第57話 消失のエリカ
「千風、しっかりしてよ千風――!」
視界の端で少女の髪が揺れたような気がした。
薄らぼんやりとした意識を呼び覚まそうと、誰かが必死に名を呼んでいる。
思うように体は動かない。
なぜこのようのことになったのか、それさえも……。
身体が揺れる。
どうやら誰かが必死に揺り動かしているみたいで。
「う……っく!」
痛みに堪えるような苦悶の声を上げながら千風は目を覚ました。
「無事か千風!」
目の前には仲間の嬉しそうな顔。
その目尻はわずかに赤く、涙を流した痕がうかがえる。
「お前、泣いてたのか?」
「な、これは――別にそんなんじゃないからな!」
指摘され、誠はまだ上手く跡を隠しきれていないことに気が付いたようで、急いで千風のひざ元から飛びのく。
ごしごしと制服の袖で涙の跡を擦る。
恥ずかしいのか、照れているのか、顔をわずかに朱色に染めて。
慌ててその事実を隠そうとするあたり、本人にとってはよほど恥ずかしいことなのだろう。
じゃれあいは終わりだと言わんばかりに、瞳を戦いのモードに切り替える。
その瞳には気迫があふれていて、敵意を向けられていないと分かっていても、誠は静かに喉を鳴らす。
「はいはい、そういうの良いから。で、状況はどうなっている?」
千風はめんどくさそうに手を振り払うと、状況の説明をするように側に控えていたエリカに視線を促した。
「話が早くて助かるのは良いのだけれど、千風君本当にもう動けるのかしら?」
エリカはエリカで現場を任されたものとしての責任を感じているのだろう。
プロの、それもS級とまで言われるような最前線で活躍する一流の魔法師が迷宮内で苦戦し、挙句の果て魔法師候補の生徒に助けられ、けがを負わせたとなっては多方面から非難を浴びるようなことになってもおかしくはない。
だからといって、このまま迷宮攻略を続けるのは好ましくないのもまた事実。
エリカの部下の疲弊も酷く、先のカラミティア・セルを追い払った千風もかなり消耗しているのは確かだろう。
この状態で生徒たちの身を守りながらの攻略は非常に困難を極めることは分かり切っていた。
迷宮攻略を諦めて、このまま離脱する方が得策ではないだろうか?
何よりも大切なのは生きて帰ること。
それを最優先に考えなければならない。
しかし、今彼らがいるのはいまだ迷宮内なのだ。
それがどういう意味なのか千風は理解していた。
迷宮内で横になっていても襲われない場所など限られている。
――不可侵神聖領域。
災害迷宮の中で唯一魔法の影響を受けない。領域。
言い換えれば、それは、魔法体であるカラミティア・セルが襲ってこないことを示す。
そして、この中では当然、魔法師である彼らもその影響を受ける。
――つまり、魔法の使えない彼らはこの領域の外でないと現実世界へとは帰れない。
領域外、千風が視線を向けた先には大量のカラミティア・セルがいる。
それは千風が相手をした数の三倍は超えるだろう。
外には出られない。つまり、手詰まりなのだ。
魔法は使えない。【迅雷鬼】も反応することはない。
そして当然【宵霞】の力を使ることすらも許されない。
完全なまでの手詰まり。
聖域であるはずの不可侵神聖領域に、千風たちは閉じ込められたのだ。
おおかた、千風が意識を失った後大群の化け物に襲われ、逃げついた先がここというわけなのだろう。
そして、こうして千風が目を覚ますまで待っていたというわけだ。
「マズいわね……」
状況を理解しているエリカが小さく悪態をつく。
後方には大量の化け物が控え、前へ進めばその先にはこの災害迷宮の主、カラミティアが待ち構える荘厳な扉があって。
扉を守るように五対ほど人型の化け物が待ち構えている。
今回の迷宮の主は相当用心深い性格のようだった。
質が悪いとも言い換えられるかもしれない。
このタイプの化け物は用心深く、あまり自身の戦闘力は高くないのが特徴だ。
その代わり、迷宮内の総合的な戦力が跳ね上がる傾向がある。
だとすれば、生き残るための最善の策は、前方の五体を殺し――離脱することだろう。
エリカがゆっくりと立ち上がる。
この班を任されたリーダーとして、全員を無事に返さなくてはならないのだ。
「さあ、行きましょう。大丈夫、あなたたちの身の安全は保証するわ」
そういうと彼女は全員に作戦の概要を話し始めた――。
「準備はいいかしら?」
「はい、大丈夫です」
誠の声はわずかに裏返っていて。
飛鳥も全身を強張らせ、いつものような元気はない。
無理もないだろう。
自分たちの力がこの場所では歯が立たないことを理解してしまったのだから。
カラミティア・セルを殺すことにさえ手間取ってしまうのだと。
いくら迷宮の主が用心深い性格といえど、カラミティア・セルを従えるからには、それ以上の力を内包しているのは当然で。
もはや離脱する他ないのだ。
エリカが考案した作戦内容はこうだった。
まず、初めにエリカと彼女の部下三人が目の前の五体と対峙する。
その隙に千風たちはカラミティアのいる部屋へと移動し、そこですぐに離脱するのだ。
話だけ聞けば簡単に思えるが、しかし、部屋に移動するためには一方通行の回廊を抜けなくてはならないのだ。
いくらエリカたちがバケモノと対峙するからと言っても、四対五。
その隙を見て潜り抜けるのだ。
難しくないわけがない。
「良いわね? まずはイフリートで相手をかく乱するわ。その隙に藤堂さんたちと一緒に千風君たちは奥の部屋に……」
「ええ、分かっています」
小さくそう頷いたのは彼女の部下である藤堂だ。
藤堂の働きは迷宮攻略をする上では欠かせないサポートに徹した役割を担っている。
戦闘能力こそこの場にいる誰よりも劣るわけだが、それを凌駕するだけの支援能力が藤堂にはあった。
実際、ここまで来る道すがら、彼女の能力は必要不可欠だった。
サポーターがいるだけで、迷宮攻略の難度はぐっと下がる。
それも彼女ほどの腕の持ち主であればなおさらだ。
敵の感知、罠の看破。味方の強化に加え、最短ルートの検索。
彼女は支援魔法に特化したエキスパートだった。
しかし、それは裏を返せば、彼女自身の戦闘力が著しく低いことを示す。
すなわち、彼女が死ねば一気にチームの生存確率が下がることに繋がるのだ。
だがらこそ、エリカは彼女を千風たちの側につけ、一足先に脱出してもらうことにしていた。
ここで守らねばならないのは生徒たちと、サポート役である藤堂だから。
これまでの戦闘経験からある程度、生き延びてきた他の魔法師であれば、自分たちでなんとかして脱出してくれる。
そうエリカは踏んでいた。
全員の顔を確認すると、すでに覚悟は決まったみたいだった。
「……それじゃあ、行くわよ!」
エリカが駆ける。
一足先にサンクチュアリから出ると、一斉に化け物が彼女に襲い掛かってきた。
その動きは信じられないほどに速い。
加速の加護を受けたエリカに対してしっかりと対応してきている。
「っく、これは少しマズいわね……」
悪態をつきながらも、エリカの魔法はすでに完成している。
魔法陣は化け物たちの背後に一瞬で構築されて――。
「――権威を示せ、灼熱の主!」
瞬間、周囲一帯が業火に包まれる。
サンクチュアリ内にいる千風たちはその被害を受けないわけだが、それでも彼女の放った魔法がどれだけのものかは先の戦いで目の当たりにしていた。
だからこそ、エリカであればこの状況を打開できると、そう信じて疑わなかった。
「みんな、今よ! 今の内に――」
だが言葉はそこで遮られる。
同時に吹き上がる血柱。
それはエリカの左腕から出たものだった。
「あ、れ……?」
何が起きたのか、エリカ自身も理解できていないようだった。
「マズイ!」
気がつけば千風はエリカと化け物の間に割り込んでいた。
作戦も何も、もはや存在しない。
エリカはやられた。
失敗したのだ。
敵の力を見誤っただとか、そんな次元の話ではなかった。
エリカの左腕を切り落としたバケモノ。
そいつはここに存在して良いようなものではなかった。
「誠ッ! 飛鳥を連れて全力で逃げろ、速くッ!」
千風はありったけの声でそう叫ぶ。
腕を全力で振りかざし、扉の先へ急げと声の限り。
目の色を変えたように千風は焦る。
「お、おう……」
誠はそんな千風の異常事態を察したのか、すぐに飛鳥の腕をつかみ一直線に扉を目指した。
彼らには藤堂が施した、風の加護がある。
レベル14程度の災害迷宮に潜むカラミティア・セルなら反応すらできないほどの速度で加速している。
それなのに、バケモノは平然と誠たちを捉えていて。
反応しているのだ。
全身を西洋の鎧で包んだ化け物が剣を掲げた。
それを振り下ろされただけで、誠や飛鳥の命は潰えるだろう。
「させるか!」
だが、その時にはすでにエリカの部下が彼らの前に立ちふさがっていた。
風を切るような音と共に、バケツの水をぶちまけたような鮮血が舞う。
あまりにも突然に命が奪われる。
誠たちを庇った魔法師は一瞬にしてその身体を肉片に変えてしまった。
「クソが!」
吠える。
だが、吠えたところでどうにもならないことは千風が一番理解していた。
扉を目指す誠、飛鳥、藤堂の背中を切りつけようとバケモノが襲いかかる。
「させるかよ」
割り込む形で千風は鎧の攻撃を受け止める。
彼の手に握られていたのは、【宵霞】。
一撃を凌いだ。
だが二撃目は受けきれない。
弾かれた【宵霞】が甲高い音と共に宙を舞った。
小太刀と剣ではそもそも勝負にならない。
弾かれた反動で全身を剣の軌道にさらすことになる。
あらゆる手を使いつくした。
今さら態勢を立て直すことなど不可能。
腹を切り開かれ、内臓をぶちまける光景が目に浮かぶようだった。
それでも、誠たちを扉の先へと逃がすことはできた。
それだけでできれば僥倖。
扉の先へ消える三人。
その姿を確認する。
静かに息が漏れるのを感じた。
安心したのだろうか?
自分の命が潰えるというのに、千風はあまりにも落ち着きすぎていた。
何か秘策があるわけではない。
万策が尽きたのだ。
ここで如月千風の物語は幕を閉じる。
そう、理解していてなお――千風は動くことができない。
赤い鎧を纏うバケモノ。
その動きは恐ろしく速い。
エリカでさえ、追いつけないのが納得できてしまうほどだ。
視界の端で彼女の部下が応戦している。
しかし、それも数秒と持たない。
一瞬にして血しぶきを上げ、たったそれだけで命が終わる。
彼らの努力だとか、人生だとか、今まで生きてきた証のようなものが、一瞬にしてなくなるのだ。
人は死ぬ。
どれだけ努力しようが、どれだけ生きたいと叫ぼうが、力がなければ一瞬で。
知っていたはずだった、見てきたはずだった。
何度も、何度も……何度も。
その光景を見続けながら、それでも千風は生き延びてきた。
親を失い、師が消え、仲間を見殺しにして。
やっとの思いで命をつなぎ続けてきた。
それが今日、突然に終わりを告げるだけでしかないのだ。
人は平等に生を受け、そして平等に死を与えられる。
自分の番が来ただけなのかもしれない。
その事実を受け入れなければならない。
「あーくそ、死にたくねえな……」
言葉が自然と漏れる。
それは千風の心からの本音だった。
名桜学園に来て、誠や飛鳥、イザベルとであることで彼の中で大きな変化が訪れた。
仲間になって、一緒にいて、初めて守ることのできた存在。
今回もなんとかギリギリ彼らを逃がすことができた。
だが、もう誠とたちと出会うことはできないだろう。
目の前の敵に切り伏せられて千風は死ぬのだから。
赤い鎧を身に纏った、バケモノの剣が千風を切り裂こうと迫る。
よく見ると、鎧の下は銀色に鈍く輝いていて……。
もしも、元々の色が赤色の下で見え隠れする鎧本来の色だとしたら?
「――っ!」
千風は戦慄した。
どうして今まで気づかなかったのだろうか?
エリカは言っていた。
自分たち以外にも迷宮に挑む班が十班いると。
じゃあ、残りの班は何処に消えたというのだろう?
カラミティアに通じる道がここしかないのは事実で、なら、ここを通らないわけがなかった。
そしてここを通る際に何人かが犠牲になって、そうしてこの鎧が赤く染まったのだとしたら?
皆が皆、エリカほどの人間でないかもしれない。
それでもプロである魔法師が姿形を残さないまま死んでいる状態はかなりマズイ。
扉の先はもっと地獄なのではないだろうか?
そんな考えが千風の脳裏をよぎる。
だとしたら、誠と飛鳥が危険にさらされることになる。
それだけは避けねばならない。
ここで死ぬわけにはいかない。
死ねない理由ができてしまったから。
「まだクソジジイにも追いつけちゃいねえ。くたばってたまるか――よ!」
剣が腹を切り裂く刹那、千風は体をねじりそれを回避する。
だからと言って形成が良くなるわけではない。
死がほんの一歩だけ遠ざかったに過ぎない。
腹を裂かれる代わりに左腕をくれてやった。
手のひらから肩口まで深々と突き刺さる。
筋肉だけでない、神経のすべてがズタズタに裂かれる痛みが千風を襲う。
痛みに顔を歪めながら彼は鎧の巨体を蹴とばす。
深々と突き刺さった剣を引き抜くと、そのままエリカに襲い掛かる鎧に投げつける。
当然、それはあっさりと受け流されてしまうが。
虚ろな瞳が千風を捉える。
標的が変わったのだ。
次の瞬間にはすでに眼前に現れて。
それを千風は自分から飛び込むようにして躱す。
後ろから攻撃してきたバケモノとエリカに襲い掛かっていた化け物が衝突して。
それだけの時間が取れれば、十分だった。
「千風君?」
エリカの顔は苦悶の表情でいっぱいだった。
当然だろう。腕一本消し飛んで無事でいられる方が異常なのだから。
「立ってください! 今のうちです。まだ、貴女に死なれるわけにはいかない」
頼みの綱はもはやエリカしかいないのだ。
ここでエリカを失えば、それこそ全滅しかねない状況に陥っている。
エリカの死はそのまま千風たちの死に直結してしまう。
「それもそうね。まだやることが……」
依然としてバケモノは五体いる。
今の千風たちには相手をするだけの余力は残っていなかった。
幸い、扉は目の前。
触れればそれだけでこの場からは解放される。
「届け――!」
右手を限界まで伸ばす。
だが、その願いは叶わない。
――――。
音もなく、手首から先が宙に浮くのを千風は見ていることしかできなかった。
切り落とされた、そう理解したときにはすでに遅い。
目の前にはあの赤い鎧。
二度も奇襲が効くほど甘くはない。
完全に囲まれた。
そう思った瞬間、トンっと、
全身が扉に触れるよう前方へと傾く。
振り返る。
「だめよ、あなたをここで死なせるわけにはいかないわ」
優しい笑みを浮かべるエリカ。
それが彼女の最期。
千風は五体の鎧の剣で貫かれるエリカを目の当たりにしながら、災害迷宮の最奥へと姿を消した。




