第24話 聖戦の果て、夜明けとともに
暗い。ただ単に暗いだけの無がそこには広がっていた。
音も匂いも、光さえも届かない空間にただ一人、漆黒の波にのまれながら漂う少年がいた。
たった一人で聖戦を繰り広げた少年の名は、如月千風。クラーケンとの死闘の果て、彼はついに憎きバケモノを打ち滅ぼした。
千風が魔法で作り上げる世界にどこか酷似したその世界は彼にやすらぎのような心地よさを与えた。
ゆらり、ゆらりと、波にもまれ、彼はただひたすらに孤独な世界をさまよう。
右眼は開かない。おそらく瞳の力を使った代償だろう。右腕は肩口からバッサリと消し飛んだ。力の足らない愚かな人間が【迅雷鬼】を使った報いだ。消し飛んだ腕がふよふよと無の世界をさまよう。
左腕はくっついているものの、粉々に砕けてもはや使い物にはならない。α、β神経回路の崩壊に伴い、バイナリズム不全をきたした。
もはや彼を構成している分子レベルの要素要素がギリギリのところで奇跡的に繋がっている状態だった。いつそのつながりが綻び、千風という存在が崩壊してもおかしくはない。
呼吸は浅い。ひどく浅い。生きているのが不思議なくらいだ。
ここは、【切り離された残片世界】。数多の世界が点在する、現実と対を成す――裏の世界。
聖戦の勝者はただ一人、世界を壊し自らもここで朽ち果てようとしていた。
このままでは別の災害迷宮に取り込まれてしまう。そうはわかっているものの、千風の身体はどうにも融通が利かなかった。
全身が自分の意志ではピクリとも動かないのだ。
「……よ、な?」
どうしようかな? そう言ったつもりが、音が声として空気を振動させることはなかった。
コツコツ……。音の概念が存在するはずのない世界でその音は確かに世界を揺るがした。
軍靴が世界に光を照らし始める。千風の耳にもやがて届き、彼はまだ辛うじて開く左目でその存在をとらえることに成功した。
千風はその存在に目を見開く。実際には見開けるほどの機能はもはや損なわれているため、感覚的にといった感じだが……。
【切り離された残片世界】にいる大体の生命体は化け物か悪魔の類だ。千風もそれを知っていたため、目の前に人間が現れたことには驚きを隠せなかった。
「――ッ!」
「あら? 随分とズタボロじゃない? まさかあの程度の化け物に後れをとった――なんて言わないわよね?」
あはっ。と女は楽しそうに笑う。
その女は千風のクラスの担任、佐藤だった。
忌々し気に睨みつける千風の傍らに座り込むと、何やら自分の懐辺りをごそごそと物色し始めた。
しばらくして佐藤が取り出したのは、紫色の液体の入った小さな試験管だった。すっと佐藤の指先が千風の胸を撫でる。
「あなた、神経回路諸々がズタズタじゃない? どんな戦いをしたらこうなるのかしら?」
「う……せ、ろ」
「ふふ、面接のときの威勢はどうしたのかしら? ……もっとも、その状態でそんな芸当ができるのなら、私はあなたを人間とは認めず今すぐにでも殺しにかかるのだけれど」
人間的には今の状況でくたばっているのは正解よと、佐藤は楽しそうに笑った。
言って、試験管の栓を抜く。抜いたそばから、紫の液体がジュッと……まるで肉が焼け焦げた音を立てて、気化して行く。千風には明らかに人体に悪影響を及ぼす劇薬にしか見えなかった。
「今日はあなたに話があってここに来たの。とりあえずコレを飲みなさい」
それをあろうことか、佐藤は千風の口元に添え一気に流し込んできた。
「~~っ!」
声にならない痛みが全身を這いずり回る。
ドクンッ。全身が拒絶を示し跳ね上がる。内側から張り裂けそうなほどの強烈な痛み。ドロドロとした液体に対して千風の身体は弾けるように暴れだした。
謎の液体が全身へと染み渡り、千風のすべてを犯し始めた。
脳が、骨が、神経の髄に至るまで――千風のありとあらゆる器官がドロドロ、ドロドロと溶ける感覚に陥った。
「いい声ね」
黒装束を身にまとった佐藤は全身をねじるようにそう一言だけ言って笑う。
「はあ、はあ……」
指先一つ動かすことさえままならなかった千風は、気づけば自分の足で大地を踏みしめていた。
「合格ね、如月千風クン?」
「どういうことだ?」
相変わらず右腕はないし、左腕は粉々なままだ。だが、不思議なことに自然と呼吸ができ、声を出すことができた。
「すごいでしょコレ? ビーナス製薬が新たに開発したク・ス・リ。どう? 気持ちよかった?」
空になった試験管を揺らしながら訊いてくる。答えなど千風の反応を見ていたのなら分かるはずなのに。佐藤はからかっているのだ。
気持ちいいわけがなかった。むしろ全身を襲ったのは不快感だけでしかない。身体の中をかき回される感覚など今まで一度も味わったことがない。
「なんだよその薬は? 俺を薬漬けにでもするつもりか?」
「ふふ……」
笑うだけで何も話そうとはしない。
「本当に知りたい? 世の中には知らない方が幸せなこともあるわよ?」
つまり佐藤が言いたいのは、薬についての言及を取り消せと、お前が割って入っていい話の類ではないと、そういうことだ。
だからといって千風が知らなくていい理由にはならない。
「いいから話せよ? 俺に話があってあんたはここに来たんだろ?」
千風は佐藤が言っていたことを思い出す。彼はこちらも話してやるから薬について話を聞かせろと、交渉材料としてカードを切った。
「……驚いた。相変わらず頭の回転は早いのね。いいわ、教えてあげましょう。けれど後悔はしないことね。ビーナスの人間は‟天使の媚薬”そう呼んでいたわ。成分はそうね……精通して間もない男のコの○液と初潮がまだの幼女の生き血、だったかしら? それを混ぜて合わせて、練り上げて……特殊な液体と合成したものと聞いたわ」
それを聞いて千風は両手で口元を押さえた。そうしないと胃の中のものが逆流して吐き出してしまいそうだったから。だがそれを千風はしない。
吐き気がする。‟天使の媚薬”を口にしたからではない。まだ年端もいかぬ少年少女を弄ぶ腐った大人どもと、それを飲むことでしか生きることができない、不甲斐なさの塊である己に対してだった。
どうしようもない怒りが全身からこみ上げてくる。
「一体お前らは何をやっている? この国で何をするつもりだ?」
それに対する佐藤の返答は淡泊なものだった。
「知らないわよ私はビーナスの人間ではないし。それに、今の時代どこでも似たようなことは行われている。違うかしら?」
佐藤の言ったことも事実だ。あまりにも世界は理不尽であふれかえっている。表に出てこないだけだ。この世界の闇はあまりにも深い。
千風もそうだった。ただ、彼の場合は自ら進んであらゆる実験に加担した。
だが今回犠牲となった少年少女はどうだろう? きっとどこかの孤児院の子たちで、金目的で売り飛ばされた先に人体実験が待ち構えているのだ。
「でも、そのおかげであなたは生き延びることができた。違うかしら? 未来ある少年少女の命を喰って……死ぬはずだったあなたは生きた」
もちろん理解している。応急処置に変わりはないが、それでも千風は幼い子供たちの命を犠牲に生き延びたのだ。
確かに佐藤の言い分は正しい。さっきまで死にかけていた人間とは思えないほど千風は快復していた。新しく右腕が生えてくるわけではないが、それでも空間を漂っている腕を持って帰れば、元通りにくっつけることは可能だろう。
柏手を鳴らす佐藤。【切り離された残片世界】内を小さく木霊した。
振り返る佐藤の口元には最上級の笑みが張りついていた。
「それじゃあ、話を戻しましょうか如月千風クン? いいえ、元【十二神将】――【磨羯】と呼ばれた【風の王】と言ったほうが正しいかしら?」
佐藤の瞳が見開かれる。千風を射抜くその瞳はすべてを見通す神の目だ。
千風は咄嗟に反応していた。正体がバレたのだ。ここでコイツを生かしておく理由は万一にも、ない!
「あは! 流石は【十二神将】といったところかしら? 恐ろしく速いわね……まだ快復したといっても人並みに動ける程度のはずでしょ?」
笑いながら千風の拳打をかいくぐる佐藤。そのままバックステップで間合いを取り――
だがそれに追従するように千風は畳みかける。拳打からの鋭い蹴り。立て続けにナイフを放ち、慣性を利用してそのまま跳ね上がる。
佐藤の背後に回り、首をへし折るはずが、その猛攻すべてに佐藤は涼しい顔をしたまま、しのぎ切って見せた。
「悪いけど、今のあなたじゃ私は殺せないわよ?」
その言葉を無視して千風は拳打を叩き込む。
だが、やはりそれらはすべて無力化されてしまい、最後に放った上段蹴りは足を掴まれてしまった。
「くそが!」
振りほどこうにもがっちりと掴まれているのか、びくともしない。
そのまま、軸足を佐藤に掬われてしまう。身体が180度回転し天地が反転した。驚くべき早業に脳の処理速度が追いつかない。
倒れた千風は組み伏せられ、身動きが取れなくなってしまった。
「うぐ……」
「残念ね。右腕がなく、魔法も使えないあなたに殺されるほど私もやわじゃないわ」
首筋にナイフを突きつけられる。千風は仕方なく緩やかに力を抜いていった。
「ふふ、素直な子――私は好きよ?」
そう言って満足気に佐藤は千風の上からどいた。
その瞬間、彼は再び佐藤に蹴りを叩き込む――が吹き飛んでいたのは千風の方だった。
腹部に掌底が突き刺さる。鋭い痛みと共に胃の中のものを吐しゃ物として吐き出した。
壁に激突し、意識の朦朧とした千風にコツコツと軍靴が近づく。
前屈みに膝に手を添え、まるで子供をあやすようにニッコリとほほ笑んだ。
「油断するとでも思った? でもそれは少しナンセンスじゃないから? 常に気を配っていられる人間じゃないとあっさり死んでしまう、そういう世界でしょここは? あなたもよく理解しているはず。それに相手が【十二神将】だと知って近づいているのよ? 油断するバカがどこにいるのかしら?」
それもその通りだ。冷静さを欠いていたのは千風の方だった。彼は大人しく話を聞くことにする。
「それで話ってのは何だよ? わざわざこんなところに来てまで話をするような重要な話なのかよ?」
静まり返る世界。
一呼吸おいて佐藤が口を割った。
「一か月。それだけあればあなたは魔法を使えるようになるのかしら?」
一瞬佐藤がなにを言っているのか理解できなかった。話の前後がまったく噛み合っていない。
「はあ?」
「いいから答えなさい。あなたはバイナリズム不全をきたしている。魔法が使えなくなっているのはわかっているわ」
「だとしてもだ。わざわざ敵かもしれない相手に自分の弱点を話す馬鹿がどこにいる?」
千風の予想では八割ほどの確率で佐藤は黒だ。へらへら笑った態度と言い、まるで信用ならない。
「そう……なら私があなたの敵じゃないと証明できればいいのかしら?」
あくまで余裕の表情で千風に問いかける。
「お前にこの状況で切れるカードがあるとでも?」
「ええ。どうせこのままではいつまでも前には進めなさそうだし、時間も迫っている。こう言えば分かるかしら?」
そう言って佐藤はこの場で最も有効な最強のカードを切ってみせた。
「私はC.I所属、第二殲滅部隊隊長――この度は大総統閣下時枝玄翠勅命の下、とある人物監視を任された。如月千風、私はあなたの‟協力者”よ」
道化に突きつけられた道化のカード。それは紛れもない有無を言わせぬ効力を秘めていた。
世界が動き始める。そんな歯車の軋むような音が聞こえたような気がした。




