第10話 天空の歯車
建て付けの悪いドアを蹴り飛ばし、千風は屋上へと出た。
ドアを開けた途端に寒気が流れ込む。九月とはいえ、東京の晩夏は少し肌寒い。
空を見上げれば、雲の切れ間から月がゆっくりと顔を出す準備を始めていた。
「遅いぞ千風ー!」
おーいと軍用ヘリの前で誠が手を振っている。その声はプロペラの音にかき消され聞こえなかったが、彼のジェスチャーから何を言っているのかは大体読み取れた。
ヘリの前には誠のほかにも一年が三人。生徒会の三年生が五人いた。ここにいるのは全員、名桜学園では名の知れた優秀な生徒たちだ。
千風は悪びれもせず彼らの元へ行った。順にヘリに乗っていく。
最後に千風の後から来た彼ら一年二組の担任であり、生徒会の顧問も務める佐藤が乗り込んで、ヘリは上空へとその機体を持ち上げた。
ヘリはぐんぐんと高度を上げ、ついには千風たちの通う学園さえも見えなくなってしまった。
全員いることを佐藤が確認し一人うなずくと今回の討伐対象となっているカラミティアの詳細が記された書類に目を通す。
「さっきある程度のことは話したから、重要事項の確認だけで良いかしら? まさかとは思うけど……会議室で話した内容が頭に入ってない子はいないわよね?」
あなた達に限ってそんなことは〜と見回すが手を挙げる者は一人もいなかった。
よしと、佐藤一人納得し話を進める。
「今回討伐するカラミティアは亜獣型のレベル5。あなた達なら、問題もなく倒せると思うけど……くれぐれも油断はしないように! 」
分かっているとは思うけど念のためねと釘を刺し、自前の高級腕時計へと佐藤は視線を落とす。
「気象庁からカラミティア発生の報告を受けたのが二時間前……つまり午後五時ね。流石に二時間でそこまでの情報は出てこないけれど【切り離された残片世界】でカラミティアが作り上げた災害迷宮がちょうどこちらの世界での、とある高層ビルと座標が一致したそうよ」
ヘリの内部は外とはまるで違い静寂な空間が広がっているため、彼女の声は一言一句聞き逃さずに済む。
「ビル内にいると推定される人数はおよそ二千人。あなた達が背負う命の数よ? ふふ、分かる? あなた達がしくじればそれだけで二千人が死ぬ」
楽しそうに、わざと生徒にプレッシャーを与えるクソ教師がそこにはいた。
「と、言いたいのだけれど……。今回のカラミティアの潜伏期間は十時間。そこから二時間引いても八時間はある。二時間前にはプロの魔法師も派遣されるみたいだから、そこまで気負う必要はないわ」
潜伏期間が長いのも、レベルが低いのと関係しているわと佐藤は付け足した。
「そんなことはどうだって良いさ! 問題は報酬だ。僕らだって命を張るんだそれ相応の対価は、当然あるんだよね?」
蓮水の本音剥き出しの言葉に顔を歪める生徒もわずかにいたが、彼の言うことはもっともだ。
千風としても蓮水の主張には同意せざるを得ない。正直言って人命より金だ。わけのわからない見知らぬ他人の命を救うために命を落とすわけにはいかない。
魔法師はボランティアでもなければ聖人君子でもない。恐ろしく人間的でその実、人間なのだ。
何かをするには金がいる。
魔法を手に入れるには金が。救いたい奴を救うには金が。大切な人を守るには、傷つかせないためには……失わないためには……。どうしたって金が必要なのだ。
ひどく俗世的で人間的な醜い思考。その思考に千風は囚われていた。まるで鉄籠という名の檻に閉じ込められた小鳥のように。
千風には力がない。あの人のように、圧倒的で絶対的な力が。何かをなすための、大切なモノを手の内から取りこぼさないだけの力がまるで足りなかった。
だから千風には金が必要だった。金の力で少しでも自分の力を補うために。ちょっとずつでいい。一歩一歩でいいから、一日でも早くあの人に追いつきたいと、そう願いながら……そして最後はその人を守れるだけの力が欲しいと。
そう思って早八年。今の自分はどれだけ強くなったのだろうか? 現在の力でどれだけの守りたいと、救いたいと思える人間を取りこぼさずに済むのだろうか?
当時より遥かに強くなった自負はある。ただそれでも、まだまだ全然足りない。誰も彼も救うと言って本当に救ってしまえるだけの力を持った、あの人のように……たった一人で国の情勢を揺るがしかねないだけの力が、千風にはなかった。
死にものぐるいで鍛錬して修行して、血反吐を吐くことなんてのはもはや日常とまでなった。小学校高学年の時にはすでに単身で災害迷宮の中に放り出された。
死なないために頑張って頑張って、骨が折れようが、目の焦点が合わなくなろうが、構わず鍛錬に明け暮れた。そうやって本気で死ぬほどの鍛錬を耐え抜いてみせた。
そうして気づけば十年の月日が過ぎた。あまりにも長く短い、それでもやはり、少年の時期には長すぎた十年をそうやって過ごしてきた。やっとの思いで生き抜いた十年。その年月を賭して作り上げたのが、今の千風の力だ。
ただその力を持ってさえ、あの人には遠く及ばない。
理不尽だと思った。不条理だと、割に合わないクソッタレな人生だと。千風が十年の月日を過ごして学んだのは“天才”の存在だった。
化け物だ。カラミティアと同じだ。“天才”と“天災”、たった二文字の言葉で人に恐怖や憎しみといったあらゆる感情を植えつけ嘲笑う。まるで手の届かない存在。
――ほんと、何やってるんだろうな俺……
自嘲気味に自らのちっぽけな手のひらを見つめながら嘲笑う千風を様々な視線が突き刺した。
いっその事あの時死んでいた方がこんな苦しい思いをしなくて良かったのかもしれない。このまま皆の視線が物理的に自分を殺してはくれないだろうか、などと自暴自棄になりかけていると、
「ちょっとあんた? なに葬式に来た人みたいな顔してんのよ! そんなんだとあんたが死ぬことになるわよ?」
自信に満ち溢れた赤髪が話しかけてきた。
今まさに俺は死にたいんだと、彼は彼女の胸ぐらを掴んで叫びたい気分だったが、彼女の残念な胸を見るとそんな気も和らいできた。
「あ! なによその人を残念そうに見る目は!? い、今ため息ついた! 人の胸見てため息ついたよねっ! どうなのよ、聞いてるの!!」
キャンキャンと犬のように騒ぐ緋澄の声が耳に響き、千風は再び長いため息を吐き出した。
「あ、また吐いた。どうゆうことよ! 私の胸に文句でもあるわけ!?」
涙目になりながらこれ以上見られまいとサッと胸を隠した。
「うるさいぞ緋澄? そんなだから転入生相手にナメられるんじゃない?」
やれやれ、肩をすくめながら蓮水が横槍を入れると、イザベルが鼻の穴を膨らませながら興奮気味に、
「き、貴様何を言う! お嬢様の自己主張が少ない、慎ましやかで可愛らしい、貧相そうに見えてその実、神々しい胸こそ人類の至宝! それが分からぬ愚か者など犬にでも食われてくたばった方が世のためです!!」
ビシリと指を突きつける。そのささやかな反動で彼女の胸が揺れたことにイザベル自身は気づかない。
それを見た緋澄の瞳から一雫の涙がつーっと虚しく頬を伝った。
あははと人差し指で頬をかいた誠が苦笑いを浮かべながらフォローに回る。
「そうだよ飛鳥! イザベルの言うとおりさ! 少なくとも俺は(胸の)小さい子の方が好きだよ?」
咄嗟にフォローに回ったためか、誠の言動は少しおかしかった。こいつはいつもこんな感じだ。言葉が若干足りない。だから案の定、
「うっさい! このロリコンッ!」
ついに涙腺の崩壊した緋澄から高速の回し蹴りをくらうのだった。
「へぶっ!?」
誠の顔面にクリーンヒットし、彼のカラダが吹き飛ぶ。そして千風は見た。彼女が回し蹴りを放ったことで翻ったスカートからひよこ柄のパンツが覗くのを。
「……その、なんだ? 俺が蒔いた火種ではあるが……流石にそこまでだと擁護しきれないんだが……?」
見られたことに気づいたのか緋澄は顔を林檎やタコもびっくりな程みるみるうちに真っ赤に染め、悔しそうにスカートを押さえた。
「うっさいわね!! 人がどんなもの履こうと勝手でしょ? このヘンタイッ!」
それはそうだが、ならなぜ逆ギレをする? 千風にはまるで意味が分からなかった。
げしげしと怒りの矛先をヘリに向け、地団駄を踏み始めた。こいつはヘリを落とすつもりなのか?
あまりにもうるさく耐え切れなかったようで、天王寺副会長が仲裁に入った。
「まあまあその辺にしておきなよ? 体力が有り余っているのは良いことだけど……この後嫌というほど使うかもしれないんだしさ?」
その言葉で我に帰ったのか、それとも上級生で副会長の発言だから大人しくなったのか定かではないが、取り敢えずうるさい阿呆が静かになったので千風としては素直に喜ばしいことだった。
静寂を取り戻した空間に、これで話が進められわねと佐藤が軽く咳払いをした。
「話を戻しましょうか? ええと、そうね。報酬の話だったかしら? もちろんそれなりには支払われるわ。合計四億、単純に割れば一人頭四千万と言ったところかしら?」
もちろん、功績によるけれど……と佐藤は付け足した。
「命を失うリスクが少ない割には充分だね! なら、僕は参加するよ」
今回の事件は場所が場所なだけに、しくじれば大きな損害が出る。都心にある高層ビルだ。下手したら中の人間だけでなく、外の被害だって大きくなる可能性は充分にあった。
四千万円もあれば、汎用型の魔導機が五つは買えるだろう。
「そう、なら準備は良いわね? 目標地点の上空に着いたわけだけれど……あなた達の対応能力、見せてもらうわよ?」
佐藤が親指で中指の腹を弾いた。それが合図だったらしく、上空でホバリングしていたヘリの底がパカリと開いた。
「「「「「「な――っ!?」」」」」
これには一同が驚きを隠せなかった。
総勢十人の魔法師候補生たちは重力に逆らうことなく、地上へと物凄い勢いで引き寄せられていく。このままなんらかのアクションを起こさなければ地面に叩きつけられることは分かりきっていた。
「クソッ! これが、曲がりなりにも教師のすることかよ!?」
千風は思い切り吐き捨てた。
高度はおよそ三百メートル。何もしなければ三十秒後にはあの世行きだ。だから死にたくなければ、この三十秒という短い間に魔法を使わなければならない。もちろん、この状況を打破する術を持った魔導機を所持していればの話だが……。
生徒会の面々に目を向ける。すると彼彼女らは天王寺の魔法でなんとかなったらしい。
手筈通り生徒会の面々は屋上から【切り離された残片世界】への介入を試みる。
――チッ、やはり事前に落とされることを知っていたか……。
で、他の一年組はと言うと……
「う、うわあああ――!?」
緋澄は泣きながら千風に引っ付いていた。
お嬢様ーとイザベルが叫んでいるが、彼女の位置からは緋澄と手を繋ぐことは不可能だ。
もはや事前に打ち合わせた五人での攻略は望めない。当初の予定では、攻撃魔法に特化した緋澄と蓮水が前衛、防御&妨害魔法を使えるイザベルと誠が中心。支援を行う千風が後衛での、地上付近からの介入だったが、こうなってしまえば作戦もクソもない。
イザベルと共にいる誠は無事だろう。現に二人の身体が淡青色に輝いている。これは魔導機を起動させた証拠だ。
蓮水はというと、両手に短剣のような物を顕現させ、
「――氷結豹魔! あのビルまで、橋を渡せ!!」
パキンッ。
ビルまでの距離、三十メートルにわたる氷の柱を一瞬にして生みだした。それに飛び乗り、すべり台のようにビルへと滑っていった。
そうして青い光と共に現実世界から消失した。
「ははっ、【憑依兵装】かよ……んな隠し玉持ってやがったか……。で? あとは俺たちだけなんだが?」
乾いた笑みを浮かべながら、今なお自分に張りつく少女を見る。
自分だけこの場で対処する魔導機を所持していないからなのか軽いパニックに陥ってる。
「いい加減離れてくれないと、二人ともあの世行きなわけだが……」
無理やり引き剥がそうとすると、ふにっとした奇妙な、しかし心地良い感触が手に伝わった。
「ひゃあい!?」
緋澄が女の子らしい可愛い声を上げる。
「あ、馬鹿暴れるな!」
「うう、さわってる! さわってるから〜〜っ!」
彼女は呻くような声とともに千風から離れようと必死だった。
ドンッ。千風の胸が押され、彼女との距離が離れてしまう。
「あっ――」
「馬鹿野郎っ!」
この間に、彼らの死が数秒にまで近づいていた。
千風は魔導機を起動させる。緋澄を救うために、この場を二人で生き残るために!
指先に光が灯る。穏やかな橙色の光だ。千風の口から紡がれる詠唱句。
「《悠久なる時の彼方、現し身の我、静寂の波中を潜り抜けん――天空の歯車》!! 届けぇぇ――!!」
カチリッ。千風の脳内で秒針が進む。千風に与えられた、存在するはずのない、彼だけの時間。時の世界で千風は加速する。灰色で孤独な……音も匂いも、時間の概念さえない世界でただ一人。千風はひたすらに前を向いた。
灰色の世界が現実を侵す。じわじわ、じわじわ。紙に火をつけたように急速に。
彼に与えられた時間は三倍ほどに膨れ上がる。一秒が三秒に、この時間は彼だけのものだ。たとえ神だろうと、干渉は許されない。
彼だけの、千風だけの絶対不可侵の時の流れ。
彼はその世界で叫び、もがき、苦しみながらも加速して、やがては神速さえをも凌駕する。
雷嵐がごとき光を纏いながら、彼の身体が加速、加速、加速する!
こうして歯車は廻り始めてしまった。彼の体内で、現実で、世界を飲み込むように。
彼の闇が、彼を取り巻く数多のニンゲンたちによる大きな闇が。
――これは、闇を抱えた少年少女たちによる今日を殺して明日を照らす、様々な思惑が交錯するあまりにも人間らしい欲望の物語――