第34話 未来の王
夢を見た。あるいは天啓、神託といった類のものだったかもしれない。
それが何だったのか、紫水が知ることはなかったが、何はともあれ……彼は奇怪な現象に出くわした。
幼き日の紫水は夢を見たのだ。
白い空間。無限に虚無が広がり続けるだけの白い宇宙と言ってもいいかもしれない。
そこに紫水はただ一人、ぺたりと座り込んだまま泣き続けていた。
自分以外には何もない、誰一人としてそこにはいなかった。
圧倒的なまでの静寂さ。
むしろそれが、泣いているはずの紫水は心地良いとさえ感じていた。
白い世界にただ一人。支配者として君臨している。当然、支配する対象がいるわけもないのだが……。
それでも彼は確かな征服感を感じていた。
そんな世界で紫水はしばらく過ごしていた。囚われていたと言ってもいい。
一日か、一週間。はたまた一ヶ月。あるいは数時間の出来事かもしれない。
時間感覚などこの何もない空間ではまるで意味をなさなかった。
自分以外は何も存在しなかったが、不思議と退屈することはなかった。
むしろ異常なまでの孤独感に、自分という存在を押しつぶされないようにすることで精一杯だったのかもしれない。
ある日、自分の存在を必死に保とうとしていた紫水の前に一人の少女が現れた。
黒い少女――全身を漆黒のロリータドレスに包んだ、とても可愛らしい少女。
瞳は鮮血に染まったような深紅。肌は恐ろしくなるほど白く、その身は雪と同化していると錯覚するほどだ。
少女は不敵に嗤う。下等生物を蔑視するような、背筋を凍らせる何かを紫水は感じる。
「……うっ」
紫水は小さく鳴らす。
息を呑むほど、その少女は可愛らしさと同時に艶やかさを秘めていた。
おおよそ人間のものとは思えないその美貌は、紫水が小さい頃に読んでもらった絵本の中に出てきた吸血鬼を彷彿とさせる。
「キミはいったい誰?」
紫水は問う。その声は上ずっている。
「あら? あなたには、わたしが視えるのかしら? 喜んでいいわ、あなたが初めてよ!」
何を言っているのだろう? こんなにもはっきりと見えているのに……。
紫水は疑問に思いながら首を傾げた。
黒ドレスの少女は、足が途切れて宙に浮いているわけでもなければ、影が薄いわけでもない。
たった一人だった紫水の前に、こつぜんと現れ――話しかけてきたのだから。
強いて言えば、異常に可愛いだけで、どこにでもいるような普通の少女。
「ふふふ、そんな風に思っているのね。嬉しいな」
少女は紫水の頭の中をのぞいたのか、無邪気に笑う。
「う……人の考えを勝手にのぞかないでよ!」
「あら、怒っちゃったかしら? かわいい」
クスクスと笑う少女。
見た目から察するに紫水とそんなに年は離れていないはずだが、なぜか彼女は紫水に対し弟と話すような口調だ。
深紅に染まった少女の瞳がゆっくりと細まっていく。
心なしか、周囲の温度が下がったように紫水は感じた。
「ねえ、あなたは世界を壊したいと思ったことはない?」
「え……」
少女の小さな口から発せられた言葉の意味が紫水には分からなかった。
問われていることを言葉そのものの意味として捉えることはできた。が、残念ながら……紫水が彼女の真意を理解することは叶わない。
「世界を壊す――?」
世界とはいったい何処のこと指すのだろう。
今紫水たちがいる、この不思議な空間のことか。それとも、いつもいつも変わり映えのない、とても退屈な日常を送ることしか能がない人々の住む世界のことだろうか?
そんな思考を紫水が巡らせていると、少女は紫水に抱きつき耳元でささやいてきた。
「なーんだ。あなたも退屈に感じているじゃない。そうよ、あなたの住む世界を壊すの。どう、楽しそうでしょ」
「……」
「だって退屈じゃない! こんな死んで生まれてを繰り返すだけの世界なんて。なんの生産性もないじゃない。何でわたしたちは生まれてきたの? 死ぬため? それなら最初から生命として誕生してくる必要なんてない。そうでしょ?」
「それは……」
幼い紫水が答えられるはずもなく、彼は俯いてしまう。
しかしそれは当然のこと。研究を極めに極めた学者でさえ、その答には至っていない。
ただの子供である紫水が答えられる道理などなかった。
「ごめんね。まだあなたには難しかったよね」
むっとして紫水は言い返す。
少女は容姿からどう考えても自分と近い年齢。
それなのにお姐さん口調で話す少女がどうにも気に食わなかった。
全身の力を使って右足を踏み出す。
今の紫水にできる精一杯の威嚇だった。
「キミだって僕と変わらないのに、なんでそんなに偉そうなの?」
「ふふふ、本当にそう見える?」
少女のぬくもりが紫水の全身を包み込む。その温かさは太陽のようで。
耳元でささやかれる声は、気を抜けば一瞬にして脳を破壊されそうなほど甘美なもので。
しっとりとした指先が優しく頬を撫でた。
その瞬間紫水は感じた。
目の前の少女は明らかに人間ではないと。
人間の形をしたナニカだと。
「やっぱり可愛い。決めた、あなたに力をあげる。――これは世界を壊す【王の力】。あなたにだけ許された、先を見通す力。世界の変革を望むわたしからのささやかな権能。存分に振るって、わたしを楽しませてね?」
そう言って少女は紫水の前から姿を消す。
「あ、れ……?」
気づけば少女は紫水の背後に現れ、彼の首筋にかぷりと可愛らしい牙を突き立てた。
「あう」
紫水は情けない声を上げる。
自分の血液とともに大切な何かが失われていく感覚が走る。
今までに感じたことがないような凄まじい快楽。快楽に身を任せていると、急速に体が冷たくなっていく。
瞼が重くなり、視界がどんどん霞んでしまう。
しかし、そんなささいなことが気にならないくらい、少女に血と一緒に生気を吸い取られることは心地よかった。
「ごめんねー。人間が未来を視るにはある程度の制約があるから――あなたの寿命の半分は貰っていくね? それじゃあまたどこかで……」
少女が何か言っているような気がしたが、紫水の耳には入らない。
そのまま視界が真っ黒に染まり、紫水は意識を失った。
***
紫水が奇妙な少女と出会い、未来を視ることができるようになったのは、彼が五歳の時だった。
それから紫水は少女にもらった力を使い、未来を視るようになる。
紫水の首筋には牙を突き立てられた後遺症か、呪いともいえる黒い六芒星のような紋様が浮かんでいる。
初めは半信半疑――興味本位で未来を覗いてみた。
最初に視た未来は幼い日の紫水からすれば、ひどく残酷なものだった。
それは母親の死。
紫水はデパートへと一緒に買い物に行った帰り道、母がトラックにはねられ死亡するという未来を視た。
幸い紫水は腕時計をしていたため、日付と時刻を把握することができた。
事故は未然に防ぐことができ、それと同時に彼は少女からもらった力を信じることになる。
それからだった――鏡峰紫水の破滅の物語が始まったのは。
紫水の視ることができる未来は断片的なものだ。どこで起きたのかも、いつ起きることなのかも分かりはしない。
ただ一つ分かったことがあるとすれば、それはどの未来にも紫水自身が関わっていたこと。
裏を返せば、紫水の関わること以外は視ることができないのわけで。
『未来視』という禁忌にも等しい行為は当然、不完全で気分のいいものではない。
おまけに頭は潰れそうになるほど痛み、口からは想像もつかないほどの血反吐が出る。あまりにも代償が大きすぎて、紫水は割に合わないとさえ感じていた。
紫水が視界に映す未来の像は不安定なもので、モノクロの映像が流れる――視覚に訴えかけるだけのもの。
それでも紫水は未来を視ることを止めようとはしなかった。
それは何時また母を失うことになるかという恐怖や、自分だけに与えられた力を持つ全能感。
幼い紫水の胸の内は、もはや同年代の少年少女が抱える悩みとはあまりにもかけ離れつつあった。
一ヶ月も経った頃、紫水は未来を視ることに対して抵抗がなくなり始める。むしろ貪欲に未来像を欲していた。
それと同時に、彼の視る未来にも変化が現れた。
今までモノクロの映像が流れるだけだった未来に色や匂い、音が加わる。
しかし、見通すことのできる未来の質は上がったにもかかわらず、紫水はあっけなく母を失うことになった。
未来を視ようが、目の前に広がっていた光景は紫水にはどうすることもできない。
そう悟ってしまうほどに、抗いようのない絶望が広がっていた。
母の死という結末は変えられないと認識した瞬間でもある。
なぜなら、紫水が弱いから。彼があまりにも無知で、与えられただけの力に溺れていたから。
紫水の母はカラミティアによって殺された。今では単独で討伐できるだけの取るに足らない――亜獣型のカラミティアに。
泣いた、喚いた。怒りで頭がおかしくなりそうだった。
目の前で無残にも母を喰い殺された紫水の前に、再びあの少女が現れる。
「あはは、分かったでしょ? その力は本物……そろそろ本気にならないと、今度はあなたが死んじゃうよ?」
「うぐ……母さん」
動かないと死ぬことを紫水は分かっている。それでも目の前で母親を失ったショックは大きかった。
「さあ、本当の力を見せて? わたしは介入できない――この世界では不安定な存在だから。だからあなたに力を与えた。世界を壊せるだけの力を秘めた権能を。選択して、王になる未来を――」
待っていたと言わんばかりに少女は紫水を抱きしめる。
しかしその身は軽く、温もりを感じることはできない。
それはまるで、これから先の紫水の人生を暗示しているかのようで。
「ぼ、くは……!」
首筋に意識を集中させる。首筋を起点に黒い渦が生まれて。
紫水の全身を犯すように包み込んだ。
紫水は未来を視る。
この瞬間を切り抜けるため、亜獣型のカラミティアを相手に生身で生き残るために。
最善の選択肢を選択できるよう、あらゆる未来を見通した。
そして――。
この日を境に、紫水は絶望的な未来が視えるようになってしまった。
延々と続く灰色の景色。だだっ広い荒野を、見たこともないような化け物が跋扈する地上の姿。
人々が喰われ、犯され、穢される。
額を割られ、五体は潰され、蹂躙される。
足をもがれ、泣き叫びながら逃げ惑う光景。
最悪だった。
これほどの地獄――未来を、紫水は視たことがなかった。
一人の青年が視界に映る。それは未来の紫水の姿だろうか?
絶望に跪き、慟哭する姿。
救いようのないまでに世界は壊れていた。
少女が言っていたように、紫水が世界を壊すまでもなかった。彼が何もせずとも、世界は遥か昔に壊れているのだから。
拳を叩きつけ泣き叫ぶ未来の紫水は二十歳ぐらいだろうか。
だとすれば、この最悪の結末は十三年後には訪れるはずで……。
最初から世界を壊すつもりなどなかった。そもそも同年代の少女の言いなりになることじたい癇に障る。
退屈な日常に飽き飽きしていたのは事実。何か起きないかと願ったのも自分だ。
なら、この結末を招いたのも自分自身なのではないか?
もしそうであるとするなら――この結末に決着をつける義務があるはずだ。
少女から貰った世界を壊す力で――世界を救うために戦うのだ。
自分で蒔いた種だ。なら、最後まで見届けるのが筋というもの。
「やってやるさ。ぼくが未来を変える。世界を救う王になってやる!」
過去の紫水はこうして、世界を救うための戦いを決断した。
あれからあっという間に、十年の月日が流れた。
紫水はゆっくりと瞳を開き、過去と決別する。
大事なのは今だ。未来を変える――最悪の結末を避けるために、今行うべき最善の選択を。
目の前の男を見据える。世界最強の魔法師――時枝玄翠。
かつて世界を救った男が目の前にいた。
世界を救うには世界を救った男の力が必要だった。
「時枝、俺はとある未来を視た。三年後……この世界はまず間違いなく破滅する――」
そして紫水は、恐らく交渉材料になるであろうカード切る。
失敗は許されない。ここでミスを犯せば、今まで必死に築き上げてきたものが一気に瓦解してしまう。
それどころかこの男の力を借りなければ、世界を救うことは非常に困難になるなるだろう。
だから、慎重に言葉を選ばなくてはならない。
残り三年。時間は限られている。今さら後戻りなどできはしない。
「世界の終わりを止めに来た。力を貸せ――時枝」




