第20話 迅雷鬼
「はあ、はあ……。さて、どうする?」
冷や汗を額に浮かべながら千風は笑う。
彼は一人、災害迷宮内に取り残されていた。離脱用の魔導器を失い、β神経は崩壊。視界は化け物に覆われ最悪な状態。
はっきり言って今の状況は過去にないほど最悪だった。無理にでも笑っていないと下手をすれば心が折れてしまいそうになる。
魔導器との契約をこちらから一方的に破棄する愚行に陥った彼はβ神経以外にもα神経も崩壊していた。決して交わることのない二つの波長が、千風の神経回路をズタズタに引き裂きまわる。
複雑に絡み合うαとβ。二つの神経回路の崩壊。それが意味するのは魔法師としての生命の危機。
魔法師である彼、彼女らにとって神経回路の崩壊はすなわち死を示す。カラミティアを前に魔法が使えないなど、自殺行為にも等しい。
いくら【十二神将】といえど、魔法が使えなければ話にならない。周りを取り囲むハイエナを前にして丸裸で戦うようなものだ。正気の沙汰とは言えず、勝機などまるで残されていなかった。
「……くっ!」
二、三十はあるクラーケンの手足が千風を襲う。そのすべてに対応することなど不可能だ。徐々に徐々に千風が追い詰められていく。
全身が次々と紅い線に彩られ、なし崩しに膝を折る。
左手は落下した際、骨折したのか使い物にならない。相手は幻獣型……。視界は化け物に遮られ、光は差し込まず闇に覆われていた。
魔法もおそらく使えて数発。それ以上使ってしまえば、それこそ命の危機につながる。
「はは……こういうのをなんだっけ? クソゲー? って世間は呼ぶらしいけど、もはやゲームにすらなってないぞこれ?」
攻略させる気のないゲームをゲームと呼んでいいのかは甚だ疑問だが、とりあえず自分の置かれた状況があり得ないほど最悪なことは理解した。
「はあ……くそっ! 流石にマズイ、か?」
膝をつく。視界が霞みだした。αとβ、二つの神経回路をズタズタに引き裂かれ、千風は魔法師として最悪の症状――バイナリズム不全を引き起こしていた。
バイナリズム不全。二つの神経回路を崩壊させた魔法師に訪れる死神の鎌。
「かはっ!」
ベチャリッ。床に飛び散る鮮血。ここにきて彼の身体に禁忌を犯した反動がやってきた。
目の前の化け物は強大だ。それこそ飛鳥が使うような広範囲型の大規模殲滅魔法でないと殺しきれない。
だが、千風にはその持ち合わせがなかった。
転入して数日。まさかこんなにも早く厄介ごとに巻き込まれるとは思いもよらなかった。それゆえに千風は大規模な破壊力を秘めた魔導器は未所持。小回りの利く利便性に長けたものだけしか持ってこなかった。
通常、カラミティア討伐の指令が下る際、前もってその情報が災害研究機関ないし気象庁から告発される。
今回の場合、情報の発信元は気象庁だ。その信頼性は高く、担任から伝えられたカラミティアの攻略難度はレベル5だった。
だが、実際のところどうだ? 攻略難度レベル5? まるで違うではないか。レベルどころかランクすら違う。
千風が推測するに、このカラミティアのレベルは14。14と言えば、最悪のカラミティアと評されるレベル15以上のカラミティア――神獣型の一歩手前だ。何らかの手違いで誤報を流してしまったとか、そういった次元の話ではない。
神獣型ともなれば【十二神将】でも普通に死人がでるレベルの化け物だ。
十年前、彼を襲った化け物も神獣型のカラミティアだった。その力は圧倒的でわずか半日にして【十二神将】、二人の命を喰らいつくした。その後ソイツは千風の住む町に顕現し、町を穴だらけにして再びレムナントに帰っていった。
そんな化け物の中の化け物と1しか差がないカラミティアをどうしてレベル5と判断したのだろうか? 考えてみればあまりにも不自然だった。間違えるはずがない。何らかの意図であえて誤報を流したとしか思えなかった。
だが、そんな誤報を流して気象庁に何のメリットがあるというのだろうか?
今さらながらにそんな思考が千風の脳内を真っ黒に染め上げた。だからといってこの状況で彼が取れる行動は限られていた。
「だーチクショウが! んなこと考えてる場合か!?」
頬を思いっきりぶん殴り思考を戻す。彼の言う通り、今しなければいけないことはこの状況を打破すること。真相を明らかにするのはそれからだ。その前に生き延びなければいけないのだから。
――だが実際どうする? 大規模な魔法もなけりゃ、取れる行動も限られてる。
たとえ大規模魔法が扱える魔導器を持っていたとしても今の千風にはそれが使えない。大規模魔法はその威力の高さと性質上、詠唱時間が異常に長い。千風がどんなに高速で、短節で、詠唱句を改変したとしても軽く五秒はかかる。
魔導器に血液を流し込み、詠唱を続けながらクラーケンの猛攻を潜り抜けなければならない。そんな芸当はバイナリズム不全を引き起こし左手を骨折した状態で魔法の使用に制限のかかった千風には不可能だった。
もはや魔法での撃退はあきらめた方がいい。
こうなれば残された手段は一つしかない。
【憑依兵装】。千風の脳裏に最終兵器の名が浮かんだ。
しかし彼の持つ【憑依兵装】はあまりにも強大だった。その強大さゆえ千風の力をもってしても扱いが困難。
【憑依兵装】を使えば、クラーケンを屠ることも可能だと千風は自負している。だがその力を使えばまず間違いなく腕の一本や二本は覚悟しなければならない。
…………。
現状を打破できる手段が他にないのもまた事実。背に腹は代えられない。
腕の一本、二本で命を買えるのだ。決して安くはないが、お買い得ではある。
千風は深呼吸を一つ。心を落ち着かせる。覚悟を決め、虚空に小さくささやいた。
「――聞こえるか、【迅雷鬼】? お前の力が必要だ――力を貸せ!」
何もないはずの空間から声が降ってくる。
迅雷鬼が千風の脳内へと直接語りかける。
『オーオウ、オマエさんまーたハデにやらかしてんなァ? んなナリでオレサマを振るえんのかオイ? 今のオマエさんじゃァ、まず間違いなく消し飛ぶゼェ? ま、ヤルッてんならオレサマは止めやしねーけどナ! カカッ――!』
しゃがれた声で、変な口調のソイツは嗤った。
「ふっ、まるで躾がなってないな? 前の主はお前にどういった教育を施していたんだか?」
『オイオイ、前の主サマを悪く言うのはナシだゼ? これでもオレサマはあの人にカンシャしてるんダ』
「感情を持たないはずのお前らがか? ハッ、笑わせる。御託はいい。さっさと力をよこせよ?」
高位の存在を前に千風はまるで臆することなく話を進める。
『オイオイ、笑わせてくれるのハ、オマエさんの方ダロ? 強がっちゃイルガ内心でハ震えてヤガル。オレサマの目ハ誤魔化せないゼ?』
いくつもの瞳で全身をくまなく見られるようなジロジロとした視線が千風に絡みつく。何とも言えない気持ち悪さがそこにはあった。
「悪いかよ? そりゃあ怖いさ。志半ばで腕が消し飛ぶんだからな。だが、そうまでしてでも生き残らなきゃならねえ。死ぬわけにはいかねえ。約束したからな」
千風は本音をぶつけた。高位の存在を前に隠し事など通じないらしい。
きっと誰だって怖いはずだ。怖くない人間なんてこの世には存在しないのではなかろうか? 死なないために自分の人生を棒に振るのだ。怖くない方がむしろ異常だった。今まで積み上げてきたものをぶち壊すのだ。それでも生きねばならない。
何とも理不尽で救いようのない状況だ。だが、そこに彼は……千風は価値を見いだした。今までの努力を無にしてでも、これからの人生にそれ以上の価値があると。
千風の瞳はすでに覚悟の色で染まっていた。ゆるぎない鋼の精神。この先の未来、生き残った先に待つ新たな世界に希望を馳せて――
『カカッ……イイ目ダ。その目、オレサマハ嫌いじゃないゼ? 若いくせにホントオマエさんは上出来ダ。今の主ハオマエさんダ、好きにしナ? ただ、死ぬんじゃねーゾ?』
そう言って迅雷鬼は千風に力を授けた。
「ああ、腕一本で済ませるつもりだ。安心して俺に力をよこせっ!」
『カカッ、若い奴ハ生意気だから面白イッ!!』
「ぐあああああああああああ――っ!?」
流れ込む圧倒的なまでの魔力量。それだけで気絶しそうになるが、彼はそれを自傷行為でどうにか抑え込んだ。
太ももから鮮血が零れ落ちる。それを見ながら千風は笑った。
【憑依兵装】――【迅雷鬼】。千風が持つ最強の武器。
鬼の名に恥じぬ最高クラスの力が千風の全身を駆け巡る。
クラーケンが咆哮をあげる。奴なりにも感じとるものがあったのだろう。
だがもう遅い。千風はすでに魔法を展開していた。
「《悠久なる時の彼方、現身の我、静寂の波中を潜り抜けん――天空の歯車!」
千風の足元に魔法陣が浮かび上がる。幾重にも重ねられた魔法陣。迅雷鬼によって増幅された魔力と、身体能力で彼の身体は音速をはるかに超えた。
クラーケンの全触手を使っての怒涛の攻撃をすべてかいくぐる。今の千風には化け物の攻撃が止まって見えた。
一瞬にして肉薄し、千風はあらかじめ構築しておいた魔法陣を指で弾いた。
化け物の手前に魔法陣が張りつく。それを踏み台に彼は跳躍した。
「うおおおおおおおおおお――っ!」
普段の彼からは想像もつかないほどの猛り狂った咆哮をあげながら、千風はクラーケンの頭上へと到達する。
「いい眺めだ」
バリッ! 雷の柱を駆け抜けた千風は空中で静止する。
折れて使い物にならなくなった左手に握りこぶしをぶち当て、手のひらから刀を引き抜く態勢をとった。
瞳を閉じイメージを増幅させる。
ズズッ、ズズズ……と鋭い痛みとともに刀の柄が現れた。
それを掴み、勢いよく振り抜いた。
刹那、千風の眼前に雷が堕ちた。
空間を引き裂く轟くような雷鳴とともに、一振りの刀が顕現する。
その蒼雷を纏う刀――迅雷鬼が千風の脳内へと直接語りかける。
『サア、始めようカ?』
聖なる力が刀身に宿る。刀身を走る蒼光。雷鳴が轟く。迅雷が空間を縦横無尽に駆け巡る。
「ああ、迅雷鬼! あのクソイカ野郎を喰い散らかせ――ッ!」
そう叫んで、如月千風は蒼海のごとき刀身――迅雷鬼を振り抜いた。




