第47話 千風と飛鳥
神代アリスの力は強大だった。
一目見ただけだが、今の千風では互角に渡り合うのは難しいかもしれない。
下手をすれば、死ぬ可能性だって十分にある。
それだけの力を彼女は秘めていた。
それでも、千風は前に進むしかなかった。やるしかないのだ。
このまま名桜杯が進めば、確実に飛鳥はアリスと戦うことになる。それだけは絶対に避けなくてはいけない。
その前に千風は何としても飛鳥と戦う必要があった。
そしてその状況は今、この場に揃いつつある。
千風は準々決勝、ベスト8まで勝ち上がってきた。
残ったのは千風を含めた、次の七人だ。
緋澄飛鳥、鏡峰紫水、天王寺光、神代・E・アリス、藍雨ヱオ、月神蒼汰、寿司。
皆等しく、数いた実力者をものともせず倒してきた猛者の中の猛者。
もはやここまで来ると、プロの魔法師と比べても全く遜色がないレベルと言えるだろう。
否、実際はそれ以上の魔法師になれる素質を秘めている。
第一アリーナに集められた八人。
観戦席はものの見事に埋まっている。
それどころか、第一アリーナの入り口付近からずっと長蛇の列のようにして、八人の試合を観戦しようとする人々で溢れかえっている。
もちろん、この試合はモニターを中継して、学園内のすべてのアリーナで観戦することはできる。
それでもこうして皆が集まってくるのはきっと、生で観戦したいという想いからだろう。
一般の人々にとって、彼ら魔法師を目指す若者は、興味の尽きない憧れの対象なのだから。
会場は怖いほどの熱気と静寂で包まれていた。
誰かが固唾を呑めば、その音さえ聞こえ着てきそうなほどの静寂。
石畳の競技場を一足の靴が叩く音が会場内を反響する。
千風たち八人の正面に佐藤が腕を組んで立つ。
「まずは皆さんここまでご苦労様。ここまで勝ち進んできたあなた達は間違いなく優秀だわ。そしてこれから、その中でも最も優秀な人間を決めることになる。覚悟はいいかしら?」
微笑みかける。
それに八人は小さくうなずいた。
「そう、それじゃあ早速始めようかしら? 名桜杯準々決勝――名前を呼ばれたものから、順に一歩前に出なさい。緋澄飛鳥、如月千風」
「は、はい!」
飛鳥は緊張しているのか、背筋をピンと伸ばした。
千風はそんな飛鳥を見かね、一歩前へ出ると彼女の背中を軽く叩いてやった。
「ったく、戦う前から緊張しててどうする? ほら、肩の力抜け。応援してくれるイザベルにみっともない姿をみせるのか?」
目線を観客席の方へ向けると、イザベルが飛鳥に向かって手を振りながら「お嬢様頑張ってください!」と、応援していた。
イザベルが体を乗り出しながらそんなことを言うため、彼女は他の人々から白い目で見られている。
不憫に思った誠が、イザベルの身体を引っ張りながらなだめようとするも、イザベルは言うことを聞かない。
「はは、あいつも色々と大変だな。……で、緊張は和らいだか?」
千風が少しからかうようにして隣の小柄な少女を見つめる。
飛鳥はふんとそっぽを向いてしまう。
しかし、顔を赤らめながら視線をわずかにこちらに向けていて。
「べ、別に緊張なんてしてないし! ……でもその、ありが、と」
ありがとう、そう言って飛鳥は耳をより一層真っ赤にした。
「ん、なんか言ったか?」
そんな反応が面白くて、つい余分にいじってしまう。
「何も言ってないし! ち、千風の方こそ大丈夫なわけ? ここにいる人、みんな私よりも遥かに強いよ?」
彼我の差を見極められるぐらいには飛鳥の目と実力は確かなものだ。
それでも、いつも勝気で強気な彼女が弱音の吐くのは珍しかった。
「自分のことだけ心配してろよ? 俺は飛鳥――お前よりも強いからな」
だから、千風は笑ってやった。
わざと飛鳥を煽るように、彼女が元気を取り戻すようにと。
「言ったわね! なら、私が千風に勝ったら、何でも言うことを聞いてもらうから!」
「なら、俺が勝ったら俺の言うことを聞いてもらうぞ?」
反射的にそう答える。
当然、そんな賭けをする気など一切なかった。
だが、千風の思いなども知らず、負けん気の強い飛鳥はここぞとばかりに小さな胸を張って答えた。
「いいわ! 約束だからね?」
「本気で言ってるのか?」
「本気も本気よ! 絶対に負かせて、ぎゃふんと言わせてあげるんだから!」
「ぎゃふんて……いつの時代だよ」
そう言いながら、千風は目の前に円形に並んだ七人を見る。
対戦カードは以下のようになった。
と言っても、初めからトーナメント方式のため、対戦する相手は決まっているのだが。
飛鳥VS千風。紫水VS司。天王寺VSアリス。そしてヱオVS蒼汰だ。
「それじゃあ始めましょうか? 名桜杯準々決勝を――」
佐藤の言葉を皮切りに、八人は対戦相手と戦うべく、それぞれが別の競技場に立つ。
千風の前に立ちはだかるのは、飛鳥。
いまだ緊張が解けていないのか、身体が固い。
「どうした。俺に勝って言うことを聞かせるんだろ? なら、それ相応の覚悟は出来ているんじゃねえのか?」
「うっさいわね! 言われなくても分かっているわよ。あんたをぶっ飛ばして言うこと聞かせるんだから! 今さら泣いて謝っても許してあげないから!」
ビシっと! 飛鳥が千風に人差し指を向ける。
顔を真っ赤にして、石畳を踏みつける。
「それで? 話は終わったかしら?」
今回飛鳥と千風の戦いを見届けることになった審判の佐藤が、二人に試合の合図を送る。
静かにうなずく飛鳥。
千風は千風で問題ないと態勢を低くして、準備を整える。
再びの静寂。
耳をすませば飛鳥の吐息が聞こえてきそうなほどに会場は静まり返っている。
千風は右足を下げ、腰を据える。
勝負は一瞬だ。
開始の合図と同時に千風は飛鳥を気絶させるつもりでいた。
飛鳥をアリスと鉢合わせないためには、ここで飛鳥を負かし、止めねばならない。
だが、そんなことを話したところで飛鳥は信じないし、彼女が素直に言うことを聞いてくれるとも限らないだろう。
なら一瞬で、加えて飛鳥に出来るだけ危害を加えずに脱落させなければならない。
飛鳥の全身が沈む。
飛鳥もどうやら短期決着に持ち込みたいよう。
それは魔法師同士の戦闘においては賢明な判断と言えるだろう。
だが、飛鳥の目の前にいるのは千風だ。
それだけではどうにもならないことぐらい、戦闘経験の豊富な飛鳥なら理解しているはずだ。
飛鳥がどう戦いを挑んでくるのか、興味はあったものの、残念ながら今回の目的は別にある。
つまりは飛鳥の気絶。
飛鳥の敗北を以て勝敗は決する。
それ以外の結末はあり得ない。
あってはならないのだ。
千風は深呼吸をすると、ゆっくり瞳を開けた。
視界は驚くほどに鮮明で。
まるで、目に映る景色すべてに五感のあらゆる情報が付加されたような感覚。
視界に音が、味が、匂いが……そして感触が。
信じられないほどの情報量。
飛鳥の鼓動が聞こえる。
早鐘を打つ心臓。流動する血液。
彼女の呼吸の音の隅々までもが聞こえてしまって――
佐藤の試合開始の合図と共に、千風は爆ぜた。
爆速。
轟音にも似た落雷のような影と共に、千風の身体が加速する。
今の千風には魔法が使えない。
それは先月のクラーケン戦において彼が二つのペナルティーを犯したことによる代償――あるいは呪いの類。
禁忌を犯した者に科せられるひどく重い枷。
バイナリズム不全。
それが千風を拘束する呪いの枷の正体だ。
残り一ヶ月は魔法が使えない。
つまり、この先紫水やアリスとは魔法無しで渡り合わなければいけないわけで。
いくら千風が歴代最年少の【十二神将】と言えど、同程度の実力はあると推測できる二人を相手に魔法なしで挑むのは無理がある。
だが、それも飛鳥を倒してからの話だろう。
一瞬にして距離を潰す。
そうだ。文字通り千風は距離を潰した。
飛鳥の懐に侵入し、身体をかがめる。
足腰にためた力――その全てを右手に収束させる。
千風の右手が飛鳥の顎を捉える。
当然完璧にではない。
掠る程度、飛鳥の脳に軽い振動を伝播させる。
三半規管を揺らす。
平衡感覚を一時的に奪う。
それで終わりだった。
もう飛鳥は立つことはできない。
「へ……?」
何が起きたのか分からない。
そう、飛鳥の表情が訴えかける。
くずおれる飛鳥。
勝敗は決した。
余りにも唐突に、飛鳥は敗北という事実を突きつけられたのだ。
一瞬にして気絶して、そしてまた同じように一瞬で意識を取り戻す。
だが、勝敗は決した。飛鳥の敗北は覆らない。
足が震え、立ち上がることすらままならない。
神経が麻痺しているのだ。
今しばらく、飛鳥は動くことはできないだろう。
目の前に悠然と佇む黒髪の少年。
為す術もなく飛鳥が圧倒されたのは何時ぶりだろうか?
魔法の展開も、【憑依兵装】の顕現も……ありとあらゆる選択をする以前の話だ。
何もさせてもらえなかった。
何をされたのかすら把握できなかった。
圧倒的、そう言わざるを得ないだろう。
目の前にいる少年は生きている次元が違うのだ。
そう決めつけないと、心が折れてしまうくらいには、飛鳥と千風の間には開きがある。
自覚させられてしまう。
今までできるだけ考えないようにしてきた。
けれどそれも終わりだ。
理解してしまった。
千風にはこれから先どれだけ頑張っても追いつけないのだと。
理解してしまうと、途端に頬を熱いものが流れていく。
それが涙だと飛鳥が自覚するころには、彼女の心はぐちゃぐちゃになっていて。
全ての物事を遠くに感じてしまう。
まるで今まで必死に頑張ってきたことが一瞬で壊れていくような、そんな感覚。
積み上げてきたものがすべて瓦解する。
崩れ去って平たくなって、そうして、何もかもが無に返るのだ。
千風の指先が飛鳥の顎に触れる。
その指はひどく冷たいが、同時にとても優しい。
流れ落ちる涙をすくうように跳ね除ける。
「あ、あ、あ……」
喉からは嗚咽が漏れるだけ。
みっともない。そんな自分に嫌気がさす。
所詮この程度なのだと、勝手に諦めてしまいそうになって。
でも、あの日、確かに飛鳥は胸に誓ったのだ。
千風に命を救われた日、彼女はこの命を千風のために使うと決めた。
なら、諦めるのはまだ早いだろう。
勝手に諦めていいわけがない。
弱くて、惨めで、薄汚れただけの飛鳥は死んだのだ。
この命はもう、自分だけのものではないのだから。
千風には勝てなくてもよいのだ。
ただ自分は彼の隣に居られればそれでいい。千風以外に勝てればそれでいい。彼を守れるのならそれで……。
そう、決まっていたのではないのか?
何を迷う必要があったのだろう?
初めから、千風を超える必要はない。
千風が困っていたら、隣で手助けが出来ればそれでいい。
胸の内がすっと軽くなる。
飛鳥の中で完全に何かが吹っ切れた。
「悪かったな。いきなり仕掛けるような真似をして」
千風が手を差し伸べてくれる。
まだ完全に体が言うことを聞かない飛鳥では一人で立ち上がれないことを理解しているのだろう。
「ううん、良いの。やっぱり千風は強かったんだ。それが知れたからいいよ。気にしてない」
「そうか」
「うん……はは、結局今年もベスト8止まりか。もっと上の景色を見てみたかったな」
「来年もあるだろ?」
「そうだね、来年また挑戦しようかな?」
そう言いながら、飛鳥は千風の手を握りしめた。
「千風、なんでも言って? 約束、したでしょ? 千風のしたいこと、してほしいこと……なんでも言っていいよ?」
頬を朱に染めながら、そう小さく耳打ちする。
「なら――」
千風が顔を離し、飛鳥の肩にやさしく触れる。
瞳を閉じ、ゆっくりと飛鳥に顔を近づけた。
「え、えっ?」
何が起きているのか分からない。
そんな、もぬけの殻のような表情を見せる。
千風は飛鳥の心境など気にもせず、
「なら、俺にキ――」
飛鳥の甘い息遣いが聞こえる。
迫る千風に応えるよう、飛鳥も瞳をゆっくりと閉じて。
千風は唇を――




