
「おお、これは嬢、大変失礼した!」
まさに天使だろうか。
彼女が一言言うとジェントルマンは従い、彼女が「やめろ」と言うとジェントルマンは従う。
喧騒ジェントルマンはまるで飼い慣らされたゴリラのように、彼女に従っている…
してその彼女とは⁉︎
「ごめんなさい、うちのおじ様が…」
状況を説明する。私、安東さん、喧騒ジェントルマン、そしてこの少女
「名前はジェーンよ」
が、シャンデリアで飾られた上へ吹き抜けの建物の中に会合している。
「よろしくね」
彼女を例えるなら、小さくて可愛らしく…タンポポ?をイメージしてほしい。黒い布を纏う私たち三人と比べて際立って見える白のフリフリのドレスを着ており、金髪も宝石の如く輝いている。
「さておじ様、彼に説明してあげて。私たちの組織のこと」
ジェーンが命令すると瞬時にジェントルマンは私の前に立ち、説明を始めてくれた。
「私たちは全員、例の“あちら”の世界から来たもの達です。安東殿は日本東京都千代田から、ジェーン殿は日本京都府舞鶴から、私は日本岡山県倉敷から、ここに集まりました。私たちがなぜここに集ったかはこれっぽっちも分かりません。しかもこっちの世界では言葉は通じないわ…携帯はないわ…民度低いわ…で、我々はうんざり、かといってあちらの世界には戻りたくはありません。なにせあちらはひどい世界です」
喜怒哀楽激しく、ジェントルマンは説明してくれた。とにかく声の抑揚が凄まじく、私は思わず会話に飲み込まれてしまった。
「おじ様、ありがとう。ところで、あなたの名前を早く教えてあげなさい?」
ジェーンが蛇眼でジェントルマンを見た。もちろん、彼は恐怖に慄く。
「おおおお…そうでした!私は名を谷山と言いましてな、倉敷のご主人様の元で働いていたのですが……ううう殴られ蹴られ暴言を吐かれ……我慢できずに私は彼を殺してそして私も、警察に追われて最後はビルの四階から飛び降りました……あ、言っちゃった」
ジェントルマン、改め谷山が、おそらく自己を抑制できずに吐いてしまった過去のキャリア。私はそれに、誰もがそうなるように、驚愕した。しかし私以上に、私以外の二人がとても悲壮な顔を浮かべていた。谷山はと言うと、冷や汗が頬を伝っていた。
私は察した…お疲れ、谷山。
「ちょっと、初耳なんですけど!」
「君、殺人犯だったのか⁉︎」
二人が猛虎の勢いで谷山に乗しかかり、しばしモザイクがかかる絵面が続いた後、谷山は腫れ上がった顔を上にして、床に倒れた。
女とは…強い…私は戦慄した。
「そういえばさ、君はあっちでは何をやってたの?」
安東さんが優しく私に問いかけてきた。私はその雰囲気というものに緊張して、しょんぼりした声で言った。
「何…と言われましても…記憶がないんです」
「え、そうなの⁉︎」
安東さんは驚いた。
「はい…確かに、私が暮らしていた世界の記憶はありますが、私がどんな人だったか、まるっきり忘れました…」
「あらら、こりゃ本物の輪廻転生だね。珍しい」
「珍しいことなんですか…へぇ…」
「珍しいよ〜、私は向こうではOLってやつ。正直今の方が楽しいな」
私たちが和気藹々と話していると、ジェーンも嗅ぎつけたように、笑顔で話に割って入ってきた。
「私は早く帰って父上と母上に会いたいのです!」
「え〜〜、楽しいじゃん!」
「嫌です、早く父上と母上に会いたいのです!!」
二人の会話が始まり、私の介入の余地がなくなったので、私は谷山の様子を伺った。目が合うと、谷山は腫れ上がった顔をこちらに向けて、笑った。私も笑って返した。
「君は…作曲家っぽいよね」
「え…私ですか⁉︎」
「うん、音楽とかやってそうだね」
「へぇ…」
この時、私は気の抜けた返事を返したが、その本心には、何となく私が作曲家だったというのが、なぜか納得できた気がして、それを頭で考えているうちに、安東さんの言葉への返事が譫言になってしまった。そういうことだ。