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一騎当千の災害殺し  作者: 紅十字
第一章 始まりと終わりの道化
23/64

第23話 小さな世界の大きな聖戦

 コツコツ……。 

 誰もいないはずなのに、闇夜に紛れ一際大きな靴音が聞こえた。

 誠の目の前に影のようにすーっと現れたのは、彼らの担任の佐藤だった。


 彼女は不敵に笑う。まるでこの状況を遠く離れた場所から傍観していたと言わんばかりに不気味な笑みを浮かべて。


「あら? 辻ヶ谷くんじゃない! どうしたのかしら?」

「佐藤先生、ですか?」


 霞みかけていた視界に突如として現れた存在。あまりにも予想外の来訪者に目を見開きながらも、これを好機と見た誠。

 佐藤はまがりなりにも、名桜学園で教師をしている。名桜学園の教師は最前線で戦ってきた優秀な魔法師が多いと聞く。その魔法師としての腕は誠や飛鳥たちとは比べ物にならないのは言うまでもなかった。ひょっとしたら先生なら千風を救うことができるんじゃないか? そんな淡い希望を抱きながら……


 どうしてここに? そう言おうとして足がもつれてしまい、バランスを崩す。

 倒れかけた誠の身体を佐藤は一瞬にして近づき、抱きかかえた。


「君たちを救いに、かな?」

「せ、ん……千風、がっ!」


 伝えようとするも声がかすれて音として伝わることはなかった。


「無理は禁物よ? だいぶ深くやられたみたいね? でもよく戻ってきたわね……これを飲みなさい」


 佐藤が懐から取り出した試験管を誠の口元に優しく添えた。人が飲んでいい色とはとうてい思えない緑色の液体がすーっと誠の体内へと吸収されていく。まるで薬の方から誠の身体へと自発的に吸い込まれていくような不思議な感覚だった。

 なぜだか驚くほど体に染み渡った薬のおかげだろう。ぼやけていた視界は見る見るうちに回復していった。


 五分ほど経過しただろうか? 佐藤の服用させた薬のおかげで心の落ち着きを取り戻した誠はこれまでの状況を事細かに説明した。


「そう……そんなことがあったのね。つまり、一年生は千風くん以外は無事なわけね?」


 佐藤は誠たちに起きた状況を頭の中で整理したうえで誠に問いかけた。


「はい、みんな満身創痍ですが……何とか生き延びることはできました。でも千風が、千風は俺たちのことを守って犠牲になって……」


 必死に訴える。これしかないのだ。誠に残された千風を救う方法は、これしか……。今の彼には自分よりも強い人間に鼻水を垂らしながらでもすがることしかできなかった。

 ひどく惨めで醜悪で。きっと、はたから見た彼は豚に成り下がったも同然だろう。

 それでも懇願しなければならない。豚になろうが、虫けらになろうが、どんなに罵られようとも引き下がるつもりはなかった。ここで諦めてしまえば全てが終わる。そんな気がしてならなかった。


 佐藤は顎に指先を添えながら思案気に顔を俯かせた。


「そうね……天王寺くんが瀕死になったていうのもおかしな話よね~。彼は名桜(うち)の二番手。その彼が為す術もなく瀕死にまで追い込まれたとなると、それはもう幻獣型(アビス)でも相当高位なレベルになるのだけれど……」


「――っ!?」


 佐藤がさらっと言った一言が誠を戦慄させた。

 名桜学園の副会長が瀕死……? にわかには信じられなかった。

 名桜学園は魔法師を育てる教育機関では国内に三つある、どの教育施設にも負けない実績を誇る。言うなれば未来の魔法師のトップが集まる場所だ。


 佐藤が口にしたことが本当なのであれば、今回誠たちが相対したカラミティアは将来【十二神将】になることが期待されている人間を(くだ)したことになる。

【十二神将】は国の英雄であり、最後の希望だ。そうやすやすと崩されるものではない。【十二神将】の死亡はこの国の滅亡に直結するといっても過言ではない。


「……天王寺さんが瀕死?」


 ガクガクと膝を嗤わせる誠とは対照的に、佐藤は何が楽しいのか、満面の笑みで語りだした。


「そうよ! 全くだらしないことね。こんなんじゃ、名桜の名も墜ちたものね。最近は梅花(ばいか)にも優秀な人材が流れてるっていう噂も耳にするし……」


 佐藤が口にした梅花とは、名桜に並ぶ魔法師を教育する学校のことだ。

 東京の名桜、大阪の梅花。そして名古屋の藤宮。これからの日本を担う三大勢力ともいえる教育機関。


「ち、ちょっと待ってください! 天王寺さんがって……それじゃあ――っ!」


 千風は!? 千風はどうなるんです? そうでかかった言葉を無理矢理抑え込む。


 (副会長がやられたからって、千風が死んだわけじゃない! 信じるって決めたじゃないか! 救うって……救ってやるって約束したじゃないかッ!)


 誠にできることなど限られている。それでも諦めないことを誓った。千風の隣に立つと、決めたのだから。


「お願いします佐藤先生! どうか、どうか千風を救ってください! アイツを救ってくれるなら俺はどんなことだってします」


 誠の願いが届いたのか、佐藤は彼に対して慈愛の微笑みを向けた。

 彼の左手を優しく包み込むと――



 ゴキッ。


 一瞬、その音が自分の小指からなっている音だとは理解できなかった。光に遅れて音が届くように――さーっと血の気の引いた誠の小指から鈍い音が脳内へと伝播した。数瞬後、骨を寸断したような鋭い痛みが身体中を駆け巡り、彼は喉から血が噴き出すのを構わず悲鳴を上げた。


「あっ、ぐあああああああああああぁぁぁぁぁぁ――っ!?」


 あまりの痛さに脳の処理が追いつかず、現状を把握できていないにも関わらず、無慈悲にも声が語りかけてくる。

 誠に反応できるだけの余裕はない。


「あはっ! 痛い? 痛い? ねぇ、痛いでしょ!」


 愉快に笑う笑い声さえもが誠には痛みとして耳を引き裂いた。

 のたうち回る誠に佐藤は耳元で小さく囁いた。脳もとろけそうなほど甘美な声で――


「もう片方の小指、自分でお・り・な・さ・い♪」


 血走った瞳で睨みつけた先には、人の皮をかぶった悪魔がいた。自分が悪いことなどしていないと、純粋な少年のような瞳で誠を見つめていた。どうやら本気らしい。

 紡がれる言葉はひどく冷徹で、無機質気質の有無を言わせぬ――中世ヨーロッパの処刑人そのものだった。


「私を死地に送り込もうとしているのよ、あなたは。それくらいの代償は支払って当然よね?」


 覚悟を見せろと、佐藤の瞳が誠の瞳を真っ直ぐに捉えていた。……試している。誠は試されているのだ。

 佐藤の言い分は最もだ。正論過ぎて返す言葉もない。それを分かっているからこそ、誠はふーふーっと荒い息を吐きながら必死に痛みを抑え、覚悟を決めた。

 立つことを拒否した足腰を無理矢理鼓舞させ、佐藤に目線を合わせる。深呼吸で心拍を整え、誠は静かに目を閉じた。



 ゴキンッ。


 今度はより確かに骨が寸断される痛みが全身を襲った。あまりの激痛に神経がスパークしかけ意識が消し飛びそうになる。だがそれを意地で押さえつけ跳ね除け支配した。


 佐藤の表情は奇妙なものだった。興奮に頬を上気させ、快感に酔いしれるほど痺れた表情だった。

 狂っている。目の前の教師はどこかネジがぶっ飛んでいるのだ。


 目からとめどなく流れる涙で視界を汚しながら、誠は戦慄した。

 人が痛がる姿を見て楽しんでいる。それもあらかじめ痛みを覚えさせたうえで自傷行為を要求してきたのだ。とてもじゃないが、正気の沙汰には思えなかった。普通のまともな人間、ましてや教師がすることではない。

 誠の目の前にいるのは明らかに人間ではない別のナニカだった。

 狩られる側の人間として怯えきった誠の耳元に佐藤がそっと囁きかける。


「ふふ、合格よ。一応覚悟はできているみたいね。そんなにおびえないでちょうだい? そんな顔されると間違えて殺しちゃうかも?」


 もはや誠には全く冗談には聞こえなかった。


「あら? 聞こえていないかしら? もう、壊れちゃった?」


 誠の茶髪を掴み上げ左右に揺するも、彼が反応することはなかった。

 ただぐったりと四肢を投げ出し、泡をふいて気絶していた。

 それをつまらなさそうに見つめると、興味を失ったのか佐藤は誠を投げ捨て服装を整えた。


 佐藤が闇夜に合図を送る。すると、どこからともなく彼女の部下が現れ、ひざまずいた。


「話は聞いていたわね? そこに転がっている坊やと私のかわいい生徒たちを保護してちょうだい」


 黒服の男たちは無言でうなずくと、何事もなく闇夜に霧散した。

 静寂に包まれたビルにただ一人残された佐藤のもとへ月光が降り注ぐ。自然のスポットライトを照射された彼女は、まるで舞台に降り立つ演者のようで。


「あははははははは! 面白くなってきたじゃない!?」


 さながらオペラ歌手のようにセリフめいた言葉を吐き捨て、佐藤は【切り離された残片世界(レムナント)】へとその姿をくらませた。


 ***


【迅雷鬼】の恩恵で一時的に魔力量が増幅した千風は身体加速の魔法で一瞬にしてクラーケンとの間合いをゼロにした。


 クラーケンへと肉薄し、急停止。目にもとまらぬ速さで雷の柱と共に垂直に跳ね上がる。

 クラーケンの頭上を取り、空間へと躍り出た千風の唇が鬼の名を叫んだ!


「応えろ【迅雷鬼】! ここであのクソッたれなイカ野郎を葬り去る――!」


 折れて使い物にならないぼろ雑巾のような左手に握りこぶしをぶち当て、手のひらから刀剣を引き抜く態勢をとった。瞳を閉じ、限りなく理想の姿形へと顕現させるため、イメージを増幅させる。


【迅雷鬼】はその性質上、イメージの質で形状を自由自在に操れる。裏を返せばイメージですべてが決まってしまう非常に扱いにくい【憑依兵装】だった。


 それでも、この場で唯一頼れるのは己の存在と共に生きのびてきた【迅雷鬼】だった。

 ただ、魔力が増幅したとはいえ、バイナリズム不全をきたした千風の精神状態は恐ろしいほどに不安定だった。今の彼は【迅雷鬼】の魔力を借りてなお、本来の力を引き出すには至らない。


「うおおおおおぉぉぉぉ――!」


 ズズッ、ズズズ……と鋭い痛みとともに刀の柄が現れた。


 それを掴み、勢いよく振り抜いた。今の千風にしては十分すぎる出来だった。

 刹那、千風の眼前に雷が堕ちた。

 空間を引き裂く轟くような雷鳴とともに、一振りの刀が顕現する。

 その蒼雷を纏う刀――【迅雷鬼】が千風の脳内へと直接語りかける。


『サア、始めようカ?』


 聖なる力が刀身に宿る。刀身を走る蒼光。雷鳴が轟く。迅雷が空間を縦横無尽に駆け巡る。


「ああ、迅雷鬼! あのクソイカ野郎を喰い散らかせ――ッ!」


 そう叫んで、千風は蒼海のごとき刀身――【迅雷鬼】を振り抜いた。

 神雷が堕ちる。神の代行ともいえる神聖な光が。


 が、千風の顔に浮かんだ表情は化け物を消したことに対する安堵ではなく、想像を絶する戦慄と苦渋の滲みだった。信じられない光景に千風の声が震える。

 目の前の光景は驚愕に値するものだった。

 千風が刀と共に振り下ろした神雷は確かに空間を薙いだ。宙を焦がし化け物に届くはずだった。そう、確信していた――

 だが、その自信に裏づけされた根拠のない傲慢が仇となる。

 千風の瞳孔は限界まで見開かれる。


「クソ――ッ!」


 クラーケンは驚くことに自らの身体に穴を開けたのだ。穴を開け【迅雷鬼】の雷を避けてしまった。

 千風の放った神雷は空間を薙ぎ、宙を焦がせど化け物を貫くことだけは叶わなかった。

 完全にやられた。まさか限界まで凝縮して破壊力を一点に集めた雷速の刀剣が避けられるなど思いもよらなかった。


 石畳がささくれ立ち粉塵を巻き上げる中、悠然とクラーケンは健在していた。


 (選択を誤ったか? 多少は威力が劣るが広範囲に轟く柱を落とすべきだったか?)


 ただ、千風にはある不安要素がどうしてもぬぐい切れなかった。それは、万が一にもカラミティアの心臓部ともいえる災害因子核(カラミティアルコア)が消しきれなかった場合だ。カラミティアは災害因子核を破壊しない限り、絶命することはない。破壊できなければすぐにでも再生が始まる。目の前の化け物は特に再生能力が高い。それは千風も十分に理解していた。


 だからこそ千風がイメージして顕現させた【迅雷鬼】は一撃で決められる――一点突破型の高純度光エネルギー体にしたかった。

 結果、それが裏目にでたわけだが……。


 自由落下を始めた体に化け物の無数の触手が襲い掛かる。

 空中で満足のいく動きが取れるはずもなく、徐々に徐々に傷が増えていく。


 ブシュッ。ブシュッ……。


 千風の身体に次々と赤い線が刻まれていく。そのたびに彼の動きはますます鈍くなり、拍車をかけるように加速度的に赤に染まる千風。頬を切り、脛が削られ、腿が抉られる。サンドバックのように一方的に(なぶ)られ続け、着地をする頃にはもはや目も当てられない醜悪な姿になり果てていた。


「っぐ、はあ、はあ……。これは本気で、や、ばい――!」


 血塊を吐き、それでも動くことをやめなかった。醜く、あの手この手と使い、何とか回避を続け態勢を整える。

 幸い、【迅雷鬼】を使ったものの、右腕が消し飛ぶことはなかった。まだチャンスは残されている。そう自分に言い聞かせ、失いかけていた戦意と共に自らの身体に喝をいれた。


 (気張れよ! クソ野郎が! ここはテメェーの死に場所じゃねえだろうが!)


 胸の内で静かに叫ぶ。もはや彼には叫ぶ気力さえ残されてはいなかった。

 時間をかければかけるほど千風が不利になるのは自明だった。しかし、そんな彼をあざ笑うかのように、なかなか好機が訪れない。

 瀕死になりながらも、じっと‟その時”がくるのを待つ。ひたすらに回避行動に専念する。


 ‟その時”がくるまで決して行動に移すつもりはなかった。焦って勝機を見逃すようであれば、それこそド三流の魔法師がすることだ。元【十二神将】としてそんなミスは許されない。

 今動いて死ぬことになるのなら、足が飛ぼうが指先が千切れようが……半身が消し飛ぶことになろうが千風は何の躊躇いもなく後者を選ぶだろう。



 目の前の苦行から逃れようと死ぬような真似だけは絶対にしない。


 それは、十年前に千風自身が決めた――圧倒的な力を身につけて大切な者を守り抜くと――自分自身と交わした約束だった。

 死なないために死ぬほど努力してきた少年期。それを無為にできるほど千風は愚かではない。誰も救えずして死ぬことなど、彼には赦されなかった。

 まるで呪いだ。あの日、最高峰の魔法師とまで云われた人の命を奪ってまで生き延びた自分への戒め。自らへ科した罪という名の呪い。それが彼を奮い立たせ、遠のきかけていた意識をギリギリのところで覚醒させた。


 (俺は死ぬわけにはいかない! クソジジイと約束した。あの人とも誓いを立てた。死んでたまるか! テメェーのケツくらいテメェーで拭いてみせる!)


 クラーケンの触手が瞼を掠める。ぱっくりと割れ、鮮血が視界を染め上げた。


「――っそがあああ!」


 獅子のごとく吠え、右手で同時に二つの魔導器を起動させる。


 バイナリズム不全だとか、身体の不調だとかは一切考慮しない。ここですべてをぶつけない限り、目の前の幻獣は殺せないのだから。


「死なないために生きると! 大切な人を死なせないために生きると決めたあの日から――! 俺は人間であることを放棄したはずだ! 応えろ迅雷鬼ィッ――! ここだ。ここで今一度……お前の力を俺によこせぇぇ!」


 迫真に迫る。まさに怒号。応える【迅雷鬼】は心底楽しそうに笑っている。


『カカッいいぜ相棒! オレサマとオマエサンでこのバカでかいイカ野郎をブッ飛ばしてやろうゼ!』


「ああ、今度こそくれてやるよ――俺の右腕! うおおおおお――! あのクソッタレを喰い散らかせ迅雷鬼ッ――」


 千風は再びイメージを増幅させる。今度は広範囲殲滅型のものだ。失敗は許されない。

 左腕の中に敵を引き裂く神槍を幻視した。かっと目を見開く。

 右の拳をぶち当て、一気に引き抜いた。

 何もないはずの空間に雷を纏った槍が形成される。引き抜いた鬼が、千風を喰らわんと紫電を迸らせた。


「ぐあああああああああああ――!?」


 声が枯れてなお轟く絶叫。紫電を纏った千風の髪がバチバチと逆立ち始めた。


「さア、始マリだ――物語ノ終ワリを始メヨウ……』


 千風の瞳から光が消失し、代わりに十字架を掲げた紅が瞳に宿る。

【迅雷鬼】と融合した千風は不敵な笑みを浮かべ、バケモノの視界から一瞬にして弾けた。


「ギャギャギャギャギャ――アア!?」


 醜い奇声を上げながら千風を探す。その遥か先の頭上に千風は雷速で瞬く間に移動した。

 彼は空中に浮遊すると、槍へと形状変換した【迅雷鬼】を思いっ切り――力の限り投擲した。



 閃光が堕ちる。柱となった広範囲に降り注ぐ落雷が雷鳴を轟かせた。


 その反動で彼は吹き飛び、今度こそ右腕が消し飛んだ。もはや痛みなど感じなかった。あまりの痛みで痛覚さえもが消し飛んだみたいだ。


 肩口からバッサリと消え去った傷口をすぐさま焼き止血を施す。

 だが、まだ終わってはいない。まだクラーケンは殺しきれていないのだ。それが気配で分かってしまう。

 彼の予想通り、広範囲型の【迅雷鬼】ではクラーケンの災害因子核を破壊するには至らなかった。

【迅雷鬼】を手放し、意識の戻った千風は深く嘆息を漏らしたが、焦っている様子はうかがえなかった。


「……たく、これだけやっておいてまだ死なないのかよ」


 文句を言いながらもクラーケンへと近づいていく。粉塵が消えクリアになった視線の先には――クラーケンを象徴する無数の触手は消え去り、惨たらしい姿となった化け物がいた。

 触手が消えたことで露になった口内にはキラキラと光るものが垣間見えた。災害因子核――クラーケンの本体そのものだ。いわば化け物の巨大すぎる体躯は器に過ぎず、器を壊したところでカラミティアが死に絶えることはない。

 だからこそ、すべてを終わらせるにはソレを破壊するしかなかった。再生も徐々に始まっている。一刻も早く片をつける必要があった。


 千風は視界の端をチラリと確認した。その空間に表示されているのは災害迷宮内に留まることの許されたタイムリミットだ。その数値が示す値は、残り3分10秒。


 つまり、残り3分でクラーケンを処理できなければ自動的に千風の敗北が決定する。タイムオーバーになれば、千風自身の細胞が自壊を始め、彼そのものがこの世――現実世界から消失してしまう。

 後ろには退けない。死に板挟みにされた千風は前に進むしかないのだ。


「チッ! 心底、嫌な仕事だよな……」


 千風は静かに第5、6の魔導器を現出させた。


「はは、こんなとこ見られたら蓮水のバカは怒り狂うだろうな」


 蓮水が千風の魔導器を見て驚いていたのを思い出す。千風は乾いた笑みを浮かべた。感覚のほとんど残っていない彼はうまく笑うことができず、その顔はひどく引きつっていた。

 千風もクラーケンもお互いが満身創痍。時間も刻一刻と彼の終わりへと近づいていた。


「お互いこんな身体(ナリ)だ。さっさと決着をつけさせてもらう――」


 千風の挑発にバケモノは奇声を上げた。

 その姿に数分前までの威圧感はなく、スピードもなんら恐れるに足らないものだった。

 近づいてくるクラーケンに千風は短節で魔法を二つ唱えた。


「《残響せよ、斬獲せよ――》・《――深紅の辛苦に身を染めよ》!」


 もちろん、この魔法でクラーケンを葬り去れるとは考えていない。ただ、牽制という意味ではこれほどまでに適した魔法を千風は知らない。時間稼ぎにはあまりにも十分すぎた。




 静寂に包まれた災害迷宮で、二つの生命体がぶつかり合う。切り離された残片世界、そのごく一部の一欠片。

 どこかの世界のどこかの戦争。普通の人間からすればとるに足らないはずの、いつもと変わらぬ日常の一風景。

 その裏側で彼はただ一人、圧倒的な災害を前に戦っていた。

 誰か大切な人を守るだとか、世界を救うためにとか……そんなご大層なものじゃない。ただ彼はこの瞬間、彼のためだけに生き延び、再び誓いを立てるために必死に戦っていた。



 三度(みたび)、【迅雷鬼】に語りかける。


「――【迅雷鬼】! もう一度お前の力を貸せ!! これで最後だ……左腕もくれてやる!」

『オイオイ正気かヨ? んナことしたら今度こそ間違いナク、オマエサンが消し飛ぶゼ?』

「構わん。瞳の力を使う」


 千風の一言に【迅雷鬼】が分かりやすく反応した。


『――イイノカ? しばらク魔法ガ使えなクなるゾ? モシカシタラ、永遠ニ……ナンテ可能性もアル』

「分かっている。だが、どのみち次で殺しきれなかったら間違いなく死ぬ。そうしたらお前もあのバケモノにムシャムシャ喰われるかもな!」


 冗談めかして皮肉をぶつける。


『ゲェッ!? ソイツハゴメンダ! よシ分かっタ、力を貸そウ。タダ、クレグレモ死ぬンじゃねエゾ?』


【迅雷鬼】にしては妙に可愛げがあった。千風は小さく微笑むと、


「分かってる」


 そう言って、右目に左手で触れた。

 千風の右瞳には凝視ししないと見えないほどうっすらと特殊な文様の魔法陣が描かれている。

 その存在を知るのは、C.Iでもごく一部の上層部だけだ。千風はこの十年、ひたすらに瞳の力を隠し続けてきた。

 その力は現代の魔法学ではいまだ解き明かされていない。それでも彼は彼なりにこの力と向き合ってきた。


 左手で触れ、瞳に語りかける。瞳から心臓へと魔力の波を流し込む。その量は異常だ。魔力量でいえば普段の千風の三倍はあるだろう。つまり、【十二神将】三人分の魔力が一挙に千風の体内へと蓄えられたのだ。



 心臓があふれ出す魔力を解放しようと激しく鼓動する。


「かはっ!?」


 口の端から血が漏れる。当然だ。今の千風が【十二神将】三人分の魔力を蓄えようものなら、彼の肉体(うつわ)が悲鳴を上げる。

 それでも笑い、折れた左腕を高らかに掲げ宣言した。


「――顕現せよ、【()()()】! かつての【神将の帝(エルトリア)】をここに再現せよッ!」


『カカッ……エルトリア、ネ? オマエサンにゃまだ早イが、今のオマエサンハキット世界で一番エルトリアに近いゼ!!』


【神雷鬼】はかつての戦友を懐かしむように嗤った。

 地面に千風の身長ほどもの長剣が顕現し、そこに神雷が堕ちた。神雷を纏った聖剣はかつての英雄が使っていたものに酷似していた。

 ただ、現段階で千風が引き出せる【神雷鬼】本来の力はここまでだった。

 瞳の力を使ってやっと引き出せるのがここまでなのだ。日本のトップに追いつくのはまだまだ先の話だ。


「クソジジイ、あんたの聖剣(神雷鬼)――使わせてもらうぞ!」


 千風が聖剣を静かに振り下ろした。




 たったそのひと振りが、空気を空間を、世界を薙いだ。

 音が割れる。銀閃が弧を描き、雷光を轟かせる。走る雷撃、空気を灼き――炎熱が爆発を呼び起こし、空間が爆ぜる。地鳴りにも等しい鳴動と共に大気が共鳴した。


 今の千風を止められるものはなく、間違いなく彼が最強だった。


「消し飛べッ――」


 小さくそう、呟いて。千風は災害迷宮ごとクラーケンを喰らいつくした。

 パリンッ。ガラスの破片となって世界が割れる。






 ――どこかの世界のどこかの戦争。その聖戦を終結させたのは他でもない、世界を壊した千風だった。


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