第19話 奈落の千風
誠が叫んだ刹那、飛鳥の背後で閃光が散った。紅い、死の閃光が彼女へと迫る。
振り返り、回避を試みようとする飛鳥をあざ笑うようにその閃光は彼女の周りを取り囲んだ。
退路を断たれた。それでも、
「私はこんなところで――」
退路がなければぶち壊して作ればいい。
破壊を創造するため魔法を唱えようと試みるが、先ほどえぐられた太ももに激痛が走り、それが叶わない。
「くっ!」
「馬鹿野郎がっ! 《白陽蟲、あらゆる光輝を喰らい、星蟲と成れ――蠍星!!!」
千風は詠唱途中の魔法をキャンセルし、とっさに彼女を守る魔法を展開した。
それにより、彼のβ神経が崩壊する。
唖然としたままの飛鳥。
「はあ、はあ……おい緋澄ッ! ボサッとすんな! 本当に死ぬぞ!? 死にてーのか!」
「……」
何を思ったのか飛鳥はいきなり右腕を前に突き出した。左手で右腕を支え足を大股に広げる。さながら固定砲台のように。
「二人とも逃げて――ッ! 《咎人たる聖者の礎、その不条理たらしめる天秤の下、凱歌の焔を築き給え――華粒炎》!」
飛鳥の最大火力の魔法が空気を食い尽くした。
空気を喰らったことでより激しくなった炎熱が、クラーケンを丸ごと呑みこみその巨体を覆う。
「はあ、はぁ……やっ、たの?」
…………。
………………。
場を沈黙が支配し、彼女は息も絶え絶えにその様子をうかがい始めた。
…………。
が次の瞬間、クラーケンは何事もなく平然と姿を見せた。
その体躯には傷一つ、焦げ跡一つさえついてはいなかった。
飛鳥の表情が絶望に翳る。パタリと足が止まってしまい、わなわなと肩を震わせる彼女の口元を血が流れていた。
「諦めてんじゃねえ! ここで死ぬことがお前のすることかよ!? 違うだろうが!」
千風は諦めるやつが大嫌いだった。たった一度の挫折や失敗で人生の何が測れる?
一度失敗したらそれで終わりなのか? 断じてそんなことはない。死なない限り何度だって立ち上がることはできる。それをするかしないか、諦めて前へ進むのを辞めてしまうのか?
くだらないことで悩んでる暇があったら、今全力で逃げろよ! と言ってやりたかった。そのあほずらをぶん殴って目を覚ましてやりたかった。
諦めるのだけはダメだ。死んでから諦めろと、それまでは死んでも諦めるなと。
「勝手に諦めてんじゃねえ! お前だけが辛いと思うなよ? 自惚れるのも大概にしろ!」
千風は飛鳥とイザベルに命令する。この場の指揮権は彼にある。
「緋澄ッ、イザベルーーッ! 離脱だ! 目的は果たした。ここに用はねえ!」
声を張り上げる。迷宮内全フロアに響かさんばかりに。
いち早く千風が魔導器を起動させる。
カラミティアは自分の根城を荒らす奴を許さない。無断で入ってきて、そのまま逃げようとする人間を追う習性がある。
それを彼は利用し、彼女らに危害が及ばないようにしたのだ。少しでも彼女らの生存率を高めるために……。
――さあ、かかってこいよ! クソイカ野郎がッ!
挑発するような笑みを浮かべて。
「な――っ!?」
目の前で驚愕する光景が起こった。
クラーケンはこちらにまるで興味を示さない。
(なぜだ? なぜこちらに興味を示さない!?)
こんなことは初めてだった。
もちろん何度か幻獣型を狩ったことがある。だが、こんな光景に遭遇することなど初めてだった。
バケモノはなぜだか飛鳥に引き寄せられていた。
「うそ、何で!」
パニックになった飛鳥は急いで離脱の詠唱を試みる。
が、彼女の魔法が発動することはなかった。
パキッ。
この場においてもっとも鳴ってはいけない音が飛鳥の耳元で鳴った。
彼女の右耳についていたイヤリング型の魔導器がクラーケンによって破壊されてしまう。
イヤリングの破片がその存在を粒子へと変え静かに虚空へと消え去った。
この瞬間、彼女は現実世界へと帰る手段を失ったのだ。
「お嬢様ッーーッ!」
イザベルの顔が悲痛に歪む。視界の端に止まったイヤリングの破片を見て理解したのだ。
だがイザベルに飛鳥を救う手立てはない。イザベルと飛鳥の立ち位置はバケモノを挟んでちょうど反対側。
今の位置関係は千風、飛鳥、クラーケン、イザベルだ。
イザベルには飛鳥を救うことなど不可能。詠唱も始まっている。詠唱破棄をしようものなら、β神経の崩壊をきたす。それこそ相手の思うツボだ。飛鳥が死んで、イザベルも死ぬ。最悪な状況が整ってしまう。
「イザベル行け――! 緋澄は俺が何とかしてやる!」
「ですが……」
イザベルの言いたいこともわかる。彼女にとっては飛鳥がすべてなのだ。
だが千風は何も言わず、ただ真摯に彼女の瞳を見つめた。
「分かりました……。お嬢様を、頼みます――ッ!」
苦渋の決断だっただろう。彼女の歯ぎしりがこちらに聞こえてくるまでイザベルは歯を噛み締めていた。
悔しいはずだ。一番大切な人を自分の手で守れない。そればかりか、その大切な人を置き去りにして自分だけ逃げるのだ。
やりきれない。ぶつけどころのない怒りが彼女の背中を伝って視えたように千風は感じた。
――お嬢様を頼みます。
そう一言だけ伝えてイザベルは災害迷宮が後にした。
「う、そ……」
飛鳥の目元にじんわりと涙が浮かぶ。
もうここにいるのは千風と彼女だけだった。
すでに千風も離脱用の魔法を唱えている段階だ。
だが、彼と飛鳥は同じ側にいる。全力で走れば間に合わないこともない。
「緋澄! こっちだ、急げ!」
千風が手を差し伸べるも、彼女は動こうとはしなかった。
否、動けないのだ。
誠、蓮水と離脱して、イザベルもいなくなった。千風もすぐにいなくなるだろう。
一人だけ取り残されてしまう。焦燥に追い立てられた彼女は正常な判断ができなくなってしまっている。
目の前には山のように大きなイカのバケモノ。
へたり込んでしまった飛鳥をジッと見つめている。
ギョロリと眼球だけで飛鳥を舐め回す。
ぬらぬら、てらてらとした触手が飛鳥へと伸びていき。
恐怖で動けなくなってしまった。太ももの怪我もそれに拍車をかけている。
へたり込んだ地面が湿り気を帯びる。飛鳥の足元からだんだん透明な泉が湧き出して……。
緋澄飛鳥は死を覚悟してしまった。
自ら進んで死を受け入れ皆を守ろうとしたあの時と、目の前に死を無理やり突きつけられ覚悟させられるのは、恐怖の度合いがまるで違った。
飛鳥は静かに泣き出してしまって、ポロポロと涙を流し始めてしまった。
もはや、彼女に戦う意志はない。敵を前に戦意を喪失してしまった。
動けなくなってしまった飛鳥は表情だけで千風に助けを求めた。
女の子の泣き顔を見たのはいつぶりだろうか? ふとそんなことが千風の頭をよぎる。
きっと記憶の奥底を探ったって一回や二回のはずだ。そのどれもが彼にとっては苦い思い出だった。
彼の前で泣いた少女たちは二人とも二度と会えなくなってしまったのだから。
「――ッ!」
彼女らを助けることのできなかった記憶が蘇る。
彼が極度に人と距離を置くようになったのもちょうどこの頃からだった。
もう誰も失いたくないと思った千風は、誰とも関わらなければすむということを考え始めていた。
(なぜ俺は今さらになって、こいつらに関わろうとした! こうなることぐらい理解していたのにっ! こうならないために人と距離を置いていたんじゃねえのか!?)
「助け――」
ハッとして、すぐに飛鳥は両手で自分の口を押さえた。
彼女に助けを求める資格はない。戦意をなくし、敵前で諦め、死のうとしている彼女に。
それに気づいて彼女は自分から口を閉じた。
敵を前に諦めるなど魔法師失格だ。
戦意を喪失した自分に生き残る資格はない。ここで死を受け入れるしかないのだ。
それは戦意を喪失し、泣き出して、あろうことか異性の目の前で失禁してしまった飛鳥の最後の抵抗、せめてものプライドだった。
このプライドを持ったまま死のう、そう彼女は決めた。
本当に助かりたいのであれば、動くべきなのだ。太ももがえぐれて、神経も麻痺して足が動かないだとか……恐怖で足がすくんだだとか、そんなことを考えているヒマがあったら、無理やりにでも!
足をひきづってでも、切り落としてでも、血反吐を吐きながらでも、生に執着するべきなのだ。
結局のところ飛鳥にはそこまでしてでも生き残ろうとする、生への執着が足りないのだ。
早く死んでこの絶望的な状況から救われたいと思ってしまった。つらい現実から目を背けたいと思ってしまった。
弱いのだ。自分はどうしようもなく弱い。
緋澄飛鳥という人間は人並みに恐怖を感じるだけのただの高校生だった。魔法師である前にただの女子高生なのだ。
生まれた家が緋澄という名門だっただけで、できれば普通の女子高生がするように、人並みの幸せを感じて楽しくキャッキャウフフしながら学校生活を送りたかった。
でもそれは叶わない。
(私はここで死ぬ。それは変わらない。ここで死んで、それで終わりだ)
緋澄飛鳥の物語はここで幕を閉じる。
(私が生きてきて何か残せたのかな? 私が死ぬことで何人の人が泣いてくれるだろう? きっとあの人たちは泣かない。それどころか失望するだろうな……家名に泥を塗ったとかなんか言って……私は兄さんと違って、優秀じゃなかったから)
そんな人間を千風は何度も救ってくれた。それを自分はどうだ? 彼が自分の身を危険にさらしてまで繋ぎとめてくれた命を、もらった命を簡単に投げ出そうとすバチ当たりな人間だ。ここにきて生きたいなんて口が裂けても言えないではないか。
傷だらけになりながらも頑張っているクラスメイトに対して、今さら死にたくないから助けてくれなど言えるはずもなかった。
他人の命を犠牲にしてまで、己が助かろうとするなどあってはならない。そんな資格が飛鳥にあるはずもない。
緋澄の人間だからとかそういう問題ではない。人として人に命乞いをできる立場に今の飛鳥はいなかった。
だから、
飛鳥は最高の笑顔を千風に向けて、
「ありがとう、千風……」
始めて彼の名前を呼んだ。
***
「死なせるか――!」
千風は叫ぶ。喉が裂けるほど大声を張り上げて。
死なせない。もう二度と目の前で人を失わないと決めたのだ。
あの日、時枝と交わした約束――。
もう二度とあんな思いはしたくない。みんなが死んでいって、自分には力がなくて、どうしようもなく、ただ立ちすくんでいただけの無能な自分。それを否定するように足掻いて足掻いて……。
死なないために死ぬほど努力して、それでも救えないというのだろうか?
ふざけるな。
(ふざけるな! ふざけるな!ふざけるなぁっ!)
「そんなことあってたまるか! あっていいはずがない!」
千風はなりふり構わず、エスケープをキャンセルした。
再び彼の全身を鋭い痛みが襲う。
彼の半有半無の神経がズタズタに引き裂かれる。
β神経が崩壊する。彼の波長はもはや乱れまくっていた。通常の綺麗なサインカーブではなく、叫んだ状態をオシロスコープで計測したような状態だ。ギザギザに刻まれた不規則な波形。耳を塞ぎたくなるような不協和音。
ただ、その音は痛みとなって千風の身体へと還元された。
それでも彼は引き下がらない。あがいてあがいて、醜くあがいて、傷だらけになって、瞼がぱっくりと割れ血が彼の視界を覆いつくしたとしても……それでも、最後にはその手でつかむのだ。
もう二度と取りこぼさない。この小さな手のひらから少しの水滴だって取りこぼしたりたりはしない。
痛いのだ。誰かを失うのは、体を引き裂かれるよりもずっと痛い。
(ここで、引き下がってたまるかよっ! 何のために今まで血反吐を吐いてきたと思ってる? どれだけのものを犠牲にしてきた?)
人の命を犠牲にしてまで生き延びた己が身を削り、死に際まで追い込み、その人生のすべてを大切なものを失わないためにと費やしてきた。
現段階であのクソジジイに届かないのはまだいい。けど、この程度のレベルを相手に仲間の命を危険にさらすようでは、己に生き残った意味がまるでない。
それであればあの時救われずに野垂れ死んでいた方がよっぽどましだ。千風が生き残るのと引き換えに失ったものの価値とはそれほどまでに大きかった。
計り知れない損害だった。
かつて【十二神将】だった彼女をもしも失わずにすんでいたのなら――
しかしそれは叶わなかった。小一だったクソガキが、彼女を殺したのだ。
ギリッ。彼の奥歯が悲鳴を上げる。
(せめてあの人の後釜程度は務めねばならない)
彼女が救うはずだった多くの人の命の代わりに……。
千風はもっとも慣れ親しんだ、身体加速の魔法を唱える。
ここにきて初心に戻る。彼が初めて手にした――何度も何度も彼の命を救ってきた、死にかけるたびに窮地をともに脱してきた――最も信頼を寄せる相棒を呼び起こす。
「《悠久なる時の彼方、現し身の我、静寂の波中を潜り抜けん――天空の歯車》!」
カチリッ。
千風の脳内で秒針が進む。彼に与えられた、存在するはずのない彼専用の時間。
如月千風の世界が顕現する。
時の世界の王となった彼はひたすらに加速する。灰色で孤独な……音も匂いも五感に訴えかけるすべての感覚が遮断された、時間の概念さえも存在しない世界で彼はただ一人……。
時の概念が存在しない時の世界。
千風は必死に、ただひたすらに一人の少女のことを思って前を向き続けた。
やがて……灰色の世界が現実を犯し始める。千風の世界が災害迷宮へと干渉を始めた。
ジワジワ、ジワジワ。紙につけた火が燃え広がるようにジワジワと。
彼に与えられた時間は三倍ほどに膨れ上がる。一秒が三秒に……この時間は、この時は、彼だけのものだ。たとえ神だろうが干渉は許されない。絶対不可侵の世界だ。
彼だけの、如月千風だけの他の介入を一切許さない絶対不可侵の時の流れ。
彼はその世界でただ一人、孤独に耐えるように叫び、狂ったようにもがき苦しみながら、やがては神速さえをも凌駕する。
世界に色がもどり始める。彩色が、灰色の世界にいた千風にはあまりにもまぶしく彼の網膜を灼く。
ついで匂い、音……五感のありとあらゆる感覚が研ぎ澄まされて。
気づけば千風は飛鳥とクソ忌々しいクラーケンに接近していた。
泣きじゃくって、かわいい笑顔を台無しにしている少女の腕を引き寄せて、今にも壊れてしまいそうなガラスのように儚い彼女の肢体を優しく抱きすくめて。
ふわりと、高貴なお嬢様を彷彿とさせるきらびやかな赤髪の少女を自分の胸に抱いて。
彼女のシャンプーの匂いと女の子特有の甘ったるい匂いがして。
「うぅ……なんでくるのよ、ばかぁ!」
ポカポカとまるで痛くないパンチを繰り広げる飛鳥を見つめる。
泣いていたからか、紅くなった頰を誤魔化すように目をそらして。けど、うれしかったのか上目づかいで見上げてくる小さな……とても小さな少女。
ひとなみの幸せを犠牲にして戦う決意をした、か弱くも強い極々普通のどこにでもいるような少女。
そんな彼女を愛おしいと思った。
しかし彼はそのまま彼女を引き離し、左手で自分の首にかかったネックレス型の魔導器を引きちぎった。
その魔導器には脱出用の魔法が搭載されている。
「――ッ!」
千風の全身を今までにない激痛が襲う。呪いが彼の体内を犯し始める。
それもそのはず、彼は自らの手で正規の契約解除手順を省いて魔導器を引きちぎったのだから。魔法を使う上での魔導器との契約は絶対だ。それを破ることなど誰にも許されない。
罰が下る。千風にβ神経が崩壊したときの痛みなど比べ物にならないほどの痛みが。
ようは神経を無理やり引きちぎるようなものだ。
その痛みははかりしれない。想像を絶する痛みだった。
だが、これで彼女が助かるのなら、それもまあどうでもいいと思えてくる。
飛鳥の耳元で小さく、
「じゃあな」
とささやき、そして彼女の手にネックレスを握らせる。
身をひるがえし、飛鳥と自分の位置を反転させ――彼女を思い切り突き飛ばした。
ドンッ。
体重の軽い飛鳥はそれだけで簡単に宙へと浮いてしまう。
「えー―っ!?」
彼女が、緋澄飛鳥が言えたのはひと言だけだった。
クラーケンの触手攻撃が千風に直撃する。
とっさに防御魔法を展開するも、すべては防ぎきれなかった。
「ぐあ――ッ!」
その衝撃に耐えきれなかったのだろう。床が崩れ、千風はクラーケンとともに奈落の底へと落下していった。
落ちる、落ちる。その身は落ちる。重力に抗うことなく、ぐんぐん落ちる。
やがて背中から叩きつけられることによって落下は治まった。
「が、は――ッ!?」
肺の中の空気がすべて吐き出されてしまい、うまく呼吸をすることができない。
もはや満身創痍だった。
逃げる手段もなく、退路も断たれた。彼に残された選択肢はただ一つ――殺して生き残ることだけだった。
今まで何度となく死に瀕してきた。死にかけたことなど数え切れないほどだ。だがそれでも千風が生き残れてきたのは、ギリギリだろうが何だろうが脱出はできたからだ。
だが今の彼にはそれができない。それをする手段が残されていなかった。
「はあ、はあ、これは本気でマズイ――ッ!」
視界がかすむ。全身が熱を帯びて悲鳴をあげる。身体が動かない。魔法が使えない。
幻獣型を相手に後手を取った。チェックだ。こちらには選択肢がない。詰められる――。
「千風ッ――!」
遥か上に取り残された飛鳥が悲鳴をあげる。可愛らしい顔をぐしゃぐしゃに歪めて心から叫んだ。
千風はそれに応えるためにせいいっぱい声を張り上げる。そうしなければ、彼女の耳に、心には響かないから。
「馬鹿野郎ッ! さっさと行けよ、うぜーな。俺はお前の仲間でも友達でもなければ、恋人でもねえ! んな人間さっさと置いて逃げろ! ……でもってお前の大切な人たちを悲しませてやるな!」
「馬鹿はあんたの方でしょ! ばかぁ! ならなんで千風は私なんかを救ったりしたのよ? 何でもないような人間を救ってあんたが死んだりしたら、それこそおかしな話じゃないっ!!」
飛鳥が叫ぶ。その声は震えていた。彼女は泣いていた。泣いて震えて、心が引き裂かれそうになる。
その声が奈落に沈んだ、千風のもとに届く。
一人の少女が自分のために泣いてくれる。それも千風から見ても控えめに言ってとびっきり可愛らしい女の子だ。そんな少女が自分のために、自分のためだけに涙を流しながら叫んでいる。
それはもしかすると、とても幸せなことではないだろうか?
千風の脳裏にふとそんな考えが浮かぶ。きっとすごいことだ。幸せなことだ。
だから彼は笑ってやった。鼻で笑って、嘲って、心の底から楽しそうな笑みを口元に浮かべた。
「ハッ……それもそうだな。けど、結果としてそうなった。そうなってしまったんだ。不思議と後悔はしていない。俺が選んだ……自分で選択したんだ。……だからもういいだろ? しつこくすんなよ、鬱陶しい」
「でも――」
「うぜーって言ってんだよ。それに、今になって呼び捨てにしだすとか……それこそ俺が死ぬと思ってるからだろう? 勝手に殺すなよ。俺の命だ――テメーの命くらいテメーで何とかする」
「……っ! それは――」
「だ――からっ! それがうぜーって言ってんだ……何度も言わせんな。い――から行けって、俺とは住む世界が違う……どっかの知らない赤髪のお嬢様?」
ありったけの皮肉を込めて――。
千風は魔導器を起動させ魔法を使う。
魔法陣が彼の周囲を覆いつくすように次々と展開される。
幾何学模様に変換された言の葉の呪い。
穢れた空気を払いのける黒き光。戦局を変える神の一手が構築される。空間を覆いつくさんばかりの膨大な魔法陣が展開され、それらは急速に収束を始めた。
詠唱句を唱える千風の声は飛鳥の耳には届かない。魔法が完成する。
刹那、彼とクラーケンを淡い藍色の光が包み込んだ。
「オオオオオオォォ――!」
化け物が困惑した奇声をあげた。
「ハッ、汚ねー声だな。テメーの最期にはお似合いだがな――っ!」
千風は足元に魔法陣を構築する。それを踏みつけるように屈み、思い切り加速した。
バゴッ。地盤が歪み、崩れ去る。飛鳥との距離を物理的に遠ざける。
向かいながら、彼は左右のポケットから閃光弾を取り出し、一度に放り投げた。
カッ。時間差で宵闇を照らす白き閃光。
二つの影が消える。小さくて今にも消え入りそうな危うい影と、大きくてとても強大なエネルギー生命体の影が……。
「――悪いが、俺も死ぬつもりはないんでね……」
その言葉は誰にも届くことはなく、虚空の彼方へと静かに遠のいた。




