第55話 平凡な日々、それは奇跡のようで
【切り離された残片世界】を介して災害迷宮へと侵入を果たした千風たち。
迷宮内の構造は現実世界とは大きく異なっている。
全容が分かるわけではないが、それでもこの空間が何倍にも膨れ上がった、塔の形をした構造物だということは分かる。
前回のクラーケン戦で不鮮明だった視界は良好。ただ、今回の迷宮は外の世界よりも10℃ほど温度が低い。
「っ……ここがレベル14の災害迷宮……」
誠が踏みしめるように床をなぞる。
彼の背中からは緊張感が伝わってくる。
覚悟を決めるように深呼吸を始めて。
「あまり肩に力を入れるな。そんなんだとすぐに死ぬぞ?」
「千風……そうだね」
振り返る誠の瞳は不安に揺れていた。
千風は軽く背中を叩いてやる。
「それでエリカさん、迷宮の構造把握は?」
「エリカでいいわ、千風君。残念だけど、そんなことをしてる時間はないから、このままいくわよ?」
「そうですか」
千風たちがクラーケンを攻略したときも構造把握はしていなかったが、基本的にアビス以上の迷宮攻略をする場合には構造把握は必須だ。
災害発生までの時間が長いのであれば、先遣部隊として災害迷宮に入った魔法師たちが現実世界へとそのデータを持ち帰り、最短かつ安全に迷宮深部――カラミティアへとたどり着くためのルートを攻略班に渡す。
それができないという場合は、災害発生までの猶予があまりないことを示す。
「制限時間は?」
「ざっと17時間。私の知っている限り、今同時的に迷宮内にいる魔法師部隊は私たちを含めておよそ10班。これだけの人間がいれば、直接攻略を始めても間に合わないことはないわ」
幻獣型のカラミティアが作る災害迷宮に入ることのできる魔法師は限られてくる。
独断で入ることのできる魔法師はA級以上。
A級の階級にいる魔法師はおよそ天才と言われる部類の人間で。
その大半が全国各地に散らばる魔法師育成機関を、天才と呼ばれ卒業してきた者たちだ。
A級ともなれば【憑依兵装】の所持が許される。
飛鳥や氷室辺りなら、魔法師になればA級辺りに所属することは十分に可能だといえるだろう。
エリカは任務に就くにあたり、部下を五人連れている。
A級が三人、B級が二人。
つまり、飛鳥や氷室に相当する魔法師が三人もいて。
やはり彼らも天才と呼ばれるだけの力を内包しているのだ。
千風たち三人を護衛するには十分な戦力。
これだけの戦力が揃っていれば確かに、佐藤が言っていたとおり何事もなく迷宮攻略を終えることはできるだろう。
「みんな止まって、ここから先、雰囲気が大きく変わってる。藤堂さん、視覚強化の魔法をかけてくれるかしら?」
「はい、《開け、拓け、深淵の源、その先を悟る賢者の叡智――心眼開花》!」
エリカの部下が魔法を唱える。黄色の法陣、一瞬の発光。
刹那、何もなかったはずの眼前に数多の災害準因子が現れた。
狐の体躯を模した頭が四つあるバケモノ。数は十。その全てが信じられない臭気を放つ。
「闇の眷族か……」
舌打ちをする千風。
属性的には一番厄介なものになる。
「っ! カラミティア・セル!」
「やはり、ステルス持ち……狼狽えないで! 確実に処理する!」
エリカが千風たちを守るように立ちはだかる。
翻る黒衣を意に介さず、彼女は魔導器を起動させた。
発光色は赤。
炎系統の魔法だ。
エリカの周囲を灼熱が包み込む。
圧倒的な熱量。耐熱性のない服など一瞬にして自然発火する温度に達してしまう。
「すごい熱……。それに、法陣構築も目で追えない。これがS級なの……?」
飛鳥の琥珀色の瞳が驚愕に揺らぐ。
目の前で一瞬にしてバケモノは蒸発してしまった。
エリカの実力は信じられないものだ。
今の飛鳥では到底自身がその領域に達する景色が見えないほどに。
S級魔法師が界隈で――天才を越えた天才。人を辞めた、人ではないナニカ。
そう、言われる所以を飛鳥は垣間見た気がした。
「飛鳥、ぼさっとするな。置いていかれるぞ?」
「う、うん!」
慌てて千風の後を追う。
しかしその後ろ姿――彼女のポニーテールが不安げに揺れていることに千風は気づかなかった。
***
災害迷宮に侵入して二時間が経過したころ。
飛鳥は思いのほか、疲弊していた。
「はあ、はあ……」
攻略難度が14だと知って、迷宮攻略に挑むことが恐ろしい。
前回の迷宮攻略は難度が低いものだと思って、潜入したこともあり、緊張で体が上手く動かない――などということはなかった。
だが、今回は違う。それ相応の心構えはしたはずだった。
でもそれは、したはずなだけ。したつもりになっていただけで……。
甘かった。そんな生易しい場所に今の彼女はいないのだ。
ここは災害迷宮。
それもアビスの最高難度。
つまり、事実上ほとんどの魔法師に攻略が不可能と言われる神獣型と隣り合わせた難度。
神獣型――飛鳥には全く想像のつかない領域の話。
S級以上の魔法師のみが攻略を許可される存在。
だが、そのS級の魔法師でさえ簡単に命を落とすのが現状だ。
つまり、目の前で飛鳥たちを守ってくれる魔法師でも手も足も出ないような相手なわけで……。
島崎エリカ。
彼女の実力は飛鳥の理解の範囲を逸脱していた。
法陣構築から発現までの時間差を感じさせず、圧倒的なスピードで空間を把握する順応性。
短節・略式、応用を利かせた状況把握の卓越さ。
数々の戦闘経験をもとにした確固たる自信。
そのどれもが今の飛鳥では到底およばない代物で。
段階を踏めば、その領域にたどり着けるかと問われたとしても、簡単にうなずくことはできないだろう。
そんなバケモノじみた実力を誇るS級魔法師が目の前の女性なのだ。
日本にいる約一万五千人の魔法師、その上位百人に入る彼女でも攻略が難しいインフェルノは正に地獄、煉獄そのもの。
14と15。
たった1しか攻略難度に差はない。
けれど、その差は歴然で。
そこには埋めようのない絶望の溝が広がっている。
動悸が激しい。
耳鳴りはひどく、いつもより頭がくらくらする。
手先に痺れのようなものも感じていた。
飛鳥は天才、かもしれない。
天才と呼ばれるだけの実力を兼ね備えているのかもしれない。
それでも、幻獣型の迷宮で平然と化け物を殺して回るようなS級と比較するには、その技術、経験、実力はあまりにも幼かった。
レベル14という数字が、これほどまでに全身へとのしかかり、精神を削ってくるという事実を軽視していた。
その甘さ、その軽薄さ、己の弱さに歯を食いしばって前を見ることしかできない。
隣でともに迷宮内の回廊を走る誠へと視線を向ける。
彼の表情にも険しさが滲み出ていた。
やはり、緊張しているようで。
それが普通。人間として正しい、正常な反応なのだろう。
だからこそ、
飛鳥は不思議でたまらなかった。
なぜ彼――如月千風が、天才を越える天才であるエリカの隣で、平然と会話をしながら回廊を駆けていくのか。
――どうして? ねえどうして千風はそんな、何でもない顔をしながら前へ進んで行けるの?
――私は怖い。死ぬのが、千風を失うのが怖くてたまらないのに……。
――千風は、怖くない、の?
飛鳥の疑問も、心の叫びも、千風には届かない。
この場にイザベルはおらず、不安は一層募っていくばかり……。
彼女には飛鳥自身が他の命令を出したから。
だが、それさえも今になって不安に感じてしまっている。
自分のした命令は正しかったのか?
ただの興味本位で彼女を――本当の姉のように慕うイザベルに、別行動をさせるべきではなかったのではないか、と。
ずぶずぶ、ずぶずぶ。
まるで沼に沈んでいくように――
不安はいつしか自信の喪失へと変わり、飛鳥の心を強く絡めとっていた。
嫌な予感がする。
急速に何かが消え去ってしまいそうな悪い予感。
それが何なのかは、はっきりしない。
目の前の千風は遠く、イザベルに至っては姿も見えない場所にいる。
飛鳥の胸中に渦巻く恐れの正体。
それはあの日、クラーケンとの戦いで彼女が失うはずだったモノを失うことへの恐怖。
「だめ、しっかりしなくちゃ。私は千風を守ると決めた。そのためにイザベルにもお願いした。なのに、私が弱ってる場合じゃない……」
ピシャリと、強く自身のほおを叩く。
じんわり中心から熱が広がっていくような感じがして。
少しだけ落ち着きを取り戻せたような気がする。
さっきよりも少しだけ迷宮内を見渡せている。
目の前でエリカに並走する千風は、さっきから息の一つすら切らしてはいない。
本当に彼のことを守ることができるのだろうか?
守られているだけの存在になっていないだろうか?
不安はなおも残る。
それでも、前に進むしかないのだ。
怖くて、つらくて……
でも、それしかできないから。
そう決めたのだ。
なら――。
正面を、未来を見据えて、飛鳥は迷宮内を突き進む。
かなり深部まで来ている気はする。
びっくりするほど順調だ。
それはエリカという、信じられない強さを誇る魔法師がいるおかげか。
S級の魔法師が一人いるだけでこれほどまでに攻略が楽に進むのだろうか?
順調すぎで不安にならないと言えばうそになる。
自分たちだけで攻略に挑んだ災害迷宮は死に瀕したのだ。
むしろ、生きて帰ってこれた事実だけでも奇跡のようなもので。
そんな奇跡はそう何度も続きはしない。
それは頭のどこかでは分かっているから。
思考はなおも、ぐるぐると駆け巡る。
「きゃあ!?」
唐突に腕を引っ張られる。
隣にいた誠だ。彼の瞳がじっと飛鳥を見つめていた。
普段ふざけている誠からは想像できないほど剣呑な雰囲気。
「集中しなよ? 不安になる気持ちはきっと、飛鳥よりも俺の方が大きいよ?」
「う、うん」
「俺の方がずっと弱い。実力が迷宮に入れるようなものではないんだ。それでもここにいる。なら、限界まで周りに意識を割いていないと一瞬で死ぬ」
誠の口から、死という言葉が漏れる。
彼もあの地獄を経験したうちの一人だ。
その実体験は何にも勝る恐怖を彼に植えつけたのだろう。
それでも、いやだからこそ、誠は彼に出来る精一杯のことを頑張ろうとしている。
必死なのだ。
死なないために、死なないほど頑張ることなんて中々できることではない。
普通はみんな諦めてしまうから。
辛いことからは目を背けようとするから。
それが人間で……。
死なずにこの場を切り抜けるため、またみんなで笑って過ごせるように。
そう頑張っていられるだけでも、凄いことのように思えてしまう。
イザベルに千風、そして誠……。
またみんなでくだらないことで笑うのだ。
そんな何でもない日々を心の底から欲してしまう。
「誠は下がって、ここは私が――」
そう言って立ち止まる。
目の前にはさっきの狐の身体を模した化け物がいる。その数は少なくない。
この数をエリカ一人に任せるわけにはいかない。それは分かっている。
彼女でも何匹かは討ち漏らす。
処理の遅れた化け物が飛鳥と誠に牙を剥く。
とんっと、彼女は誠の胸を押して彼を魔法の範囲から退ける。
「飛鳥……?」
何が起きたのかいまいち状況をつかめていない誠の体が宙に浮いた。
「《咎人たる聖者の礎、その不条理たらしめる天秤の下、凱歌の焔を築き給え――華粒炎》!」
以前よりも格段に精度は上がっている。
法陣構築も、エリカには及ばないものの、他の学生に後れを取ることはないだろう。
あれから、いたずらに時間を過ごしたわけではない。
努力はした。もう二度と泣かなくて済むように。
千風の負担を少しでも和らげられるようにと。
だから、
「私がみんなを守るんだ!」
意志の強さ、決意の表れ。
飛鳥の叫びに応えるように、魔法陣が赤く輝く。
降り注ぐ灼熱の塊。
その一つ一つに彼女の絶対に全員で生き残るという信念の強さが現れていた。
炎弾が次々とバケモノの体躯を貫いていく。
その精度は目を見張るものがある。
気づけば、バケモノは跡形もなく消えていた。
「すごいな飛鳥!」
誠が駆け寄ってくる。
彼は彼で皆を守るように防御障壁を展開していたが、その必要もないほど圧倒的に殲滅してしまっていた。
「はあ……やった!」
飛鳥の表情には喜びが窺えるが、同時に疲れも現れていた。
それでもあの日、自分では守れなかったものをこの手で守ることができた。
彼女にとってそれは計り知れない価値がある。
今ここに、この瞬間、仲間と共に生を実感することができている。
「無事か飛鳥?」
「大丈夫」
心配そうな表情を向けてくる千風。
彼の奥には数十の化け物の死骸が散らばっている。
恐らくあの一瞬であれだけの数を二人で仕留めたのだろう。
「千風の方こそ無事なの?」
「誰に言ってんだよ? 次漏らしても助けてやらねえぞ?」
「漏らっ――!?」
急速に飛鳥の頬が朱に染まる。
クラーケンに襲われ、死を覚悟した彼女はあの時確かに――。
「うっさい、ばか! 漏らしてなんかないし!」
飛鳥は顔を真っ赤にして叫んだ。
煩わしそうに両耳を塞ぐ千風。
こんなやり取りも久しぶりな気がした。
千風が転入してきたときにはこんなことになるとは思っていなかったわけだが。
でも、彼と出会って、死線をともに潜り抜けて……。
飛鳥の中で何かが大きく変わったのだ。
彼に出会うまでは自分のことを優秀な人間だと思っていた。
緋澄の人間として、世のため人のためにと、幼いころからずっとイザベルと魔法の力を蓄えてきたはずなのに。
それでも、千風には遠く及ばなかった。
それはきっと千風も千風なりに死ぬほど努力してきたのだろう。
だから、彼はあれほどまでに強いのだ。
強くて、優しくて、そして誰よりも自分を大切にしようとしない。
他の――昨日今日あったばかりの人間を救うために簡単に命を投げ出すようなやつで。
あの日、命を救われたときから……。
そんな彼を飛鳥はずっとそばで見守っていたいと、一緒に笑っていたいと思うようになってしまっていた。
それに対して嫌な気持ちになったことなど一度もない。
むしろ今までにないほど毎日が充実していて。
千風といるのが楽しい。
誠と食事をするのが楽しい。
イザベルと今日はこんなことがあったよね、なんて一日を振り返るのがとてもとても楽しくて……。
みんなで、どこかへ行ったり、苦しんで悩んで死線を乗り越えて。
そうやって毎日、前へ前へと進んでいくことに喜びを感じてしまっている自分がいるのだ。
千風と、誠と、イザベルといるのが何よりも、どんなものよりも……。
他のすべてを犠牲にして守りたいものになりつつある。
この平穏を、この幸せを。
ずっと、永遠に……。
この幸福な時間を閉じ込めて、ずっと、ずっと。
そうするためには、生き延びるしかない。
この絶望的な迷宮を、誰一人欠けることなく攻略して……そしてイザベルと合流する。
そうしたら、今度はみんなでショッピングに行くのだ。
服を見て、アイスを食べて。
映画を観て、終わった後にあそこはああだった――だとか、思い思いにそれぞれの意見をぶつけたりして。
夜はファミレスに寄って、映画の感想が白熱したせいか、店員に注意されて。
それさえも笑い話に出来るほど盛大に休日を謳歌するのだ。
よく遊んで、よく食べて、よく眠る。
そんなありふれた、でも彼女には訪れることのなかった日常を。
今まで送れなかった日々を取り戻すように、普通の高校生活を三人と過ごす。
魔法師としてではなく、年相応の高校生として。
「飛鳥、漏らすって何のこ――」
「うっさい、ばか二号!」
「あだ!?」
誠はなぜかどうでもいいことばかり、よく覚えていて。
それを飛鳥は小さな拳を顎にぶつけることで逃れようとする。
もしかしたら、彼なりに場を和ませるための優しさだったのかもしれない。
けれど、それでもお漏らしをしたことがバレるのは少し――いや、だいぶ恥ずかしいから。
真っ赤になった顔を隠すようにして彼女は千風の隣に並ぶ。
誠が不思議そうに顔を傾げている。
それがおかしくて彼女はほんの少しだけ表情を緩めた。
向かう先は、|幻獣型≪アビス≫最高難度14のカラミティアが住まう、普通の高校生なら一生関わることがないような絶望的な場所で。
それでも、その普通の高校生が送る生活を――そして自分たちが送るであろう日々を夢想して。
そんな日々を守るために……。
飛鳥は震える拳を押さえつけるように握りこむと、
覚悟を決めて一歩。
大きく踏み出したのだった。




