第38話 幸せなひととき
名学祭が始まった。
一部は主に出店や生徒たちによるバンド活動、クラスによる出し物が中心だ。
千風は廊下の窓から外を見る。
空には一点の曇りもなく、お祭りごとをやるには絶好の空模様。
仮設テントには一般からの来客もあり、どの出店も好評のよう。
人々の雑多な声はそこらじゅうに溢れ、廊下もかなり騒がしい。
「今日は授業ないんだろ? お前はどうする誠?」
当然、授業があるものと思って登校した千風は狐につままれたように感じた。
用があると言ったイザベルと別れた後、二人はともに行動していた。
今は理由もなしにただ廊下を歩いているところだ。
大きな看板を持った生徒が、必死に自分のクラスの出し物に人を集めようと必死になっている。
お化け屋敷に動物カフェ、メイド喫茶にプラネタリウム。迷路だったり占い、そしてコスプレ喫茶だったりと様々だ。
いやいや、お前らどんだけ喫茶店好きなんだよ! と思わずツッコミそうになる。
気がつけば、突き当りまで歩いていた。
誠は窓際に寄りかかると、ポケットをごそごそと漁りだす。
「うーん千風はどっか行きたいとことか、食べたいもの、見たいものはないの?」
「俺はあまりこういうのは得意じゃねえからな」
「そんなこと言ったら俺も――」
「いいからどっか連れてけよ」
「はは、横暴だな~」
他愛もない会話だけが廊下を行き交う。
受付で貰ったパンフレットに目を通すと、こんなことを提案した。
「とりあえず俺たちのクラスに顔出そうか?」
「それもそうだな。てか、俺たちのクラスは一体何をやっている?」
千風はクラスのことは何も知らない。
名桜学園に来てからおよそ一ヶ月は経つが、彼はその大半を病院で過ごした。
知る知らない以前の話だろう。
「それは行ってからのお楽しみってことで! 愛しの飛鳥やイザベルが待ってるだろうし」
「別にアイツはそんなんじゃねえだろ」
「はいはい、分かったから行くよ」
手を差し出してくる誠は妙にニヤニヤとした笑みを浮かべていて──
余りにもムカついたので千風は差し出された手を思い切りはたくことにした。
乾いた音が廊下中に響き渡る。
何事かと教室から顔を出す学園の生徒たち。
「いっ~~!」
声を出すまいと、必死に堪えている誠を無視して、千風は歩き出した。
***
自分の教室にたどり着き、スライド式のドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
「誠これは何だ?」
「見てわかるでしょ?」
「いや、見て理解が追いつかないから解説を求めたんだが?」
目の前にいたのはメイド服を着た飛鳥やイザベル、クラスメイトだった。男子は執事服だが。
改めて飛鳥の全身を見つめる。
彼女が来ていたのはヴィクトリアン調のロングドレスに、クラシカルな雰囲気を合わせたものだった。
スカートの丈は長く、床につくほど。そこにいたのは可愛さと実用性を兼ね備えた本物のメイド。
恥じらうようにスカートの裾をつまみ、床につかないよう頑張っている。
下品な性的劣情を誘うものとはほど遠く、故に、飛鳥の持つ魅力を最大限にまで引き上げていた。
質素な雰囲気の中にも飛鳥の持つ、お嬢様のような気品も加わり、神々しささえ感じてしまう。
黒のロングドレスと、清楚さを際立たせたロングエプロンのコントラスト。
小さな頭に着けたヘッドドレスはよく見るカチューシャタイプのものではなく、後頭部で結ぶタイプ。
雰囲気のガラリと変わってしまった飛鳥に千風が言葉を失っていると、彼女はヘッドドレスを軽く押さえながら上目づかいでこちらを見る。
「どうかな、変じゃない?」
顔を真っ赤にしてそう聞いてくる。
しかし千風は答えない。否、答えられる余裕など持ち合わせていなかった。
普段の飛鳥からは考えられないほど彼女は大人びていて、千風は息を呑んだまま硬直した。
「は、恥ずかしいんだから何とか言いなさいよ!」
スカートをぎゅっと握る飛鳥。
そこで千風はようやく我に返った。
「おう、まあいいんじゃないか?」
「感心しませんね。女の子の──いえ、お嬢様の可愛らしく神々しい姿をご覧になられて、そんな感想しか言えないのですか、あなたは?」
「ちょっ! イザベル、恥ずかしいからやめなさい!」
鼻息を荒げ憤慨するイザベルをなだめようとする飛鳥は、いつも通りの飛鳥で。
千風はしだいに落ち着きを取り戻していく。
「ああ、似合──」
「飛鳥すげー可愛いじゃん!」
「あなたには聞いていませんよ」
相変わらず誠には厳しいイザベル。
しかし気にしたような感じもなく誠は笑う。
「えーそれはひどいなあ」
「それで、あなたから言うことはないのですか?」
当然のように誠の言葉は無視して続ける。
誠はこの立ち位置に満足しているのか、何も言わない。
ひょったしたら彼にはマゾ気質があるのかもしれない。
イザベルの瞳が千風を離そうとはせず、逃げ道はないみたいだ。
千風は覚悟を決め、口を開く。
「その、何だ? 可愛いんじゃねえか──客観的に見れば?」
しかし、素直にはなれず最後の最後で余計な一言を付け足してしまい……。
「はは、千風はほんとに素直じゃないよね」
笑う誠にイザベルの回し蹴りが炸裂。
誠は教室の端まで飛んでいくと、動かなくなる。
ふう、と一息つき、イザベルが千風を逃してくれるはずもなく、彼女の瞳は一層強まる。
千風は頭を全力で掻き毟る。
覚悟を決め、飛鳥を正面から見据えた。
「わーったよ、一回しか言わねえからよく聞いとけよ? 綺麗だ。すげえ可愛い。正直別人かと思った。言葉を失うってのはこういう事を指すんだろうな」
一息で続けて、千風は思っていることをそのままに吐き出した。
彼の顔は今にも沸騰しそうなほど熱を帯びている。
しかし、そんな千風よりも大変な状況になっていたのは飛鳥の方で。
飛鳥は顔を真っ赤にしたまま、あうあうと変な声を出している。
そんな彼女を見ていると、恥ずかしがっていた自分が馬鹿らしくなり、千風は笑いながら飛鳥のおでこを小突いた。
「何変な声出してんだよ、ほらメイドなんだろ? さっさと飲み物でも用意したらどうだ?」
「~~っ! わ、わかってるわよ! ちょっと待ってなさい」
隠れるように飛鳥はカウンター裏へと行ってしまう。
その背をぼんやり見ていると、イザベルがじーっと千風を見ていた。
「やればできるじゃないですか? 正直、見直しましたよ」
「そうかよ」
「はい、お嬢様だけ褒めたところも好感が持てます」
他の男性であれば、誰彼構わず褒めるので、とイザベルは付け足した。
「何様だよ、ったく」
悪態をつく千風にイザベルが接近する。
イザベルの細く、淑やかな指先が千風の顎に触れる。
そのまま顎を持ち上げられ、イザベルの青い瞳が、千風の瞳を吸い寄せるように覗き込んできた。
イザベルが、甘美な囁き声で耳元に語りかける。
「いやですね。お嬢様に仕えるしがないメイド、ですよ?」
しかし、と小さく囁いて。
「今日は、この一時だけは千風さんのメイドですが。さあ、何なりとお申し付けくださいませ」
スカートをつまみにっこりと笑う。その笑顔は、普段固い表情のイザベルからは想像もつかないほど柔らかいもので。
まるで幼子のような無邪気な笑顔の中に、妖艶な魅力を内包したようなもどかしさがある。
「おま──なんつー顔してんだよ」
「ふふふ、驚きました? こんな顔を見せるのは千風さんが初めてですよ?」
そう言って一度距離を置く。
イザベルも当然、メイド服を着ている。
しかし飛鳥のそれとは違った。
イザベルの着るメイド服はヴィクトリア朝のものに、スチームパンクの雰囲気が合わさったようなものだ。
メイドとして仕えるというよりは、戦闘に重きを置いた衣装。
飛鳥に常に仕えているイザベルにはあまりにも似合いすぎていて、違和感が全くない。
スカートの丈は動きやすいよう膝下辺り。黒いロングブーツからのぞく太ももにはベルトで数本のナイフが固定されている。
腰周りは黒いコルセットのようなもので覆われ、イザベルのウエストラインをより際立たせていた。
まさに戦うメイドと言ったところだ。イザベル専用の戦闘服だと言われても、迷わず頷いてしまうだろう。
思わず千風が見続けているとその視線に気づいたのか、
「これですか? 存外悪いものでもありませんよ。個人的には動きやすくて気に入っています」
イザベルも可愛くないわけではない。むしろその辺にいるような女の子とは一線を画すほどの顔立ちであり、スタイルも飛鳥とは比べるほどもなく良い。
けれど、イザベルのメイド姿は板につきすぎていて、千風が感想を述べることはなかった。
イザベルも別段気にしてもいないのか、そのことについて言及したりはしない。
「これでも千風さんには感謝しているのです。お嬢様を助けて下さったことも、そしてこれからお嬢様を守っていくことに手を貸して下さることにも、です」
「まあ乗り掛かった舟だしな」
「それでも、千風さんが冗談で言っていることは分かりますよ?」
「俺の心を勝手に読むなよ」
「読んでいません。あなたの態度がそう、告げているのです」
「そうかよ」
「そうです」
自信満々に答えるイザベル。
千風はなんだか面白くないので、窓の外へと視線を移した。
相変わらず外は驚くほどの晴天で、変わらずの賑わいを見せていた。
出店に、野外ライブ。大きな展示コーナーに、心地よく流れるBGM。
人々の顔には笑顔が溢れていた。
あまりにも平和な──平和ボケした風景。
その中にいると、まるで自分もこちら側の人間だと錯覚してしまいそうになる。
「なので今だけは、今日だけ限定で特別千風さんに仕えてあげます。どんなことでも仰ってください」
千風は怪訝そうにイザベルを見つめる。
少したじろいだのか、彼女は不安そうな声を上げた。
「何ですか?」
「はは、今日だけね」
「はい、あくまで私はお嬢様の従者ですので」
胸に手を当てそう告げる。
「じゃあ、その敬語止めろよ? 俺はあんたの上司でもなければ、先輩でもない。同級生で、一緒に生き延びていく──仲間だろ?」
イザベルの澄んだ青色の瞳が見開かれる。
千風の口から、仲間という言葉が出たことに驚きを隠せないみたいだ。
千風の顔はほんのわずかだが赤みを帯びていた。
「はい、かしこまりましたご主人様。そのように今度からは気をつけましょう──ごめんなさい。やはり敬語を取るというのは難しいです。お嬢様に仕える身としてそれだけは譲れないので」
「そうか。ならせめて、さんづけは止めてくれ。調子が狂う」
「それはそれで嫌がる千風さんを見れそうで面白そうですが……そうですね、そうしましょう。では、千風、と」
極僅かにだが、イザベルの照れを垣間見た気がした。
「ああ、それで頼む。誠のこともちゃんと誠って呼んでやってくれ」
「それがご主人様の頼み事であるなら、承知しました」
「ったく、そのごっこ遊びはいつまで続けるんだよイザベル」
「……いえ、千風はこういったプレイは好みではありませんか?」
「イザベルの中の俺は一体どんな扱いなんだよ? 俺はあれか、イザベルの中では変態なのか?」
「はい、お嬢様をいやらしい目で見る鬼畜ロリコン変態野郎ですね」
「まあ何でもいいけどさ……」
遠い目をして呟く。
「それでは私はこれで。お嬢様がそろそろお茶をお持ちになるので」
イザベルが会釈をし裏に行こうとするのを、千風は引き止める。
「イザベルちょっと待て」
「何でしょう?」
「俺たちの前でくらい、さっきの明るいイザベルでいろよ? お前が何を抱えているのかは知らないけどさ、俺たちは仲間だろ? 困ったことがあったら何でも話せ。別に飛鳥に関係していなくても、俺は──誠だってイザベルの力にはなる。もっと俺たちを、飛鳥のことを信じてやれよ?」
「やはり千風は優しいですね」
そう残してイザベルはカウンターの方へ行ってしまう。
彼女の目元には薄っすらと雫が浮かび、耳は誰が見ても気づかないほど仄かにだが、朱色に染まっていた。
しばらくして誠が戻ってくる。
「千風カッコイイ! 男の俺でも、あれは本気で惚れるね」
「聞いてたのかよ、もう少しぐらい床と仲良くしてろ」
「ははは………でもまあ。俺も千風と同じ気持ちかな? 仲間が困っているなら力にはなりたい。もちろん俺が困ってたら千風には助けてもらうけど」
「お前はなんかムカつくから助けない」
「そうは言っても助けてくれるのが千風だろ?」
「どうだろうな」
教室を見渡すと、テーブルやカウンターは来客でいっぱいだった。
クラスの出し物としては大盛況といったところだろう。
「お、お待たせしました、ご主人様。こちら『秋のお嬢様スペシャル』でございます」
たどたどしく、テーブルに紅茶とケーキのセットが並べられる。
お盆で口元を隠す飛鳥の顔は、沸騰しそうなほど真っ赤だ。
「自分で言ってて恥ずかしくないのか?」
恐らくメニューの名はイザベルがつけたのだろうが、飛鳥自身がそれを口にするとは思ってもいなかっただろう。
指摘され、飛鳥の顔がより真っ赤に染まる。
「う、うっさいわね! 早く飲みなさいよ。私が特別に淹れてあげた紅茶が冷めちゃうじゃない!」
「恥ずかしいなら無理することないだろ?」
「べ、別に恥ずかしくなんてないしっ?」
「イザベルも何とか言ってやれ」
「はあ~眼福ですお嬢様。なんと可愛らしいのでしょう」
「ああ~ダメだねこれは。全然聞いてないよ」
誠が呆れて首を振る。
イザベルの目は完全に恋する乙女のソレだ。
「一応あなたの分もありますよ、誠」
ついでと言わんばかりに、千風と同じものが誠の前にも置かれる。
イザベルの手つきは飛鳥とは比べるまでもなく完璧なものだ。
「あ、うん。俺のは一応なんだね」
誠が一瞬、名を呼ばれたことに反応したが、イザベルのいつもと変わらない対応に安心しつつも、悲しそうにしている。
早速イザベルは千風のお願いを聞いてくれたようだ。
千風の方を向き、わずかにドヤ顔をしている。答えるように彼もまた微かにだが、微笑みかける。
「冷めるのもなんだし、頂くか」
「そうだね、イザベル頂くね」
「どうぞ、ごゆっくり」
ティーカップから湯気と心地の良い香りが立ち上る。
甘く、透き通った香りが千風の鼻腔を満たす。
口に含むと、甘さは控えめだが、しっかりとしたコクと深みを感じさせる上品な味わいが舌を優しく包み込んだ。
「ど、どう? 初めて淹れたんだけど、おいしくなかった?」
心配そうに千風の顔を窺う飛鳥。
「ふむ、普通に旨いな?」
「ほんと!? よかった……」
そっと胸を撫で下ろす。
「そんな喜ぶことでもないだろう?」
「分かってないなあ千風は。好きな男のために淹れた紅茶が本人に──もがぁ!?」
「わああー誠、あんたは黙ってなさいよ!」
慌てて飛鳥が誠の口を押える。
その振動で紅茶が誠の腿にかかった。
「熱っ! ちょ飛鳥、熱いって! 紅茶こぼれてるから!」
「ごめん!」
エプロンからハンカチを取り出し、一生懸命服を拭うも、色は落ちそうにない。
「凍れ──」
一言、そう音節が紡がれる。
「ぎゃあああ、腿が、腿が凍ってる! ちょ、千風やり過ぎ」
「俺は何もやってないぞ?」
そう言って千風は背後を振り返る。
後ろでは誠が「へっ? じゃあ誰が……」などと気の抜けた声を出しているが、千風には誠を相手にしている余裕はなかった。
今起きたことは信じられないことだ。あまりにも予想外。
公の前には現れないと、どこかで高を括っていた千風には、考慮することすらなかった存在の出現。
しかし、思い返せば十分に考えられることだったのだ。
なぜ、今回に限って奴が名桜杯に出場することになったのか。
失念していた。千風は己の愚かさを呪う。
「鏡峰紫水……」
苦虫を噛み潰したように呟く。
「え? あれが……?」
飛鳥は困惑を隠せないといった様子だ。
「ほう、覚えていたか」
「あんな化け物みたいな力を見せられて、忘れる方がおかしいだろ」
千風の額には玉のような冷や汗が滲む。
千風は魔法が使えない。魔導器は身に着けているが、バイナリズム不全に陥った今の千風には、飾りにも等しい代物だ。
このまま戦闘になれば間違いなく、殺される。
それは、さっき誠に使った魔法の展開力からも明らかだった。
いくら戦闘行為からほど遠い場所とはいえ、千風に魔導器の起動を感づかれず使用するのは不可能だ。
それを成し遂げられるのは、この学園にいていいような人間ではない。
「飛鳥、誠を連れてイザベルとできるだけ遠くに避難しろ」
招かれざる客。
千風たちの前に現れたのは学園の代表、鏡峰紫水だった。




