第60話 世界の思惑
「もう、いいだろ……」
千風は疲れ果てた目で吸血鬼を見下ろす。
その瞳にはまだ、光が宿っていた。
しかし、千風が吸血鬼に勝てる道理は万に一つもない。
それが分からない千風ではない。
だが、彼はここで殺されないことを理解していた。
もしも、千風が殺されるのであれば、すでに殺されている。
それどころか、飛鳥や誠だって、生きてここを出ることはできなかっただろう。
「おや、気づいていたのかい?」
「そもそも、俺たちを生かすだけなら、あんたにメリットはないだろ? 無駄に時間を稼いで、取引をして、そうやって俺を生かそうとしたからには理由がある。そう考えるのが、普通だ」
首を掴まれたまま、かすれた声で千風は続ける。
「君みたいに頭のいい奴は嫌いじゃないよ? 話が早くて助かるからね」
そう言って吸血鬼は掴んでいた首を離す。
脱力したように千風は地に伏して、肺を空気で満たそうと必死に喘いだ。
「あんたの目的は?」
「そうだね、本当なら君が入ってきた瞬間、目の前で彼らを殺すつもりだった。悲鳴と、絶望――両方を同時に味わえる機会なんて中々ないからね」
――でも、状況が変わった。
声を低くして。
そう、吸血鬼は続ける。
「さっきも言ったけど、ワタシには見える。その人間がどれだけ魔力を内包しているのか。この理由が、分かるよね?」
少しだけ考えて、千風はある結論にたどり着く。
魔法とは、本来人間にはない概念。
魔法の本質、それはカラミティアの持つ、魔力を使うこと。
魔力はカラミティアの体内を流れる血液のようなものだ。
カラミティアは体内に魔力炉と呼ばれる心臓に近い臓器を持っている。
そこに魔力をため、魔法を使っているのだ。
人が魔法を使えるのは、それを応用しただけにすぎない。
バケモノの血を体内に流し込むことで、疑似的に魔法を使えるようにしている。
当然、異物であるカラミティアの血が流れれば、拒絶反応を示す。
それに抗うことができたものだけが、新たな神経を形成することに成功する。
本来人間にはなかった神経。
その神経が心臓に繋がることで、人は魔力を留めておくことができるようになるのだ。
魔力は本来人間にはないもの。
言い換えるなら、生成できるようになっても、排出する機能が備わっていない。
だから、その機能を補う必要があった。
そのための装置が魔導器で、魔導器を接続することで人間は魔法を行使することのできる――回路を得ることができるのだ。
バケモノと人の血。
二つが混ざり合うことでようやく、弱くて不完全な人間は、魔法を使えるようになるのだ。
これが、魔法の正体。
時枝が何十年にもわたり、生み出した人類の叡智だった。
「つまり、俺の中にバケモノを見たと、そう言いたいのか?」
「そういうこと。君、ワタシの仲間を飼ってるでしょ?」
鋭い眼光。
有無を言わせぬ覇気を纏わせて、吸血鬼は笑う。
吸血鬼はこう言っているのだ。
魔力――カラミティアの渦が見えると。
そして、憑依兵装はカラミティアをそのまま閉じ込めた武器。
千風の中には、迅雷鬼と宵霞がいる。
その二基の姿が、吸血鬼には見えているのだ。
「迅雷鬼のことか?」
「ジンライキ? 聞いたことない名だけど、そいつはたぶんワタシの仲間だ」
「な――!?」
千風の顔が驚愕に歪む。
確かに迅雷鬼は神獣型の災害因子だ。
その可能性はあるだろう。
しかし、迅雷鬼自身は自分のことを鬼の一族だと言っていた。
鬼とは何度か戦ったことがあったし、千風はそれを信じて疑わなかった。
小学生が鼻をほじりながら答えるように、面倒そうな声色が聞こえる。
「始祖だよ、そいつ」
「どういうことだ?」
右手を差し伸べる吸血鬼。
彼の表情に敵対する意思は見えず、どうやら差し出された腕は友好を示すようなものらしかった。
「自己紹介がまだだったね。ワタシは第二十一位始祖――コードネームは世界。久遠の庭園を治める始祖の一人さ」
「待ってくれ、話が全く見えてこない。つまり、あんたは俺に何をさせたい?」
「ああ、ちなみにワタシの上には二十人ほど血を分けた同士がいるから。おまけに、そいつらはみんな……ワタシより――強いよ?」
こっちの話はまるで聞かないくせに、ベラベラと話し続ける吸血鬼。
さも当然と言わんばかりに、笑いながら話す。
冗談じゃなかった。
迅雷鬼が吸血鬼で始祖。
エデンとかいう聞いたことのない名。
そして、目の前で接触を試みようとしてくる、世界という名の吸血鬼。
おまけに吸血鬼の中でも、頂点に君臨すると云われている始祖の中でも、世界は二十一番目なのだという。
あまりにもいきなり、多くのことが明かされてしまい、千風の脳内はパンク寸前だった。
たとえ、万全の状態だったとしても、倒せるか分からないほどの力を持った吸血鬼が、世界の上に二十もいるとなると――頭がどうにかなりそうだった。
「聞いていいか?」
「何だい? ワタシたちはこれから同盟関係になる仲。何でも聞くと良いよ」
「あんたは迅雷鬼が始祖だと言った。そして自身が最弱だとも。なら、迅雷鬼を使えば、あんたを殺すことは可能なのか?」
空気が凍る。
そんな永遠にも似た時間をさまようよう感覚に陥りながら、千風は世界の返答を待った。
殺されないことは分かっている。だからこそ、この質問は有力になるのだ。
「やっぱり、君は頭がいいよ。同盟を組んで正解だ。でも、その答えはノー。否と、答えさせてもらおうかな?」
返ってくるであろう答えは想像していた通り。
「単純な始祖同士での戦いなら、そうなるね。けど、今は状況が違う。ワタシとジンライキは憑依体と精霊。さすがにワタシでも精霊には負けないさ」
世界が言うには、吸血鬼たちの間では実体を人の身体に宿した始祖を憑依体。
憑依兵装に閉じ込められた始祖を精霊と呼ぶのだという。
「つまり、憑依体であるあんたの方が強いと?」
「そうなるね。あと、あんたっていうのは止めなよ。同盟関係なんだし、世界って呼んでくれないとやだなー」
駄々をこねる子供のように、わざとらしく頬を膨らませる世界。
千風としても、急な心変わりで後ろから刺されても困るので、ここは世界の提案に乗ることにした。
「それじゃあ……世界。そろそろ、世界の目的を教えてくれ。俺の協力が必要なんだろ?」
「そうだね。さっきも言ったけど、この体は憑代にすぎない。実際のワタシの身体は別にある。それを取り返すことも重要だけど……」
世界の言い方だと、自分の身体を取り戻すよりも、優先する目的があるらしい。
何やら、ドヤ顔で胸を張りながら、こちらを見下ろすようなポーズをとる。
世界の意図がまるで分からなかった。
改めて、世界を注視する。
憑代となった少女には悪いが、ドヤ顔で胸を張れるようなサイズではないし、その童顔では全く説得力のかけらもなかった。
というか、千風は似たような存在を知っていた。
いつもいつも、千風の周りをうろちょろしていた、赤髪の少女の姿が目に浮かぶ……。
まあ、別人であることは確かだが。
しかし、世界が憑代としている身体の持ち主には、見覚えがあった。
見覚えもなにも、今まさにこの時間、現実ではライブをやっているはずで……。
月影陽。
絶壁の歌姫と呼ばれる、圧倒的なまでのカリスマの持ち主。
世界の容姿は、日本のトップアイドルと言われる、少女そのものだった。
「あれは、世界の仕業だったのか……」
「ワタシというよりは吸血鬼の、かな? ニンゲンなんて吸血鬼に比べたら、どれも醜い豚だからね」
陽の身体で、陽の声で。
世界がそう、なじる。
界隈の人間が聞いたら、泣いて喜びそうな言葉だが……。
それは千風には通じない。
「本題に入ろうか、千風?」
「ああ」
頷く千風。
しかし、彼は別のことを考えていた。
彼女、いや彼というべきだろうか?
世界の容姿は陽そのものだ。
正確には、陽の容姿に圧倒的な美貌と魅力を付与したもので。
これが、陽が現実世界で会場の人間を魅了していた理由だろう。
チャームの類かと予想していたわけだが、その予想は思わぬ形で裏切られた。
それも、最悪な状態で……。
世界の話を聞けば、彼は陽を憑代とした憑依体なのだという。
しかし、現実の方では実際に陽がコンサートを開いている。
これは一体どういうことだろうか?
憑依体であるのなら、同一存在が表裏の境を無視して、二人存在することになる。
そんなこと、あってはならないのに。
「簡単だよ、千風」
熟考していた千風の思考を読むように、世界は答える。
「ワタシと陽はお互いに半身を預けあっている。陽の中にはワタシが、ワタシの中には陽が。そうやってワタシたちは二つの世界に共存することができているのさ」
世界の言葉を要約するなら、現実世界にいる陽の中には世界の半身がいて、
災害迷宮にいる世界の中には、陽がいるということだ。
頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
理解がまるで追いつかない。
想定外どころの話ではなくなってしまう。
「簡単に言うなら、ワタシと陽は――人間でも吸血鬼でもない存在。お互いが表裏の存在でありながら、互いに干渉することを許された存在」
「それはどういう――」
「分からないかい? 簡単なことさ、陽とワタシはどちらの環境にも干渉できる。意図的に災害を引き起こすことだって、ワタシなら可能さ」
「な――!?」
千風の顔が驚愕に歪められていく。
世界の言っていることはめちゃくちゃだ。
自然の摂理が成り立たなくなる。
世界は、災害を意図的に引き起こすことが可能だと、発言した。
それは、神の所業に等しい行為だ。
そんなことが許されるはずがない。
いくら神獣型とはいえ、そんなことが実現できるなど、あり得なかった。
現代における人類の災害に対する見解は統一されている。
災害。それは、災害因子が発現し、一定期間の後、現実世界に干渉することで起きる現象だ。
一度現実世界に出現した災害因子を、再び災害迷宮に戻すことは不可能。
故に、その魔力は現実世界で暴発し、災害をまき散らすことになる。
だが、世界が言うには、陽と世界は互いの身体を憑代として、お互いに干渉できるのだという。
災害因子である世界が、悪意を持って現実で魔法を使えば――それは災害を超越した厄災になりえる。
「安心しなよ。千風たちの住む街を壊す趣味はないよ。陽と契約したのも、ワタシの願いを成就させるため」
「……世界、あんたほどの奴がそこまでしないと叶わない願いなのか?」
千風の声は震えていた。
正直、千風の腕では世界をどうにかすることなど、不可能だ。
そんな世界が、憑代を得てまで実現したい願いなど、想像もつかない。
間を開けて、世界が口を開いた。
「千風、神の存在は知っているかい?」
そのワードを聞くことになるとは、思いもしなかった。
言葉の意味も、使われ方も知っている。
だがここで、吸血鬼から聞くその言葉は、全く別の意味を内包していて。
決して触れてはならない禁忌の存在。
カラミティアの攻略難度はその危険性から1~18に分けられる。
今まで現れた災害因子の最高難度が18。
だが、その上。
存在しないはずの19と20が存在していることを、千風は知っていた。
便宜上だが、来るべき神の降臨を予期して時枝が設定した最高難度。
正直、19、20レベルになると人類ではどうにもならないだろう。
十年前のあの日、千風が出くわした最悪の厄災ともいえるバケモノは、攻略難度18と設定され、当時の十二神将――四人の命と引き換えに、住民の被害を最小限に抑えた。
それでも十二万人の命が失われた。
災害などど呼べるようなものではなかった。
あれは終末に近い……ナニカ、だったのだから。
しかし、19、20はそれを遥かに凌ぐ難度となる。
正直、日本にいる魔法師だけでどうにかなるかと言えば、怪しいだろう。
それこそ、世界の危機に匹敵しかねないのだ。
全世界から魔法師を招集して戦争を仕掛けるほどの覚悟が必要となる。
神とはそれほどの力を内包した、もはや概念ともいえる存在。
人間が知覚できるようなものではないかもしれない。
ここで世界から神の言葉を聞くと言うことは、そういうことなのだ。
「神は意外と怠惰な奴らでね……天使が怒り気味なんだ」
「待ってくれ、世界は神を見たことがあるのか?」
「んー見たことはないけど、知覚はできるんだ。そこに在るっていうのかな? すごいエネルギーを感じることができる」
事もなげに、世界はそう告げる。
「あーでも、心配はいらないよ? あいつらはワタシや千風たちの|側にはいないから」
「神が干渉することはないってことか?」
「そうなるね。ただ、どうも天使が仕事をしない神に怒ってるみたいでね……奴らはこっちに介入しようとしてる」
「冗談、だろ……。そんなことになったら、本当にこの世の終わりにだぞ?」
「まあ、間違いなくそうなるだろうね! ワタシとしても、それは避けたい。自分の住む場所をめちゃくちゃにされるのは御免だからね?」
「天使だって神に近い力を持って――」
「そうだよ? だから、殺すんだ。天使を殺して、でもって神も殺す。そうしたら、誰にも邪魔されない自分だけの――平和な世界になるから」
腕をいっぱいに広げて、世界は笑いながらそう言った。
その笑顔は無邪気な子供のようで。
まるで、それが実現不可能であることなど考えない、それどころか本当に叶うと信じているほど、純真無垢なもので。
「そう言うからには、算段ついてるんだろうな?」
千風は呆れたようにつぶやいた。
「うん。まずは、天使を殺すために悪魔を手なずける必要がある。そのためには始祖が――ワタシの仲間の力がカギになる」
「生きてるって保証は?」
「分からない。でも、探す。探して、仲間に取り込む。千風にはその協力をしてほしい」
態度を改めて、世界は千風に対してお辞儀した。
お願いします。と、千風に手を差し出して。
本気で天使をどうにかしようとしているみたいだった。
「話はいったん終わりだ。アレは千風のお仲間じゃないかい?」
世界の視線が揺らぐ。
一瞬だけ、千風から目線をそらした後。
一人の少年の姿を捉えた。
そして嗤いながら、世界は。
「――その前に君には魔法を使えるようになってもらうけど……!」
世界が霞む。
その動きは本気で、千風を殺そうとしていた。
「な、んで――」
そう、苦痛に顔を歪めることしかできなかった。
気づいた時にはすでに、世界の腕が千風の腹部を貫いていた。
「やっぱり、ニンゲンは脆いね」
陽の声が脳に響く。
世界による介入が始まっていると、そう理解していても、その声はあまりにも心地よくて。
脳が快感に溺れる。声の虜になってしまう。
「千風。君のナカを、見せてよ……」
首筋に突き立てられる牙。
それは、物語で見るような吸血鬼のもので。
確かに世界が吸血鬼であることが確認できた。
次第に視界は虚ろに染まり――。
ずるり。
血に染まった右腕が腹部から抜かれると、
「いつもこんなん、ばっかじゃねえか」
悪態を吐きながら、千風は血の海に溺れていった。
「それじゃあ、少しだけ――試してみようか?」
灰色がかった蒼髪の少年を見据え、世界の唇は三日月のように吊り上がるのだった。




