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紙士養成学校の日常3~折妖トーナメント戦編~

作者: 工藤 湧

 このシリーズも第三作目となりました。前回の二作目でちょっと凰香の話にも出てきた、馬渕涼美がメインキャラクターの一人として登場。また、本編に登場したある人物の過去も、少し出てきます。

 今回は折士クラスと染士クラスの実習風景の描写もありますので、その辺もお楽しみ頂ければと思っています。主たる舞台は紙士養成学校の校内なので、学園生活しているなーという感じは、第一作目よりはあるんではないでしょうか。

 今回はシリアスシーンがメインですが、多少笑える場面も用意してあります。では、どうぞご覧下さい。

 

 

「どうも有り難う御座いました」

 最後の客を店先まで送り出し、馬渕涼美まぶちすずみはぺこりと頭を下げた。

「それじゃまた来るからね、涼美ちゃん」

「またのご来店、お待ちしています」

 馬渕が満面の笑みを見せると、ほろ酔い気分の中年男性は上機嫌で手を振り、去って行った。

「ふう……。やっと終わった」

 客の姿が見えなくなったことを確かめ、馬渕は肩で大きく息をした。

 吉華二十四年十一月六日、日曜日の深夜零時十分。州都市しゅうとし桐生区きりゅうく桐生が丘駅前の、飲み屋街の一画にある焼鳥屋・鳥勝とりまさ。五十代の夫婦が切り盛りする、客席数二十六の小さな居酒屋だ。馬渕は毎週土曜日の午後二時から閉店時間の深夜零時まで、この店でアルバイトをしていた。

 馬渕涼美は二十歳。この店から徒歩十分ほどの所にある紙士養成学校の学生、染士クラスの二年生だ。体つきは小柄で華奢だったが、見た目以上にタフで頑張り屋。つぶらな瞳が特徴的なその顔は、美人と言うより可愛らしいと言った表現がぴったりで、赤い三角巾とピンクのエプロンがとてもよく似合う。愛想も良くて笑顔を絶やさないため、客からの評判もいい。勤務は週一日だけだったが、彼女目当てで土曜日の夜に来店する常連客も少なくなかった。

 しかし、土曜日の夜は一週間の中で最も忙しい日。開店すれば直ぐに店は満席となってしまう。だが店の主人は焼き鳥を焼く作業にかかりきり。妻の女将もそれ以外の料理や飲み物を用意するので手一杯だった。よって接客の殆ど全てを馬渕が一手に引き受けていたのだ。

 客が来店すれば真っ先に出迎えて席まで案内し、注文をとる。料理や飲み物を席まで運び、空になった皿やグラスを下げる。注文品の計算をし、会計を済ませる。テーブルを綺麗にし、次の客を迎える準備をする……とまあ、まさにてんてこ舞いだった。しかもやることはまだまだある。開店前は店内の清掃や料理の仕込みの手伝い。開店後は後片付け。つまり、店にいる間は動きっぱなしで、一息入れる間もないのだ。

 学生である馬渕が、何故これほどまでに働かねばならないのか。その理由は家庭にあった。馬渕の父親は彼女が高校生の時、交通事故で他界していた。母親一人では馬渕と弟を食べさせるだけでやっと。大学進学を希望していたが、断念するしかなかった。

 そこで馬渕は紙士養成学校への入学を決めた。国立の専門学校であるため、授業料も他の学校に比べて安い。普通科の高校を卒業しただけでは、事務職ぐらいしか求人はないが、紙士養成学校で紙士の国家資格を取得すれば、もっと条件のいい所に就職出来る。そうすれば家庭も助かるし、弟を大学へ入れてやることも出来るかもしれない。

 とはいえ、二年間全寮制のこの学校に通うには、やはりそれなりの金が必要。実家の負担を減らすため、馬渕は働かざるを得なかった。鳥勝の仕事は時給がいいぶん業務はきつい。それでも馬渕は文句一つ言わず、懸命に働き続けた。

 こうして今日も閉店時間を迎え、店から客の姿は消えたが、まだやることは山と残っている。馬渕は一回背伸びをし、入口の暖簾を下ろすと店内へ戻った。

「お疲れさま、涼美ちゃん。今日はもう帰っていいわよ」

 カウンターの向こうの調理場から、パーマ頭のいかにも陽気そうな女性ーー女将が声をかけてきた。

「でも女将さん、まだ洗っていないお皿が沢山残っていますし……」

「いいのいいの。今日はこっちがやるから、早く帰りなさい。私達、涼美ちゃんがいるおかげで大助かりなんだから」

「そうだよ。涼美ちゃんが来てくれてから、お客さん増えたし」

 ここで鉢巻き姿の少し頭の毛が薄い男性ーー主人が話に割り込んできた。

「最初は涼美ちゃん目当てで土曜日しか来なかったお客さんが、それ以外の日にも来てくれるようになってね。常連さん、増えたんだよ」

 嬉しそうに笑う主人の横で、女将も微笑んだ。

「涼美ちゃんはうちにとって、商売繁盛の可愛らしい恵比寿さんよ。そんな恵比寿さんは大事にして上げないとね。女の子の夜の一人歩きは危ないから、本当だったら寮まで送って上げたいけど、ちょっとそれは無理。ごめんね」

「本当にいいんですか。帰っても」

「大丈夫よ。悪いけど、また来週お願いね」

 そのようなわけで、店主夫妻の好意に甘え、馬渕は今日はこのまま帰ることにした。三角巾とエプロンを手提げ袋に入れ、店から出ようとした時、主人が女将に向かって慌てて叫んだ。

「おいお前、あれを渡すつもりじゃなかったのか?」

「あら、いけない。すっかり忘れていたわ。涼美ちゃん、ちょっと待って」

 女将は踵を返して店の二階、住居部分へ駆け上がったが、暫くして手に赤い紙を持って戻ってきた。

「はい。これあげるね」

 女将は二十センチ四方のその紙を馬渕に手渡した。

「これ、妖紙あやかしですよね?」

「流石は養成学校の学生さんだけあるわね。その通りよ」

「でも何でこの妖紙を女将さんが……?」

 不思議そうに尋ねる馬渕に女将は説明した。四月の末のことだ。娘に子守を頼まれて嫁ぎ先まで出向いた女将は、幼い孫を連れて近所に散歩へ出た。ところがその途中で、孫が道端である物を見つけた。それがこの妖紙だ。どうやら落とし物のようなので、取り敢えず近くの交番へ届けたのである。

「……で、結局半年経っても落とし主が現れず、私の物になったってわけ。もしそうなったら、涼美ちゃんにあげようって決めていたのよ。学校の教材に使えるでしょう?」

「でも妖紙は公認ショップへ持って行けば、現金化できますよ。紙士じゃない人は鑑定料取られますけど、それも評価額の一割程度です。九割は受け取れます」

「公認ショップなんて私達入ったことないから、あんな所行けないわよ。面倒くさいし、いいからあげる」

 半ば強引に赤い妖紙を譲り受け、馬渕は店を出た。秋も終わりに差し掛かるこの時期、風は冷たく、夜遅いこともあって馬渕は一刻も早く寮へ帰りたかった。しかし妖紙のプロたる染士の性か、どうにももらった妖紙のことが気になって仕方がない。帰り道の途中で馬渕は立ち止まり、手提げ袋から妖紙を取り出して改めて見てみた。

 道端に落ちていたという妖紙。鑑定印が押されていない。未鑑定品だ。ということは、何処かの妖魔狩人が公認ショップへ持ち込む前に、うっかり「獲物」を落としてしまったのだろうか。だがそれにしては、何故落とし主が現れなかったのだろうか。大事な獲物をなくして、困りはしなかったのだろうか。それともなくしても困らないような、たかがしれた物なのか。

 馬渕は染士の卵、妖紙鑑定術も教わっている。ただ妖紙鑑定士の資格はおろか、紙士免許も持っていないので正式な鑑定は出来ないし、する事も許されていない。が、この妖紙は今は自分の持ち物。鑑定術の訓練として、どんな物であるか探るくらいなら問題はないはずだ。

 ーーちょっと見てみよう。

 馬渕は少し意識を集中して妖紙に右掌を当てた。だがその途端、今まで感じたことがないような妙な違和感を覚え、急いで掌を離した。

 ーーこの妖紙、「混ざって」いる……!


 馬渕が寮へ戻ったのは、それから五分後のことだった。第三寮ーー女子寮の正面入口は午後十時で閉鎖する。馬渕は合い鍵を使って中へ入り、二階にある自室へ向かった。

 自室の部屋の鍵は開いており、馬渕は音を立てぬようゆっくりと扉を開けた。部屋の明かりはついていて、布団が二組敷かれていた。うち一つに潜り込んで眠っていたのは、馬渕のルームメイトである砂川凰香すながわおうかだった。

「あ、お帰り涼美ちゃん」

 馬渕の帰宅に気付き、パジャマ姿の凰香が半身を起こした。

「ごめんね凰香ちゃん。起こしちゃって」

「いいよ。それよりお腹空いていないの。アンパン買ってあるから、食べたら?」

「大丈夫。向こうでちょくちょくつまみ食いしてきたから。パンは明日の朝食べるね。有り難う」

 馬渕は凰香の心遣いが嬉しいのと同時に、申し訳なく思った。凰香はアルバイトで夜遅く帰宅する自分のために、色々と気遣ってくれている。馬渕の分の布団を敷き、帰っても暗くて困らないようにと明かりも消さずに寝る。ちょっとした食べる物まで用意してくれる。起こしても嫌な顔一つせず出迎えてくれる。いつか外出した時は、土産の菓子まで買ってきてくれた。

 だから馬渕もなるべく迷惑をかけないよう、心がけていた。本当は殆ど食べておらず、かなり空腹だったのだが、今ここで何か食べれば音を立て、ルームメイトの睡眠を妨害してしまう。だから食べた、などと嘘を付いたのだ。

 手早くパジャマに着替え、馬渕は布団に入った。だがどうしてもあの妖紙のことが気になり、手を伸ばして手提げ袋から取り出した。

「ちょっと涼美ちゃん、それ妖紙? どうしたの?」

 明かりを消そうと立ち上がった凰香であったが、妖紙の存在に気付いて動きを止めた。思いもよらぬ物を見て眠気も吹き飛んでしまったのか、食い入るように見詰めている。

「バイト先でもらったの」

 そう言って馬渕は経緯を説明したが、凰香も彼女と同様の疑問を抱いたようだった。

「でもおかしな話ね。妖紙を落とす人が入るなんて」

「何か混ざっているみたいなの……これ」

「混ざっているって……。紙合わせしているってこと?」

 馬渕は頷いた。紙合わせとは染士術の一つで、二種類の妖紙を合体させて一つにする術だ。別々の妖紙が持つ特殊能力を、一枚の妖紙に集約できるメリットがある。だがその一方で互いの作用により、良くも悪くもその能力に影響が出る場合もある。故に染士術の中で最も奥が深い術でもあるのだ。

「妖紙のレベルは2で、素妖もとあやの一つはランク2の突撃獣とつげきじゅう。でももう一つは……わからない」

 馬渕は現在、六級相当の技術を取得している。よって5レベル以下の妖紙であれば、鑑定が可能だ。もらったら妖紙のレベルは2、楽々鑑定ができるはず。ところが素妖の正体を探ろうと意識を集中させても、突撃獣の姿は直ぐに頭の中に浮かぶものの、もう一つはどうしてもわからない。恐らく馬渕の能力では扱えないレベル、即ち6レベルを超える妖魔なのだろう。

 しかし、ランク2突撃獣のレベルは4、片や正体不明の素妖は6レベル以上。これらを紙合わせして、レベル2まで下がること自体が異常だ。通常の紙合わせでは両者の中間ーーこの組み合わせの場合は、少なくとも5レベルにはなるはずだからである。勿論、相性の悪さで妖紙のレベルが著しくダウンすることはあるが、かなり希ケースだ。とにかくーー何が何だかよくわからない、正体不明の妖紙なのである。

「そんな得体が知れない物だなんて……。ねえ、マダムに見てもらった方がいいんじゃない?」

「うん。月曜日の午後にマダムの実習があるから、その後にでも見てもらおうと思うの」

 二人が「マダム」と呼ぶ人物は、染士クラス主任教師の武藤節子むとうせつこのことであった。年齢は五十三歳、十六段染士。外見はやや太めーーぽっちゃりしたおばさんといった感じだったが、下町のおばさんとは明らかに一線を画する人物だった。ブランド物ではないものの、品の良い服や眼鏡を身につけ、言葉遣いも物腰も上品で性格も穏やか。まるで高級住宅地に住む婦人のようなので、「マダム」なるあだ名が付いたのだ。本人もこのあだ名がまんざらでもないようで、自分が学生にそう呼ばれていると知っても、全く気にもとめていなかった。

 武藤は校長と教頭に次いで、本校の中では教師歴が長い大ベテラン。卒業直後から本校で教職に就き、もう三十四年目になる。また夫が北和州校の教頭を、息子も西和州校の教師を勤める教職員一家であることも有名だった。

 ーーマダムならすぐにもう一つの素妖もわかると思うけど……。でもどうしてこんな物が道端に落ちていたんだろう……。

 馬渕が訝しがるのも無理はなかった。紙合わせを施しているということは、何処かの染士が手を加えているということだ。紙合わせを行っている企業や研究機関は多数あり、そこの職員がうっかり落としてしまったのかもしれない。だが鳥勝の女将が妖紙を拾ったのは隣の区・阿倍野区あべのく桃木町ももきちょう。あの周辺に該当する企業等はなかったはずだ。

 薄気味悪さを感じつつも、馬渕は布団を被った。だが疲れているはずなのに、なかなか寝付けない。もらった妖紙のことが気になって眠れないのだ。これもやはり染士の性なのかと思っているうち、ようやく意識が薄らいできた。夢の中にまで出て来ませんように……そう願いながら馬渕は眠りについた。


 翌日の十一月七日、月曜日。この日の午後、三時限目と四時限目は各クラスとも校内実習が行われる。馬渕が所属する染士クラス下組しもぐみは、武藤が担当する実習があった。

 漉士は危険職ということもあり、なり手希望者が少ないのでそのクラスの学生も三十四人しかいないが、残り二クラスは六十人以上の学生が在籍している。よって氏名の五十音順ーー出席番号の前半分は上組かみぐみ、後ろ半分は下組と、二学級に別れて講義や実習を受けるのだ。馬渕は後半組だったので、下組というわけである。

 男女の比率もクラスによってはっきりとした差がある。漉士クラスは圧倒的に男子の方が多いく、折士クラスは男女比が四対一くらい。しかし染士クラスは男子三十二人、女子三十一人とほぼ同じで、一般的な共学校のような雰囲気がある。

 紙士三役の性格は、各々明確な違いが見られる。中でも染士は他の二役に比べて温厚な人物が多いと言われるが、その理由は彼らの仕事の性質によるものだ。仕事に対する危険度は、漉士が百パーセントなら折士は四十から五十、そして染士はほぼゼロ。何しろ妖紙相手であることに加え、作業場所も殆ど屋内のため、命の危険に晒されることはまずない。よって武藤や福原のようなのんびりおっとりした人物でも、染士は十分勤まるのである。

 この傾向は学生にも当てはまる。ある学校関係者は、「喧嘩っ早く癇癪持ちの漉士クラスは火、冷静で計算高い折士クラスは水、呑気で我慢強い染士クラスは土」と表現したが、なかなか的を射ていると言われている。

 さてーー校内実習棟の二階にある第四実習室。ここでこれから馬渕逹染士クラス下組の学生が受けるのは、「染め直し」と呼ばれる染士術の実習だ。この術はその名の通り妖紙を別の色に染め直すものである。妖紙は折妖にした際の用途や使用者の希望により、特定の色にしなければならないケースがままある。「郵便配達用に使いたいので、赤い馬が欲しい」とか、「他人が持っていないような、カラフルな色のペットが欲しい」とか。だが手元に要望に添った妖紙が無い場合、別の妖紙をその色に変える必要性が出てくる。こんな時に使われる術が、染め直しなのだ。

 実習室に集まった三十一人の染士クラス下組の学生達は、全員綿百パーセントの白衣を着用していた。妖紙に他生物由来物を混入することは不可能なので、染め直しに普通の天然染料は使用できない。鉱物由来染料や化学合成された染料なら染まることは染まるが、色ののりが非常に悪い。さらに折妖にした際の悪影響が懸念されるので、まず使用しないのだ。

 つまり染め直しに使用する染料は、妖紙から抽出したものでなければ駄目なのである。「綿百パーセントの白衣」を着用する意味は、実はここにある。妖魔由来物は他生物由来物と混ざらないので、天然繊維に染料が付着してもシミにならないし、乾燥しても手でさっと払えば落ちるーーという利点があるのだ。

「それじゃ皆さーん」

 壇上へ上がった武藤は、四人ごとに別れて実習台に着席した学生達を見渡した。

「先週の実習で作った染料と脱色した白い妖紙を使って、染め直しをしてみましょう。今回はより高度なテクニックが必要とされる、二色染めですよ」

 既に単色染めの実習は経験済みの学生達であったが、今日はより上級の二色染めに挑む。単色染めは無地なら妖紙を直接染料に浸し、柄物でも絵に沿って筆で塗っていけば済む話だが、二色染めそうもはいかない。妖紙を絵柄に合わせて綺麗に塗り分けていかなければならないのだ。

 今回は縞模様、水玉模様、市松模様、そして花柄の四種類にチャレンジする。一番最初にやることは、妖紙にごく薄いベージュの染料で下絵をつけていく作業だ。縞模様や市松模様はカブラペンと定規を使って線を引き、水玉模様や花柄は専用のスタンプを押していく。この作業を終えたら、色着けしやすいように妖紙を専用の固定枠に張る。

 ここまでの工程は単色染めの柄物と同じだ。問題はこの先である。使用する妖紙は、各自取り扱えるギリギリのレベルの物。集中力を切らすと、すぐさま失敗につながってしまう。単色染めなら少し染料が柄からはみ出した程度で済むが、二色染めは互いの染料が境界付近で混ざってしまうのだ。また、一方の染料は上手く染まっても、もう一方が乗らないこともしばしば。妖紙から染料を抜いて始めからやり直すことも可能だが、染料を二種類以上用いると抜いた染料が混ざり、違う色になってしまうため、染料が無駄になってしまう。こういった所が単色染めと違って難しい点であった。

 最初は口もきかず一心不乱、懸命に二色染め取り組んでいた学生達であったが、これに挑戦するのは今日が初めて。そうそう上手く行くはずもなく、次第に実習室内が騒々しくなってきた。

「いやーん、境界が滲んじゃったー」

「うわっ、色が上手く乗らねー」

「ひゃーっ、柄が歪んだ~」

 とまあ、こんな悲鳴に近い声が上がる一方、

「下手くそ。もうちょっと上手く出来ねーのかよ、お前」

「もう、静かにしてよ。気が散っちゃうじゃない」

「ちょっと、染料こっちに飛ばさないでよ!」

 などといった冷やかしや苛立ちの声までも、室内に飛び交っている。

 「失敗したら妖魔に殺されるぞ!」と脅迫まがいの叱咤を受け、緊張感漂う中行われる漉士クラスの実習とは異なり、染士クラスの実習は何処かほのぼのとしたムードの中で行われる。まるで中学校の理科の実験か美術の授業風景を見ているような、そんな感じだ。

「はいはい、皆さんお静かに。今順番に回って行きますから、上手く行かなかった人は手を上げて下さい」

 武藤がパンパンと手を叩いて声を鎮めると、殆どの学生が一斉に手を上げた。しかし馬渕は上げなかった。武藤の声も耳へ届かぬほどの凄まじい集中力で、一言も喋らず黙々と、だが一つ一つ確実に模様を染めて行く。父親が他界するまで、中学高校と美術部で水彩画をやっていた馬渕。この手の作業は得意としていたが、ミスを一つもせずにこなすのは容易なことではない。馬渕の集中力は勿論、その状態を持続できる忍耐力が人並みではない証だった。

 紙士三役の必要能力はそれぞれ異なる。漉士は妖魔に立ち向かう度胸と、妖魔の気配を察知する勘ーー注意力。折士は折妖を自在に操るための意思伝達能力と、覚醒折妖を思った通りの形に整えるイメージ力。そして染士は妖紙を加工するための手の器用さと、紙合わせなどのアイデアを思い付く発想力ーーとは言われているが、実際に最も重要視されるのは忍耐力だった。染士の術には派手さはなく、しかもその仕事は地道で根気を要する。今回の実習で行われている妖紙の多色染めは、まさにその典型だ。飽きっぽい人間、集中力が長続きしない人間、コツコツした細かい作業に耐えられない人間は染士には不向き。武藤をはじめとする染士クラスの教師一同は、そうした学生に自分のクラスを薦めることは絶対にしなかった。

 一年次の七月初め、学生はクラスを決定する直前に三人の主任教師との面談ーー四者面談を受ける。この際、馬渕は武藤から「あなたは染士向きだから、是非うちのクラスにいらっしゃい。あなたなら絶対いい染士になるわ」と、熱烈な「ラブコール」を受けた。幸い馬渕も染士クラスを第一希望にしていたのですんなりと決まり、こうして武藤に染士術を教わっているのだがーー

「あらまあ! 馬渕さんは本当に上手ね」

 突然の武藤の声に、馬渕ははっと我に帰った。ふと顔を上げるといつの間にかすぐ側に武藤が立っている。巡回して自分の番が来たのだ。

「縞模様、水玉模様、市松模様までは終わったのね?」

「はい、先生。今は花柄をやっています」

「じゃあ終わっている三枚を見せて頂戴」

 武藤は染め直しが終わった三枚の妖紙を手に取った。一枚一枚じっくりと出来映えをチェックした後、武藤は感嘆の声を上げた。

「綺麗ねー。滲みやくすみ、はみ出しが全然ないわ。これなら三色染め、四色染めでも十分できるわよ。この調子でがんばってね、馬渕さん」

「はい……有り難う御座います」

 立ち上がって一礼した馬渕だったが、重要なことを思い出して武藤にそっと囁いた。

「先生。ちょっとお訊きしたいことがあるので、実習が終わった後少しよろしいですか?」

「別にかまいませんよ。それじゃ片付けが終わった後にね」

 武藤は快く承知して隣の実習台へ移った。人の良い武藤なら断ることはないだろうと馬渕は思っていたが、何だか肩の荷が下りたようでほっとした。これであの妖紙の正体がわかると。

 結局この日の実習が終わったのは、定刻を三十分ほど過ぎた午後四時四十五分のことだった。馬渕は早々に四枚の妖紙の染め直しを終わらせたが、大部分の学生は作業に手間取り、時間をオーバーしてしまったのだ。

 実習後の後片付けも終わり、学生達は寮へ引き上げていった。今ーー五時現在、実習室に残っているのは、武藤と馬渕の二人だけだ。

「お待たせ。それで馬渕さん、私に訊きたいことって?」

「はい先生。実はこの妖紙を先生に鑑定して頂きたいんです」

 馬渕は鞄から赤い妖紙を取り出すと、これを手に入れた経緯を説明した。

「成程ね。アルバイト先でこれをもらったのね。わかったわ。それじゃ見てみましょう」

 武藤は妖紙を受け取ると手を当て、目を閉じた。だが直ぐに驚いたように目を開け、改めて妖紙をじっと見詰めた。

「まあ、これは赤く染め直しをしているわね。勿論、紙合わせもしているわ。一つはあなたの言う通り、ランク2の突撃獣。そしてもう一つは、ランク5の青雷鳥あおらいちょうよ」

 ええっと馬渕は声を上げた。青雷鳥は和州を代表する格の高い妖魔で、ランク1個体でも11レベルある。その名の通り見た目は青くやや小太りの鳥といった感じで、サイズは大きくても十ほど。上瞼に虹色の飾り羽が生えた愛嬌のある姿をしているが、その力は侮れない。ランク3以上で口から雷を吐く「雷撃放射」、ランク6以上で「穏形」、ランク8以上で全身から四方八方に放電する「全身放電」といった特殊能力が使える。知能も高く、人語も理解でき喋ることも可。漉士にとっては非常に手強い相手だが、幸いなことに高山地帯に生息し、人との接触を嫌うため、過去に被害も数えるほどしか報告されていない。

「ランク5の青雷鳥は15レベル。この妖紙とランク2の突撃獣の妖紙を紙合わせするなんて、普通の染士だったらまずやらない組み合わせよ」

 レベル差が十以上ある組み合わせは、紙合わせを行ってもあまりいい結果は得られない。バランスが悪すぎて、双方の特殊能力が上手く引き出せないことが多いからだ。ランク5の青雷鳥は雷撃放射が使えるが、ランク2の突撃獣には特殊能力が何もない。通常この組み合わせでは、青雷鳥が持つ電撃放射の能力がダウンするだけだという。これに加え、突撃獣の「ある特性」が雷撃の威力をさらに落とし、使い物にならなくしてしまう。紙合わせするメリットが全くないのだ。

「でもね。この妖紙、紙合わせをしているだけじゃないの。物合わせもしているのよ」

 物合わせとは染士術の一つで、妖紙に他の妖魔の由来物、具体的には毛や羽、血液などを混ぜ込む術である。妖魔の身体の一部を混ぜることにより、その妖魔が持つ特殊能力を妖紙に取り込むことを目的としている。しかし紙合わせに比べて遥かに効率が悪く、施術する意味があまりない。そのため染士もこの術を使う機会はそう多くはないのだ。事実、紙士養成学校でもこの術は教えてはいるが、実習も一回切り。重要視していないのである。

「そんなややこしい妖紙だったなんて……。それで先生、どんな妖魔の物が入っているか、わかりますか?」

「二種類入っているわね。えーっとね……霧纏きりまとい雪地潜ゆきじむぐりよ。どちらも血液ね。残念だけど、ランクは不明。二、三滴くらいの微量の血液じゃ、そこまでわからないわ」

 霧纏は険しい山岳地帯に住む妖魔で、見た目は二本足の山羊といったところ。ランク2以上の個体には「霧発生」という特殊能力があり、常にその身に霧を纏っているので、この名が付いた。一方の雪地潜は寒冷地を好む妖魔で、純白の蛇の姿をしている。雪崩や吹雪を起こす妖魔として知られ、生息地域ではかなり恐れられているが、暑さに極めて弱い。

 この両者の取り合わせも紙合わせ同様、かなり異質だ。霧纏は霧発生を除けば、己の声を敵の周囲に纏わせて欺く「声纏い」と、張りぼてのダミーを複数作る「分身体」といった逃走用の特殊能力しか持っていない。雪地潜にしても真冬の豪雪地帯でなければ特殊能力を発揮できず、妖紙に由来物を混ぜる意義が見いだせないのだ。

 おまけに血液だなんてーーと、武藤は驚いていた。妖魔からその由来物を採取する事は容易ではない。毛や羽は死体からでも採れるのでまだいい。ところが血液は生きた妖魔からでなければ得られない。採血方法は以下の通りだ。妖紙を頑丈な、かつその妖魔のサイズぎりぎりの大きさの檻に入れ、紙解きをする。元の姿へ戻り、檻に閉じこめられて身動きがとれない妖魔から、注射器を使って強引に採血するーーという、かなり乱暴なやり方だ。

 だがこうして手間をかけて採取しても、血液を含む全ての妖魔由来物は、時間が経つと妖気を放出しながら分解、消滅してしまう。すぐに妖紙に組み入れないと、施術出来なくなってしまうのだ。染士がこの術ーー物合わせをあまり使いたがらないのは、この辺にも理由がある。

「あなたもわかっているとは思うけど、ここまで手を加えてしまうともう実際に折って確かめてみなければ、どんな能力を持った折妖おりあやになるか、見当も付かないわ。まあそれほど危険な能力はないとは思うけど」

 妖紙にどんな特殊能力があるかがわかるのは、素妖が判明しているからだ。この妖紙の素妖はランク○○の△△だから、特殊能力はXX……と、いった具合に。ところが紙合わせをしてしまうと、両者の相互作用によりどんな能力を持った妖紙ができるか、わからない場合が多々ある。特殊能力が低下したり消滅したり、逆に強化されたり。レベルが両者の中間に収まらず、上がったり下がったり。突然変異的に予想外の特殊能力が身に付いたり……と。これが紙合わせの醍醐味でもあり、また怖さでもあるのだ。

 今回の場合、紙合わせをしただけなら、特殊能力がどうなるかは大体見当はつく。しかしこの妖紙は、物合わせまでしているのだ。さらにレベルも大幅にダウンしている。染士の常識を逸脱した加工を施した、滅茶苦茶な代物なのである。流石の武藤もどんな能力が秘められているのか、首を捻ざるを得なかった。

 ただ折妖にして覚醒すれば、すんなりと特殊能力が判明するわけではない。折妖に人語を喋れるほどの知能があれば、何を持っているのかきちんと口で説明させることもできる。しかしそこまで賢くなければ、闇雲に特殊能力を使うように命じて確認するしかないが、これはかなり危険なやり方だ。威力不明な爆弾を、実際に爆破させてみるようなものだからである。故に未知の組み合わせを試す時は、口でのやりとりが可能なくらいの知能を持つよう、配慮する必要があるのだ。

「……わかりました、先生。有り難う御座いました」

「どうする、馬渕さん。念のため、鏑木かぶらぎさんに頼んで確認してもらう?」

 鏑木とは折士クラス主任教師の鏑木とおるのことだった。紙士養成学校本校の場合、校長は漉士で教頭は染士。よって校内で最も実力がある折士は彼ーー十五段折士である鏑木なのである。

 鏑木に頼めば確実に折妖にした際の能力が判明するであろう。その方がいいかも……と、馬渕は考えた。だがこの時、脳裏にある台詞が蘇った。

 ーーお兄ちゃんの実力じゃ優勝なんて絶対に無理。でもせめて一勝くらいはさせてあげたいわ……。

 二、三日前に凰香が漏らした言葉だ。水曜日から折士クラスで折妖を用いた大きなイベントがある。凰香の兄ーー砂川鳳太すながわほうたは折士クラスの学生で、先日やっと九級相当となった。この妖紙のレベルは2、今の彼なら使える。それに妖紙は折士に折ってもらい、折妖にして初めてその力が発揮されるものなのだ。せっかく鳥勝の女将にもらった物、有効に使いたいーー

「いえ。私の方でひとまず保管しておきます」

「そう、わかったわ。ただし使う時はくれぐれも慎重にね。あと、一応鑑定証みたいなものは出しておくわね」

 武藤はメモ用紙に正規の鑑定証と同じ内容のものを記入し、馬渕へ渡した。それによればサイズは二十三あるこということだった。

 改めて礼を言い、馬渕は武藤と別れて寮へ戻った。だがこの決断が後日とんでもない騒動を起こすことになろうとは、この時の彼女は知る由もなかった。


 この日の夜六時過ぎ。焼鳥屋・鳥勝の暖簾をくぐり、二人の客が店内へ入ってきた。

「あら、鏑木先生に藍沢先生。いらっしゃい」

 女将が愛想良く出迎えた二人は、紙士養成学校の主任教師だった。実は鏑木と藍沢はこの店の常連客で、週に一、二回仕事帰りに立ち寄っている。二人はいつものようにカウンター席の端、店の奥の二席に腰を下ろした。

 鏑木は藍沢と同じ年の五十二歳。共に紙士養成学校の同期で、クラスは違うものの学生時代からの顔見知りだった。痩身で身軽そうな藍沢とは対照的に、鏑木は肩幅のがっちりした、腕っ節も良さそうな大男。髪は小綺麗に短く刈り込み、折り目がびしっと入ったスーツを着て、色が薄めのサングラスを愛用している。身だしなみにも気を遣い、そこそこお洒落だ。服装にはやや無頓着なところがある藍沢とは異なるタイプの人間だったが、馬は合うようだった。

 中途採用の藍沢に対し、鏑木は武藤と同様に卒業直後から教育現場一筋の筋金入りの教師。無闇やたらに怒鳴るようなことはしないので、藍沢ほど学生から怖がられておらず、「カブさん」との愛称もあった。ただ明らかな強面で、サングラスを着用しているせいもあり、一見するとその姿は反社会勢力の最高幹部のよう。よって怒った時の迫力はかなりのものがあり、その様は「組長モード」と呼ばれ恐れられていた。

「女将さん、いつもの焼き鳥の盛り合わせを頼む」

 煙草に火を着けながら、鏑木が注文をした。 

「飲む物は何になさいますか? 鏑木先生は日本酒?」

「いや、今日はビールにしておこう」

「ほう、珍しいじゃねえか。この蟒蛇うわばみめが」

 すかさず突っ込みを入れる藍沢に、負けじと鏑木も言い返した。

「流石に月曜から日本酒はな。そういうお前は今日も大人しく茶か?」

 ああそうだよと藍沢は面倒臭そうに答えた。藍沢は家の外でも中でも酒を一滴も飲まない。酒が嫌いなわけでも、体質的に飲めないわけでもない。若い頃、会社勤めをしている時は付き合いもあり、よく飲んでいた。だが、退治屋稼業を始めてからぱったり酒を断ったのだ。退治屋はいつ妖魔の退治依頼が入るかわからない。二日酔いが酷くて依頼を受けられないようでは、信用を失ってしまう。常に体調を万全に整えておかねばならず、その習慣が教師になった今でも続いているのである。

 注文した飲み物や焼き鳥が揃ったところで、鏑木が尋ねた。

「藍沢、お前のクラスのカリキュラムの進行具合はどうだ?」

「今のところは順調だ。幸い単位を落とした奴もいないしな。先月の野外実習も、春の時ほど手こずらずに済んだ。それでそっちはどうなんだ。明後日から折妖トーナメント戦だろう。これという優勝候補はいるのか?」

 折妖トーナメント戦とは、折士クラスの校内実習の一つだ。学生に折妖を作らせ、その折妖を一対一で戦わせて技術を競い合わせる。折士は妖紙を折って優れた折妖を作り出すことも大切だが、同時に折妖に指示を与えて思うがままに操る技量も重視される。この実習は主に後者の技術向上が目的で、毎期二年次の十一月の第二週、水曜日と木曜日に行われる。今期は今週、九日と十日に開催だ。

 方法は勝ち抜けーー即ちトーナメント方式。校庭に作られた直径二十メートルほどの円内ーーリング内で二体の折妖を戦わせる。トーナメント戦で使用出来る折妖は、各自一体のみだが、対戦ごとに折り直して違う形の折妖にしても構わない。制限時間は三分で、それまでに戦闘不能になるか、リングの外へ出るか、降参した方が負けとなる。制限時間内に決着が付かなかった場合は、レフリーと主任教師が勝敗を判定する。

 準々決勝まで残ればA評価、一回でも勝てばB評価、初戦で敗退した場合はC評価が学生に与えられる。今期の折士クラスの学生は六十四名なので、優勝するには六回勝たねばならないのだ。

 とはいえ、学生の折士術のレベルに差があるのは事実。公平を期するため、使用する妖紙の上限は5レベルまでと定められている。この規定さえ守り、かつ鑑定済みの物であれば、どんな妖紙でも使用は可能だ。許可をもらって公認ショップで購入してもいいし、学校が用意する物を使ってもいい。親族や知り合いが公認ショップを経営している者は、そこから入手することもあるようだ。

 実は5レベルまでの妖紙を使用するということは、別の主旨もある。5レベル程度の妖紙は、大した特殊能力を持っていない。身を守るための能力、つまり守備系能力が主で、攻撃系能力は火炎放射が関の山。学生には特殊能力にあまり頼らず、自分の意思伝達能力で折妖を操って戦うことが求められるのだ。

 ところでこの折妖トーナメント戦、本来は折士クラスの校内実習の一つにすぎないのだが、その派手さと娯楽性から校内の一大イベントと化していた。実のところこれの開催中は、他クラスの講義や実習をやりたくても出来ないのが実状なのだ。トーナメント戦は校庭が会場となるため、戦闘中は騒音が校舎や実習棟まで届く。気が散ってそれどころではないし、この刺激的な催しを見たがる学生や教師も多い。よって校長や教頭をはじめとする全教師、それに他クラスの学生までもがギャラリーとなるのである。

 つまりーートーナメント戦に参戦する折士クラスの学生達は、大勢の見物人に囲まれて実習を受けることになる。そんなところで不様な負け方でもしようものなら、学校中に恥をさらしてしまう。そのため皆必死になって妖紙を選択し、作戦を立てるのだ。

 藍沢の質問に、鏑木はグラスに口を着けながら答えた。

「いや、今回は飛び抜けた実力者はおらん。ドングリの背比べだな。誰が優勝してもおかしくはない」

「そうか。今回はダントツはいないのか」

「ダントツ、か……。それを聞くとあいつのことを思い出すな。墨田仁すみだひとしのことを」

「ありゃ凄かった。あの期の折妖トーナメント戦、ぶっちぎりの優勝だったな」

「しかし、お前が墨田のことで血相変えて飛んできた時は、本当に驚いたぞ」

 鏑木が言う藍沢が「血相変えて飛んできた」のは、今から七年前の吉華十七年六月末のことだった。第四十七期生の入学から三ヶ月に渡って行われた、妖視能力取得訓練が終了した頃だ。無事妖視能力C以上を身につけた学生を、各クラスに振り分ける時期が迫っていた。

 クラス分けの手順は以下の通りである。まず学生にはどのクラスに行きたいか、第二希望までをその理由と共に書面で提出させる。各クラスの主任教師は、部下の教師と協議の上で学生の「適正」を見極め、自分のクラスを薦めるか否かを決める。そしてその結果を四者面談で学生に伝えるのだ。この結果と学生本人の第一希望が一致すれば、その時点で確定。そうでなければさらに面談を重ね、調整していく。

 藍沢と鏑木は、この年の四月に揃って平教員から主任教師に昇格したばかりだった。つまり、初めて学生の運命を決める面談に臨むのだ。最終的にどの学生を自分のクラスに「勧誘」するか、その権限は主任教師にある。不慣れなこともあり、慎重になるかと思いきや、藍沢は「四者面談の件で話がある」と、かなり慌てた様子で鏑木を呼び出したのである。

 鏑木が呼び出した理由を質す間も与えず、開口一番藍沢はこう言った。

「鏑木。墨田はお前の所で面倒見てやってくれ」

「何故だ? あいつはお前の所が第一希望だったはず。妖視能力はBだし、度胸もある。注意力も反射神経もいい。漉士適性は十分だろう。それとも何か問題でもーー」

 苦笑いを浮かべる鏑木の目を、藍沢はじっと覗き込んだ。

「ある。一つ大きな問題が」

「何だ、それは?」

「妖魔に対する恐れを知らん」

 その言葉を耳にした途端、鏑木は表情を強ばらせた。漉士には妖魔に立ち向かう度胸も大事だが、それと同じくらい、いやそれ以上に妖魔に対する「恐れ」ーー警戒心も必要なのだ。もしこれがないと、どうなるか。妖魔を見るや猪突猛進、突っ込んで餌食になってしまう。

「入試の面接で初めてあいつを見た時から、何かおかしいと感じていた。普通の奴は就職先がいい、家が公認ショップをやっているからなんて理由でこの学校を志望してくる。だがあいつは違った。何が何でも紙士になりたい、妖魔を倒したいと言っていた。そんなあいつから俺は、何かぎらぎらした殺気じみたものを感じたんだよ。妖視能力の訓練中も、絶対に妖視能力を身に付けてやると言わんばかりに、死に物狂いで訓練に取り組んでいた。あまりの気迫に他の学生は皆引いていたぞ」

 墨田のこんな凄まじいほどの熱意が、藍沢には異様に見えた。これは何か訳がありそうだと感じたものの、訊いても素直に答えてくれそうにはない。そこで藍沢が独自に調べてみた結果、昨日驚くべき事実が判明したのだ。

「去年の暮れ、青波県の山村で妖魔による一家惨殺事件が起きた。その被害者というのが、奴の家族だ。犯人の妖魔は未だ見つかっちゃいない。あいつは敵を討つために紙士になろうとしているんだよ」

 鏑木は驚きのあまり何も言えなかった。そのような事件があったことは、噂には聞いている。だが墨田がその事件の被害者遺族であり、まさか敵討ち目的でここへ来たとは……。

「あいつの気持ちは痛いほどわかる。俺もガキの頃、目の前で親友を妖魔に殺され、それがきっかけでこの道に進むことを決めた。しかしその俺だって、あそこまでいかれちゃいなかった。妖魔に対する恐れは持っていたぞ。だが奴は家族の敵をとることしか頭にない。それがあいつから妖魔への警戒心を奪っている。しかも奴が追っている相手は幽鬼ゆうきだぞ。触れられたら最後、干物にされてあの世行きだ。あんな無鉄砲な命知らずを俺のクラスに入れられるか!」

「そうか……。だがお前なら、墨田に警戒心を教えることも出来るんじゃないのか。あいつはまだ若い。若気の至りってやつなら、少し時間をかけて直すこともーー」

「馬鹿野郎!」

 藍沢は眉をつり上げ、鏑木の胸ぐらを掴んだ。

「口で言ってわかるような奴か! 鏑木、てめえは教え子の葬儀に出たことがあるのか! 棺の中の無残なその姿を見たことがあるのかよ!」

 漉士に対する妖魔の恨みは根深い。憎き敵をその手に掛け、息の根を止めても気が治まらず、執拗に遺体を攻撃する。遺体はズタズタに引き裂かれ、二目と見られぬ姿となってしまう。山野で殺害された場合、発見される前に野生動物に食い荒らされ、全ての部位が見つからないこともしばしば。藍沢が参列した教え子の葬儀の中には、棺の中に入っていたのは右手首一つだけ……などということすらあった。「指紋でかろうじて本人であることが確認されました」と、遺族が振り絞るように話していた……。

 怒りで震えるその振動が、藍沢の手を介して鏑木にも伝わってきた。その目にうっすらと浮かぶ涙に気付いた鏑木は、目を閉じて頷いた。

「……わかった。墨田は俺の所で預かる。心配するな」

「そうしてくれ。俺はあいつを死なせたくない。折士なら妖魔に殺される確率はぐっと低くなるからな」

 ようやく藍沢は安心したように手を離した。漉士と折士がコンビを組んで妖魔を狩る場合、まず相手に真っ先に狙われるのは、紙漉きが出来る漉士だ。次いで妖魔を傷つけることが出来る折妖、最後に自身では妖魔を攻撃できない折士という順になる。折士はいざとなれば、折妖に盾になるよう命じることも可能であり、生き残る確率は漉士よりもずっと高い。そのため漉士が狩りで死亡したという話は時折聞くが、折士がやられたケースは紙士養成学校創立以来数件程しか報告されていなかった。

 かくして四者面談で、藍沢は自分のクラスに墨田を入れることを拒んだ。理由は一切語らず、ただ駄目の一点張り。墨田は憤慨し、理由を教えてくれと迫ったが、藍沢は相手にしなかった。言ったところで墨田が納得するはずもなく、さらに感情を煽り立てることになるからだ。

 やむなく第二希望の折士クラスに入った墨田は、妖視能力取得訓練時以上に猛烈に学業に励んだ。その結果、前代未聞の折士免許初段を取得して卒業することとなった。自分を拒んだ藍沢を見返してやりたいと思ったのか、とにかく恐ろしいほどの努力と執念であった。

 そんな墨田に警察官になるよう薦めたのは、鏑木だった。墨田は誰か漉士と組んで退治屋になりたかったようなのだが、鏑木はこれに危機感を抱いていた。自由奔放な退治屋にでもなろうものなら、敵討ちのため暴走しかねない。そこで一計を案じた。

「退治屋は基本個人主義者が多いから、業界に流れる情報量もたかが知れている。だが警察は全国組織、情報網も完備されている。お前が欲しがっている情報も手に入りやすいぞ」

 そう言って墨田を諭したのだ。勿論本音は別にある。闇雲に突っ走りそうな墨田に、「大組織」という名の縛りをかけるためだ。一度組織の一員となれば、勝手な振る舞いは許されない。律儀な墨田なら、上意に逆らう真似はしないはずと睨んでのことだった。

 墨田は大卒なので、警察庁の国家公務員上級職ーーいわゆるキャリア組を目指すことも出来た。しかし実際に採用試験を受けたのは、ノンキャリア組である地元の青波県警察だった。より現場に近い県警察の方が、目指す敵に近付けると思ったのだろう。在校中から優秀な紙士技量を持ち、年少時から大学卒業時まで剣道をやっていた墨田は競争倍率八倍以上の難関を突破し、晴れて警察官になったのである。

「あれからもう七年になるのか……。早いものだな。それで鏑木、墨田はまだ大人しく警察官をやっているのか?」

「ああ。今じゃ警部補だとよ。奴は大卒だから高卒の連中に比べれば、昇任試験を受けられるまでの期間は短いが、それにしても早いよな。さらにこの九月の紙士昇級試験で、ついに十四段になった。この様子だと俺も来年、あいつに抜かれるな」

「警察官になってもまだそんなにガツガツしているのか。変わっちゃいねえなあ……。この様子だと俺のこと、まだ恨んでいそうだな」

「気にするな。あいつは聡い男だ。いつかお前の本意に気付く日が来る」

「だといいんだがなあ」

 そう言ったところで藍沢は女将に茶のお代わりを求め、鏑木はグラスを置いてまた煙草を吹かし始めた。だが二人とも知らなかった。この時既に墨田は、青波県警察から警視庁警備部警備課へ異動していたことを。警視総監の梶原雅人かじわらまさとの差し金で、対妖魔エスピーになっていたことを。

「先生方も苦労なさっているんですねえ。本当にお疲れ様です」

 新しい茶を藍沢へ差し出しつつ、労うように女将が言った。

「なーに、養成学校に入る前の頃に比べればこの程度の苦労、何ともねえよ。まあ、あの頃は若かったから、体も無理がきいたが」

 藍沢がさらっとそんな事を言っても、女将には意味がわからない。すると鏑木が小声で笑い出した。

「女将さん。こいつ見かけによらず結構苦労しているんだよ」

 鏑木の話によれば、藍沢は和州中央部にある流岡ながれおか県のとある山村の出身だった。漉士になることを父親に猛反対され、中学を卒業すると同時に実家を飛び出し、一人州都市へ出てきた。そこで働いて学費をため、三年後に紙士養成学校本校へ入学。在学中もアルバイトをしながら何とか卒業までこぎ着けた。

「まあ、それは本当に大変! 今も昔もお金に苦労している学生さんはいるのねえ。うちの店にも一人、お宅の学校の学生さんがバイトに来ているんですよ」

「ほう。それは誰だ?」

 鏑木が興味深そうに尋ねると、女将を差し置いて店の主人が答えた。

「馬渕涼美さんていう、可愛いお嬢さんですよ。いや、彼女は本当に働き者でね。お客さんの評判もいいんですよ。土曜の午後しかバイトには入っていませんから、先生方と顔を合わせることはありませんがね」

 ところが馬渕の名を聞いても、藍沢も鏑木もぴんとこない。自分のクラスの学生ではないし、妖視能力取得訓練時も担当ではなかったからだ。

「と、いうことは、武藤主任のクラスの学生か……」

 鏑木が自身も主任教師であるにもかかわらず、武藤のことをわざわざ「主任」と呼ぶのには訳があった。藍沢と鏑木は同期。共に紙士養成学校本校の第三十四期生だ。それに対し、武藤は一期上の第三十三期生。藍沢と鏑木にとっては先輩に当たる。

 紙士の世界ではいつ紙士養成学校を卒業したかで、上下関係が決まる。よほど年が離れていない限り、同期卒は同僚扱い。だから藍沢と鏑木はお互い名前も呼び捨てにし、タメ口で話す。しかし武藤が相手の場合、それは許されない。一期でも上であれば、たとえ年下でも先輩として敬うーーそんな慣習があるのだ。

「馬渕涼美か……。だがこの名前、つい最近何処かで聞いたことがあるな……。あ!」

 思い出したのか、鏑木は煙草を勢いよく灰皿へ押し当てた。

「例の人気投票で今期の二位に入っていた学生だ。うちの男子学生やつらがそんな事言っていたぞ」

 この「例の人気投票」とは、男子学生の間で行われる「結婚を前提とした交際をしたい女子学生人気投票」のことだった。二年次の十月下旬頃、第一寮と第二寮の寮長が音頭をとって行う。その歴史はかなり古く、第二十六期生の頃から、つまり戦後間もなく始められたという。男子学生が自主的に行う歴史ある「恒例行事」だが、表向きは秘密裏にされ、その結果も参加者にのみに公表されていた。

 何故卒業まで半年を切ったこの時期に、投票が行われるのか。ポイントは「結婚を前提とした交際」というところにある。もし恋愛を楽しみたいだけの相手が対象であればもっと早い時期、一年次に行われていたであろう。しかし結婚をしたい相手となると話は違う。外見は勿論、内面も重要になってくる。内面、即ち性格はある程度の期間一緒に校内で暮らしてこなければ見えてこない。だからこそ入学して一年半以上経った今やるのだ。この人気投票で上位に入るのは、顔だけではなく性格もいいーー少なくとも男子学生には、そのように見えるーー女子学生だけということになる。

「まだやっているのか、あれ」

 呆れる藍沢を鏑木はからかうように横目で見た。

「そのようだ。男子学生の伝統行事として連々とな。俺達の頃にもあったよなあ。藍沢、お前、誰に投票した?」

「俺は白票を投じたぞ。あんな馬鹿馬鹿しいこと、やっていられるか」

「お前は『がり勉』でバイトにも忙しかったから、女に興味示さなかったよな。そんなお前が結婚、しかもそっちからプロポーズしたと聞いた時は、いよいよここがおかしくなったかと思ったぞ」

 自分の頭を指先でコンコン突く鏑木を見て、酒も飲んでいないのに藍沢の頬がほのかに赤くなった。

「うるせえ! そう言うお前は七瀬絵梨花ななせえりかに投票したんだろう? あの時、ダントツの一位だった!」

「大正解」

 いともあっさりと鏑木は認めた。

「そいつは残念だったな。彼女を同級生にとられてよ」

「まあ仕方ない。俺みたいに酒も煙草もやるような男は、彼女の好みじゃなかったみたいだしな。でもお前のルームメイトには、してやられたって感じだったぞ。もっとも彼女もあいつに好意を持っていたみたいだな。付き合ってくれとあいつに言われて、その場でオーケー出したって話じゃないか」

「あいつは本当に面倒見のいい男だったからな。諦めがついただろう、彼女があいつを選んだと聞いて」

「俺はな。だが彼女に交際を申し込んだ連中は、えらく肩を落としていたぞ。その数、一人や二人じゃなかったからな」

「ほー、何人ぐらいいたんだ?」

 当時は恋愛ごとなど全く関心がなかった藍沢だが、今はそうでもないようで、にやけながら鏑木の顔を見詰めた。

「俺が知っているだけでも七人はいたぞ。実は俺のルームメイトもその一人で、ショックで飯も喉を通らない有り様だったな」

「そりゃお気の毒様。ところで鏑木」

 藍沢は笑止顔を改めた。

「もうすぐあいつの三回忌だが、お前は行くか?」

「そのつもりだ。それにしてもテツの奴はどうしたんだ? 去年の一回忌の時も顔、見せなかったじゃないか」

「知るか! テツの野郎が何を考えているのか、俺にはわからねえ! 自分の兄貴の法事だっていうのによ!」

 藍沢は自棄になったように焼き鳥を頬張りだしたが、鏑木はため息をつくだけで何も言わなかった。

 ーーテツと藍沢こいつは昔から仲悪かったからなあ……。もっとも俺もテツには言ってやりたいことは山とあるんだが……。

 とうとう鏑木は女将に日本酒を注文した。今週は折妖トーナメント戦がある。強い酒は控えようと思っていたのだが、気が変わったのだ。今夜はもう少し酔って帰りたいーーと、感じた鏑木だった。


「で、用って何だよ凰香。こんな所に呼び出したりして」

 午後七時過ぎ、紙士養成学校本校の体育館裏。鳳太は正面に立つ妹・凰香へかったるそうな視線を向けた。実は先程、鳳太は寮食堂でルームメイトの向井直哉むかいなおやと夕食をとっている時、凰香に声をかけられた。用があるから、食事が終わったら体育館裏に来てくれと。そのようなわけで鳳太は向井に先に部屋へ戻ってもらい、一人ここへやって来たのだ。

 凰香は辺りを見回し、人影がないことを確認すると、ようやく口を開いた。

「お兄ちゃん、トーナメントで使う妖紙、手に入れたの?」

「いや……それがまだなんだな。仕方ないから明日にでも学校からもらおうと思っているんだが」

「そう。それならこれ、あげる」

 そう言って凰香が差し出したのは、馬渕がアルバイト先でもらった、あの赤い妖紙だった。武藤に鑑定してもらった後、馬渕はこれを鳳太へ譲ることにしたのだ。話を聞いた凰香は酷く驚いたが、馬渕は「かまわないから」と言って笑うばかり。自分が持っていても仕方がないので、欲しい人に譲り、使ってもらうのが一番だとも。

 凰香もルームメイトの好意が嬉しかったが、馬渕が直接鳳太へ渡すことだけは反対した。あの単純な鳳太のこと、彼女の思いを変な意味に取り違える恐れがあったからである。

 妹から話を聞き、妖紙を受け取った鳳太は狂喜乱舞した。

「2レベルでこれだけの妖魔が入っているなんて。お買い得品だな」

「それマダムでもどんな特殊能力があるかわからない物よ。十分に気を付けて使ってね」

「ああ、わかったわかった。大丈夫だって。それにしても馬渕さんが俺に譲ってくれたなんて。すげー嬉しいぜ」

「ちょっとお兄ちゃん、勘違いしないでよ。私がお兄ちゃんにせめて一勝くらいはさせたい……って言ったから、涼美ちゃんは同情してその妖紙をくれたのよ。『好意』じゃなくて『同情』よ、『同情』。わかった?」

 しかし凰香がいくら言い聞かせようとしても、鳳太はニヤニヤするばかり。小躍りする兄の姿に、凰香は激しい嫌悪感を覚えた。

 ーー何よ、このやたらと嬉しそうな顔は……。さては……!

 凰香は兄の左耳たぶをぐいと掴むと、耳元で怒鳴った。

「お兄ちゃん、あの人気投票で涼美ちゃんに一票入れたでしょう!」

 途端に鳳太の動きがぴたりと止まった。図星だったのだ。あの「結婚を前提とした交際をしたい女子学生人気投票」で、上位三位までに誰が入ったのか、女子学生も男子学生の噂話を耳にして知っていたのである。もっとも二位の馬渕が一位と僅か二票差だったこと、そして三位とはかなりの差があったという事実までは、凰香は聞いていなかったが。

「やっぱり……。もう油断も隙もないわね、お兄ちゃんは!」

「そう言うなよ、凰香。馬渕さん可愛いし、優しいし……」

「お兄ちゃんには涼美ちゃんに直接お礼を言ってもらいたかったけど。もういいわ。私の方から伝えておく。涼美ちゃんに何かあったら大変だもの。お兄ちゃんもう二十歳なんだからね。もしそんなことして警察沙汰になったら、少年Aじゃなくて砂川鳳太って実名で報道されちゃうんだからね!」

「何だよ! 俺を変態扱いしやがって。妹のくせに可愛くないな! もういい。じゃあな」

 鳳太はむくれる凰香をその場に残し、妖紙をズボンのポケットへ押し込んで寮の自室へ戻ってしまった。だが部屋へ入るや、鳳太は呆気にとられた。向井がちゃぶ台の前に座り、具のないチキンラーメンをガツガツ食べていたからである。

「向井、さっき飯食ったばかりじゃないか」

「寮の飯だけじゃ足りないよ。腹減って仕方がないんだ」

「お前は図体でかいからなあ。後で腹こわすなよ。前みたいに動けなくなって、担ぎ込まれるようなことだけは勘弁してくれよ」

 人の話を聞いているのかいないのか、向井はせっせと口を動かすだけだ。そんなルームメイトの動きに目を配りながら、鳳太は自分の教科書の中から「紙折指南書・中級編」を引っ張り出した。次いで向井に背を向け、ポケットからそっと妖紙を取り出すと、指南書に挟み込んだ。

 幸い向井は食べることに夢中で、鳳太が何をしているのか全くわかっていない。鳳太としては、この妖紙の出所をルームメイトにーーいや、誰にも教えるつもりはなかった。馬渕が自分にとくれた物、どうしても秘密にしておきたかった。だから初めから教科書に挟んであったかのように見せかけたのだ。

「さて……。それじゃ明後日のトーナメント戦で使う折妖でも作るか。向井、汁飛ばすなよ。教科書に染みがつくからな」

 鳳太が指南書をちゃぶ台の上に置くと、向井は素直にラーメン丼と箸を持ったまま少し下がった。が、何か思い出したようで、不意に尋ねてきた。

「ところでさっき凰香ちゃんに呼ばれていたけど、何かあったのかよ」

「いや、別に大したことじゃない。けど喧嘩分かれしちまった。まあこんなこと、ガキの頃からよくあったけどな。そう言えば」

 指南書の「チラノサウルス」のページを開き、取り出した妖紙に折り目を入れながら鳳太は独り言を言うように呟いた。

「あの投票で、凰香にも一票だけ入っていたな。誰が入れたんだろうな」

 向井がうっと小さく唸り、箸を止めた。だが鳳太の視線は指南書と妖紙の間を往復するだけ。相手の異変に全く気付かない。

「兄貴の俺が言うのも何だけど、あいつの顔はなかなかいけている。でも性格がなー。あの渡辺ほどじゃないけど、結構きついところあるからな」

「そ……そうかあ……」

「何だお前、同級生のくせに知らないのかよ。ま、入れたのは漉士クラスの奴じゃ絶対にないな。ってことは、うちのクラスか染士クラスの奴か。それとも冷やかしで入れたのかよ。もしそうなら」

 みるみるうちに青ざめてゆく向井。鳳太は下を向いたままちゃぶ台を拳で叩いた。

「俺がそいつをぶん殴ってやる!」

 そんなつもりじゃないーーと、向井は心の中で首を横にぶんぶん振っていた。しかし、その感情を露わには出来ない。丼と箸を持ったまま完全に固まってしまった。鳳太のシスコンぶりは校内でも有名だ。あの投票は無記名で行われるので、誰がどの女子に入れたのかは一切わからない。だが何かの拍子に発覚でもしようものなら、何をされるかわからないーーそう思うと向井は生きた心地もしなかった。

「おい向井、どうした。気分でも悪いのか?」

 ここでようやく鳳太はルームメイトの様子がおかしいことに気付いた。

「そらみろ、やっぱり食い過ぎじゃないか。もう無理して食うなよ」

「あ、ああ……」

 呑気な鳳太は相手の胸の内を察することもなく、再び妖紙を折り出した。向井はふーっと大きく深呼吸し、フラフラ立ち上がって食器を片付け始めた。

 それから二十分ほど経過した頃、折妖は完成した。真っ赤なチラノサウルスだ。とにかく強そうで、見た目が栄えるようにと最強の恐竜を選んだが、初めて折ったこともあって出来は今一つだ。折り目のはみ出しや歪みが、幾つも生じてしまっている。

「まあ俺の実力じゃ、こんなもんか。とりあえず、こいつに名前を付けなきゃな。名前は……流星号!」

 不格好なチラノサウルスに流星号。凰香が聞いたら呆れて開いた口も塞がらないような、センスの欠片もない名前だった。それでも鳳太は一応満足し、早速折妖ーー流星号を覚醒させてみたいと感じた。どんな能力を秘めているのか、確認をとる必要もあったのだ。

 ちなみに折妖トーナメント戦に用いる折妖に限り、各自事前に覚醒させて調教や作戦の打ち合わせなどをすることが許されている。無論折士クラスの学生も他クラス同様、実習時以外での紙士術の使用は原則禁止だ。

 しかしサイズは二十三ほどあると聞いている。八畳しかないこの部屋で覚醒させるのは如何なものか。おまけに向井は気分が優れないのか、とうとう布団を敷いて寝込んでしまった。この状況では二メートル以上ある折妖を、歩かせるだけでやっと。特殊能力の確認など不可能だ。

 やむを得ず折妖を手にすると鳳太は寮を出て、徒歩二、三分程の場所にある近所の児童公園までやって来た。時刻は八時頃、周囲は住宅地なので、人の姿は全くない。だが街灯はあって園内は明るい。折妖を試すには絶好の場所である。

「しかし勿体ないことをするよな。賢くて格の高い青雷鳥に、アホ妖魔の代表みたいな突撃獣を紙合わせするなんて。こいつちゃんと喋れるのかよ」

 覚醒折妖が会話をこなせないようでは、苦労するのは目に見えている。話せなければ、己の能力を命令者に伝えられない。命令者の言うことを理解出来なければ、言葉で指示が出せない。素妖が青雷鳥だけなら何の心配もないが、突撃獣は人語を喋れない上に理解も出来ないときている。よってその折妖は、調教によって操作が可能になる使役獣や、食肉用動物に使われることが殆どなのである。そんな突撃獣と合わせれば、青雷鳥の高い知能に悪影響が出ることは必至だ。だがこれより約半年後、鳳太はアホ呼ばわりしたその妖魔に、移住先の町で追い回されることになるのだが……。

「とにかく覚醒させてみるか。汝を折りし折士が命じる。起きろ」

 折紙の折妖はみる間に巨大化し、生きたチラノサウルスの形となった。身の丈は鳳太とほぼ同じくらい。ところがその姿たるや、作った本人ですらびっくりするほどの「出来映え」だった。身体全体が丸みを帯び、筋肉もプニョプニョと軟らかそうで何とも頼りない。両眼は白く大きな玉の中に黒目がぽつんと一つ。両足の甲が地面にべたっとついた状態で「おちゃんこ」し、走ることはおろか歩くのもやっとといった感じだ。顔にもまるで締まりがなく、誰が見ても「アホ面」としか言いようがない。つまり幼児用の縫いぐるみそっくりのお粗末な折妖で、最強恐竜には程遠い代物だったのである。

 こんな不細工な折妖になった理由は、勿論鳳太の「実力」もある。が、それ以外にも彼はある致命的なミスをしていた。鳳太は紙折りの序盤、向井に話しかけていた。これでは頭に思い描いた覚醒時のイメージを、折妖へ満足に送り込むことは出来ないし、雑念も入る。結果、不出来な睡眠折妖に相応しい物が目覚めたのだ。紙折りの際は神経を集中させ、覚醒時のイメージをしっかり妖紙へ送り込むことーー鏑木が口を酸っぱくして注意してきたことを、鳳太は守らなかったのである。

「やべー、これじゃカブさんに怒られるぞ……」

 鳳太は焦った。普段はあまり怒らない鏑木だが、不注意から起こるミスや手抜きには非常に厳しい。ましてや基本的な作業を怠ったと知られたらどうなるか。「組長モード」になった時の鏑木の怖さは半端ではないのだ。

 鳳太は折目均しならしをーー折目を全て解き、妖紙へ戻して再度折り直そうかとも考えたが、ふと思いとどまった。この姿なら対戦相手は絶対に油断する。それが目的で最初からこのようなお粗末な姿になるようにしたーーと、しておけばいいのだ。

 自分の「悪」知恵に自分で感心しつつ、鳳太は流星号の前に立ち、話しかけた。

「おい、お前。お前の名前は流星号だ。わかるか?」

 ここで反応がなければ命令を理解できないことになり、面倒なことになる。が、流星号はその大きな口をゆっくりと動かし、尾をパタパタと振った。

「アイアイ旦那ア~ オイラ、流星号」

 きちんと受け答えが出来ると知り、鳳太は胸をなで下ろしたが、同時にがっかりもした。流星号の話し方も姿形同様、実に情けないものだったからだ。間が抜けていて、脱力感を覚える声。口調も幼稚園児のようだ。知能は青雷鳥と突撃獣の中間、つまり人間で言えば四、五歳くらいの子供といったところだろう。もうこれは鳳太ではどうにも出来ないことなので、受け入れざるを得なかった。

 気を取り直し、鳳太は流星号に尋ねた。

「流星号、お前は何か攻撃技を持っているか?」

「持ッテイルヨオ~」

「何だ、それは? 言ってみろ」

「バリバリドッカーンッテイウノヲ、口カラ吐ケルヨオ」

 いかにも「子供」らしい具体性に乏しい答えだった。素妖の一つが青雷鳥なので、雷撃放射のことを指していると思われるが、規模や威力などの実態は不明だ。とはいえ、これは使える。まともに命中すれば、大抵の折妖は一瞬で黒こげだ。鳳太はほくそ笑んだ。

「よし! それじゃ流星号、パワーを落として少しそいつを吐いてみろ」

「イイノ、旦那? 今使ッテモ」

「どういうことだ?」

「ダッテコレ、一回ポッキリヨオ~」

「何だって! まさかお前、それ一回しか使えないのか?」

「アイアイ、ソノ通~リ」

「他に使えそうな攻撃技はないのかよ!」

「ナイナ~イ」

 折妖は作製折士ーー命令者に対し、絶対に嘘を付かない。流星号の言う「バリバリドッカーン」は、一回限定の武器なのだ。もし今ここで「試し撃ち」をすれば、本番で使えなくなる。こうなったらリハーサルなし、ぶっつけ本番で行くしかない。

 しかもこの技を使って一回戦に勝っても、それきりお終いなのだ。この鈍くさい体型では、攻撃技なしでは洒落にならない。二回戦以降は翌日となるので、折り直してもう少しまともに戦える折妖を作ることも可能だ。だが、鳳太の腕では似たような結果に終わるだろう。みっともない負け方をしたくなければ、何らかの理由を付けて棄権するしかない。

 ーーま、仕方がないか。俺じゃA評価は難しいしな。一回でも勝てばB評価がもらえるから、それでよしとするか……。

 鳳太はそんなことを考えながら、流星号の肩に手を当てた。

「それなら流星号、そいつは次に目覚めた時に使ってもらう。眠れ」

 術を施すと流星号は睡眠折妖へ戻り、鳳太はそれをポケットへ収めた。一度きりとはいえ、2レベルの折妖で強力な特殊能力が使えるのだ。やっぱりこれはお買い得品……などとはしゃぐだけで、その理由など深く追求しようとはしない。呑気に鼻歌を歌いながら、鳳太は夜道をスキップして寮まで戻っていった。


 それから二日後の十一月九日水曜日、折妖トーナメント戦の当日。前日降った雨もすっかりあがり、空はすっきりと晴れ渡った。やや強い東風が吹いているものの小春日和で、トーナメント戦を行うにはいい条件が揃っている。

 午前九時からの開催に備え、折士クラスの学生は寮食堂での朝食後、すぐに校庭へ出て準備に取りかかった。教師席用のテントや机の組み立て、対戦場である「リング」の作製、対戦勝敗表の貼り出し、出場学生の控え席用のパイプ椅子の設置……など、やることは多い。六十四人もの人手があれば、さして時間はかからないが、学生達は殆ど喋らず黙々と作業をこなした。どんな折妖を使い、どんな作戦で戦うのか。学生にしてみればトップシークレットである。ついうっかり同級生に漏らしてしまわないよう、皆自然に口数が少なくなるのである。

 さてーー紙士養成学校本校の学校施設であるが、配置は以下の通りだ。まず敷地の西端に正門があり、入ってすぐ校庭がある。校庭は今回の折妖トーナメント戦の他、漉士クラスと折士クラスの体力強化実習の際にも用いられる。

 校庭を中心に、正門向かいの東側に三階建ての校舎。各クラスの教室、職員室、図書室などが入る。北側には二階建ての実習棟があり、校内の実技実習は主にここで行われる。また、実習に使用する妖紙の保管庫、校内廃棄物を処分する焼却炉もこれに併設されている。南側には体育館があり、実習棟ではスペース的に難しい実習や、入学式や卒業式等の式典に使われる。さらに放課後や休みの時は学生にも開放され、バスケットボールや卓球といったレクリエーションも楽しむことが出来る。

 上記の他に、校舎の裏側ーー敷地の東側に学生の居住関連施設がある。三棟の寮と寮食堂だ。三棟の寮のうち、北端にある第一寮の前に外門。実はこの外門の方が正門より最寄り駅である桐生が丘駅に近い。第一寮の裏手、即ち南側に第二寮、さらに寮食堂、そして第三寮という順番に並ぶ。

 学生達の努力のかいあって開始十五分前には準備は終わり、教職員が集まってきた。校庭のほぼ中央に杭と縄で囲まれたリングがあり、その南側、体育館前にテント張りの教師席。反対側の北側、実習棟前が参加者である折士クラスの学生控え席である。他クラスの学生は校舎二階及び三階にある各教室や屋上、北側の実習棟二階に陣取り、見物だ。

 対戦方は以下の通りだ。対戦勝敗表には現時点で一切学生の名は記入されていない。誰と誰が対戦するかは、くじで決めるのだ。学生六十四人分の名前と出席番号が書かれたカードが、くじ引き箱の中に入っている。その中から鏑木が二枚を引き、名前を読み上げる。ここで初めて対戦勝敗表に名前が入り、この両者が対戦することになる。つまり、学生は試合が始まる直前まで、誰と対戦するのかわからないのだ。もし事前に対戦相手がわかれば、何らかの不正や取引が行われる可能性があり、これを防止する目的がある。この方式は一回戦から準決勝まで適用される。

 対戦が決まった両者は、控え席から出てリングのそれぞれ東西の端に別れてスタンバイする。出席番号が若い学生が東、もう一方の学生が西だ。そこから睡眠折妖をリング内へ入れ、覚醒させる。レフリー役の教師の「始め!」の合図で戦闘開始。ただ学生はリングの外からしか指示は出せず、これに違反すると失格負けとなる……とまあ、こんな具合だ。今日の午前中に一回戦の半分十六試合、午後に残りの十六試合が行われ、明日は二回戦以降の試合が予定されている。

 教職員及び折士クラスの全学生が着席し、定刻を迎えた。学生は出席番号順に四列に並んでいる。教職員は監督責任者の鏑木と校長を中心に、鏑木の左隣に藍沢と武藤が、校長の右隣に福原がいる。役職に就いていない教師は、彼ら五人のさらに外側に座っている。

 やがて鏑木が立ち上がり、ハンドスピーカーを手にテントの外へ出てきた。

「ではこれより第五十期の折妖トーナメント戦を始める。校長、教頭も全試合を観戦される。正々堂々と恥ずかしくない戦いをするように。以上だ!」

 簡潔な開会宣言を済ませ、鏑木はテントの中へ戻ると、すぐにくじ引き箱の中へ手を突っ込み、カードを二枚取り出した。

「では早速一回戦第一試合を行う。出席番号四番、市川伸之いちかわのぶゆき! 六十番、山城奈津子やましろなつこ!」

 名を呼ばれた二名の学生がはい、と返事をして起立し、控え席からリングの両側へ進み出た。市川という少々小生意気そうな男子学生は東へ、山城という大人びた風貌の女子学生は西だ。二人は手にした紙袋の中から睡眠状態の折妖を取り出し、自分の前ーーリングの端に置くと手を当てた。

「汝を折りし折士が命じるーー」

 市川が起きろ、山城が起きなさいと言うと同時に、両者の折妖は覚醒し、巨大化した。市川の折妖は体長二メートルほどの紺色のゴリラ。筋骨隆々で、如何にも力がありそうだ。そして一方の山城の折妖は、体長一メートル半ほどの緑色のネズミだったが、普通のネズミではない。後ろ足が棒のように細長く、その二本の足で立っている。尾の先にはふさふさのぼんぼりがついていて、見た目も可愛らしい。

「何か見たこともないネズミね。モデルになった生き物でもいるのかしら?」

 実習棟二階の窓から見物していた凰香が首を傾げた。彼女の左隣には渡辺と土井が、右隣には馬渕がいる。

「凰香ちゃん。あれ、トビネズミよ」

 馬渕はそう言ってトビネズミがどんな生き物かを説明した。トビネズミは砂漠など乾燥地帯に住むネズミで、その名の通り後ろ足でカンガルーのように敏捷に跳ね回る……と。

「馬渕さん、すごーい! 物知りね」

 渡辺が感心したように言うと、馬渕は照れ臭そうに俯いた。

「昔見た動物図鑑に載っていたの。あら……?」

 馬渕が少し身を乗り出した。教師席、ちょうど校長と福原がいる辺りの後ろから不可視状態の二体の妖魔が現れたのだ。若い女性そっくりのその妖魔は、宙をゆっくり漂ってテントの真上二、三メートル所で停止した。馬渕は初めて見たようだが、彼女らの姿に凰香は見覚えがあった。

「あれはね、涼美ちゃん。福ちゃんの所にいる竃乙女かまどおとめよ」

「教頭先生の妖魔なの? 話には聞いていたけど可愛い子ね。でもどうしてこんな所にいるのかしら」

「折妖トーナメント戦見たくて、着いて来たんじゃないの」

 凰香が言った通り、二体の竃乙女ーーグリフィーナとファルシオーネは、この催しを見物にきたのだ。陽気な彼女達は、お祭り騒ぎも大好き。今日は特別に校長の許可を得て、福原に連れて来てもらったのである。不可視状態でいるのは、学校関係者以外の者が入ってきた時の備えだろう。

 対戦場であるリングでは、色白の若い男性が白い小旗を持ち、円内の北側にスタンバイした。レフリー役である折士クラスの教師・鈴木孝次すずきこうじだ。就任して六年目のそろそろ中堅の口に入る教師で、あの墨田の元同級生である。

「では、両者向かい合って」

 鈴木の合図で二体の折妖ーー市川の折妖ゴリラと山城の折妖トビネズミは、命令者の前、リングの東西の端で向かい合った。今から何が始まろうとしているのか、「彼ら」はよく承知している。互いの目から放たれた敵意がぶつかり合い、見えない炎をあげているようにも見えた。

「始め!」

 鈴木がさっと旗を振り下ろすのと同時に、二体の折妖はリングの中央へ向かって走り出した。折妖ゴリラはたくましい四肢を動かし地響きをあげ、折妖トビネズミはぴょんぴょんと軽快に飛び跳ねて。

「行け! 相手に拳をぶちかませ!」

 相手を射程圏内へ捕らえるや、市川が顔を真っ赤にさせて叫んだ。しかし山城は冷静に、

「後ろへジャンプ!」

 と、指示を出し、折妖トビネズミは後方へ飛び退いた。折妖ゴリラの右拳は空を切り、その巨漢が少し前のめりに崩れた。

「向かって左手へ回り、相手の脇腹に両足でキック!」

 命令者の命に従い、折妖トビネズミは左手ーー相手の右側へ回り込み、後ろ足を揃えて脇腹へキックをお見舞いした。たまらず折妖ゴリラは横転したものの、すぐさま立ち上がった。体が頑丈なだけに、大したダメージは受けていないようだ。

「この野郎、やるじゃねえか。だが今度はそうはいかんぞ。火だ! 丸焦げにしちまえ!」

 市川が命令すると、折妖ゴリラは大きく息を吸い込んだ。特殊能力の火炎放射を使う気なのだ。直撃すればひとたまりもない。だが山城は、焦る様子一つ見せなかった。

「風上に回りなさい!」

 その声に素早く反応し、折妖トビネズミは横っ飛びに左手へ移動した。折妖ゴリラは身を反転させて相手がいる方を向き、口から灼熱の炎を放った。ところがおりからの強風のせいで、炎が折妖トビネズミまで届かない。それどころか風に煽られ、鼻先を焦がしてしまった。熱さのあまり折妖ゴリラは飛び上がり、鼻を押さえた。

 自分の炎に自分が焼かれてしまうという間抜けな様を見ても、教職員からは勿論、全ての学生からも笑い声一つ起きない。対戦中、見物人が大声を上げることは禁止されている。控え席にいる参加学生に至っては、基本発声も不可。これは折妖への指示が、外野の声によってかき消されてしまうのを防ぐためだ。興奮した観客が立ち上がり、大歓声をあげるーーという、スポーツの試合でごく普通に見られる光景は、折妖トーナメント戦では起きないのである。場内に響くのは参戦中の学生の叫び声だけだ。

 市川は酷く焦っていた。自分の攻撃が何一つ上手く決まらないどころか、ことごとく相手にやられている。決定的なダメージこそ受けていないが、このままでは判定負けになってしまう。幸い相手の折妖は華奢だ。渾身の一撃を食らわせれば、ノックアウトで逆転勝ちできる。

 ではどうすればいいか……と、考えた時、折妖トビネズミのある部分が目に付いた。ニヤリと笑う市川。

「相手に向かって突っ込め!」

 体当たりでもするのか、市川は折妖ゴリラを相手めがけて突進させた。

「真上にジャンプ!」

 山城の命に折妖トビネズミは垂直に飛び上がった。するとそれを狙っていたかのように、市川が命じた。

「奴の尾を掴め!」

 折妖ゴリラは目の前に垂れ下がった、折妖トビネズミの細長い尾をがっちりと掴んだ。こうなればこっちのもの。このまま振り回して、地面に叩きつけてくれる……と、市川が勝利を確信した瞬間ーー

 プチッ。

 折妖トビネズミの尾が根本から切れた。折妖ゴリラがまだ全然引っ張っていないのにもかかわらず。折妖トビネズミがジャンプした、その上方向の力だけでいとも簡単に切れてしまったのだ。

「自切か! やるじゃねえか」

 思わず藍沢が小声で漏らした。自切とはトカゲなどでよく見られる現象だ。敵に襲われたトカゲは自ら尾を切り離すことがある。これが自切だ。尾は切れても暫く動き続けるので、敵がそれに気を取られている隙に、トカゲは逃げることが出来る。

 妖魔、特にレベルの低い妖魔の中にも、自切を特殊能力として持っているものもいる。折妖トビネズミはまさしくこの妖魔が素妖だった。山城は市川が折妖トビネズミの尾を狙っていることを悟り、わざと真上に飛んで誘ったのだ。

 尾を握りしめたまま呆然とする折妖ゴリラの頭上から、折妖トビネズミが落ちてきた。その全体重が頭部へ一気にのしかかり、たまらず折妖ゴリラは土煙を上げて倒れ込んだ。これはかなりのダメージだったようで、意識が朦朧として動けない。だが山城は攻撃の手を緩めなかった。

「足で土をかき上げ、相手の目にかけなさい!」

 飛び降りた折妖トビネズミは後ろ足で地面をかき、顔面めがけて土を浴びせた後、いったん数メートル下がった。

「おら、ぼんやり寝ていないで早く起きろ!」

 市川の怒号に折妖ゴリラはどうにか立ち上がった。しかし目潰しをくらったせいで、相手の位置が把握できない。それを見ても山城は決して油断はしなかった。折妖ゴリラが鼻をひくひくさせ、盛んに臭いを嗅いでいることを見逃さなかったのだ。

「風下から回り込み、胴体の守りの薄い箇所に噛みつきなさい!」

 くるりと横を向くと、折妖トビネズミは大回りして風下ーー相手の背後から接近した。

「あー、馬鹿! 後ろから来るぞ!」

 市川は慌てて叫んだが、時既に遅し。折妖トビネズミの巨大な前歯がまともに背中に食い込み、折妖ゴリラは悲鳴を上げた。うずくまり、もうその場から動こうとしない。完全に戦意を喪失してしまったのだ。

「勝負あり! 市川の折妖が戦闘不能のため、山城の折妖の勝ち!」

 鈴木が小旗を上げ、山城の勝利を宣言した。ここで控え席や見物人の中からわーっという歓声がわき起こった。

「ああ、俺の最高傑作が……」

 折妖ゴリラをリングの外へ誘導して睡眠状態にしたものの、市川は意気消沈。そこへ控え席に戻る途中だった山城が足を止め、声をかけてきた。

「何言っているのよ。あんたが悪いんじゃない」

「何だとぉ! この野郎!」

「あんたって本当に単純ね。力任せに戦ったって、勝てるわけないじゃないの。あんたの考えることなんて、こっちにはばればれなのよ。もうちょっと頭使って戦いなさい」

「この……!」

 山城の許へ駆け出そうとする市川だったが、鏑木の声がその動きを制止した。

「市川、いい加減にせんか! お前は負けて当然の戦い方をしたんだぞ! 作戦にも問題はあるが、お前の指示は要所で具体性に欠けていた。長年使っていてツーカーな間柄の折妖ならともかく、まだ使って日の浅い折妖には細かく指示を出さなければ、思い通りには動いてくれん。パンチをするにしても、相手の何処を狙う? 後ろからの接近を知らせても、それからどうする? そんな曖昧な指示を出し続けていると、折妖が混乱するぞ」

 鏑木の叱咤にとぼとぼと控え席へ戻る市川。一方、山城は友人とハイタッチを交わして勝利を祝っている。全員が着席したところで、鏑木が教え子らに言った。

「人のふり見て我がふり直せ。これから対戦する者は、それまでに行われた戦いをよく参考にするように。次、第二試合行くぞ!」

 第一試合終了後、いったんリング内が整備された。このリング内整備は、担当クラスに関係なく就任五年目以下の若手教師達の役目だ。第一試合は双方とも大怪我をしなかったので、土をならす程度でよく、手間も時間もさしてかからない。だが激しい戦闘になれば大量出血したり、場合によっては死亡する折妖も出てくる。死亡した折妖は、もはや睡眠状態ーー折り紙の状態へ戻らず、撤去するのも一苦労だ。不正を防ぐために対戦開始後は、学生はリングに上がらせない決まりになっているので、力のある若手教師の出番となるわけである。

 かくして第二試合以降も順調に消化されていったが、その内容は対戦によって様々だ。力と力のぶつかり合いになる試合もあり、特殊能力の応酬合戦になる試合もあり、頭脳戦になる試合あり……と、言った具合に。勿論、それらの組み合わせとなる対戦もある。

 学生は皆自分なりの作戦を立て、このトーナメント戦に臨んではいる。だがいくら綿密な作戦を立てて実行しようとしても、必ずしも上手く行くとは限らない。失敗してずっこけ、敗退する者もいれば、臨機応変に対応して勝利を掴む者もいる。各試合には学生の個性や考えが色濃く出ており、それらが対戦を一層面白くさせ、いくら見ても飽きがこないものにさせているのだ。

 こうして午前十一時半を過ぎた時点で十五試合が終了した。午前中の対戦は後一つを残すのみとなったが、鳳太はまだ名前を呼ばれていない。こりゃ流星号の出番は午後になるな……と、鳳太が思った時ーー

「では午前最後の試合、第十六試合。出席番号十八番、木村統きむらおさむ! 三十一番、砂川鳳太!」

 何と鳳太が対戦する番となったのだ。しかも相手の木村は、折士クラス上組のクラス長である。まだ2レベルの折妖しか扱えない鳳太に対し、木村は7レベルまで扱える。見栄っ張りの木村のこと、上限の5レベルの折妖を使ってくることは確実だ。

 鳳太と木村は控え席から、リングの東西の待機場所まで出てきた。鳳太が西、木村は東。こちらを見詰める木村の顔には「砂川が相手なら楽勝だな」と、書いてあるーー憎たらしいほどはっきりと。

 ーーこの野郎、俺のこと馬鹿にしやがって。今に見ろ、吠え面かかせてやる!

 余裕綽々の木村を睨みつけ、鳳太は睡眠状態の流星号を袋から取り出した。


 ちょうどその頃ーー午前十一時半すぎ、桐生が丘駅前の焼鳥屋・鳥勝。鳥勝が入る建物は一階が店舗、二階が住宅となっている。この時店長夫妻は二階の居間でテレビを見ながら、昼食をとっている真っ最中だった。

 飯櫃めしびつから主人の茶碗にお代わりをよそいつつ、女将が言った。

「そう言えば涼美ちゃん、今日明日は折妖トーナメント戦だから、今夜はバイトに入れるって言っていたわね」

 実のところ折妖トーナメント戦の開催日は、折士クラス以外の学生は休校日扱いで、見物は各自自由なのだ。見たくない者は寮にいてもいいし、外出してもいい。馬渕は水曜日は午前中だけ見て、午後からはアルバイトへ行くつもりだったのである。

「そうか、それは助かるな。昨日は定休日だったから、お客さん多そうだし。でもその折妖トーナメント戦って、折妖同士を戦わせるやつだろう? 面白そうじゃないか。俺だったら絶対見に行くな」

 主人は折妖トーナメント戦に関心があるのか、口調もやや興奮気味だったが、女将の反応は素っ気なかった。

「涼美ちゃんはそんな乱暴なことは好きじゃないのよ。あんたと違って」

「何言っているんだ。プロレスみたいなもんじゃないか。学校も金とって、学校外の人間にも見せればいいのに。儲かるぞー」

「全く、あんたって人は! これ食べて黙っていてよ!」

 女将が主人の前にダン!と茶碗を置いた時、呼び鈴が鳴った。玄関は一階、店の裏側にある。女将は立ち上がり、階段を下りて急ぎ玄関へ向かった。

 玄関ドアを開けると、そこには二人の男が立っていた。一人は白髪混ざりの五十代くらい、もう一人は三十路に届いていそうにない若者だ。白髪混じりの男の顔は緊張しているのか引きつり、若者は青ざめてうなだれている。女将にとってはどちらも見慣れない人物だった。

「あの……どちらさまでしょうか?」

「突然お邪魔して失礼します。警視庁阿倍野署の者です」

 そう言って白髪混ざりの男は警察手帳を見せた。阿倍野署と聞いて女将はああ、と思った。先週連絡をもらって訪れた場所だ。もしかしたらあの件でーーそう女将が言い出す前に、彼ーー警察官はこう切り出した。

「今日はお願いがあって伺いました。実は……」

 女将に「お願い」について説明する警察官。だが女将の返事を耳にした途端、彼は腰を抜かさんばかりに驚いた。

「何ですって! 人に譲ったぁ!」


「汝を折りし折士が命じる。起きろ」

 鳳太と木村がほぼ同時にリングの端で折妖覚醒の術をかけた。木村の折妖は全長三メートルほどの翼ある竜ーー黄緑色のドラゴンだ。細部まできちんと織り込まれているようで、特撮映画に出てくるような見事な出来映えである。片や鳳太の流星号といえばーー

「何だよ砂川、そのけったいな折妖は!」

 木村が腹を抱えて笑い出した。木村だけではない。あまりに不細工な折妖に、控え席からも笑い声が上がった。また必死に笑いをかみ殺したり、馬鹿にしたようににやける者も大勢いた。

「うわあ、ファンシーな折妖ね。可愛い」

 何の事情も知らない馬渕は、鳳太があの妖紙で自分が好きそうな愛らしい物を作ってくれたと勘違いし、喜んでいる。だがその隣で凰香は顔から火が出るような思いをしていた。

 ーー違う。あんなのお兄ちゃんの趣味じゃない。ただの出来損ないよ。お兄ちゃんったら、涼美ちゃんがくれた妖紙であんなみっともない折妖作るなんて……。ああ、恥ずかしい……。

 ルームメイトの前で真実を言うことも出来ず、凰香は校庭から目をそらした。親友の心中を察し、はーっと深くため息をつく土井と渡辺。

 爆笑と失笑が渦巻く中、笑い涙を拭いながら木村が叫んだ。

「おい、砂川。ハンディキャップをつけてやる。そっちから先に攻撃していいぜ」

「何だと! なめているのか!」

「遠慮するなよ。このままじゃ五秒で決着がついちまう。ちょっとは面白味のある対戦にしないと、見ている方もつまらないだろう?」

「ちっ! 後悔するなよ!」

 対戦相手に虚仮にされ、鳳太は頭から湯気を出さんばかりに悔しがった。しかしこっちにだって勝算はある。木村の折妖ドラゴンを指さし、流星号の耳元で鳳太は囁いた。

「おい、流星号。俺が合図をしたら、あの折妖に向かって例のやつを使え」

「例ノッテ、アノ一回ポッキリノ?」

「そうだ。どうせ一回しか使えないんだ。情け容赦なく思いっきりぶちかませ!」

「アイアイ、旦那ア~」

 流星号が小さく二度頷いたのを見て、鳳太は手応えを感じた。この勝負はもらったと。

 誰もがこの対戦は、行うまでもなく結果が判明していると感じた。だが、そう思わなかった者もいる。鏑木だ。

 ーー何だ、あの折妖は! 砂川が扱えるということは間違いなく2レベル以下のはずだが、それにしては妙だ。どう見ても2レベル以下には見えん。そんな雰囲気じゃない。この感覚はもっとレベルの高い折妖のものだ!

 鏑木は身を乗り出し、部下に当たる折士クラスの教師の様子を窺った。しかし近くにいるレフリーの鈴木でさえ、流星号の異様さに気付いていない。鈴木がこんな調子なので、他の者も同様だ。皆流星号の奇妙な外見にばかり目がいって、本質が見抜けていないのだ。

 この時、テントの上で見物していた二体の竃乙女が、どうしたことか物凄い勢いで降下し、福原の足元の地面へ潜り込んでしまった。

「娘達や、そんなに慌ててどうしたのかね?」

 驚いた福原が尋ねると、地面の下からファルシオーネの怯えるような声がした。

「旦那様、あの折妖怖い……」

「あの折妖って……。竜の方かね?」

「違う。縫いぐるみみたいな方」

 すると今度はグリフィーナが声を震わせ、言った。

「そう、あの変てこな方。見たは滑稽だけど、気配がおかしい。気持ちが悪い」

 弱肉強食の世界に生きる妖魔は、敵の気配に敏感だ。妖魔が持つ気配は折妖になると殆どなくなるが、それでも僅かに残っている。今まで参戦した5レベル以下の折妖との差も明確なので、彼女らは恐らくその違いに反応したのだろう。

 しかし人間、しかも妖魔と接触する機会が殆どない染士の福原には、流星号の何処が恐ろしいのかがわからない。漉士の藍沢ですら気付かぬようだ。だが鏑木は今までに多種多様な折妖を見てきた。見た目のレベル以外に、真のレベルを隠し持つ折妖が存在することも知っている。それを見抜けるのは、長年に渡り磨き上げられた勘のみ。鏑木は自らの感覚で、流星号の持つ見た目と中身の不一致ーー「レベルの矛盾」を察知したのである。さらに竃乙女の反応が、これを決定的なものにした。

 ーーこの対戦は何か起こるかもしれない。木村め、油断して痛い目に遭わなければいいが……。

 鳳太が扱える以上、折妖のレベル違反には該当しないので、対戦を中止させることも出来ない。鏑木もこのまま成り行きを見守るしかないのだ。

 ようやく場内が静かになったところで、鈴木が小旗を振った。

「始め!」

 試合開始の合図とともに、木村の折妖ドラゴンがゆっくりとリングの中央まで歩み寄った。だが流星号は鳳太の前、待機場所から動かない。いや動けないのだ。鳳太がいい加減に折ったおかげで、満足に歩くことも出来ないのである。

「今だ、流星号! あれを使え!」

 鳳太が背中を叩くのと同時に、流星号は口をぱっくり開けた。

「イッカ~イ、ポッキリ~イ」

 流星号は間の抜けた声を発した後、口の中から何かを吐き出した。ピンポン球くらいの大きさの白い光球だ。ところが勢いよく飛び出したまではよかったのだが、光球はてんで見当違いの方向、折妖ドラゴンの遙か上空へ飛んで行ってしまったのである。愕然とする鳳太。

「流星号! 何をやっているんだよ、お前!」

 が、鳳太が怒りに任せて尾を蹴飛ばしても、当の流星号は平然としている。

「ダイジョ~ブ。自動命中機能ツキヨオ~」

「はあ?」

「モウソロソロ来ルネ~」

 流星号が何を言っているのか、鳳太には理解できない。そうこうしているうちに折妖ドラゴンが三、四メートル手前まで接近。長い首をもたげ、頭を空へ向かって突き出した。火炎放射の体制に入ったのだ。相手の攻撃が終わったら、火炎放射で一気に決着をつけるようにと、木村から指示が出されていたのである。流星号にはこれを防ぐ手立てがない。もはや消し炭になるのは時間の問題だ。

 やれやれ、杞憂に終わったか……と、鏑木が苦笑した時だった。折妖ドラゴンの動きがぴたりと止まったのだ。一点をーー上空を凝視したまま、驚きのあまり固まっている。場内にいる者には一体何が起こっているのか、わからなかった。だがーー

「上から何か来るぞ!」

 鈴木が小旗で上空を指した。折妖ドラゴンの頭上から何かが猛スピードで落ちてくる。直径二メートルは優にあろうかという巨大な光球だ。光球はいかずちを纏い、バリバリ、バチバチと耳をつんざくような音を立て、折妖ドラゴン目掛けてまっしぐらに突き進む。鏑木は傍らに置いてあったハンドスピーカーを手にし、叫んだ。

「いかん! 見物人も含めて、全員退避しろ!」

 鏑木の声に控え席にいた折士クラスの学生は一斉に後方ーー実習棟の方へ逃げ出した。教職員も急ぎテントから出て、体育館の方へ後退する。凰香達も窓際から離れ、実習室を出て廊下へ避難した。

 木村は鈴木に腕を掴まれ、引きずられるようにしてリングから離された。だが自分の折妖が惜しいのか、ありったけの声を出して命じた。

「飛翔して回避しろ!」

 木村の指示を受け、折妖ドラゴンは翼を広げてニ、三メートル上へ舞い上がり、着弾予測地点から素早く移動した。

「よし、そのまま一旦こっちへ戻って来い!」

 空中で方向転換し、折妖ドラゴンは主の許へ向かおうとした。ところが光球は地上へ到達する一メートルほど手前で突如舞い上がったかと思うと、バン!と音を立て六つに分裂。今度は六個の直径一メートルほどの光球群となって、折妖ドラゴンを追尾した。しかもそれぞれが別々の方向ーー前後左右、そして上下に別れ、挟み込むようにターゲットへ襲いかかったのだ。十字砲火などという可愛いものではない。三次元集中砲火だ。

 ーーまずい! あれでは逃げきれん!

 そう思うが早いか、鏑木は体育館の陰へ身を伏せた。直後閃光が炸裂し、ダイナマイトの爆破の如く凄まじい轟音が辺り一帯に響き渡った。土煙を巻き込んだ爆風が四方八方に猛スピードで吹き抜け、周囲のあらゆる物を飲み込んで行く。

 十数秒後ーー視界が開け、場内は静けさを取り戻した。木村の折妖ドラゴンの姿は跡形もなく、その体は木っ端微塵に吹き飛び、校内中に飛び散っていた。頭部は校舎屋上のフェンスに引っかかっていたが、原形を留めていたのそれだけで、残りの部位は黒こげの肉片と血痕と化してしまった。

 学生控え席のパイプ椅子は残らずなぎ倒され、教職員席のテントも飛ばされて体育館に寄りかかっていた。折妖ドラゴンがいた辺りの真下ーーリングの東端の地面には、直径数メートルはあろうかというクレーターが出来ており、爆発の威力を物語っていた。

 鏑木の指示が早かったため、大部分の者は爆発が起きる前に安全な場所へ避難できた。だがそれが出来なかった者がいる。鏑木は体育館から飛び出すと、リングの方へ駆け寄った。リングから十五メートルほど離れた場所で、鈴木が木村を抱え込むようにして倒れている。爆風から教え子を守ろうとしたのだ。しかし二人とも動こうとしない。

「鈴木! 木村!」

「あ、主任……。大丈夫です……」

 鏑木が来たことに気付き、鈴木が立ち上がった。次いで木村も。折妖ドラゴンの返り血を浴びてはいるが、幸い二人とも大した怪我をしているようには見えない。とは言え、木村はかなりのショックを受けたようだ。訳もわからぬまま、突如として目前でおきた大爆発。それに自分が巻き込まれそうになったのだから、恐怖も計り知れない。鏑木の顔を見た途端木村は目を潤ませ、終いには声を上げて泣き出してしまった。

「二人とも無事でよかった。保健室に行って、治療をしてこい」

 鏑木に促され、鈴木は木村を連れて校舎内の保健室へ向かった。だが安心するのはまだ早い。鳳太も唖然とするあまり、逃げる機会を失ってしまったのだ。

 鏑木はリングの反対側へ視線を向けたが、胸をなで下ろした。流星号の陰から鳳太の無事な姿が確認できたからだ。上手く流星号の背後へ隠れ、爆風から身を守ったのである。

 爆風の直撃を受けたはずなのに、流星号は何事もなかったようにその場に立っていた。素妖の一つが突撃獣なので、それなりに頑丈には出来ていたが、プニョプニョの筋肉のおかげで、折妖ドラゴンの肉片が勢いよく当たっても何ともなかったたようだ。返り血を浴びてはいるものの、元々赤いのでそれも目立たない。

「ハイ、オシマ~イ」

「お終いじゃないだろう、お前……」

 相も変わらずへらへらしてる流星号の足元に、鳳太は力なく崩れ落ちた。流星号の見た目で相手を油断させるという作戦は上手くいった。木村に吠え面もかかせた。けれども鳳太の心は少しも晴れなかった。この「惨事」は、全て自分が引き起こしたのだから。

「校舎や実習棟で見物していた学生も含め、急ぎ負傷者の確認をしろ! それが済んだら施設の被害状況だ!」

 手早く部下の教師に指示を出したところで、鏑木はふうと額の汗を拭った。だがそれと同時に許し難い思いが一気にこみ上げてきた。

「砂川! 貴様、木村を殺す気か!」

 怒り肩を揺らし、のしのしと鏑木は大股で鳳太の方へ歩み寄ってくる。その姿はまるで生きた仁王像のようだ。師匠の尋常ではない怒りっぷりに鳳太は背筋が寒くなった。

「うわっ、カブさん組長モード全開だあ……」

 しかし鳳太は逃げなかった。逃げたところでどうにもならないことはわかっている。もうここは腹をくくって雷をくらうしかないと、覚悟を決めたのだ。

「申し訳ありませんでしたあ!」

 鏑木が自分の許へ来るなり、鳳太は立ち上がって頭を垂れた。無論、そんなことで鏑木が許すはずもなかったが、相手が逃げ腰ではなかったので、僅かに怒気を緩めた。

「砂川、これはどういうことだ。説明しろ!」

「まさかここまで強烈な能力だとは思わなかったので……」

「何? 事前に確認しなかったのか?」

「こいつが一回しか使えないなんて言うもんですから、もう本番でやるしかないと……」

「何だと?」

 鏑木は改めて流星号を間近で観察した。先程までーー試合が始まるまで感じていた、奇妙な違和感が今はない。もう外見通りのレベル、2レベルの折妖にしか見えないのだ。

 ーーどうも力を使い果たしたって感じだな……。砂川の言っていることは嘘ではなさそうだ……。

 うーんと鏑木は唸り、流星号から再度鳳太へ視線を戻した。

「砂川、お前こいつの妖紙を何処で手に入れた?」

「ええっとそれは……」

 鳳太は狼狽えた。馬渕の名前を出すことを躊躇しているのだ。ところがーー

「私があげました!」

 実習棟の方から馬渕が息を切らし、駆け寄ってきた。彼女の後を追って凰香までも。

「鏑木先生、この子の妖紙は私が砂川君にあげました。砂川君は悪くありません。ごめんなさい!」

「ちょ、ちょっと待って涼美ちゃん」

 今度は凰香が鏑木の前へ出た。

「私にも責任はあります。私が兄を勝たせてあげたい……何てことを馬渕さんに言ったもんですから、馬渕さんはあの妖紙を兄に渡したんです。すいませんでした!」

 突然の女子学生の乱入にも、鏑木は冷静に言い分を聞くだけで何も言わない。そこへ今度は武藤と藍沢までもが飛んできた。自分のクラスの学生までも関わっていると知り、何事かと思ったようだ。馬渕の前に来るや、武藤が尋ねた。

「馬渕さん、もしかしてその妖紙、この前の物じゃ……」

「はい、先生。先生に一昨日見て頂いた、あの妖紙です。アルバイト先でもらった」

 馬渕と武藤のやりとりを聞いて、鏑木は酷く驚いた。

「武藤主任、ご存知だったんですか?」

「ええ。一昨日私が馬渕さんに頼まれて鑑定したのよ。何を紙合わせして、物合わせしているかまではわかったんだけど、特殊能力までは想像付かなかったわ。私があの時、大した能力はなさそう何て言ったもんだから……。やっぱり鏑木さんに確認とってもらえばよかったわ。ごめんなさいね」

「紙合わせや物合わせをしているんですか!」

 意外な事実を知り、唖然とする鏑木。その後ろでは凰香が藍沢に「お前、何やっているんだ!」と、説教されていた。

 情報が錯綜し、混乱する現場。しかしある人物の登場により、緊張感が一気に高まった。紙士養成学校本校校長・前橋権蔵まえばしごんぞうだ。和州の中でも最高峰と歌われる二十二段漉士で、齢は六十五を数えるがその腕は未だ衰え知らず。白い髭に隠れて見えないが、顎には妖魔によってつけられた古傷がある。校内でも常に着物を愛用する古武士のような人物で、若い頃は漉士の例に漏れず気性の激しいところがあった。今では角も取れて穏やかな人柄にはなっているが、威厳は一層増して堂々たる風格を漂わせている。

「校長、今回の失態は自分に責任があります。申し訳ございません」

 深々と頭を下げる鏑木を見ても、前橋は静かな面持ちのままだった。

「鏑木君、話は大体分かったよ。今回の件に関わった学生はこの三名か。さて、どうしたものか」

 鳳太、馬渕、凰香の顔を前橋は順に見た。当事者である三人は勿論、主任教師らも気が気ではなかった。彼らの処分は校長である前橋に一任される。前橋の決定に誰も逆らえないのだ。

 やがて前橋は、馬渕と凰香の方を見て言った。

「馬渕涼美、砂川凰香、この両名に関しては今回は不問に付す。二人とも関わったことが明るみになる前に自ら名乗り出て、学友を庇った。その点を評価しよう。以後、気を付けるように」

 有り難うございましたと言う馬渕と凰香の傍らで、武藤と藍沢は安堵の息をついた。

「さて問題は彼ーー砂川鳳太だな。故意ではないとはいえ級友を危険な目に遭わせ、これだけの騒動を起こしたのだからな」

 これはただでは済みそうにない。具体的に鳳太にどういった処分を下すのか、前橋は思案しているようだ。鳳太は今にも口から心臓が飛び出しそうな心境でその場に立っていたが、凰香も心配でならなかった。

 ーーどうしよう……。このままじゃお兄ちゃん、退学になっちゃうかも……。

 凰香が兄の赦免を校長へ請うか迷っていると、事務員の男性が校舎の方から走って来た。前橋に挨拶をした後、彼は遠慮しがちに話しかけた。

「あの……お取り込み中のところ、失礼します。警察の方がお見えになっていますが、如何いたしましょう?」

「何と、この騒ぎを聞きつけてもう来たのか?」

 前橋は初めて驚いた表情を見せた。もっともあれだけ派手な爆発音をたてたのだ。学校の周辺は住宅地、住民が驚いて通報しても不思議ではない。だが事務員はゆっくりと首を欲へ振った。

「いえ校長、どうも違うようです。管轄外の阿倍野署の警察官ですから。ここの卒業生の古賀警部とおっしゃっています」

「あら、古賀君が? 阿倍野署の?」

 先程までの暗い表情が一変、武藤が目を輝かせた。

「武藤君、彼を知っているのかね?」

「はい、校長先生。私の元同級生ですわ。先生は覚えていらっしゃらないんですの?」

「他クラスの学生までは流石にね。それはともかく、ここへ通しなさい」

 事務員が下がり、暫くして警察官を同行して戻ってきた。鳥勝を訪れたあの二人組の警察官だ。うち年上、白髪混じりの警察官が教師陣へ一礼した。

「失礼します。警視庁阿倍野署妖魔課課長の古賀健次郎こがけんじろうと申します。本日は火急の用がありまして、お邪魔しました」

 と、警察官ーー古賀が言ったところで、武藤が親しげに声をかけてきた。

「古賀君、お久しぶりね。五年前の免許更新以来だけど、元気?」

「やあ宇津木うつぎさん……いや、今は武藤さんか。君も変わりないね。実は今日は君のお弟子さんに用があって来たんだ」

「私の教え子に?」

「ああ。ところで、馬渕涼美さんという学生さんはいますか?」

 急に真剣な眼差しで前橋に尋ねる古賀。自分の名を呼ばれ、馬渕はおずおずと前へ出た。

「あの……私が馬渕ですが、何か……」

「君が馬渕さんか。馬渕さん、君ーー」

 古賀はずいっと馬渕の方へ顔を寄せた。

「アルバイト先で赤い妖紙をもらったよね。あれ、どうした?」

「あ、あの……」

 古賀の鬼気迫る表情に馬渕はおろおろするばかり。たまりかねて前橋が背後から古賀の肩を叩いた。

「古賀君。君が捜している物なら、そこにいるよ」

「そこに……いる……?」

 前橋が指さす方向を古賀は見た。リングの隅に不格好な折妖が立っている。

「まさかこれが……?」

「そのまさかだ。今日は折妖トーナメント戦の日でね。うちの学生が問題の妖紙を使って折妖を作り、トーナメント戦に出したんだ。結果、何が起こったかは、この状況を見ればわかるかね?」

 古賀は校内をゆっくりと見渡しーー惨憺たる有様を目にしてあ一っと天を仰いだ。

「一歩遅かったか……!」

「ちょっと! 一歩遅かったって、一体どういうことかしら? 古賀君、ちゃんと説明してくれる?」

 自分の生徒が警察と関わったとあっては、いくらおっとりした武藤でも黙っていない。彼女に急かされ、古賀は事情を説明し始めた。

「四月三十日、桃木町派出所から当署の方へ路上で拾われた妖紙が送られてきた時、私は妙に思いました。阿倍野署に配属されて二十年近く経ちますが、未鑑定の妖紙の拾得物など、今まで一度も聞いたことがなかったからです。妖紙は妖魔狩人にとって大事な飯の種ですからね。連中が落とすなんてことはまず考えられない。私も染士の端くれです。会計課に頼んで実物を借り、鑑定をしてみようと思いたちました」

 だが実際に鑑定してみた古賀は、その異様さにひっくり返りそうになった。二枚の妖紙と二種類の妖魔由来物が、一枚の妖紙に集約されている。鑑定結果は武藤が出したものと同じだった。

「こいつはただの妖紙じゃない。これは何かある。とにかく持ち主が現れたら詳細を訊く必要がある。もし保管期限の六ヶ月を過ぎても落とし主が現れなかった場合は拾得者に事情を説明し、権利を放棄して当課に譲ってもらおうと考えていました。ところがーー」

 古賀は連れの若手警察官を教師らの前へ押し出した。

「忙しさにかまけ、こいつがその事務手続きをするのを怠ってしまったんです!」

「申し訳ありませんでした……!」

 若手警察官は半泣き状態で土下座した。部下の職務怠慢の結果、問題の妖紙は通常の拾得物として扱われてしまった。今月に入っても会計課から何の連絡もないことを不審に思った古賀が問い合わせた結果、この不祥事が発覚。妖紙は既に取得者の許へ渡り、もはや後の祭りだった。

「とはいえ、きちんと部下がやったかどうか確認しなかった私にも責任はあります。校長を始め、皆様方にはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません。こちらがしっかり事務手続きを済ませていれば、こんなことにはなりませんでした。学生さんに罪はありません。私にこんな事を述べる資格はありませんが、この折妖を作った学生さんにはどうか寛大な処置をお願いいたします」

「うーん……」

 前橋は腕を組み、唸った。古賀が助け船を出したこともあり、迷っているのだ。一分ほど考えた末、前橋は結論を出した。

「よし。古賀君の熱意に免じ、今回は特別に大目に見るとしよう。砂川鳳太、今後この件を咎めることはないが、もし再度何かあれば即刻退学とする。気を引き締め、一層学業に励むように」

 命拾いをした鳳太は「有り難うございました」と最敬礼。鏑木もやれやれという顔をしている。彼とて教え子から退学者を出したくはないのだ。

 そこへ福原が被害状況の報告へやって来た。鏑木の指示で動いた教師が調べた結果を、彼が取り纏めたのだ。その報告によれば、負傷者は木村と鈴木を入れても数名程度で、全員軽症。逃げる途中でつまずき、膝をすりむいたぐらいだという。施設の方は実習棟のガラスが三枚割れた以外、目立った被害はない。ただ折妖ドラゴンの血肉が広範囲に飛散し、これを掃除するのは些か面倒なことになりそうとのことだった。

 しかしこれで一件落着とはいかない。古賀にはまだ気になる点があった。問題の妖紙を使った折妖ーー流星号が、どれほど突飛な能力をふるったのか、知る必要があったのだ。

 最初は小さかった光球が上昇して巨大化。威力を増して雷球となり、目標めがけて落ちてくる。目標が回避しても追跡し、六つに分裂。六方から挟み込むように着弾し、大爆発を起こした……と、鏑木から説明を受けた古賀は、驚愕しながらも納得したようだ。

「成程……。これでは5レベル程度の折妖でしたら、ひとたまりもありませんね。しかも一回きりしか使えないとは。でも本当に一回きりなんでしょうか? 砂川君、念のため試してみてくれないか?」

「えっ、もう一度やらせるんですか? 出来るかなあ」

 それでもいいからと古賀に念を押され、鳳太は仕方なく流星号に命じた。

「流星号、さっきのやつ、もう一度やってみろ」

「モウ無理無理~」

「何でもいいから、とにかく吐いてみろ」

「アイアイ~」

 流星号は首を前へ突き出し、ポンと口から光球を吐いた。だが二、三メートル飛んだだけですぐ地表に落ち、あっと言う間に消滅してしまった。やはりもうあれだけの威力を持った物を吐く妖力は、残っていないと見える。完全なエネルギー切れだ。

 しかしまだ謎は残っている。どうすればこんな前代未聞の能力を秘めた妖紙が作れるかということだ。この謎解きが出来るのは、妖紙の加工技術に明るい染士だけ。福原、武藤、古賀の三者は顔を寄せ合い、数分ほど話し込んでいたが、やがて結論を導き出した。

 この妖紙のベースとなっているのは、紙合わせをした二種類の妖魔・ランク5の青雷鳥とランク2の突撃獣だ。前者の雷撃放射に、後者の爆発的な瞬発力と体力を合わせれば、さらに強力な雷撃を使うことが出きるようになるーーと、思いきや、実際はそう上手くいかない。逆に威力がダウンしてしまうのだ。

 では、一体何故か。妖魔は己の妖気を「妖力」へ転換し、特殊能力を使う。多くの特殊能力は、この妖力を源としているのである。ところが妖魔の中には、この転換が上手い種と下手な種がいる。僅かな妖気も効率よく妖力へ変え、体力やパワーはなくても凄まじい特殊能力を使う種がいる一方、力には自信があってもろくな特殊能力が使えない種も存在するのだ。そしてこの後者の典型的な例が、突撃獣なのである。

 突撃獣はランク8になってやっと火炎放射が使えるようになるだけで、あとの特殊能力はさっぱり。力はあり、ランク2個体でも普通馬車ふつうしゃくらいなら体当たりで吹き飛ばすほどのパワーを誇る。だがこのせっかくの溢れる妖気を妖力に殆ど転換できない。この悪影響でもう一方の素妖の特殊能力、今回の場合は青雷鳥の雷撃の威力を落としてしまうのだ。双方のレベルのアンバランスさもあるので尚更である。これでは紙合わせする意味がない。

 ここで重要になってくるのが、物合わせに用いた雪地潜である。雪地潜は突撃獣とは対照的に、妖力への転換率が非常によい妖魔。雪地潜は大きくてもサイズ二十ほどしかないが、中ランク以上で吹雪や雪崩といった強力な特殊能力を使う。この血液を妖紙へ混ぜることにより、転換率の良さのみを取り込み、突撃獣の悪影響をーーレベル差のデメリットも含めて完全に消し去ったのだ。結果、突撃獣の豊かな妖気を妖力へ転換、雷撃の破壊力を一気に上げることに成功したのである。

 では残る一種・霧纏はどんな影響を妖紙に与えたのか。それは恐らく雷撃の攻撃パターンだ。自動命中機能は声纏いの、途中で分裂したのは分身体の影響と思われる。しかしこの強烈な雷撃を一気に吐こうものなら、衝撃で自身の頭が吹き飛んでしまう。そこで圧縮して吐き出し、時間をかけて縛りを解いて巨大化するような形をとったのだ。

 物合わせでは普通、妖魔の特殊能力を妖紙へ効率良く取り込むことは出来ない。ただ、妖紙の持つ能力に影響は与えることは十分に可能だ。二種類の妖魔の血液は、能力のサポート役として利用されたのだろう。もっとも調整の難しさという課題はあり、試行錯誤を繰り返さなければ最適な方法を導き出せない。故に熟練の染士といえどこの技術には詳しくはなく、武藤や古賀も自身が行った鑑定ではそれを見抜けなかったのだろう。

 だが、一枚の妖紙にこれだけの妖魔を集約すれば、悪影響が出るのは必至だ。同じ檻に四体の異なる種の妖魔を閉じこめるようなもので、「喧嘩」も起きる。悪影響は二つあり、まず一つ目が特殊能力の使用制限。せっかく上手く転換できた妖力もあっという間に消耗し、二度と使えなくなる。雪地潜の能力が不能となってしまうからだ。

 二つ目はレベルのダウン。普通紙合わせをした場合、両者の中間くらいにレベルは落ち着く。この妖紙だと両者のレベルの合計が19なので、9から10レベルくらいだ。それが2レベルになるのは、物合わせした妖魔の影響と思われる。「喧嘩」をした結果、レベルの食い合いが起こり、レベルダウンを引き起こしたのである。ただし、これはあくまでも見かけの話だ。一度きりとはいえ、2レベルの妖紙にこんな強力な特殊能力をつけることはできない。裏に隠されたレベルは恐らく12、3位はあったはずである。よって「一回ぽっきり」の使用後、見かけ通りのレベルになったのだ。

 しかし、レベルが下がるということは、それだけ未熟な紙士にも取り扱いが可能になるということを意味する。未だ九級相当の実力しかない鳳太が、何の支障もなく妖紙を折り、覚醒させ、支配下においていた。九級以上のーーそう、殆どの折士がこのとてつもなく危険な折妖を、自由自在に操れるのだ。

「こんなおっそろしいもの、テロにでも使われたらとんでもないことになるぞ」

「ああ。要人暗殺にはもってこいの代物だな。サイズも二十二、三だから、馬にするには丁度いい。馬に折ってターゲットの近くまで乗り付け、口から小さい光球を一つ吐いて後は逃げるだけだ。自動命中機能がついているから確実に当たるし、多方向から襲われたらエスピーでも防ぎきれん」

 藍沢と鏑木はぞっとするような話をしていたが、十分起こりえることだ。警察官である古賀も同様のことを危惧しているようで、額に汗を滲ませている。

「……とにかく、この折妖は当署で回収させて頂きます。今後はこちらの所轄である桐生署と合同で捜査をすることになるでしょう。後日、妖紙は国立妖紙研究所へ詳細な鑑定を依頼する予定です」

「そうしてくれたまえ。君、警察に連絡を」

 前橋は古賀らを連れてきた事務員に指示を出し、鏑木は流星号を睡眠状態へ戻して古賀へ手渡した。

「あー、俺の流星号が……。先生、何とかして下さい」

 流星号を取り戻そうと、鳳太は鏑木の許へ駆け寄った。折妖トーナメント戦に使う折妖は、一人につき一体のみ。ここで回収されたら、後の試合には出られなくなってしまう。二回戦は棄権しようかと考えていた鳳太だったが、やはり名残惜しいかったのだ。けれどそんな鳳太の懲りない態度が気に障ったのか、鏑木は声を荒げた。

「砂川! お前、まだそんなこと言っているのか! 今回のトーナメント戦、お前はC評価だ!」

 鏑木に怒鳴られ、鳳太はびくっと背を正した。

「そんな先生、俺、勝ちましたけど……」

「これだけの騒ぎを起こしておきながら、そこまで言うか! 合格点をもらえただけでも有り難いと思え! これ以上何か言うと、D評価(不合格)にするぞ!」

「そうは言っても俺の実力じゃ、ああでもしなきゃ勝てません」

「馬鹿もん! 折妖の特殊能力に頼るな!」

 そこまで叱ると、鏑木は怒りを鎮めて落ち着いた口調で鳳太に語りかけた。

「砂川、お前の三期上に墨田という奴がいた。俺の教え子の中でも飛び抜けた才能を持った学生だ。だがあいつはーー」

 墨田は折妖トーナメント戦開催当時、既に二級の腕前を持っていた。故に鏑木は、当然上限である5レベルの折妖を使ってくるだろうと思っていた。ところが墨田が選んだのは何の特殊能力も持たない、2レベルの折妖だったのだ。しかもそのことを同級生や教師に対し、公にして。一体何を考えているのか。どうして自ら不利な条件で戦おうとするのか。皆疑問に感じた。

「俺も思った。いくらあいつでも、これでは上位にはいけないだろうと。ところが蓋を開けてみればどうだ? 連戦連勝、しかもどの試合も圧勝だ。あいつは自分の意思伝達能力だけでトーナメント戦を勝ち抜き、優勝したんだ」

 墨田の折妖を操る能力は圧巻だった。まるで自分の手足のように動かし、指示も的確。相手の攻撃を読んでいとも簡単にかわし、逆に自分の攻撃は確実にヒットさせる。彼の辣腕に鏑木も舌を巻き、声も出ないほどだった。

 そこまで鏑木が話したところで、保健室で簡単な治療を終えた鈴木と木村が、自分達の現状を報告するため前橋らのところまでやって来た。とりあえず病院へ行くような怪我ではないことを知り、鏑木が二人を呼び寄せた。

「鈴木、もう大丈夫か? こんな時に何だが、一つ砂川に教えてやってくれ。お前、折妖トーナメント戦で墨田と対戦した時のこと、覚えているな?」

 鈴木は間髪入れず、はいと答えた。

「自分は準決勝で墨田と当たりました。5レベルの折妖であいつとの対戦に臨んだんです。でも自分の折妖はものの三十秒と保たなかった。完敗でした」

「砂川、これでわかったな。お前も自分の意思伝達能力を鍛えれば、優勝は無理でも三回戦ぐらいには進めたんじゃないのか? この折妖トーナメント戦の真の目的は、折妖を操る技量を競わせ、その能力を高めることにある。俺が折士としての適正があると見込んだ以上、お前にもその力はあるはずだ。もう反則まがいの裏技なんて使うな。いいな」

 鏑木に懇々と諭され、鳳太も反省せざるを得なかった。鳳太への説教がすむと、鏑木はしょんぼりと佇む木村へ声をかけた。

「どうだ木村、落ち着いたか?」

「はい……」

 か細い声ではあ言ったが、返事はあった。やはり雷撃のショックが完全には抜けきっていないようだ。それでも相手の目を覗き込みながら、鏑木は話し続けた。

「今のお前には酷かもしれんが、どうしても言っておきたいことがある。お前、相手を甘く見て先攻することを許したな? そしてその結果、どうなったかはわかるだろう」

 木村は黙って頷いた。もし通常通り両者が同時に戦闘を開始していたら、素早さで勝る木村の折妖ドラゴンの方が先に攻撃していたはず。流星号は炎に焼かれ、戦闘不能になっていただろう。木村はほぼ手中に収めていた勝利を、自らの油断が原因で逃してしまったのだ。

「お前がただ折妖を作るだけの内勤折士ーー職人折士を目指すというのなら、俺は何も言わん。だがお前は、漉士と組んで妖魔狩人になることを希望していたはず。相手を侮ることは禁物だ。その報いとして、お前の折妖が妖魔に殺されるだけならまだいい。しかし忘れるな。奴らがまず狙うのは漉士だ。お前の油断が原因で相棒の漉士が死ぬかもしれないんだぞ。そればかりか、最悪お前まで命を落とすことになりかねん。わかったな」

「わかりました……よく」

「よし。ならもういい。保健室で休んでいろ」

 おぼつかない足取りで去って行く木村の背中を見ていた鏑木だったが、どうにも心に引っかかる事があった。あの妖紙は誰が何の目的で作ったのか、と……。まともな染士なら、あんな四種類もの妖魔を一枚の妖紙に無理矢理詰め込むなどという真似はしない。明らかに何が出来るのか、予測して組み合わせたようにしか思えないのだ。

 しかし、それを調べるのは警察の仕事だ。自分達に許されているのは、捜査への協力のみ。捜査結果が出れば、学校こちらへ報告はあるだろうが。

 一方ーー鏑木から少し離れた場所では、藍沢が凰香に向かってぶつぶつ文句を言っていた。

「ったく……。砂川、もう二度と兄貴を甘やかすんじゃないぞ!」

「もうしません……絶対に!」

 眉間に青筋を立て、凰香はきっぱりと言った。今日は鳳太のせいで本当に散々な目に遭った。恥ずかしいやら腹立たしいやら……。こんなことは金輪際ごめんだと思った凰香だった。


 それから十分ほどして桐生署の警察官が現場に到着し、現場検証及び事件関係者への事情聴取が始まった。古賀もこれに加わり、桐生署員に妖紙が鳳太の手に渡った経緯などを説明した。この間、騒ぎを聞きつけた周辺住民が数人集まり、何が起こったのか説明を求める場面もあった。幸い前橋と福原が上手く対応して住民を納得させたため、目立った混乱はなかった。

 これにより午後から予定されていた一回戦の残り十六試合は順延となり、明日十日の午後に行われる運びとなった。二回戦以降の対戦は十一日にずれ込むが、この日は雨天になった際の予備日だったので、カリキュラムには支障がなく、問題は生じなかった。

 被害が校内に止まり、校外からも被害や苦情は報告されなかったため、警察も鳳太を連行することはしなかったが、しっかり聴取はされた。この点はもう一人の当事者・馬渕も一緒で、鳳太に妖紙を渡すまでの出来事を事細かに訊かれていた。

 ようやく警察が去って一段落したのは、午後二時過ぎのことだった。本当なら直ぐにでも折妖ドラゴンの死体回収と学校施設の清掃を行いたいところだが、関係者は昼食抜きの立ちっぱなしで、疲労困憊。明日の午前中に行われることになった。幸い古賀も阿倍野署から人を出してくれるというので、学生全員で取りかかればさして時間はかからないはずだ。もっとも事件に関係がない学生は、不満に思うだろうが。

 凰香と馬渕もやっとのことで寮へ戻ったが、心身ともに疲れ果て、自室へ入るなり畳の上に倒れ込んだ。

「ごめんね凰香ちゃん。こんなことに巻き込んで」

 詫びる馬渕に、凰香は少し笑って見せた。

「いいのよ。涼美ちゃんが悪いんじゃない。お兄ちゃんが悪いのよ。あれほど気をつけて使ってって言ったのに、ろくに確認もせずあんな怖い技使って。お兄ちゃんは人の忠告を無視して、ああいう先走ったことをたまにするけど、今度という今度は本当に呆れたわ。もう……」

 おまけにあんなみっともない折妖作ってーーとは、流石に凰香もこぼせなかった。涼美が流星号のことを気に入っているようなのだから。

「でも凰香ちゃん……。あの妖紙、誰が作って道端なんかに落としたんだろうね。私、そのことがずっと気になって仕方がないの」

「そうね。落とし主がとうとう現れなかったことも変だし。あれだけ手の込んだ加工をした妖紙を紛失したのなら、直ぐにでも警察に問い合わせるのが普通だし」

 凰香の言うことはもっともだった。オリジナルの妖紙は、作製染士にとって変えがたい宝物。誰かに鑑定され、加工法が知られたらアイデアが盗まれてしまうかもしれない。もし馬渕が落とし主だったら、必死になって捜していたはずだ。

「ねえ涼美ちゃん……。もしかして、よ。もしかしたら落とし主、警察に行きたくても行けなかったんじゃないかしら」

「え? それどういうこと?」

 馬渕は半身を起こして凰香の方を見た。人のいい馬渕は凰香が言わんとしていることが理解出来ていない。凰香は正座をし、背を伸ばして馬渕に告げた

「古賀さん言っていたじゃない。落とし主が現れたら、詳細を訊くつもりだったって。つまり落とし主には、警察に訊かれちゃ困るような事情があったんじゃないかしら?」

「あ……」

「ちゃんとした会社か研究所が作ったものなら、これこれこういう理由で作りましたって答えられるはずよ。でもそれが出来ない人もいる。だって話したら、逮捕されちゃうから」

「それってもしかしたら……」

 馬渕が目を見張ると、凰香はゆっくりと答えた。

「そう。も・ぐ・り」

 その言葉に馬渕は頭を殴られたようなショックを受けた。もぐりとは無免許者。国家資格を持たないにもかかわらず、紙士術を使う違法者のことだ。こんな身近な所にもぐり紙士が潜んでいるかもしれないと思うと、馬渕は怖くてたまらなかった。

 もぐりの存在は二人とも講義で聴いていた。紙士法が施行されたのは、今から百年ほど前のことだが、それより遙か昔から紙士は活躍していた。こうした紙士の中には法に縛られるのを嫌い、国家の管理下に入らなかった者達がいた。これが俗に「もぐり」と呼ばれる違法紙士だ。正規の紙士は紙士養成学校でその術を学ぶが、もぐりは紙士術を先祖伝来の秘術とし、親から子へ受け継ぐ伝統があるらしい。また、近年では組織的に紙士術を教える、養成学校もどきのようなものの存在も明らかになっている。

 このような背景からもぐりの撲滅は大変難しく、逮捕者が後を絶たない。法の制限を無視して行動するため、もうやりたい放題。紙士法や妖魔産物利用法に違反するありとあらゆることーー例えば妖紙や折妖の密輸、兵器用折妖の開発、犯罪組織との取引……など、とにかく金になりそうなことなら、何にでも手を出す傾向がある。

「きっと古賀さんも気付いているはずよ。これはもぐりが作った妖紙じゃないかって。だから相手より先に取り戻そうと、あんなに慌てて妖紙を捜していたんじゃないかしら」

「何か大変なことになっちゃったね。大丈夫かなあ……」

「大丈夫よ。警察が捜査してくれるし」

「うん。あ……!」

 ここで馬渕は大事なことを思い出した。今日はアルバイトに行く予定だったのだ。それなのにもう時刻は二時半。完全な遅刻だ。

「凰香ちゃん、私バイト先に電話してくるね」

「えっ、今日バイトに行くの? 止めなよ、疲れているのに。明日の午前に校内清掃があるのよ。バイトに出たら倒れちゃうよ」

「うん。だから女将さんに頼んでみて、いいって言ってくれたら今日は休もうと思うの」

「その方がいいよ。無理しちゃ駄目」

 馬渕はやや無理をし、にっこり笑って部屋を出た。寮の電話は各寮の一階管理人室に一台あるだけ。個人的な用件で電話をかけたい者は、管理人に頼んで電話を貸してもらう決まりだ。因みに外部から個人宛に電話がかかってきた場合は、寮内放送でその者を呼び出し、電話に出てもらうシステムとなっている。

 数分後、馬渕は自室へ戻ってきた。ところが何故か顔色が冴えない。心配になった凰香はすぐに声をかけた。

「涼美ちゃん、バイト休めなかったの?」

「ううん…‥行かなくてよくなった」

「ならよかったじゃない。休めるんなら」

「そうでもないの……。お店、今日は閉めるって。臨時休業だって」

「どうして?」

「それが……」

 少し間を置いて馬渕は答えた。僅かに体を震わせて。

「お店に泥棒が入ったの。今、警察の人が来て、現場検証しているって女将さんが言うのよ」

「何ですって!」

 驚く凰香に馬渕は詳細を語った。午後一時半頃、鳥勝の店主夫婦が一階の店舗で開店の準備をしていた時のことだ。二階の住居部分がバタバタと少し騒がしいことに、女将が気付いた。窓を開けておいたので、野良猫でも入ったのかと思い、様子を見ようと女将は二階へ上がってみた。

 女将が行ってみると、確かに居間には猫がいた。ただし人の背丈ほどはあろうかという、巨大な黒猫が。タンスの引き出しから押入に至るまで、収納箇所は全て開け放たれ、中に入っていた物が床一面に散乱し、滅茶苦茶に荒らされていた。その中で猫は一心不乱に散らかった物を足先でかき分け、キョロキョロしたりしきりに臭いをかいだりしている。明らかに何か捜しているのだ。女将が「化け猫ーっ!」と悲鳴を上げると、黒猫はすぐさま窓から飛び降り、逃げてしまったーー

「ねえ涼美ちゃん……。その猫って折妖よ……ね」

「多分そうだと思う。警察の人もそうだって言っていたって」

「それで何か盗られた物はあったの?」

「詳しいことはまだわからないけど、取り敢えずお金や貴重品は無事だって。折妖猫の……いや、その命令者が欲しがっていた物は、違う物みたい。でも女将さんは言っていたの。『うちには盗られるような物なんて、何一つないのに』って」

「それってまさか……」

 凰香は絶句した。折妖猫を使って、犯人が捜していた物。家に忍び込んでまでどうしても手に入れたかった物とはーー

 ーーあの妖紙じゃ……。あれを落とした人が取り戻しに来たんじゃ……。

 馬渕も凰香と同じことを考えているようで、無言で頷いている。だがそれにしては疑問が残る。犯人が如何にしてあの妖紙のありかを知ったのか……と、いうことである。

「あの妖紙が鳥勝にあることを知っているのは、阿倍野署の人だけじゃない。まさか警察内に情報を漏らした人がいるんじゃ……」

「でも凰香ちゃん、それにしては変だわ。女将さんが阿倍野署で妖紙を受け取ったのは先週の金曜日、四日のことよ。今日まで五日間もある。それまでにいくらでも盗みに入れたはずよ。私がお店でもらうまで妖紙は二階にあったから、その時までに入れば確実に取り戻せたのに」

 確かに馬渕の言う通りだった。凰香の推測通り警察内に内通者がいれば、妖紙が警察の手を離れた時点で犯人は行動に出ただろう。阿倍野署からの帰り道、引ったくりに見せかけて奪うことも出来たはずだ。そうすれば妖紙がさらに人の手に渡り、使用されてしまうという間抜けな事態には陥らずに済んだはずである。

「私達が考えるくらいなんだから、警察はーー桐生署の人は、薄々感づいているんじゃないかしら。余計なことはしないで、もう任せるしかないわね」

「うん……」

 返事はしたものの、やはり馬渕は元気がなかった。鳥勝の女将が好意で自分に譲ってくれた妖紙が原因で、こんな事件に巻き込まれるとは思ってもいなかったのだろう。

 州都市の隣接する二つの区ーー阿倍野区と桐生区という、ごく狭い地域で起こった事件。これが後に途轍もない規模の事件に発展しようとは、凰香と馬渕は勿論、今の時点では誰一人として予想する者はいなかった。

 今回はどこか不穏な空気を漂わせて終わりましたが、如何だったでしょうか。本当は本編よりも気軽に楽しめる作品にしようと考えていたのですが、どうも重苦しい雰囲気に包まれてまいりました。どうなることやら(苦笑)。

 話変わって、墨田の過去について。彼の妖魔に対する「いかれぶり」は、本編の方でもはっきり出ていました。四面鬼の首に発砲したりはしませんよ、妖魔に対する恐れを知っていたら。あそこは折妖をけしかけている間に、周辺の人物を避難させるのが警官としてとるべき行動のはずです。凰香が紙漉きしていなければ、彼は確実に死んでいたでしょう。家族の敵をとって冷静さを取り戻した墨田は、ようやく藍沢の本意に気付くことになります。

 さて、次回はいきなりホラーシーンで始まることになると思いますーー多分。さらに海外が舞台となる場面も。どんどん内容が深刻になりますねえ。それではまた。

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