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一騎当千の災害殺し  作者: 紅十字
第一章 始まりと終わりの道化
26/64

第26話 気づいたこと、気づかなかったこと

 一ヶ月後。


「おばちゃん、ありがとう!」

「あいよ、友だち大事になさいよ」


 元気に挨拶をした少年に、初老をむかえた女性は目じりを下げ優しく微笑んだ。

 少年は暖簾(のれん)を上げ、寂れた八百屋を後にする。

 東京の都心。スクランブル交差点の信号待ちの中、辻ヶ谷誠は何の気なしに空を見上げた。


 青い、どこまでも蒼の広がった雲一つないその空模様は、今の誠の気持ちを体現しているようだった。

 (かざ)した手をすり抜けた陽光が目に突き刺さる。鬱陶(うっとう)しいまでのその光が、誠のうなじに玉の汗を作らせた。

 もう十月も半ばだというのに、夏のような暑さは続く。季節が一つずつ、ずれてきているのではないかと疑ってしまうほどだ。


 残念なことに、夏の風物詩ともいえるセミの鳴き声は聞こえないが……。誠はあのシャワシャワとした雑多な音を聞くのが地味に好きだった。

 今日は誠にとって、特別な日だ。彼の親友――如月千風との面会。待ちに待った千風との再会。もちろん誠が親友だと勝手に思っているだけで、千風がそう思ってくれているのかは定かではない。



 一か月前、誠は千風という親友を失ったとさえ感じた。


 彼らの目の前に現れた化け物はそれだけの力を秘めていた。圧倒的な力、絶対的な力、絶望的な力を前に……誠は為す術もなく、化け物のいる空間から離脱した。

 仕方がなかった。そう言えるかもしれない。

 あれだけの力を持った化け物を相手に、学生風情で対抗しようというのが、そもそもの間違いだったのだろう。



 触れるべきではなかった。近づくべきではなかった。誰もがそう言うだろう。

 でも違う。そうじゃない。誠はそんな風に慰められたいわけではなかった。

 力がない? 確かにそうだ。恐れをなした? 

 その通りだ。だが、誠が千風を置いて逃げたことは決して消えたりはしない。

 助けると豪語してたにも関わらず、千風の前から姿を消したのだ。


 力がないくせに、助ける対象よりもはるかに劣っていたくせに――彼我の実力差を見極められなかった己が、あまりにも憎い。無性に腹が立った。

 きっと千風は自分一人だけなら、十分な余裕をもってクラーケンとの戦いに臨めたはずだ。

 それを阻んだのが、誠なのだ。


 千風の余裕を、千風の自由を奪った。

 そんな誠を――愚かで無能で、救いようのない自分を救うために、千風は犠牲になった。

 自分たちを逃すことに注力したせいで、千風は自らが逃げるタイミングを失ったのだ。

 そんな自分を、千風は許してくれるだろうか? 

 笑って親友だと呼んでくれるだろうか?



 きっとそれは無理なことなのだろう。

 だって親友を見捨てるような人間を親友と呼べるだろうか? 

 無理な話だ。おこがましいにもほどがある。


 千風と再会するのは楽しみだ。だがそれと同時に怖いという感情を抱く自分もいる。

 千風のことを親友という割に、誠は恐れているのだ。その千風に罵られ、否定されることを。

 当然、千風にはそれらをするだけの権利がある。

 それだけの仕打ちを誠はしたのだから。彼には甘んじて受け入れる義務がある。



 そんなことを考えていると、信号が赤から青へと変わった。人々がわっと波のように群がり始める。

 横断歩道を渡り終えようとしたその時だった。

 目の前で顔面を蒼白にした30代くらいのスーツを着たサラリーマンの男性が、前のめりに倒れた。


「ちょ! 大丈夫ですか?」


 誠は手に持った紙袋を落とさぬよう気をつけながら、その男へと駆け寄る。

 横断歩道はまだ渡り切れていない。というのに、そのまま男は微動だにしない。

 何事かと通行人が群がる中、誠は彼を担ぎ上げると、近くのベンチに寝かせてやった。


「あのー大丈夫ですか?」


 誠が語りかけるも、男からの反応は見られない。放心状態で空を見上げたままだ。


「ぁう、て……天使が、女神が……」


 男はうわごとのようにそう呟いて、ある場所を指した。

 誠は男の示した背後を振り返る。


 そこにあったのは大きなスクリーンだ。ビルの壁面に埋め込まれた、一際目立つ大きなスクリーン。

 よくテレビのCMなどが流れるそのスクリーンに映し出されたのは、一人のきらびやかな衣装を着た少女だった。

 今をときめくアイドルといったところだろうか? 誠はその少女を見たことはなかったが、確かに天使のような容姿だった。

 適度に肌を露出させ、引き締まった肢体を、ドレス型のアイドル衣装から投げ出すその姿は、まごうことなき女神そのものだ。


 人を吸い込むようなルビー色の瞳に、金糸をちりばめたように煌めく黄金色の髪。

 完璧なプロポーションでダンスを踊るその様は、まさにアイドルの中のアイドルだった。

 (ほとばし)る汗さえもが彼女を彩る要素の一つにすぎない。


「確かにすごいかわいいけど、しっかりしてくださいよ?」


 あまりにも完成された美貌に、誠の瞳も釘づけだった。それでも我に返れたのは、目の前の男を放ってはおけないという彼の善心のおかげだろう。


「そうだ。これ、食べてください」


 先ほど八百屋で購入したリンゴを男へ手渡す。紙袋にうず高く積まれた果物は到底、千風ひとりで食べきれるものではなかったから、ちょうどよいだろう。

 誠自身、買いすぎたと少し反省していたくらいだ。


「ありがとう。こんなオジサンに良くしてくれて……」

「いえ、元気になったようで何よりです。ところで、あのスクリーンに映っている女の子は一体誰です? ものすごくかわいいのですが……」


 リンゴを(かじ)り、血色の戻った男に、誠は無意識のうちに問いかけていた。


「え!? キミ、あの国民的アイドル《絶壁の歌姫(アリアンローレライ)》――月影陽(つきかげよう)を知らないのかい!?」


 信じられないとばかりに目を見開く男。その様子だともう心配はなさそうだ。

 月影陽……。胸の内で反芻(はんすう)するも、その名前には心当たりがない。


 聞いたことがなかった。そもそも誠や千風たちはそういった娯楽とはかけ離れた世界で生活してきた。世間一般の娯楽を知る機会があれば、その時間を使って魔法の勉強をしてきた者たちなのだ。

 もちろんそのこと自体を誠が不満に思ったことはない。それは魔法師を目指すと決めたときから分かっていたことだ。

 魔法師となるべく歩む道は、茨の道。厳しい現実、つらい訓練。それらを受け入れてでも己は力が欲しいと、叫んだのだ。


 力がいる。誰かを失わないための、守り切る力が。救いたいと思った者を救えるだけの――それ以外を壊す力が。

 自然と拳に力が入る。時折こうして自分を見失うことがある。


 魔法師を目指して五年が過ぎただろうか? それなのに依然として誠には力が足りなかった。学園ではもてはやされるくらいには力があるものの、それはあくまで学生の領域だ。

 五年血反吐を吐いてきた結果がこれだ。まるで役に立ちはしない。


 氷室のように【憑依兵装】を使えるわけでもなければ、飛鳥のように高位の魔法を扱うことだってできない。あまつさえ、飛鳥の従者にだって後れをとる始末。

 自分はどうしようもなく弱い。今回の化け物との戦闘で、それがはっきり理解させられた。


 ……それでも、諦めることだけはできない。諦めの悪いところは誠の誇れる美点でもある。


(大丈夫、まだやれる。後二年だ。二年もすれば俺だって……だから、もう少し、あとちょっとだけでいいから待っていてくれ! きっと――たどりついてみせるから!)


 不意に、肩に重い感触が伝わった。地に足を縫いつけられるように、上から押さえつけられた。それはどうも目の前の男からのようで。


「彼女はね……最近では珍しいソロ活動で実績をあげた実力派のアイドルなんだ! 圧倒的な演技力、歌唱力、人を引きつけるカリスマ性。彼女は天性の才能の持ち主だよ!」


 血走った目でそう語る男の息は荒い。まるで宗教団体に属するような必死さが伝わってきた。


「う、うん……」


 胸倉をつかまれ、誠は思わずたじろぐ。

 やんわりと男の腕を振りほどき、誠はその場を後にした。


「それにしても月影陽……か? 確かにかわいかったなー。……に似ていなくもなかったし」


 一人、アイドルの名を口にするのだった。

 呟くようなその声は、誰の耳に届くこともなく、蒼の彼方へと吸い込まれていった。


 ***


「……っ!」


 緩やかな風の吹く午後の病室。

 ゆらゆらと揺らめくカーテンの隙間から漏れ出る光に、上瞼を刺激された千風は、静かに目を覚ました。

 嗅ぎなれたおなじみの薬品の匂いが充満した病室で、彼はただ一人、天井を見つめる。



 ぼんやり、薄らぼんやりと視界が鮮明になっていくのを感じる。天井のシミを一つ、また一つと意味もなく数え上げ、


「ふむ」


 途中で飽きて窓の外へと首を傾けた。

 涼やかな風が千風の黒髪をすく。

 心地よい。まるで森林の奥深く、きれいな湖の見える木々に取りつけたハンモックの上にいる気分だった。


「だからぁ、ここにいるのは分かっているの! 早く通しなさいよ!」

「ですが今は面会謝絶でして……」


 なにやら外の方が騒がしい。外で誰かが看護婦と言い合っているようだった。

 その声は特徴的で、千風の耳には幼く聞こえた。

 それは、ほんの一ヶ月前にあったばかりの自信に満ち溢れた生意気な赤髪の少女の声で。しかし、それが千風にはとても懐かしく、もう一度聞きたいと狂おしいほどまでに思った声だった。


 (よかった、ちゃんと帰ってこれてたんだな……)


 千風の中の気がかりが一つ、小さな破砕音と共に砕け散る。


「嘘よ! 今日からは面会オッケーだって聞いたんだから!」


 誰にだよ。と、思わず突っ込みたくなったが、恐らくは佐藤が流したのだろう。

 勢いよくドアが開かれる。病院全体が揺るぎかねないほどの強さだった。


 千風の姿をとらえた途端、少女――飛鳥の瞳からは大粒の涙があふれ出した。

 勢いのまま飛びついてくる飛鳥。

 ドアの前では何度も何度も看護婦がお辞儀を繰り返していた。


 千風は目だけで下がってよいと伝えると、必死に抱きつき離れようとしない少女を見下ろした。

 千風の胸に顔を埋め、涙を見せないようにしているのか、飛鳥の後ろ髪が尻尾のように揺れるのが、妙に面白い。


「やっと見つけたっ……! ずっと心配してた、ずっと不安だった! もしかしたらあんたが本当に死んじゃったんじゃないかって何度も思った。でも、それでも……私はどうしても信じられなかった。あんたが死んだなんて思いたくなかったっ! だから、ううぅ――うわあああん!」


 幼子のように泣きじゃくり、肩を震わせる飛鳥を千風はただただ見つめ、優しく自分の身から引き離した。

 涙と鼻水にまみれながらもなお、可愛らしい飛鳥の顔を千風は覗き込むと、


「えっと……以前にどこかで会いましたっけ? すいません心当たりがなくて……」


 たははと笑いながら千風は頭を掻いた。


「……っ!?」


 わかりやすく飛鳥の顔が歪む。あ、あ、と押し殺すような嗚咽を漏らしながら、彼女はただただ泣き続けた。


「ほ、ほんとになにも覚えてないの?」


 千風の身体をゆさゆさと揺する。飛鳥の顔には戦慄と迫真さが張りつけられていた。

 千風はカックンカックン首を上下にさせられながらも、飛鳥とは対照的に楽しそうだった。彼の中では、小さな子供とじゃれているのと、変わらないのかもしれない。


「残念ですか()は何も……。ここ一ヶ月ほどの記憶がなくて」


 その言葉を聞いて飛鳥は言葉を失った。


「でも大丈夫ですよ! 看護婦さんからだいたいの話は聞きました。皆さんが僕を助けてくれたんですよね? そのことには大変感謝しております。どうもありがとうございます」


 深々と千風は頭を下げた。若干、彼の肩が震えているような気もしたが……。


「あっ、あ……」

「ですが()()さん、ここで縁が切れたと思いましょう。僕たちの間には初めから何もなかった。ただ、それだけです。ずーっと交わることのない平行線を、僕らは今日まで歩み続けてきた。だから……飛鳥さんが悲しむ必要なんてまったくないんです。僕のことなんてさっさと忘れちゃってください! そして幸せに生きてください。幸せになれない人生なんて嘘でしょう? あなたのような可愛い女の子に、泣き顔なんて似合わない。だから、ほら! ね……?」


 指先で飛鳥のまぶたを伝う雫をすくう。

 わずかの間、二人の空間を静寂が訪れた。

 飛鳥がベッドのシーツをつかむ。くしゃりとひしゃげたシーツに一つ、また一つと飛鳥の涙が落ちた。


「私のせいだ……。私のせいだ、私のせいだ! 私が命乞いをしたから! 生きる資格も覚悟もない私が、醜く生にしがみつこうとしたから――っ! だから千風は死にかけて、一か月も絶対安静になって……記憶まで失っちゃった。私が千風の人生を狂わせた。私が千風の人生を――」


 思いつめた顔で泣きじゃくる。飛鳥の声が引き裂かれんばかりの悲痛に染まる。


「決して許されることじゃない。分かってる。あの日、生き残るのはどう考えても千風だったのに……それを私は。ねえ、思い出してよ千風っ! 無理を言ってるのは分かってる――でも、何でもするから! 私、何だってするよ? 千風のためなら何だってできる! 都合のいい女だと、思われても構わない。危ないやつだって、どこか頭のネジの飛んだ狂ったやつだって、そう鼻で笑われても気にしない! 私があなたにしたことは、それだけのことだから……」


 そう矢継ぎ早にまくし立てる飛鳥の息は、なおも途切れようとはしなかった。


「だから、縁を切るなんて冗談でも言わないでよ――っ! 千風には一生かけても返しきれないだけの恩がある。千風になら一生つき従ってもいい。お願い千風――私を側において……?」


 絞り出すような、何かにしがみつこうとする、か細く震える声音からは、飛鳥の必死さが痛いほどに伝わってきた。


「千風はあの日、すべてを失うはずだった――死を覚悟した情けない私に、生きる資格をくれた」


 彼女にとって千風は命の恩人だ。これは変わることのない、紛れもない事実。



 しかしそれをうだうだと言うつもりは千風には毛頭ない。勝手に体が動き、結果としてそうなった。千風にとってはそれだけのことであり、飛鳥が気に病む必要性はまったく感じられなかった。


 だからといって、飛鳥が千風をないがしろにできないのもまた事実。記憶をなくした千風を、はいそうですかと、簡単に切り捨てられるわけがない。ましてやその発端が彼女自身なのだから。

 そんなことができるなら、きっとそれは悪魔に違いない。人の皮をかぶった化け物のすることだ。人間のすることではない。

 義務感だとか、罪悪感、責任感などといったものはもちろんある。

 ないはずがない。自分に対する罪の意識も、それを償わなければならないという気持ちだってある。だが、飛鳥の胸のうちの大半を占めていたのは――記憶を失い、虚ろな目でこちらに微笑みかける千風を守りたいという純粋な感情の芽生えだった。


「そ、そんな……いくらなんでも悪いですよ。僕が助けたのはきっと、ただの気まぐれで、なんとなく助けたいと思ったからで……そんな気まぐれにあなたまでつき合うことはない。でしょう?」

「なら私も! 千風が私にしたように――私だって千風を助けたい! あなたの力になりたいと本気で思っているの……」


 ギシッ。

 ベッドが軋む。小柄な彼女でも、そこには確かに生きているという証拠があって……気づけば飛鳥がベッドに乗りかかり、千風へとにじり寄っていた。




 吐息が聞こえる。飛鳥の可愛らしい吐息が。目と鼻の先に彼女の顔が迫り――


「私、なんだってするよ? 千風のためなら――」


 そういった飛鳥からは今までの彼女には感じられなかった艶っぽさを感じる。つややかな赤髪を後ろに結わえた飛鳥の首筋はあまりにも細く、華奢で雪のように白かった。

 くりくりとした大きな瞳には意志が宿り、気を抜いてしまえば危うく吸い込まれそうな魅力に満ちている。

 上気した首筋にはしっとりと汗がにじみ、よりいっそう飛鳥の魅力を跳ね上げた。

 重力により垂れ下がった制服の隙間からは彼女の胸元がのぞく。純白のベールに包まれた貧相だが完成された造形美。小さな双丘にはとてつもない魔力が秘められていた。



 口紅などしていないはずなのに飛鳥の唇はぷっくらとして、凄艶さに満ちていた。


「千風……」


 飛鳥の指先が千風の頬に触れる。熱が伝わる――可憐な少女を介して、指先から。

 耳元で囁かれたその声はひどく繊細で、凍ったバラのように儚く砕けた。

 千風の脳が犯される。されど、それに不快はなく、心地よいとさえ感じてしまった。



 千風はそっと飛鳥を抱き寄せる。耳元に口を滑り込ませると、


()()、本気で言ってるのか?」


 まるで気づけと、そういわんばかりの口調だ。


「あっ……うん、千風になら私――」


 言いながら、飛鳥は頬を赤らめ、うろんな瞳を千風に向けた。


「そうか」


 飛鳥と一度顔を見合わせる。彼女の顔が急激に朱に染まる。そして千風は彼女に応えるようにゆっくりと抱き寄せた。


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