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一騎当千の災害殺し  作者: 紅十字
第一章 始まりと終わりの道化
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第29話 イザベルの想い

 首筋に突きつけられた白刃――殺意の込められた銀翼が、命を絶たんと首の皮を削る。

 しかし、それ以上奥に進行してくることはなかった。

 喉仏を伝う違和。一ミリの傷が、雫となって首筋を伝う。

 直上を見上げた形のまま、からからと笑う千風。


「なぜ、笑っているのですか?」


 平然として、千風は答える。


「いや、今回ばかりは本気で死んだな……と」

「問い方を変えましょう――なぜ、笑っていられるのですか? 今まさに、死ぬところなのですよ?」


 イザベルのナイフを持った手が震える。死ぬところ――彼女はそう口にした。

 つまり、まだ千風には死ぬ可能性があるということだ。

 だが、それはどういうことだろう? わざわざ、暗殺対象を未遂のまま生かした状態で、なおかつこれから殺すと宣言している。

 まるで意味が分からない。殺すつもりがないと、そういっているようなものだ。


 いや、殺さないのではない。イザベルに千風は殺せないのだ。結論はすでに出ている。


 イザベルにとって第一に考えるほど、大切な飛鳥を救った恩人。それを簡単に殺せるほど、彼女は心を殺しきることができない。

 だから、腹いせの代わりに千風を試した。あわよくば手負いの状態で千風がどれくらい動けるのかを確認したかった。今後飛鳥と関わるであろう人間の実力を知りたかった。

 でも、それさえも上手くはいかなかった。そんなところだろう。


 千風は笑う。そんな、あまりにも人間らしい感情の狭間で揺らぐイザベルを身近に感じた。


「イザベル……あんたに俺は殺せない」

「一体何を根拠にそんな世迷言が……」

「この無意味な問答だ。世迷言を言ってんのはどっちだよ」


 そう言って、千風は右手でイザベルの視界を掠めると、突きつけられたナイフを弾き、左手で彼女を引き寄せる。

 ベッドに倒れかかるイザベル。二人の位置と形成は逆転した。


「あんた、俺が怪我人だと油断しただろ? 悪いが、近接戦闘は俺の十八番(おはこ)だ」


 ゆったりとした放物線を描きながら落下してくるナイフを逆手に掴むと、そのままイザベルの首筋に突きつけた。


「俺にはあんたを殺す理由がない。ただ、あんたが俺を殺しに来るなら、遠慮はしない」


 ドスの利いた声でイザベルを脅す。

 イザベルがこの程度のことで、怯えるとは思っていない。それでも……彼女を戒める鎖くらいにはなる。


「それと……」


 狙ったようなタイミングで風が吹き荒れる。

 千風の身体が消える。否、そう認識させるだけの速度で彼は動いた。

 銀閃が幾重にも飛び、イザベルの薄桃色の髪が風に舞った。


これ()は指南代として貰っとく。長いと暗殺には不向きだからな」


 ショートになったイザベルを見据える。長髪よりは短い方が物腰柔らかそうに見えた。


「くっ……」


 イザベルの表情が悔しそうに歪む。

 髪を失った悲しみというよりは、手も足も出なかった己に対する怒りの方が大きいのだろうか。


「一体どれだけの物をあなたは背負っているというのです? あなたの後ろには何が隠れているのですか?」


 シーツに血が滲むほど握られた拳が、よりいっそうイザベルの悔しさを物語っている。


「その異常なまでに効率を重視した、傷を負うことに一切の躊躇いがない思考――壊れています。昔のお嬢様を見ているようで……私は――」


 どうやらイザベルは、昔の飛鳥に千風を重ねているようだ。


「殺したくなります。私の前で、悲しそうな瞳をしていたお嬢様と、同じ目をしないでください。もう二度と、あんなお嬢様を見たくないのです」


 ショートになってからのイザベルは、まるで別人だ。さっきまでの威圧感、冷徹感は消え、年相応の少女のようにも見えた。


「あなたがいると、お嬢様は幸せそうな顔をします。しかし、あなたがいればお嬢様はきっと……過去のことを思い出してしまう」


 それがたまらなく怖いのですと、イザベルは思いの丈をぶつけてくる。

 目じりにはほんのわずかだけ、煌めくものがあった。


「別に、俺だって傷つくことに対して、何とも思わないわけじゃない。痛いのは嫌だし、血を見るのだって――できることなら避けたい」


 だが、世界はそれを許さない。許してくれはしない。いつだって世界は、笑いながら人を殺す。人が悲しむのが好きなのだ。


「けど……自分を守って、保守に走って――それで何が救える? 俺は器用じゃねえし、天才でもねえ。自分を傷つけてでも足掻かなきゃ救えねえだろ? もう大切な人が死んでいくのは見たくない」


 イザベルが静かに息を呑んだ。千風の本音に気圧されたように。

 イザベルはベッドからゆっくりと起き上がった。両手を上げ、何もしないとジェスチャーを送る。微かにだが、笑っているような気がした。


「おかしいですね、あなたとお嬢様はまだ会って間もないはずです。それなのに、あなたにとってお嬢様が、大切な存在だと言えるのですか?」


 相変わらず鋭い観察眼だ。こいつはすべてを見通せているのではないかと、千風は冷や汗をかく。


「別に何だっていいだろ? あんたに話す筋合いはない」


 この話は終わりだと睨みつけるも、イザベルは聞き入れようとしない。それどころか、じーっと瞳を覗き込んできて……。

 あまりにも鬱陶しいものだから、千風の方が音を上げた。


「はあー。しつこいな……あんた。……元カノに似てたんだよアイツが。悪いか? 言わせんな恥ずかしい」


 などと、まったく恥ずかしげもなく、千風はデタラメを口にする。彼女など生まれてから十五年、いたことがなかった。

 だが、その場しのぎの手段としては、有効なはず。彼自身、自らの演技の上達具合に驚くほどだ。


 では、なぜ千風は今回飛鳥を救ったのだろう。元カノに似ているわけでもないし、あの時点で大切な人だったかと問われれば、首を横に振らざるを得ない。


 今回ばかりは千風自身、不思議なことだった。今までの千風であれば、目の前で女の子が殺されかけようが、泣きながら助けてくれと懇願されようが、命を懸けてまで救うような真似はしてこなかった。たとえそれでその子が死ぬことになったとしても。


 それが自分の目的を阻むことになると知っていたから。

 けれど、飛鳥の時だけは自分でも理解しないままに、身体が動いていた。無意識の最中、愚かにも考えなしに突っ込んでいた。


「ふふ。面白い冗談ですね。彼女が本当にいたのか、真意は定かではありませんが、お嬢様に似た彼女となると――あなたが否定したロリコン説が否定されるのですが……?」


 否定の否定は肯定ですよ? と含み笑いを浮かべる。なかなかに鋭いツッコミである。

 千風はなおも嘘を嘘で塗り固める。


「なめんな。俺の元カノはあんな乳くせえガキじゃねえよ……。つか、あんたも結構ひどい奴だな。主のことをロリ扱いかよ……」


 主を何だと思っているのだろうか? そんな疑問を胸に抱く千風の心を読み取ったのか、イザベルは語りだす。


「私にとってお嬢様は神であり、天使。そして――妹のような存在です。天真爛漫でおっちょこちょいで、でもとても可愛らしい女の子。たまに邪な目で見たりもしますが……人として大いに尊敬できる素晴らしいお方です」


 そんな方に仕えられるのだから、私は幸せですと、イザベルは微笑んでいた。


 飛鳥はたしかに可愛い。それは紛れもない事実だ。

 彼女の話をするときのイザベルはいつも以上に楽しそうで……こんな不愛想がそのまま具現化したような奴でも楽しそうに語るのことがあるのかと、千風は一人感心する。

 飛鳥にはきっと人を惹きつける力があるに違いない。イザベルという不愛想を笑顔にできるのだ――間違いない。

 ひょっとしたら、そんな力に千風も惹きつけられたのかもしれない。


 そんなことを考えていると、院内に閉館を伝える音楽が流れた。

 時刻は午後五時。夕焼け空が妙にまぶしく感じる。


「ほら、もう帰れよ。面会の時間は終わりだ」

「そう、ですね……」


 まだ、言いたいことでもあるのだろうか。イザベルは依然としてその場を離れようとしない。


「なんだ、俺に惚れたか?」

「ご冗談を。あなたに惚れるほど私は軽く――いえ、何でもありません」


 千風の冗談は軽くあしらわれてしまう。これが飛鳥ならもう少し面白い表情が見れたのにと、少し残念に思う。


「ただ、お嬢様にはこの世界の闇を知ってほしくはなかった。何も知らない――純真無垢なままの普通の少女でいてほしかった」

「なんだそれ? まるで赤髪が闇を知っているような口ぶりだな?」


 イザベルの言動からはそう捉えることも不可能ではない。

 だが、千風から見た飛鳥は普通の少女だ。他人より少し強くて、泣き虫で……しっかりと前を見据えて進めるだけで、普通の子となんら変わりはない。可愛くて、たまにドジで。でもみんなを引っ張ろうと頑張る――普通の女の子なのだ。


「あなたはお嬢様の過去を知らないから、そんな呑気なことが言えるのです。ですが、私は知っています。お嬢様の闇に彩られた過去を」


 そう言ったイザベルはまるで突き放すような目でこちらを見ていた。冷徹で鋭く――氷の刃のようだ。

 全てを拒絶する氷の刃はやがて消え、イザベルは静かに腰を下ろす。どうやら、まだ帰る気はないらしい。


「少しばかり、昔話をしましょうか? あれはそうですね……私がまだ、お嬢様と出会ったばかりの頃でした――」


 イザベルはゆったりと語りだす。飛鳥とイザベル、二人の出会い話を。

 千風はそれに、静かに耳を傾けるのだった。


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