急地
そして朝が訪れて、日が一つ訪れた。
だがそれは私にとっては魔法の一日であった。とにかく、不可解な点がいくつも起こる日であったのだ。
朝から、史さんと安東さんが喧嘩の事なんて忘れた様子で、寧ろ以前にも増して仲良さげに会話をするところを目撃して驚いた。昨日の暗い雰囲気は何処へ?…そう不思議に思うと同時に、私の中に何かやるせない敗北感が込み上げてきた。
円卓を囲んでも、史さんと安東さんは互いに話の花を咲かせていた。ジェーンと谷山も隣り合い笑い合いながら他愛のない話を楽しんでいた。つまり、私は孤食を強いられたのだった。
「何やら今日は元気がない様子ですが」
朝食が終わってすぐ、声を掛けてくれたのは谷山であった。
「お気遣いありがとう、少し疲れてるだけだから…心配しなくてもいい」
私は我ながら私らしくないと思いながら、谷山に対して感謝の辞を述べた。おそらく、顔は石のように固まっていたのだろう。
谷山は私を気遣ってか、はたまた察しなのか…だとしたら怖いのだがともかく、こんな根も葉も無いことを言い出した。
「恋煩いのようなものですかな」
私はぞっとした。顔から血の気が引き、青色に染まる私の姿がはっきりと目に映った。すくんだ肩は直ぐには戻らず、揺動していた身体も浄瑠璃みたく操られたかのように動きを止め、眼の動向は行方知らずとなった。
過剰な表現かもしれないが、疲れている体にとってはこれくらいダメージが大きなものだったのだ。
私は
「ああ…そんなところですかね」
と弱々しく、疲れているそぶりを見せて言った。しかしその内心では、戦慄に近い心の拍動を感じていた。
私は最近になってできた自室の扉を閉めた。そして床に転がっては、天井に色々と思い浮かべた。
そして呆気なく意識を失い、しばらく私は大の字のまま寝てしまっていた。
「広人、今日頼めるかな?」
床に大の字になりながら寝るという末代までの醜態を晒した私の姿に臆することなく、声をかけてきたのは安東さんであった。
「今日って…?」
私も寝起きでなかなか話の内容が頭に入らなかった。そのせいか、安東さんが頭を掻きむしっていた。
「ああ、ちょっと魚がね〜」
魚…その単語を聞くだけで、私は背後から魚の大群が襲ってくるような夢を見るだろう。
それほど魚に苦しめられたはずの私たちではあるが、安東さんは何故魚を求めるのだろうか…
「…魚って、余り余っていたのでは?」
私は率直に聞いてみた。史さんが安東さんとの仲違いを是正したんだ。あの事は忘れないと、と思った上での行為だった。
「全部食べたし、全部腐ったよ。考えてみな、毎食毎食魚だったじゃん」
安東さんはまるっきり考え無しに答えた感じであった。
「……そうですね、確かに魚の味は舌に鮮明に残っています。でもまた魚ですか…?」
私が嫌な顔を隠せなかったのを見て、ようやく安東さんは訳を話してくれた。
「……魚店の店主はカモなの、一番盗みやすいの!…肉屋の包丁野郎にはもう襲われたく無い!」
声は荒げていたが、安東さんは決して怒っているわけでは無い…寧ろ
「私だってお肉、食べたいし!でもあの包丁豚…今度は日本刀持ってやがるし…」
と、吝嗇しているだけなのだ。
こんな安東さんは初めて見た。珍しいものだ…床の上で大の字になり寝るという醜態を晒した私とは相反して、彼女の根の部分の可愛らしさが垣間見えた。
「分かりました。魚店行きます!」
私は奮い立って答えた。
「おお、ありがとね!じゃあ夕方、宜しく」
安東さんは手を振りながら尻目で私を見て部屋から出ていった。私もそれに手を振った。
そういえば…彼女には松葉杖が無かったなぁ。と思いながら、私はまた大の字になって寝転んだ。そしてそのまま意識が遠のいていった。
時は早く過ぎ、目が覚めた時にはもう夕刻であった。私は慌てて黒い布のようなものを被った。実際、私もこの布についてはよく知らない。ただ
「最近になって、私たちも“黒の盗賊”と名乗る事にしたのです。食料調達に行くならこれを被ってください」
と、谷山が言っていたのを思い出した時、私は一つの事に気がついた。
「今日は一人なのかな…?」
どれだけ待っても安東さん、史さん、谷山は現れなかったし、現れる気配もない。既に日が暮れかけており、日が暮れてしまうと市場は店を閉める。急がないといけない。
私は躊躇いの気持ちを心の中に押し込んで屋敷を後にした。しかし心の何処かではワクワクした冒険心のようなものもあった。一人での盗み、考えるだけでとても心を燻られるものであった。
そして街へ出た私は、久しぶりに見る夕暮れの真紅の空に心を奪われながらも、市場へと赴いた。
私は“いつものルート”で市場を目指した。誰も通らないような細い路地裏を、ひらりひらりと身を交わしながら通って行く。この道の先を行くと、市場の裏側に出る。
ふと私は、この黒い布をしている事はかえって逆効果なのではないかと考えた。黒い布を覆っている事で盗人と認識されるよりも、平民を装い盗みを働く方が絶対に楽ではないか……
思索に更けながら私は市場の裏側に出た。しかしそこは、いつもと様子が違っていた。普段は活気で賑わう市場なのだが、今は喧騒の声で賑わっており、普段は物々交換が盛んな市場だが、今は道行く人々が全員謎の紙切れを持っており、言葉は分からないものの、大慌てで何かを探しているようであった。
「…懸賞なのか?」
私はそう考えた。理由は、何処ぞの権力者がここで大切な落し物をしたならば、自らの落し物に対して懸賞を賭けて探させるという話は現実味があると感じたからである。私は自らの考察を自画自賛した。
ともかく、この状況下では盗みができない事はあからさまである。私は盗賊だとバレないように、黒い布を脱ぎ捨てて市場に潜入する事にした。
市場では人がごった返していた。
満足に身動きが取れず、人の波に乗らなければ移動すらもできなかった。人々が蜂のように蠢動していて、酸欠状態に陥ってもおかしくなかったし、実際そこらで屍が転がっていた。
「ごめんよ」
道脇に退けられた屍から、私は紙を取り上げた。それを見て刹那、私は目を見開いた。
「史さんじゃないか!…」
紙切れの中央に、紛いもない史さんの顔写真が貼られていた。そしてその下には、何か注意書きのようなものが添えられており、その中に…
「これは…数字⁉︎」
信じ難い事に、数字の羅列があったのだ。日本語と同じ数字が、この世界にも存在していたのである。
紙にはこう書かれている。
『160000000』
こちらの世界の単位や為替は勿論私は知らない。しかし仮にこれを日本語だと置くと、一億六千万…とんでもなく大きな数値である。その頃には、私は紙切れに目を奪われていた。道の端ではあったものの、立ち止まっている事で人の流れを阻害している事など頭になかった。何度も肩を当てられたが、それよりも重要な事であり見過ごす事は断じてできなかった。
そういえば…雨の日。これに似たものを持っていた怪物が屋敷を訪れた……
「まずい!」
私はようやく気づいた。雨の日の事件は、全てここに繋がっている事にようやく気がついた。しかし気づくのが遅すぎたのだ。
理由は分からないものの、私が気づいた頃には、既に史さんは大金の懸賞の的になり、ここにいる全人類から追われる立場にあったのだ。




