神の笛
ここでの生活は全くもって苦ではなかった。
私は結局、この武家屋敷のような広い広い家と、自らを夫だ、王子だという図体と心の大きな人と、非現実な事にも慣れを覚えてしまった。
私はある日、ジードに一つ聞いたのだ。
「あなたはどうして日本語が話せるの?」
ジードは答えた。
「大切な人のためだ」
と…
私には甚だ馬鹿馬鹿しく感じた。まさか大切な人が私以外の日本人なんて、とてもじゃないけど信じられる事ではなかった。ましてや元々お嫁に行くはずであったケイという人物が何者なのかも分からない。私はじっと待つしかなかったのだ。
ある日、私は意を決して聞いてみる事にした。
「大切な人って、誰?」
私が聞くと、ジードは答えた。
「俺にとって大切な人さ」
「どんな人だった?」
「優しくて、俺の全部を包み込んでくれるような、そんな人だった。力があり知恵があり正義感があり、俺にとっては憧れさ」
「その人も、日本語を話していたの?」
「ああ、俺はその人から日本語を教わった。戦争に巻き込まれて、独りぼっちの俺を拾ってくれたんだ」
「それが、ケイっていう人?」
「いいや。ケイはその人の娘だ」
「…私はケイじゃないんだよ」
「例えそうだとしても。正直君がケイじゃないなんて信じられない。君は本当にケイにそっくりなんだ」
「……そう」
「ほら、そういう手の仕草まで、本当にそっくりさ」
私と安東さんとアールは、昼の中庭で佇んでいた。私たちのお気に入りの場所であり、花や草木がまるで歌っているような輝きを放っていた。アールは初めてここに来たようで、私同様、小さな秘境の凄さをしみじみと感じていたようだ。
快い顔でアールは私には話しかけた。
「その笛、吹いてみてよ」
どうやら、アールはそれが目当てでついて来たようだ。
「おう」
私はこの笛に対して、大して思い入れもしてなかったので、アールの要求をあっさり受けた。そして一つ、風に向かうように私は笛を吹いた。
笛の中を、私の息が伝った。心地良く吐息は笛を筒抜けたが、どれだけ吹いても
「…鳴らない」
そう、鳴らないのだった。
「噓⁉︎」
安東さんが私から笛を取り上げて、間接キスなど御構い無しに笛に口を付けた。
「…おかしい、鳴らないね」
「はい、そうなんです」
今まで吹いてきた笛の中で、一番吹き心地が良いのに鳴らない…不思議な感触だった。
「ありがとね」
「いえいえ」
笛を返された私の気持ちは何とも言えなかったが、アールもまじまじと笛を見ていたので私は流石に笛を拳中に隠した。
「では私はこれで…」
アールの物欲しそうな顔をなるべく見ないようにして、逃げるように私は立ち去った。
それからというもの、結局いつまでも笛は鳴る気配を見せなかった。首に掛けられた、それこそまさに“御守り”として私に寄生することとなった。
しかし諦めずに、私は幾度と試行錯誤を繰り返して、きっかけを手繰り寄せるべく何をすればいいのか、考えた。正直なところ無用の長物だが、笛に息を通した時の心地よさを私は忘れる事ができなかった。どうしてもこの笛には、まだ隠された秘密があるような感じがした。
そういえば、この笛を神から授かった時に確かこのような事を神は言っていた。
「危なくなったら吹きなさい」
と……
実際には、神は“これで私を呼ぶように”と言っていただけで、決して“危なくなったら”とは言っていなかったはずである。この時の私は自分の脳内を知らずの内に改竄していた。
「なるほど」
私は誤察した。この笛を吹くには、アドレナリンが大切なのだ。何かとんでもない出来事があれば、おそらくこの笛は真価を発揮するはずである。我々より断然大きな怪物が跳梁跋扈するこの世界では、使う機会など十分にあるはずである!ここは多少危険な事をしてでも、この笛を鳴らしてみるべきなのではないか…と、私はそんな阿呆な思惑と期待を抱いた。
「よし!」
腹を決めて威勢良く振り向くと、まるで獲物を待ち狙う狼のような目をした…即ちアールがゼロ距離まで接近していた。
「ななな何奴⁉︎」
私は思わず腰を抜かしかけたが、流石アール。御構い無しと容赦なく私の方へと詰め寄ってきた。
「笛、貸してくださいよ」
何と執拗で強引な…一部の業界の人間にとっては“ご褒美”とも言えるべき行為が今にも始まりそうな予感がした。黒いオーラが彼女から爛れていた。
だが私は屈しなかった。せめて我が純潔の身を守るべく、抵抗を試みた。
「だ…駄目だ、いろいろと困るのだ」
「はぁ?間接キス位いいでしょう?」
何という事だ、彼女は全て知った上で笛を欲しているのであった…それが分かった瞬間、私の中にあった抵抗も儚く散り果て灰塵と化した。
「どうぞ…」
「ありがとう」
アールは笛を持つと、まずはその場で鑑定らしき事を始めた。何かにうちうなづきながら、時には口をへの字にして唸り、私はその間冷たい灰色の地面に平伏していた。アールを見上げると体が熱くなりそうなのでひたすら下を向いていた。
「姉はね、とても熱い人だった」
突然、アールが笛を見ながら、思い出話を口にしだした。
「しばらく会ってないんだけど…うん、これは間違いなく姉の笛よ」
「姉の笛……」
「姉は草笛の達人だったからね…でもこの笛は確かに凄い。吹いた時の心地よさは特に…あ、ちゃんと拭いたから安心してね」
アールの話を聞いて、私はアールの姉を神に投影した。すると、私は緑溢れる草原の中でアールと二人、風に向かって佇んでいるライオンが全てを見透かしたような目線で彼方の峰を見つめるような…心が洗練され、何事も忘れ去り辿り着く、天国にいるような不思議な手応えを感じた。
私は打ち明ける決心をした。全てを打ち明ける決心を…
「アール」
「ん?」
「私をここに連れてきたのは、その笛を持った女の人だったんだ」
「………」
「いろいろあって山奥で迷い込んでしまって、そんな時に辿り着いたのが生駒山……大阪の東、奈良との県境、そこ中の道無き道を辿って、私は彼女に会ったんだ。“神”を名乗る彼女に…」
「………」
「私がここに来た時に、神は笛を私に託した。捨ててもいいと言っていたが、何か捨てる気になれなくて、結局無用の長物だったけど、今思うと神は首にかけられた御守りを通して、私を見守ってくれていたのかもしれない」
「………」
後から襲ってくる余韻は、音楽が鳴り終わった後のような、お淑やかで重たい雰囲気に似ていた。アールは先から一言も話さずに呆然としているようだった。
「アール?」
「…広人、“ますかけ酒”って飲まされた?」
「ああ、多分あれの事だな」
「飲んだのか⁉︎」
「うん、けど…どうしたの?」
「やっぱりか、なんてこった…」
アールは突然地に崩れ落ちた。足を内股にして尻を着き、手で地面を押しながら話してくれた。私はジェーンが倒れた際に、その酒が使われていた事を思い出した。
「ああ!、ますかけ酒って確か…あれだよな、肉体と精神を切り離すっていう」
「ああそうだ、つまりどういう事だと思う?」
私が言うと、彼女はいつも以上に牙を剥き出しにして私に顔を向けた。かなり揶揄したが、私は彼女が本当に怖かったのだ。
「……どういう事なんだ?」
「ふっ…つまりだな、生死の区別がつかなくなるんだ」




