第22話 闇夜の葛藤
「なあ……飛鳥、もし仮にだ。もし仮に千風が生きているとしたらどうする?」
ふらふらとしながらも突如立ち上がった誠の一言に、飛鳥は珍妙な声を上げた。
「へっ!?」
まったく予想だにしなかった考えに一瞬だが思考が凍結する。
「誠? 一体なにを言ってるの?」
まだ信じられないといった様子だった。
それもそうだろう。彼らが相手をしていたのは幻獣型のカラミティアなのだ。一筋縄ではいかない敵だということはこの場の誰よりも飛鳥自身が知っているはずだった。
まるで歯が立たなかった。まるで相手にならなかった。影を追うことすら死に物狂いで続けていなければ、すぐにでも姿を見失ってしまう。体躯がでかいとかそういった次元の話ではない。体躯からは想像もできないほど高速で移動するのだ。
おそらく飛鳥がクラーケンのいる空間に留まれていたのはせいぜい五分といったところだろう。その五分でさえ飛鳥にとっては生死を別つギリギリの時間だった。
確かに千風は強い。強かった。それは認めざるをえない。あの場でしっかりと対応できていたのは悔しいが千風だけ。でも、それでもあのカラミティアは別次元の強さだ。人間が敵うどうのの話ではない。
触れるべきではなかった。近づくべきではなかったのだ。軽い気持ちで臨んでいい相手ではなかった。
自らの愚かしさと、不甲斐なさと、様々な感情が渦巻きながらも災害迷宮で起きた出来事の記憶を探っていると……。
「……千風の行動には何かと不自然な点が多かった。これはあくまで俺の推測だが、もし千風の行動が何らかの理由で俺たちの目を背けるものだとしたら?」
確信があるわけではなかったが、不思議と違和感もなく、そう推論することができた。胸の奥でつっかえていた何かがすーっと溶けていく感じがする。
これには沈黙していたイザベルも黙ってはいない。
「ちょっと待ってください! いくらなんでもそれは話が飛躍しすぎでは? 大体、彼にそれだけの力があるとは思えません」
誠の言っていることがイザベルには理解できない。呆れたと言わんばかりに彼女は頭を抱えてしまう。
「本気なのですか? この期に及んでまだ彼が生きているとでも?」
誠の言葉に対してイザベルはあくまで冷ややかな言葉をぶつけた。それは彼女なりの優しさでもあった。
イザベルだって当然千風が生きていることに越したことはない。数日前に出会ったばかりではあるものの、彼はイザベルにとってこの世で最も大切な人を救ってくれた命の恩人なのだ。その千風が生きているとなれば、喜ばないわけがない。
ただ、それはあまりにも可能性の低い――否、ゼロといっても過言ではない。誠の夢物語にすぎない。耳を傾けるにすら値しなかった。
現実を分析すれば、そんなことがあり得ないことだというのはすぐにでもわかる事実だった。
誠は恐らく友達を失ったショックから精神的に不安定な状態なのだろう。その精神的苦痛は計り知れないことだ。ただでさえ彼は千風が編入してくる前に親友を二人亡くしているのだから。
その事実もあいまってか、余計に錯乱しているようにイザベルには見えてしまった。
イザベルだって万が一、飛鳥を失うようなことになってしまえば、彼のように正気を保っていられる自信などない。目の前の絶望的な状況からは目を背け、心地の良い夢想へと逃げる自信がある。
だから彼女はあくまで中立の立場として誠と対峙した。今この場で正常な判断を下せるのはイザベルだけしかいない。飛鳥は飛鳥で千風に対して負い目を感じているのは、長らく彼女に仕えてきたイザベルだからよく理解していた。
「確かに、彼の実力は未知数かもしれません。私や蓮水が襲った時には反応もしなかった。そうかと思えば、幻獣型を相手に何度か攻防している姿が見えました。しかしそれも、いわゆる火事場の馬鹿力と考えれば納得がいきます。普段の彼は私やあなたにも及ばないような人間と考えるのが賢いと思いますが?」
だからこそ反論させない勢いでイザベルは矢継ぎ早にまくし立てた。
「それは、そうだけど……。そもそも氷室のあんな蹴りは俺やイザベルだって避けるのは難しいんじゃ?」
言葉に詰まる。イザベルの主張は主張でまた一理あるのも事実。
「それでは仮に私たちと同等の力が彼にあったとして話を進めましょうか? しかし、私たちで手に負えない蓮水が今そこで瀕死の状態で転がっている――それが私たちが相手にした……今も千風さんが戦闘中だと考えられる敵ですよ?」
この状況を踏まえてなお、あなたは彼が生きていると妄言を吐くつもりですか? と、イザベルの冷ややかな視線が、かわいそうなものを見る憐れみを含んだものへと変化していった。
それでも誠は食い下がらない。わずかでも千風が生きている可能性があるのならそれにしがみついていたいと、あまりにも剣幕な表情だ。
イザベルは危うくそんな誠の雰囲気に呑まれそうになりながらも、何とか体勢を維持しながら彼を睨みつけた。
誠がゆっくりと口を開く。
「でもよくよく考えてみると千風にはおかしな点が多いんだ。そもそもどうして千風はこんな時期に編入なんてしてきた? 俺たちの通う学校は、自分で言うのもどうかと思うが普通じゃない。魔法師を教育するのに特化した教育機関だぞ? ……その中でもぶっちぎりで入学が困難なのが名桜学園だ。そこにわざわざ普通の人間が編入? ありえないだろ?」
これがまず初めに感じた違和感の正体だった。入学するのだって相当に困難を極める。そのくせ編入ともなればその難度は誠には計り知れない。
「まだあるぞ? 千風は幻獣型と聞いてまるで動じなかった。それどころか平気な顔をして氷室を救うと言い出した。魔法師を目指す者ならカラミティアが、それも幻獣型がどれほど恐ろしいかなんて理解しているだろ? そう考えたとき俺は千風が――」
続けようとした言葉をイザベルが遮る。その声はどこまでも冷徹で、まるで聞く耳を持たない。母親が子供しかりつけるように一方的に押さえつけるつもりだ。
「では……彼は魔法師を目指していないのでは?」
「おいおいどうしてそうなるんだよ!? 魔法師を目指していないやつがなんでわざわざこんな学校に編入してくる? それこそおかしな話じゃないか?」
普段のイザベルからは想像もつかないほど愚かな回答が返ってきた。まるで無理やりにでも千風の生存を否定しようとしているみたいだった。だからこんなわけの分からない答えが出てくるのだろう。
「ど、どうしたんだよイザベル? いつものような頭の切れるお前はどこに行ったんだよ?」
「おかしいのはあなたの方よ――辻ヶ谷君、あなたには失望したわ。あなたは……あなただけは、冷静な判断が下せる人間だと思っていた。私と同じ側の人間だと思っていたのに」
妙に意味深な言葉を告げる。感情の起伏が乏しい彼女には珍しく、苛立ちのようなものが見えた。
「どういうことだよ? いったいなんの話をしている?」
イザベルの言っている言葉の真意が誠には分からなかった。だが、そんなことを気にしている時間は残されていない。千風が生きているとしたら、彼は今も刻一刻と命を削っている可能性がある。ならば、一秒でも早く救いに行かなければいけない。
そのために誠がするべきは聞く耳を持たないイザベルの説得だ。彼一人では到底千風を救うことなどできない。協力を得るのは絶対条件だ。
「私はあくまで現実を見て推論を立てているのです。現実逃避をしているあなたに協力はできません」
話はここまでだと、イザベルは太ももを貫かれ血の海に沈んだ飛鳥を担いだ。
「もし生きていたとして、あなたは今の戦力で対抗できると思いますか? 千風さんが命を賭してまで救ったお嬢様の命を……危険にさらしてまであなたに再び挑む覚悟がありますか? そこで転がっている蓮水を切り捨ててまで生きているかも分からない人間を救いに行くと、本気で言っているのですか? あなたに他人の命を背負う覚悟と、この最悪な状況を打開できるだけの実力がありますか?」
いつものイザベルからは考えられないほど激昂していた。声が震え、肩が震え、こぶしを握る彼女の手には血がにじんでいた。
「どちらもないあなたには無理なことでしょう? いっそのこと魔法師を目指すこと自体お辞めになってはどうですか? そうすれば、こんなことで悩む必要もなくなります。私たちには荷が重すぎた。分不相応だった……それだけのことです」
そう言うイザベルは儚げに空を見上げた。
真夜中の東京。月明かりはなく、キャンバスに黒の絵の具をぶちまけたような闇がそこには広がっていた。決して光の届くことのない深海で彼らはもがき苦しむ。
助けたいと思う気持ちはイザベルも同じだ。だが、現実的に助け出す手立てが見つからないから悩んでいるのだ。
ただ、誠のように感情的な気持ちだけで動くことが、彼女にはどうしてもできなかった。
「イザベル……はあ、はあ、私は大丈夫。だ、だから千風を救うことをあきらめないで?」
憔悴しきった瞳で飛鳥はイザベルに語りかける。荒い吐息を吐く飛鳥の意識は、今にも刈り取られそうな状態だった。イザベルに支えられて立っているのがやっとといった感じだ。
それでも飛鳥の瞳には確固たる意志が秘められていた。彼女も千風のことを諦めていないのだろう。
「千風は強い――それはもう確定したの。この目で私は見た。……イザベル、あなたは千風が剣を引き抜いたのを見たことがある?」
「何のことです? 私にはさっぱりわかりません。私の記憶が正しければ、彼は剣など帯刀していませんでした」
ゆっくりと誠も同意するようにうなずいた。彼も千風と出会ってから一度も帯刀している姿など見たことがなかった。
そう、と納得がいったと言わんばかりに飛鳥は続けた。
「よく聞いて。千風は災害準因子が罠に引っかかったと言っていたけど、そんなこと本当にあり得ると思う? 私たち三人に気づかれもせずに魔法の展開、構築その工程を経ての罠形式への変換。とても人間技とは思えない。学生レベルで可能な範疇を逸脱しすぎていた。……けれど、実際にはそんなことしていなかった。たぶんあれは【憑依兵装】を使ったんだと思う。二人の言うとおり千風は帯刀していなかった。化け物が襲ってきた瞬間、私はまるで反応できていなかった……」
悔しさが血となって滴り落ちる。
「私には見えた、空間から剣を取り出す千風の姿が。それなのにあいつは普通では考えられないほど高等な技術をダシにしてまで嘘をついた! なんでだと思う? きっとあいつは、あいつの中では【憑依兵装】の存在を隠し通すことの方が大切だったんだ! 誰にも感知されずに魔法を展開できることが千風の中では普通で、何でもないことなんだ……でも、いくら千風が強くても今のままでは絶対に帰ってこれない。私が、私のせいで……あいつの退路を断ってしまったから……」
悲痛な顔で飛鳥は小さな握りこぶしをゆっくりと開いてみせた。その手に握られていたのは千風が脱出するためには絶対必要なはずの魔導器だった。これがなければ、【切り離された残片世界】と現実世界は行き来できない。パスポートなくして外国にいけないのと同じだ。
「千風は自分では戻ってこれない! だから私たちが助けに行かないと! うっ――」
話の途中で飛鳥は膝を折った。もはや彼女の身体は限界だった。彼女の意志に反して体は言うことをまるで聞かない。
「くそ! くそっ! どうして動かないのよっ! 私の身体でしょ!? 動きなさいよ!」
何度も何度も傷口をたたいて鞭を打つも、飛鳥の身体はピクリとも動かなかった。燃えるように痛かったはずの痛みさえ感じなくなり、意識は遠のき始めていた。
飛鳥ももう限界だ。そう判断した誠は、
「悪いイザベル――俺、どうしてもあいつのことが諦められない!」
イザベルへと振り向き……蓮水のバカをよろしくと、満面の笑みを残して闇夜へと消えた。
***
一人になった。闇夜にただ一人。
深呼吸をすると、妙に鼻を突き抜ける爽快感が誠の鼻腔を満たした。
きっと自分のなかで何かが吹っ切れた。面倒な計算だとか、生きている可能性の推測だとか、そんなものはまるで意味をなさないと遅まきながら理解させられた。
重要なのは自分が何を成すかだった。千風を置いてきたのは事実だ。けれど、それを今さら後悔したって仕方がない。今できることに全力を注がなくてどうする?
「はあ、はあ、ここだ……!」
肩の痛みを握撃で無理矢理押さえつけ、意識が飛びそうなのをどうにかこらえながら、足を引きずりようやくここまでたどり着いた。
ここから【切り離された残片世界】へ介入すれば、おそらく千風のもとへダイレクトに繋がっているはずだ。
身勝手な行動だということは重々承知だ。自分のエゴで飛鳥たちを危険にさらす羽目になっていたかもしれない。
ただ、それでも千風にもう一度会いたかった。会って、あの仏頂面のバカを笑わしてやりたい。そのためなら、千風を救うためなら腕だろうが足だろうが喜んで差し出すだろう。もう二度と失うことの恐怖を味わいたくはなかった。失うことに比べたら、物理的な痛みなどどうでもいいとさえ思えてしまう。
「ち、千風……待ってろ。俺が絶対に助けるから! 《我、常世より神を喰らいし者。汝、その呼びかけに応じ――》」
誠がレムナントへの介入を試み、詠唱を始めた時だった。誰もいないはずのビルの奥から靴音を響かせ、近づく気配がした。
「だ、誰だっ!?」
慌てて振り返るとそこには見知った影が忍んでいた。
「あら? 辻ヶ谷くんじゃない?」
「佐藤先生、ですか?」
どうしてここに? そう尋ねる前に、まるで心の中を見透かしたように佐藤は答えた。
「君たちを救いに、かな?」
質問に疑問形で答えた佐藤は、誠にはまったく救世主には見えなかった。




