願いの夜
暗いムードの中で、安東さんと史さんを除く三人での夕食であった。昼を抜いていたのでかなりお腹が減っていたものの、食欲は無かった。
ふと、今日一日の事を思い出してみた。
朝は皆で円卓を囲み、昼は史さんと秘境へ参り、夕は三人だけでの空間を過ごす…何もかもが新鮮であった。まるで大人になったようだな…と思った。
哀愁漂うこの場の雰囲気に呑み込まれないように、私は心の中を平然に保とうとしていたのだろうが、寂寥な気持ちは変わらなかった。
夕食は結局、誰も口を開かぬままに終わりを迎えた。
私が円卓に座りながらあれこれと考えていた、もう遅い夜である。
皆は私に一言告げて寝入ってしまった。
「おやすみ、広人」
「おやすみです、広人殿」
ジェーンと谷山と私…何だろうか、言葉では表せない不思議で新鮮な気持ちだった。二人との距離感が大きく変遷した気がした。
「ふぅ…」
息を一つ吐いてみた。吐いても何も変わらなかった。やがて私は円卓の机に頭を垂れて考え始めた。
誰もいない沈黙の大広間、円卓、私はここに出会ってからの日々を懐かしんだ。
初めて来たのは…覚えていない。けれど、ここで過ごした日々は何もかもが楽しかった。安東さんは美人さんで姉御肌で、活気があって、でもちゃんと周りが見えているし、何より優しい人。
谷山は一見おかしな人だけど、私たちの事を第一に考えて、私たちの事を何よりも愛してくれている人。
ジェーンは小さくて生意気で、あまり話さないけど、思いやりがある人で、心はもう大人なのかもしれない。
史さんは…言葉で言い表すのは難しい……
まあ、そんなみんなと出会って、盗んで食って寝ての生活をしている。
今外では月が出ているのだろうか…
ここの月とやらを初めて見たとき、私は胸を打たれた。そしていつか、あの大きくて光り輝く月をみんなで見たいと思った。そしてみんなで、笑い合えればなと思う。今の私の顔は、多分最高に気持ち悪い。
「何をしているのですか?」
誰かと思えば、噂をすれば…史さんであった。
「いいや、ぼうっとしていただけです」
「そうですか」
そう言いつつ、史さんはしれっと円卓の方へ向かって来た。そして私の隣の席に腰かけた。
私は少し、緊張した。しばらくの間、深い沈黙が我々を襲ったが、決して不快では無かった。この沈黙が続いて欲しいと思う自分も多分いた。
「あの…」
口火を切ったのは史さんであった。
「今日の事なんですけど」
私は一言も話さずに彼女の話を聞こうと思い、彼女の方へ体を向けるように座り直した。彼女はまごまごと落ち着かない動きをしていたが、何か言いたくても言い出せないような口の動きをしていた。私はそれを心を大にして待ち続けた。
やがて、彼女が意を決して言った。
「ありがとうございました。そしてすみませんでした。勝手な事をしました」
私は驚いた。
「何も謝る事ではないです!」
落ち着いて振る舞うと決めていたのにも関わらざる、思わず声を荒げかけた。しかしそんな私を差し置いて、彼女は唐突に涙を流してしくしくと泣き始めた。それには私の交感神経もさすがに引いた。そして次に襲って来たのは、彼女を泣かせたという恐ろしい事実であった。
私という男は繊細だ…それは何も自分に限った事ではない。他人が傷つく事にもついつい敏感になってしまうのだ。だから彼女が泣いている姿を見ると、弱気になる。
自分が悪くないのに、私は
「ご、ごめんなさい…」
と不明瞭な言葉で謝罪文を読み上げる。つまりどういう事かというと、私は、机上の行動しかできない凡人なのだ。
しかし史さんが右手を大きく開いて私の顔の前に突き出した。
「いえ…違うのです。ちょっと思い出してしまっただけなのです…広人さんは悪くありませんよ」
泣いている史さんを傍目に、私の心の中には史さんの妙な言葉が引っかかっていた。
考えもせずに私は尋ねた。
「思い出すとは…何をですか?」
私が聞くと、彼女は涙を拭い顔を上げた。
「いえ、何でもありません」
彼女ははっきりと言った。そしてしばらく、命令指示を与えられない機械のように静止した。刹那、私は彼女の美しさと可愛さに、惹かれてしまったのだろうか?はたまた…
ふと我に帰ると、史さんは不思議そうに私を見ていた。
「どうしたのですか、ぼうっとして?」
「いえ、何でもないのです」
私はそう言ったきりであった。
史さんは席から立ち上げリ、そして私の顔を見下ろしながら
「じゃあ私も寝ますね、おやすみなさい」
と告げてこの場を発った。
「はい、おやすみなさい。また明日」
私もそろそろ寝た方がいいのだろう、瞼が徐々に重くなっているのをしみじみと感じる。しかし史さんとの会話の中のある言葉で、私は拭えないモヤモヤする違和感を見つけてしまったのだ。
「一体、何を“思い出した”のだろうか…」
もしも史さんが今日二人で出掛けた事を思い出していたと言うから、それは私にとっては落胆すべき事実だ。私は気が気でなかった。




