第27話 飛鳥の覚悟、千風の自信
小柄な飛鳥の身体を抱きすくめる。羽のように軽い身体は、今にも砕けてしまいそうなほど儚かった。
「ち、千風……くるし、いよ?」
苦しそうに声を上げる飛鳥。その声さえも愛おしく感じた。
飛鳥の匂いがする。彼女の髪から香る、甘ったるい匂い。
それがどうにも心地よくて、千風の胸は、脳は――彼女で満たされていく。
千風の中に飛鳥がいる。そんな錯覚にとらわれながらも、彼はどうにか理性が飛びそうになるのを抑えつけた。
こんなところで理性を失うわけにはいかなかった。飛鳥に魅力がないとか、そういうことではない。千風にはまだまだ、やることがたくさん残されているのだ。
ここで、自分を見失うわけにはいかない。
「飛鳥さん……」
小さく、そう一言。
二人の視線が重なる。
飛鳥の瞳に千風が映った。
怖いのだろうか? 身体がかすかに震えている。目じりに涙を浮かべ、彼女は千風から目をそらした。
どうとらえるべきだろう。そんなことが一瞬頭をよぎったが、意味のないことだと千風はゆっくりと口を開く。
「はは、なにが何でもするよ――だ? 思いきり震えてるじゃねえか? お子様が、ませたこと言ってんじゃねえぞ――赤髪?」
あえて低く、千風は普段の口調へと戻しながら笑ってやった。中指で飛鳥のおでこを弾いてやる。
静寂が訪れる。飛鳥の中で何かが崩れたような、そんな音が聞こえた気がした。
次の瞬間、風の音とともにカーテンが巻き上がる。一陣の風が、病室を薙いだ。
飛鳥の赤髪が視界いっぱいに広がり、千風はその隙を見逃がさんとばかりに、窓辺へと避難した。
放心状態の飛鳥。しばらくすると、
「お、お子さまじゃなーい! それにもう、赤髪っていわない約束したよね……って、え? 赤髪?」
何が起きているのか、まったく把握できていないといった感じだ。いや、赤髪と呼ばれたことに対して、懐かしさを覚えたのかもしれない。
瞳をまんまるにしたまま、呆然とへたり込んでいる。鳩が豆鉄砲を食ったようとは、おそらくこのことを言うのだろう。
飛鳥の間抜け面は、それはそれは愉快なものだった。
「ぷっ、あははは」
千風は思わず、笑ってしまう。こらえきれず、声が出てしまう。盛大な笑い声。年相応の――少年のような、心の底から笑えた気のする声だった。
「やっぱ、お前にはそっちの間抜け面の方が、よっぽどお似合いだな。思いつめた顔して、悲しんでるんじゃねえ」
飛鳥を傷つけないよう努め、冗談まじりにできる限りの照れ隠しを試みる。しかし、あまり慣れないことはするものではなく、情けなくも顔が引きつってしまう。
「ああ、言い忘れてたけど、お前みたいなお子様には、少なくとも俺は欲情したりはしないからな?」
そうは言うものの、まったくの真実かと問われれば、首を振らざるをえない。
千風にも飛鳥を可愛らしい、愛おしいと思うだけの人間的情感はある。ただ、そこから恋愛感情まで発展するかというと――今のところ、否だ。
千風には、女の子に現を抜かしている暇などない。
一時の欲望に身を任せて、理性の鎖を引きちぎることが、彼にはどうしてもできなかった。
もちろん、お互いが年齢的に成熟しきっていないこともある。
飛鳥にだって、これから先の未来がある。たった一度、命を救われたぐらいで、その人生を棒に振って欲しくはない。
ただ、それよりも……千風の中には、いまだ拭いきることができず、延々とくすぶったままのトラウマがある。
彼はこの十年で数えきれないほど、大切な人たちを失い続けてきた。
家族、師、迷宮をともにした仲間。死んだ人間の数は20を超える。
失って、失って、失って――失い続けたその先に、今の千風がいて、飛鳥がいるのだ。
飛鳥を救うことを許された。そんな彼女を、自分一人の欲望のために穢すことなど、どうしてできようか。
だからここで断ち切らなければならない。恩のある、ない。命を救った、救われたの関係は。
「なっ……え、ぁう、あ……」
嗚咽のような声。飛鳥の柔らかそうな頬が、みるみるうちに朱色に染まっていく。
千風が記憶を失っていると、勘違いしていたのだろう。
自身の恥ずかしい言動の数々を思い出したのだろうか?
彼女の顔はすでに艶やかな赤髪と、判別がつかなくなっていた。
肩はぷるぷると怒りに震え、目じりに涙を浮かべたまま、睨みつけてきた。
「はあ!? じゃあなに? あんた、記憶は失ってなくて、最初から私をからかっていたわけ!?」
「まあ、そうなるな」
対する千風の反応は、なんとも淡泊なものだった。
さらに鋭く睨みつけられたような気がした。
「悪かったよ。てか、泣くことないだろ? やっぱお子様だな。無理して、慣れねえことするからだ」
「な!? べ、別に泣いてなんかないし――目に涙が入っただけだもん」
泣いていることを指摘されたのが、そんなに気に入らないのか、飛鳥は急いで涙を拭う。そして彼女は意味の分からないことを口にした。
「……もんって、やっぱりガキじゃねえか」
あきれたように笑う千風を見て、飛鳥は再び顔を真っ赤にした。
「も~~っ! さっきからなによ。人のことばかにして!」
頬を膨らませながら、ジトリと飛鳥が千風を睨みつけた。
「私はあんたがほんとに記憶を失ったと思って、心配してたのに! なのに――サイッテーよ」
本人は怒っているつもりなのだろうが、可愛らしい彼女の容姿ではどう頑張っても、騒いでいるぐらいにしか見えなかった。
「悪かったって。でもさ、心配してくれてたのはすごい伝わってきた。だから、その……なんだ、感謝はしてる」
飛鳥が心配しているのは、本気で泣いてくれたことからも分かっている。命を救われたからといって、あれほど泣いてくれる子など、まずいない。
千風は彼なりに真摯に受けとめていた。
頬が少し、本当に少しだけ赤みがさしたのは、内緒の話だ。
だが、普段から感情を表に出さないことが――仇となる。
飛鳥は彼のごくわずかな表情の変化が理解できた。それが、たまらなく嬉しかった――と同時に、急に恥ずかしくなってしまう。
「う……うん。そうね。今回はとくべつに、許してあげるわ」
腕を組んで、若干偉そうにしながら、チラチラとこちらを見ている。
「でも……ほんとに大丈夫なの? 一か月も治療なんて、とんでもない怪我だったんでしょう?」
しおらしく、顔色をうかがってくる。
飛鳥は気づかれないよう頑張っているようだが……。
普段からころころと表情の変わる彼女は、うまく自分をとり繕うことが苦手みたいだ。
飛鳥の言うとおり、それはもう、驚くほど大変だった。右腕の欠落、左腕の欠損。
魔法の詠唱破棄。魔導器と交わした契約の一方的な放棄。この二つから起こるα、β神経の崩壊――バイナリズム不全にまで陥り、散々な結果を招いた。
自分でもどうかと思うほどボロボロになり、死ぬことさえ覚悟した。
それでも、【迅雷鬼】を使い、瞳の力を酷使することでの【神雷鬼】の具現化。そうまでして、やっとの思いで生還を果たしたのだ。
生きることだけは、決して諦めなかった。
正直なところ、佐藤の助けがなければ今ここに千風がいることはなかっただろう。
そう考えると、佐藤に感謝しておくのもいいのかもしれない。
「まあ、死にかけはしたけど、なんとか元通りにはなった」
ぐるりと腕を回し、問題ないと見せてやる。彼の右腕はしっかりとくっついており、左腕は粉々の状態からすっかり元通りになっていた。
あれほどボロボロになって、死にかけて。信じられないくらいだ。
現代の医療技術の進歩というのは目覚ましいもので、即死でないかぎり――たとえ四肢が欠損しようとも、死ぬことはほとんどないのだという。
それでも今回ばかりはかなり危なかったと、担当医から聞いていた。あまりにも欠損部位が多く、出血の量も尋常ではなかった。加えて【迅雷鬼】による人格への干渉。千風が助かったのは奇跡だと、担当医は言っていた。
だがこれは奇跡なんかではない。【憑依兵装】――【神雷鬼】の持つ能力の一つだ。対象の命を喰らい、命を創る。
つまり、この場合は千風が生きたであろう未来を喰って現在の千風を生かしたのだ。
これから先の未来、どれだけ生きることになったのかは定かではないが、それでもあの場で死ぬよりは、ずっと長く生き延びることは確かだと言える。
「ほんとに?」
それでもなお、飛鳥は心配そうに聞いてくる。瞳はまっすぐに千風を見据えていた。
「ああ」
もちろん全快しているわけではない。今の千風には魔法が一切使えない。
バイナリズム不全に陥った千風は代償として――二ヶ月間、魔法が使えなくなってしまった。
つまり、昏睡状態だった一ヶ月を差し引いても、これから先の一ヶ月先はまったく魔法が使えないことになる。
魔法を使わずして、名桜学園の生徒会長、鏡峰紫水――【十二神将】と同等の力を持つとされる相手を敵に回すのだ。
どれだけ厳しいのか、そんなことは千風自身が一番よく分かっていた。
クラーケンとの戦いよりも劣勢な状況で、この先戦っていかなければならないのだ。
もしかすると一瞬にして、首が飛ぶかもしれない。【十二神将】を相手に丸腰で挑む――そんなことは自殺志願者のすることだ。
今の千風の武器は己の肉体と、【迅雷鬼】とは違う、もう一つの【憑依兵装】だけだ。とはいえ、【迅雷鬼】の2ランクは下位に位置する。鏡峰相手に通用したりはしないだろう。
神獣型と幻獣型。レベルにして2の差だが、そこにはれっきとした格の差が生じる。
だからと言って、任務を放棄するわけにはいかない。ジジイの隣に立つにはむしろ、鏡峰にそれくらいのハンデを与えた状態で生き残らなければならない。
まずはそれからだ。
いつ死んでもおかしくない状況下で、飛鳥を傍にいさせるわけにはいかない。
「ねえ千風? あんたこれからどうするわけ? 正直、あんたの実力が私より上だっていうのは、気づいてる」
当然だろう。ただの学生風情が生き残れるほど幻獣型は甘くない。それでも生き残ってしまったのだから、もはや隠し通せるとは思ってもいない。
「ああ。でも俺だってプロの人からしたら、全然ひよっこだ。正直、佐藤先生が全部解決してくれただけで、俺は先生がくるまで醜くあがくのが精いっぱいだった」
言って、確信する。これは好機だ。かえって都合よく、ことが運んだと考えるべきだ。
千風の本当の実力を知る人間は学園には佐藤一人だけ。最後まで隠し通すつもりだったが、中途半端に強いことがバレてしまった。
一年で飛鳥と同等な人間は蓮水くらいだろう。どんなに隠そうとしたって、千風が飛鳥たちと同等の力を持っていることは、バレたと言っていい。
でもそれは、鏡峰からしたら取るに足らない――注力するに値しない、星座占い程度の些事な出来事だ。
そこに奴を出し抜く隙がある。
「そうだな。これからゆっくり学園で過ごすことにするさ。もう、命のやり取りはこりごりだからな」
考える素振りを見せ、思ってもいないことを平然と口にする。いや、あながち間違いではないのかもしれない。
鏡峰の監視はあくまで、水面下で行うものだ。感づかれれば、即死さえありえる。
千風自身、死にたくはないし、死ぬつもりなど毛頭ない。であれば必然、慎重にならざるをえなくなる。
敵を欺くにはまず味方から。味方というよりもただのクソガキにしか見えないわけだけれども。
でも、そこには確かな温かさがある。
とりあえずは上手く誤魔化せたみたいだ――飛鳥に魔法が使えないことはバレていない。
「そっか……あんたがそういうなら私はそれに従うまでね」
一瞬、落胆したような嘆息が聞こえたが、その後の言葉は千風が予想だにしないものだった。
「は……?」
思わず、そんな気の抜けた声が漏れた。
言っている意味が分からなかった。飛鳥はちゃんと話を聞いていたのだろうか?
「えっと、話……聞いてたか?」
もちろんと飛鳥は頷いているが、おそらく理解はしていないのだろう。
「千風がどうするにしても私はあんたについていく――もう、そう決めた。記憶がある、ないはこの際どうだっていいの。あんたに救われた命だもの。あんたのために、私はこの命を使うわ!」
無い胸を張って、誇らしげに笑う。飛鳥の表情には、もう先ほどまでの悲しみはない。
しっかりと前を向いて、琥珀色の瞳に、未来を見据えた意志の強さが宿る。
彼女なりの決意、そして覚悟――こうなってしまえば、もう何を言っても無駄だろう。
飛鳥のお嬢様気質で、強情なところは変わっていないようだ。
「そうか……なら、せいぜい俺についてこれるように頑張ることだな――赤髪さん?」
冗談めかして千風は、彼女の頭を軽く撫でてやった。
ふふんと、飛鳥は得意げに鼻を鳴らす。
「いったい誰に言ってるわけ? あんたとの差なんて、私にかかれば一瞬よ!」
すぐに見返してやるんだから! と、小さなこぶしを堂々と千風の眼前に突きつけた。
飛鳥は笑っていた。楽しそうに、まるで同学年のライバルを見つけたと、言わんばかりに。
彼女の振る舞いすべてが、小柄な体格のせいで台無しになっていると思うと、不憫だなと感じつつも、千風は同じように右拳を重ねる。
飛鳥を、誠を――そしてクラスメイトを救うことができた。
これは、千風にとっては大きな一歩だ。大切な人たちを失い続けて、ようやく四人。
たったの四人だが、それでも救うことができた。
失いたくない――そう思える人間だってできた。
(なんだ、ガキは俺の方じゃねえか。過去のことを引きずったまま、逃げ続けて……)
「みっともねえ」
自嘲気味に笑う千風は、どこか誇らしげだ。
守れたこと――それは、千風の中で大きな自信に繋がった。




