第15話 道化の一閃
「なら、話は簡単だ。蓮水の馬鹿をぶん殴って離脱すればいい……だろ?」
千風の何気ない一言に飛鳥の顔がわかりやすく和らぐ。だが、すぐに思い直したのか彼女は何かを言いたげに、口の開けたり閉じたりを繰り返した。
「なんだよ……急にしおらしくなりやがって。調子狂うな……さっきまでの威勢はどうした? アホ面さげてギャーギャー騒いでる方がお前にはお似合いだろ?」
千風はわざと飛鳥を煽る言葉を吹っかけた。そうすれば、さっきまでのギャーギャーと騒がしいだけの少女が見れると思って。
しかしそうはならなかった。彼女もわかっているのだ。助けたいという感情だけで実力の伴わない行動をとれば、より多くの被害を被ることになる。それが、自分か従者か、あるいはクラスメイトか……いずれにせよこの場にいる誰かが火の粉をかぶらなくてはいけなくなる状況が、前に進めば自ずと訪れることになるということを。
それだけは避けねばならない。彼女にはこの場に居合わせた全員を守る義務があるのだから。
義務という名の重く冷たい枷が彼女の足にまとわりつき、氷室を救うという選択肢を阻んでいた。だから、躊躇うのだろう。だから、一歩が踏み出せない。これ以上仲間を失ってしまうかという恐怖が彼女の胸中を縛りつける鎖となる。
できることなら氷室の安全を確かめ、全員で災害迷宮を脱出したい。けれどそれを決断するには今の彼女にはあまりにもリスクが高すぎる。
「あ、あ……」
かすれた声だけが喉から漏れる。あまりにもか細く、情けないその声が緋澄の心情を痛いほどに物語っていた。
「千風、そこまでにしなよ。飛鳥に判断を委ねた俺も悪いが、飛鳥を責めたって始まらない」
誠に便乗してイザベルが口を開く。
「そうです。あまりお嬢様を苦しめないでください。お嬢様は私たちの希望の象徴、それを悲しませるなど論外です」
すっと、顔を覆っていたはずの緋澄の手がイザベルの視界に入る。
「いいの、イザベル……」
「しかし、お嬢様。この者の言い方はあまりにも――」
「いいの、私に力があればこんなことにはなっていないの」
「しかし……」
それでもなお食い下がろうとするイザベルに対し、飛鳥は
「イザベルッ!! 少し黙りなさい……」
「……申し訳ありません。少々口が過ぎました」
普段、声を荒げたりはしない緋澄にしてはやけに悲痛の混じった叫びだった。それだけ彼女は今の状況に追い詰められているのだろう。今も彼女の中では氷室を救いに行くか否かの議論が、自分の判断で他人の命を天秤にかける――救う救わないの葛藤が、グルグルグルグルと、まるで迷宮入りした数々の難事件のように、気持ち悪いしこりを残しながら這いずり回っているのだろう。
「……で? そろそろどうするか決めたか? こうしている間にも蓮水の命はゴリゴリ削られているかもしれないぞ?」
嘲るように、いつまでも答えを出すことのできないノロマな緋澄を貶めるように、千風はあえて声を低くして笑った。
千風のあまりにも飛鳥を中傷する言葉を聞き捨てならなかったのか、こらえていた誠の怒りがついに頂点に達し、彼は千風の胸倉をつかんでいた。
「いい加減にしろよ千風ッ! お前さっきから何が言いたいんだよ、意味わかんねーぞ!?」
身長差のある誠に掴まれ、千風の体が宙に浮く。呼吸が浅くなり、それでもなお彼は笑ったままだった。
「何がおかしい?」
「……別に。ただ道化だなーって。……くだらない。お前たちが救おうかどうかで悩んでる奴は、ちょうど今の俺のような奴だぞ? それでも助けたいと思うのか?」
「「「…………」」」
千風の中での蓮水氷室という人間は大体こんなイメージだった。それを演じてみたにすぎない。皆がどう思っているのかは分からないが、少なくともここで沈黙が生まれるあたり、あながち間違いでもないのだろう。
「少なくとも俺なら、そんな奴を救いたいとは思わない。むしろどこぞの道端で野垂れ死んでくれた方が都合がいいとは思わないか?」
「……見損なったぞ千風。お前がそんな奴だとは思わなかった」
「見損なってもらっても別に構わないが、まあ……とりあえず落ち着けよ?」
胸倉をつかむ誠の手を振りほどき、何事もなかったかのように千風は襟元を正す。
三人のクラスメイトをゆっくりと眺め、千風はこう言った。
「御託はいい。てめーらの感情論になんざ毛ほどにも興味がない。俺が聞きたいのは、蓮水を助けるのかどうかだ。本当に助けたいと、わずかでも、一ミリでもそう思っているのなら早く決断しろよ。それができないなら今すぐにでも災害迷宮を去れ」
冷たくそう、言い放つ。突き放すように……まるで頼むから、帰ってくれと言わんばかりに。
けれど彼らは気づかない。千風の心の叫びに、まるで気づく気配はない。それどころか行き当たりのない怒りの矛先を千風に向けてきて……。
いつもそうだ。千風はいつもそう。いつだって彼は自分の感情を、本音を表に出すのが驚くほど下手だった。ヘンに意地を張るからなのか、ただプライドが高いだけなのか、原因は自分でもわからない。そのくせ無表情を取り繕うのはその道のプロにも引けを取らないのだからよけいに質が悪い。
だから今まであまり人と関わってこなかった千風のサインに、究極の選択を迫られる状況にいる誠たちが気づかないのも無理はない。
まだまだ青いのだ。千風も誠も、この場にいる全員が。命の取捨選択をするには若すぎる。
年を取っていればいいという問題でもないが……。
それでも、千風には誠や緋澄と違って数々の戦場を潜り抜けてきただけの実績がある。
「そういうあんたはどう思ってるのよ? あんたこそ、氷室を助ける理由なんてないじゃない?」
緋澄は震える声を絞り出した。
緋澄の言うとおりだ。編入してきたばかりの千風には蓮水を救う理由もなければ、助けてやりたいと思う感情だって湧かないはずだ。
千風には蓮水に蹴り飛ばされたという最悪な出会いがあるだけで、ほかには何もない。
「そうだな……確かに俺には氷室を救う理由なんてないのかもしれない。強いて言えば、蹴り飛ばされた借りを返すぐらいだが……」
「はあ!? そんだけのためにあんたは救うとか言ってるわけ? 死ぬかもしれない難度のカラミティアを相手に?」
緋澄が、奇声をあげるのも無理はなかった。千風が言っていることは支離滅裂だった。彼は、自分を傷つけた相手を蹴り飛ばすために、自らの身を危険にさらすことをいとわないと言っているのだ。
まるで意味が分からない。自分の身を危険にさらしてまで相手を蹴ることに、一体どれだけの価値があるというのだろう?
「考え直せ、千風! お前が相手にしようとしているのは、飛鳥でも生き残れる保証のない幻獣型だぞ!? 生徒会だって離脱しているんだ! お前が勝てる相手じゃないのはわかるだろ!?」
誠の瞳は真剣そのものだ。本気で千風のことを思って助言する、クラスメイトとしてではなく、友人としての心からのアドバイスだった。
「……」
「ちょっと! あんた本気なわけ?」
黙ったままの千風を訝しみ、緋澄は肩を揺する。
ため息を吐く千風。
「ごちゃごちゃとうるせーな……。ここは元からそういう場所だろ? 魔法師を目指すと決めたときから、死ぬかもしれないなんてことは理解してきた。それなのにお前らは何の覚悟もせず、魔法師になろうとか思ってるのかよ?」
甘い。あまりにも甘すぎる。まるでガキの思考だ。世間の厳しさを知らない、思考を停止させたまま、のうのうと日々を無為に過ごすだけの普通の高校生となんら変わりはしないではないか。
ちょうどいい。何も知らない愚か者どもに力の差を知らしめる良い機会ではないか? ここで実力差を見せつけ、自分らがどういう低次元の話をしているか思い知らせてやる。
千風の脳内に邪悪な思考が宿る。
千風の右手がすーっと、左腰へと伸びる。無意識のうちに下半身が沈み、彼は腰に携えた不可視の刀剣を引き抜いた。
***
千風が刀剣を引き抜く数瞬前、飛鳥はある存在を感知していた。
「――っ!?」
災害準因子。災害因子が自らを守るため、災害迷宮内に創り出した侵入者を排除する兵士のようなもの。
鋭い牙の生えたウサギとは違う、高速で動く羽虫。音はなく、接近するまで気配すら感じることはできなかった。
はっきり言って相当ヤバい。今まで戦ってきたウサギとは比べ物にならない強さを秘めていると、彼女の背中を流れる冷や汗が物語っていた。
カチカチ、カチカチ。歯をかみ合わせる羽虫の化け物。体躯にして一メートル大ほどの化け物が一瞬にして接近し、鎌のような腕を振り上げた。
誰も反応できていない。それどころか、その存在にすら気づけていない。
強敵を前に後手をとった。それも、一手二手どころの話ではない。明らかに不利な状況で、今さら声を上げ危険を知らせたとしてももう遅い。その頃には皆の首は飛んでいるだろう。
今さらながらに後悔した。自分はあまりにも愚かだった。油断するべきではなかった。災害準因子がしばらく出てこなかったからといって、気を抜くべきではなかった。
こんなことは魔法師を目指す者なら誰だって知っているはずなのに……。なぜ自分は気を抜いていたのだろう?
怒りがこみ上げた。自分が憎い。守るとか、救うとか……緋澄の人間たる者、皆を正しく導く義務があるとか、さんざん豪語してきたのに自分はたった一人の大切な従者も、クラスメイトも守れないのか?
拳に力が宿る。不甲斐ない自身を戒める握りこぶしが、彼女の手のひらに鮮血をにじませた。だが、このままでは終われない。終わらせたくない!
その一心で飛鳥は自重を前方に傾けた。半身をひねり半ば強引に身体を加速させる。
たとえここで自分の身が朽ち果てようとも、イザベルや誠、千風を失う気などさらさらなかった。今ここで己が命を懸け三人を救うことができたのなら、それは緋澄の人間として果たす最低限の役割は果たせたことになるだろう。
ここで自分が死ねばイザベルきっとは泣くだろう。
――泣いてくれるよね? 悲しませちゃうのは気が引けるけど、でも泣いてくれるなら、うれしいなあ……。だってそれは、私がイザベルの中で大切な人として認められているわけだから……。
彼女の瞳から、きらびやかな雫が舞った。
「あんたたちはさっさと逃げなさいッ!! ここは私が――」
そして緋澄飛鳥は魔導機に全神経を注ぎ込んだ。おそらく、今の彼女が放てる全力の魔法ですら羽虫を消し去ることは叶わないだろう。それでも、わずかにでもイザベルたちが生き残れる確率を上げることができるのなら、それは優柔不断な自分に対するせめてもの免罪符になるだろう。
「――《咎人たる聖者の礎、その不条理たらしめる天秤の下、凱歌の焔を築き給――」
飛鳥の魔法が完成する間近、背後から過ぎ去るように影が走った。
「なに、ひとりで格好つけてるんだよ? あきらめるなよ、死ぬにはまだ早すぎるだろうが!」
ぽんっと、柔らかく頭を押さえつけ、千風が飛鳥の横を過ぎ去った。
それは、彼女にだけ届いた優しい声だった。
「なんで?」
――なんで、あんたが反応できているのよ?
とは言葉にならなかった。
あり得ないことだった。この場で今、羽虫の存在を認知できているのは飛鳥だけなのだから。
もしも彼が反応できているのであれば、それはイザベルと誠が反応できていることを意味している。千風の実力はイザベルよりはるかに下のはずだ。それは、イザベルが千風を襲った時に確認済みだった。
そしてそんな千風が反応できているのであれば、イザベルや誠が反応できないわけがないわけで……。そもそもこんな危機的状況になど陥ってないはずだ。
だから、あってはならない。あり得ないのだ。
けれど、実際には飛鳥の目の前に千風が現れ、語りかけたきた。
そしてあろうことか、飛鳥と羽虫の間に割り込んだのだ。
ここまででほんの一瞬の出来事、当然イザベルや誠は反応は愚か、存在にすら気づけていない。
千風が加速する。その速度は異常だ。あれだけの速度で人が動くところを飛鳥は見たことがなかった。
千風を追う大気の流れ。その本流が周囲に旋風を巻き起こした。
目で捉えられる限界の速度で移動する彼は腰のあたりに手を伸ばすと、その腕を瞬時に閃かせた。
刹那、閃光のごとき剣撃が、光の環を描いて羽虫を一匹残らず切り捨てた。
「う……そ?」
信じられなかった。ただただ、目を疑うだけの光景が飛鳥の眼前を支配した。
「なっ! いったい何が起きた?」
遅れてようやく誠とイザベルが気づく。どうやら今この場で何が起きたのかは飛鳥以外には見えなかったらしい。
気づけば飛鳥の隣に千風が現れ、彼女の頭をぽんっとたたき、耳元で小さくささやいた。
「黙ってろよ?」
威圧するようなその声はしかし、張りつめた緊張感の続いた飛鳥には心地よく感じられた。
「何でもない。ただ俺の張ったマジックトラップに何匹か虫が紛れこんだだけだ」
まったくの嘘だ。千風は今嘘をついた。飛鳥にはそれが分かった。何らかの意図があったのか、千風には嘘をつく必要があるらしい。
「いつの間にそんな……でもまあ、助かったよ。よけいな戦闘をせずにすんだ」
誠の礼を軽く流し、千風は上に続く階段をめざした。
「ちょ、千風! お前本当に行くのか?」
「だから、さっきからそう言ってるだろう? ビビりなお前らはしっぽ巻いてさっさと逃げろよ……? んじゃーな」
「……っ! ちょっと待ちなさいよ!?」
一人放心状態だった飛鳥は今さらながらに現実へと引き戻され、千風の後を追っていく。
「お、お嬢様――!?」
イザベルもそんな飛鳥を追っていき、
「……結局みんな行くんだな? けど、本当にヤバくなったらすぐに離脱するぞ? それだけは約束してくれ」
千風がそう言ったところで、誠がぽんと彼の肩を叩いた。
「当然だろ! みんな死にたくはないだろうし……。もちろんお前も連れてってやるから安心しろ!」
親指を立て、にかっと笑う誠。
先ほどまでの緊張感や不安は皆、和らいだみたいだった。
「そうか……期待してるよ」
千風は小さくそう言い残し、カラミティアがいる階層へと足を踏み入れた。




