塔守衛と魔法使い
街の創設からあるという時計塔は、確かに年季が入った作りだった。強固な石積みで作られていて、所々にひびが入っているが木や煉瓦で補強されている。ただ、屋上がある4階から3階部分にかけては黒く汚れている。火事か何かの跡のようだ。
入り口には古びた木の扉がかけられているが、内側から閂がかかっているらしく開かない。裏手に回ると、小さな木の扉がついていた。こちらは所々透き間が空いている。そこから中を覗いてみたが、真っ暗で何も見えなかった。試しに扉を開けてみる。ぎしぎしと壊れそうな音を立てたが、やはり開かない。力任せに押したり引っ張ったりしても、子供の力ではたかがしれていた。
いっそ体当たりでもかましてみようか? と思案していると、突然ドアが開き、小柄なーーそれでも今のレイファにとっては巨人のように大きなーー男が、噛みつかんばかりに吠えかかってきた。レイファは比喩ではなく、本当に30センチほど飛び上がった。
「一体いつまで待たせるんだ! こちとら昨日の昼から何も食べてないんだぞ! 俺が倒れたら一体誰が鐘を鳴らすんだ、一体誰が街の時間を……」
男は人違いに気づいたのか、はっと顔をこわばらせた。そこにいたのはいつも食事を運んでくる食堂の婆ではなく、綺麗な服を着た小さな子供だったのだ。
慌てて取り繕うとしたが、時すでに遅し。女の子は顔をゆがませたかと思うと、大きな口を開けて泣き出してしまった。
当のレイファ自身当惑していた。一体自分はなぜそんなに悲しいのか、賢明に涙を止めようとしても身体がいうことを聞かなかった。自分の泣き声が自分でうるさい。ルードもおろおろと周りをぐるぐる回っては賢明に慰めようとしてくれているが、いっこうに効果がなかった。
「す、す、すまない。怒ってるわけじゃないんだ。ちょ、ちょっとその、腹が減って、気が立っていて……」
目の前の男は片目を眼帯で隠し、口はすきっ歯だらけ、浅黒く焼けた肌は鋼のようだ。大きな体だと思ったが、視線はレイファとそう違いがない。まるでしゃがみ込んだように背中が曲がっているのだ。
しかしそんな恐ろしげな外見に似合わず、何とかレイファを慰めようとする姿には好感が持てた。レイファは賢明に息を整え、涙を止めるのに努めた。
気持ちが落ち着いてくると、なぜあんなに悲しかったのか合点がいった。自分も男と同様、おなかが空いていたのだ。考えてみれば昨夜から何も食べていない。
レイファは涙を拭き拭き、「ちょっと待ってて!」と駆けだした。
食堂は、ルードの鼻ですぐわかった。通りを二つほど先に行ったところにあり、裏口は開いたままだ。
開きっぱなし、ということは、誰でも中に入れるということだ。イヤな予感がする。そしてその予感は的中した。
裏口にすぐ続く部屋は台所だったが、そこには食料を求め、ありとあらゆる生き物が荒らしまくったひどい光景が広がっていた。野菜をかじり、肉をむさぼり、チーズを食い散らかしパンの残骸が足の踏み場もないほど散乱していた。いくら腹が減っていても、かじりかけのハムは食べられない。
レイファが途方に暮れていると、ルードが壁に備え付けられた観音開きの棚に向かって吠えた。
「そっか」
見たところ、棚は手をつけられた痕跡はない。戸を開けるほど器用な動物がこなかったのは幸いだ。レイファは近くのイスを移動させ、つま先立ちで棚の中を探る。
様々な香辛料の他は、キノコのピクルス、塩漬けのニシン、干し肉に干しタラ、奥の方に放置されたかさかさに乾いたライ麦パンも見つけた。案の定ほとんどが保存食ばかりだが、何もないよりマシだ。
台所に掛かっているカーテンを風呂敷代わりにして、持てるだけの食料を持って時計塔に戻ると、塔守衛の男は食料とレイファの顔を交互に見比べ「戻ってくるとは思わなかった」と言った。
「どうして? 待っててっていったじゃない」
「お、俺はこんな風貌だから、子供たちが逃げていくんだ。時計塔には怪物がいて、それが時間を管理してるんだって……」
化け物だって! レイファは思わず笑い飛ばすところだった。この男は化け物どころか、魔法すらろくに使えない。ここに来るまで塔守衛が何らかの関与をしていると思っていたが、とんだ見当違いだった。
「あなたはどっから見てもただの人間でしょ! ああもう! そんなことはいいから!」
レイファは荷物を男に押しつけた。もう腕が限界なのだ。
「お腹空いてるんでしょう、私もぺこぺこなの。早く食べましょうよ!」
目の前の子供が本気で自分を恐れていないことに戸惑い、気迫に押されるように食料の入った荷物を受け取った。悪意もなくこれほど積極的に関わってくる人間を見るのは、生まれ初めてだったのだ。
男は時計塔に少女と犬を招き入れ、せっかくだからと見晴らしのよい屋上で食べることを提案した。もちろん異論はなかった。レイファは時計塔と魔法の関連性を調べるために、時計や鐘を調べる必要があったし、塔の内部は食事をするのに適してないように見えたからだ。
「お、俺の名前はビーフィーターだ。生まれたときからここにいて、生きてる間は外に出ず、死ぬまでここにいるんだ」
「生まれたときから? ずいぶん仕事熱心なのね。私はレイファ。こっちはルードよ」
「や、やあルード、こんにちは。黒い毛並みがキュートだね。とてもおとなしくて良い犬だ。しつけが行き届いてる」
「そうでしょ」
ルードがなにやら抗議の遠吠えをしているが気にしないことにした。それよりも、ビーフィーターはルードが本物の犬だと思っているようだ。さっきレイファのことも「街の子供」だと勘違いしたように、「人間が変身しているもの」だとは露ほども考えていない。つまり、この街にいながらこの街の騒動を全く知らないのだ。生きてる間は外に出ないというのはあながち嘘ではないらしい。
レイファが思索にふけっているのもかまわず、ビーフィーターは部屋の中央に設置された金属状の螺旋状階段を登っていった。
「こ、この階段は気をつけて。足場が悪いんだ。ちょっとした、じ、事故で」
ビーフィーターが寝泊まりしているらしい2階を過ぎ、3階にさしかかったときにそう注意を促した。確かに、3階部分は見るも無惨に床が焼け落ちて、焼け焦げた梁と黒く煤けた壁以外何も残っていない。屋上に出るための階段も、黒く焦げてぐらぐらしている。そういえば外観もこの部分は黒ずんでいた。
「火事でもあったの?」
「か、雷だ。昔雷が落ちてきた。この塔めがけて。辺り一面真っ白になって、お、俺は死んだかと思った。でも生きてた。穴が開いたのは俺の頭じゃなくて、塔の方だった。さ、3階は燃えたけど、なんとか消して、でも階段はこのざまだ。ずっとこのままだ」
「けどこのままじゃ危ないわ。町の人に言って修理してもらえば」
「ま、街の奴は、来ない」
そう言って小馬鹿にするように笑った。それは街の人に対してなのか、自分自身に対してだったのか。
「こ、怖がってるんだ。みんな。さっき子供たちが俺のこと化け物と呼ぶと言ったけど、本当は子供だけじゃないんだ。俺は知ってるんだ。食堂の婆も、役所の奴らも、みんな俺のことを化け物だと言っている」
「なんで?」
「俺はその、見たとおりの姿だから」
「そんなもの! 何よ見た目なんて」
レイファはことさら大きな声を出した。ルードも同意するように吠える。
「気にする必要ないわよ。あなたこの時計塔の管理人なんでしょ? 街を代表する時計塔の時間を運営してるんでしょ? 立派じゃない。恥じることなんてないわ」
怒りをごまかすようにひらりと階段に飛び乗った。エルフの体ほどではないが、子供の身体は身軽だ。小鳥のように一気に屋上に駆け上がった。 屋上に飛び出したレイファは、思わず歓声をあげた。時計塔はこの街のどこよりも高い。360度見渡す限り、街が一望できた。雪をいただいて白い北の山脈も、遙か西に広がる海も、レイファたちが通り抜けてきた森も見えた。
「こ、ここに人がきたのは初めてだ。当たり前だ、俺以外が塔に入るのすら初めてなんだから。で、でもずっと思ってた。誰かにこの景色を、分け与えたいって。だ、誰かと一緒に見たらきっと素晴らしいだろうって」
「あなたの言うとおりだわ、ビーフィーター」
屋上を見回すと、北西の隅に旗竿が、南側には大きな青銅の銅鑼があった。そのそばに巨大なばちがぶら下がっている。東の壁のそばには、台座の上に大きな日時計が置かれている。ビーフィーターはこれを使って、毎日街の人たちに時刻を知らせているのだろう。
ビーフィーターはレイファから受け取った風呂敷の中から、乾いたパンのかけらを取り出しさらに粉々にした。そして北東のすみにある粗末な鳥小屋に行くと、台座にぱらぱらと撒いた。どこから見ていたのか、程なく数匹の小鳥がやってきて、それをついばむ。相変わらずのだみ声だが、それでも子供をあやすような声色で「ごめんな、待たせたな」とぶつぶつ呟きながらその様子を眺めている。
「お友達?」
「と、鳥は良い。と、鳥はこの顔を恐れないから。と、鳥は俺のことを、化け物と呼ばないから。こいつらは、この時期になると北の方からやってきて、やがて、南に飛んでいくんだ。そして暖かくなったら、今度は南からやってきて、やがて、北に飛んでいくんだ」
「よく知ってるのね」
「季節が巡るたび、やってくるんだ。そ、そのたびに俺は、こうやってパンを分け与えるんだ」
「そう……」
レイファは街に目をやった。耳を澄ませば、街の喧噪が聞こえてくる。もちろん人の声は全くしない。相変わらず、得体の知れない動物たちの鳴き声ばかりが届いてきていた。
「ねぇビーフィーター。あなたが鳥のことを詳しいのはよくわかった。でも街のことを知ろうとはしないの?」
「街のことは……」しかられた子供のように気まずそうな目をきょろきょろさせて、言いよどんだ。「街のことは、知らん」
「でも、街で何かおかしなことが起こってるのは気づいているでしょう? そのせいで食べ物を運んでもらえなかったのも……」
「知らん、知らん!」
「ねぇ、ビーフィーター」レイファは噛んで含むように彼の名前を呼んだ。「今、街では大変なことが起こっているの。人が人ではなくなっているの。それは、ここの鐘が鳴るたびに起こっているようなの」
「俺は何もしていない!」
突然の怒号におびえた鳥たちが、一斉に飛び立った。小さくなっていく鳥たちをを眺めながら、「わかってるわ」とレイファは即答した。
時計塔の周辺にも、内部にも、件の鐘にも魔法が使われている跡はない。街全体を巻き込むような、しかも現在進行形で行われているような大がかりの魔法なら何らかの形跡があるはずだ。
「あなたは何も知らない。誰かがこの時計塔を利用して街を混乱させてるんだと思うわ。だからね」レイファは舞い落ちた小鳥の羽を拾い上げ、くるくると指先でもてあそぶ。「あなたをこれ以上悪事に荷担させたくないの。街の騒動が収まるまで、その鐘を鳴らさないでもらうことはできる?」
「それは……」彼にとっては思いもかけない提案だったようで、しきりに目をしばたたかせた。そして苦しそうに、しかし間髪入れず「それは無理だ」と言った。
「街の事件が解決できるまででいいの。そうすれば……」
「無理だ! 無理だ!」ビーフィーターはレイファの言葉をかき消すように叫ぶ。
「お、俺は生まれたときからここにいたんだ。生まれてこのかた外に出たことがない。死ぬまでここにいて、そして、鐘を鳴らし続けるんだ。鐘を鳴らさないと、ここにはおれない。か、か、鐘を鳴らさないと、ここから追い出される。鐘を……鳴らさないなんて……」
男は真っ青になって叫び続けた。その声はか細くかすれ、震え声になり、やがてすすり泣きに変わった。目に見えない何者からか身を守るように、体をかき抱き小さくなって震えている。
レイファは生まれてからずっとこの狭い空間から出たことがない人生について考えてみた。ばかばかしいと笑い飛ばすのは簡単だが、少なくともこの男にとってこの塔は世界の全てだし、鐘を鳴らして街中に時間を告げるのは人生そのものなのだ。それを奪われるのは、手足をもがれるのと同義なのだろう。
人生を奪われる。レイファは自分の過ごした村のことを思いだし、それ以上何もいえなくなってしまった。
レイファはもう一度塔からの眺めに目を移した。心地良い風が吹いている。まるでこの街に降りかかっている災厄など夢物語のようだ。
「わかったわ」
ビーフィーターは少し驚いた顔でレイファを見た。「……いいのか?」
「良くはないけど、でも……友達が悲しむことはしたくない」
「友達? お、俺たちは今会ったばかりだ」
「時間は関係ないわよ。だけど、何となく、わかるから。その気持ち」
レイファの笑顔がまぶしいように、ビーフィーターは目をそらした。空白を埋めるように、そよと風が吹き抜ける。
「ご飯にしましょう。お腹空いちゃった」
ビーフィーターはしばらくうつむいたまま動かなかったが、やがてのそのそと風呂敷を広げた。
最初は遠慮がちだった2人と一匹は、そのうち息もつかない勢いで食料を食べ始めた。塩辛い食べ物ばかりで飲み物がないのに気づき、しまったと思ったが、ビーフィーターは「飲み水だけはたくさんある」と奥の樽から水をもってきてくれた。
「この水は、雨水?」
「いや、湧いてくるんだ」
「湧いてくる? どこから?」
「地下から」
地下? レイファとルードは顔を見合わせた。
デニムラックは先進的な街だ。日時計でもって街の時間を管理し、行政に秩序を持たせたのと同じように、近くの山から供給される地下水を利用して都市の下に巨大な水路を張り巡らせ、街の隅々まで生活用水を供給していた。
時計塔にも当然それはあった。1階の端から地下に降りると、ひやりとした空気がレイファたちを包んだ。
四方4メートルほどくり抜かれた正方形の空間の真ん中に、清らかな水がたたえられている。そこから東西南北に向かって水路が分かれ、街中に水が行き渡るというわけだ。
水路の両側に幅1メートルの通路が続いている。この通路は掃除や点検の際に使われるらしい。
塔の大きさと水路に降りる階段の方向を考えると、北東側の壁が塔の中心部になるはずだ。壁沿いに通路を歩いてみると、塔の真下部分は一面壁に覆われていることがわかった。
レイファは壁を叩いた。ごつごつと無骨な感触がレイファの手を打つ。
考えられる可能性は一つだった。
「ルード、今から私を信じて、何も考えずに後に続いて。いい?」
それが犬の身による従順さなのか、ルードは疑うまもなくしっかりと返事をした。レイファはビーフィーターに向き直り、
「あなたの仕事を利用して、この街に呪いをかけてる奴がいるの。でも私たちがきっとやっつてやるからね」
とウィンクすると、十分に助走をとった後北東の壁向かって一直線に走り出した。
ぶつかるーーとビーフィーターが手を伸ばしたその向こうで、レイファとルードの体は壁に吸い込まれていった。
「き、消えた……消えちまった!」
ビーフィーターの声が、狭く果てしない地下水路に響きわたった。
突然からだの重心が変わったレイファは思わずたたらを踏んだ。視線が一気に高くなり、一瞬めまいを起こす。ルードの方がそれはひどかったはずだが、バランスを崩さなかったのはさすがだった。
足下には一面の魔法陣が赤く怪しげに浮き上がっていた。その光に照らされた自分の体は、今日一日苦労をともにした子供の姿ではなく、ほっそりと美しいエルフのそれだった。ルードも昨日の晩別れた姿そのままでそこに立っている。ご丁寧に自慢の長剣も背中に備えたままだった。
「ここは……あの壁の向こうなのか?」
ルードが当惑気味に辺りを見回す。直径5メートルにも及ぶ巨大な魔法陣のただ中に二人はいた。魔法陣の明かりのせいなのか、そこより外は暗くて壁も通路も見えない。
「これを設置した奴……街に妙な呪いをかけた奴と同一人物と見て間違いないけど、そいつがこれを隠すために地下通路に幻術の魔法をかけていたのよ」
幻術魔法は文字通り幻だ。幻である以上、あそこに壁は存在しなかった。しかし、当人がそれを信じる以上、壁は確かに触れるし、行く手を拒む障害となる。現実がどうであれ、当人には紛れもない事実として存在するのだ。
それを打ち破るには、強い精神力を持って幻を疑うことが必要となってくる。事実を否定をするのは容易なことではないが、レイファにはここに魔法陣が確かに存在すると信じる根拠があった。
街の呪いは時計塔の鐘が鳴らされることによって更新されていた。鐘そのものに魔法の痕跡がなかったこと、それに時計塔の守衛たるビーフィーターが魔法の影響を受けていなかったことを考えると、塔そのものをカバーする巨大な魔法陣があると思ったのだ。魔法陣はその構造上、対象すべてをカバーする必要がある。この場合は、下から魔法を放出するのが一番合理的だったのだ。
とはいえ、レイファにもこれは賭だった。そしてもう一つ、想定外だったことがある。
「とりあえずこの魔法陣さえ破壊してしまえば、街の呪いは解けると思ったんだけど……」
「破壊できない……のか?」
「見てよ、これ」
言いながら足下の地面、魔法陣の一部を削ってみた。しかし、線は消えることなくあいかわらず妖しげな光を放っている。
「多分、魔法陣を別の場所で作って、ここに投影してるんだわ。やっぱり根本を叩かないと、街の魔法を解くことは無理みたい」
それは十中八九、呪いの張本人の傍に違いなかった。ここまで来たからには、そこにたどり着くのは時間の問題だ。
「魔法は遠隔操作できても、魔法陣を設置するときはここに来たはずよ。この水路はほかの場所にもつながってるから……」
「なるほどな。となると、不本意だけどまたこの姿に戻った方が話は早そうだな」
ルードはそう言うと、魔法陣の外に出て犬の姿に戻った。地面のにおいを嗅ぎ、明らかに今までと違ったにおいをかぎつけてレイファに合図をする。
それはあえて言うなら、老師の家で嗅いだにおいに似ていた。甘ったるい薬草のにおい、草木を焦がした香のにおい、黴びた書物のにおい。それはすなわち、魔法使いがよく漂わせている独特のにおいだった。
ルードを追って魔法陣の外に出たレイファもまた、子供の姿に戻ってしまった。
ーーエルフの姿のままなら、魔法使いの相手をするのも楽なのに。
愚痴を言いたい気持ちを振り払って、レイファは老師の家で手に入れたマホガニーと樫が複雑に絡み合う杖を握りしめた。
ずいぶん走ったので、おそらく街の郊外まで出ただろう。水路はある地点から途端に道がせばまり、施工が雑になった。安全性を考えずにただ地面をくり抜いただけのようなその通路は、最後には人一人がやっと通れるほどの狭さになったが、今のレイファやルードには難なく通れる狭さだ。
やがて行き止まりにさしかかったが、上部に格子があり、押し上げるととある部屋に出た。
そこは時計塔の倍は広さがある煉瓦づくりの建物だった。円形状の部屋には所狭しと木箱やら書物やら、樽に詰められた薬草やらが置かれている。ちょっとした物置小屋というところか。
部屋の真ん中には木で作られた階段がある。音を出さないように慎重にあがっていくと、先ほどよりは整頓された部屋に出た。左手に簡素な扉、正面には石造りの階段が上階に延びている。ここがこの屋敷の玄関らしい。
壁に沿って螺旋状に上る階段を慎重に進み、2階の通路にあがる。そこには古ぼけた扉が付いた部屋があったが、耳を澄ませてみても人がいる気配はない。そこは無視して、とりあえず上の階まで、行けるところまで行ってみることにした。
さらに3階まであがると、ひやりとした冷気、いや殺気のようなものを感じた。ここには誰かいる。それも、自分たちの進入を気づいている! レイファは持っていた杖を油断なく構え、周囲に気を張り巡らせた。ルードが足下でうなる。彼もまた自分たちに向けられたこの屋敷の住人の視線に気が付いていた。
小さな肖像画が数枚飾られた廊下に、2階にあったものより少し豪華な扉がしつらえられている。
レイファはその扉の前を、全力疾走で駆け抜けた。しかし、間髪の差で扉が砕かれ、レイファの足は氷の固まりに捕らえられてしまった。その勢いで前方に倒れ込む。
「無事で帰れると思うなよ、侵入者!」
部屋の中から響いてきたのは思いがけず若い、まだ少年と言っていい年端の声だった。魔法使いに第二波を放つ隙を与えず、ルードが声の主の喉元に食らいつくべく部屋の中に突進していった。
レイファは杖を掲げて、魔法使いに一撃を見舞わせようと思ったが、すぐに思いとどまった。
ーー違う、こいつは黒幕じゃない。
老師の部屋で見たメモを思い出した。おそらく、この若い男は魔法使いについて行ったという弟子の方だ。
レイファは自分の足を捕らえている氷の固まりを杖で砕き、一気に階段を駆け上がる。
ルードをおいていくのは心残りだったが、はっきり言って今の自分は戦力ゼロだ。ここで下手に加勢に入るより、黒幕を叩くのが先決だ。魔法は使えなくても、老師の家で手に入れたこの杖が打開策になるはずだ。レイファは自分に言い着替えるように強く杖を握りしめ、三階に躍り出た。
そこは驚くほど殺風景な風景だった。家具どころか、扉すらない。石造りの部屋がむき出しの、生活感が全くない部屋だった。窓があるのでただの倉庫というわけではなさそうだ。窓、といっても、格子も扉もない、ただくり抜いただけのような質素なものだ。そこから街の、時計塔のてっぺんに掲げられている旗が風にゆらゆらはためいているのが見える。
レイファは足下と、四方を確認しながら注意深く中へと入った。
部屋の真ん中辺りにさしかかったとき、研ぎ澄ませた耳に紙がこすれるような微かな音が聞こえた気がした。それがわずかに「火炎球」と発音している、と認識するより早く、身を翻してその場に伏せた。レイファが避けたのと同時に、自分が立っていた辺りの床に小さな爆発と煙があがる。
「よくぞ避けたな小娘、もっともそうでなくてはおもしろくない」
相変わらず殺風景な部屋の中に、陰湿な老人の声だけ響く。おそらく幻術で姿を消しているのだ。
「こっちこそ安心したわ。小娘相手に姿を見せない小心者が相手なら、この姿でも戦えるってね」
「ぬかせ!」
怒号と同時に、立て続けに炎が襲いかかる。レイファは足を止めることなく部屋中を駆けめぐりながら、魔法が飛んでくる方向に目を走らせた。姿を消しても、その軌道で魔法使いの居場所が分かる。
今魔法使いの姿を消しているのは、建物や家具にかける幻術魔法とは違い、ただ単に姿を見えなくしているだけのものだ。ならば、本体は紛れもなくそこに“存在している”。
レイファはスカートのポケットから小さな巾着袋を取り出すと、魔法使いがいると思われる場所めがけて思い切り投げつけた。
おそらく手に持った杖でもってそれを振り払ったつもりだろう、レイファの投げたそれは衝撃によって破け、中身が空中で四散した。
「なっ、これは……」
皆まで言う前に、中身を思い切り吸い込んでしまった魔法使いはせき込み、くしゃみを放ち、行動不能に陥った。自らにかけた魔法も解け、涙と鼻水をだらだら流した無様な姿をレイファにさらしている。
黄土色の薄汚れたローブを着た老人がそこにいた。老人はレイファに怒り、癇癪をぶつけたが、刺激された涙腺は如何ともしがたく、罵倒とも悲鳴とも付かない声でレイファに詰め寄った。鼻水を垂らしながら、だが。
「おのれ……ふざけたまねを……」
「食堂で見つけた香辛料を片っ端から混ぜたのよ。役に立つと思って持ってきて正解! 姿さえ見せればこっちのものよ!」
レイファは樫の杖を掲げ、呪文を唱えようとした。しかし魔法使いの方が一瞬早い。
「なめるな小娘、これでもくらえ!」
突きだした手が巨大化したのか、と思うような衝撃だった。確かに2mほど離れているはずなのに、魔法使いの放った衝撃波はレイファの華奢な体を打ち、容赦なく壁に激突させた。
衝撃に息が詰まる。
ーー第二波を食らったら太刀打ちできない……!
必死に体勢を立て直そうとするが、痛みにしびれる未熟な体ではそれもかなわなかった。しかし、敵もまだ胡椒の呪縛から解かれていないらしく、連撃は免れた。
レイファがなんとか体を起こすと同時に、魔法使いも顔中の汗や涙やその他のものを拭い落とすのに成功していた。そして窓の外を指さし、
「ここまできたのは誉めてやるがな、だが見ろ、おまえがその姿でいられるのも後わずかだ。」
と勝ち誇ったように言った。
思わず窓の外に目をやると、時計塔の旗がするすると降ろされ、代わりに新しい旗が掲げられるのが見えた。
ーー鐘を鳴らす時間だ!
今は幸い人間の姿でいられているが、今度は何に変わるのか皆目見当も付かない。巻物の効果は基本的に1度だけなので、今度は昼間のような幸福には恵まれまい。当然、ここからではビーフィーターに声は届かない。やはりなんとしてでも、鐘を鳴らすのをやめてもらえばよかった。しかし、いまさらもう遅い。
「今度は何に変身するかな? トカゲか? イタチか? 有益な動物なら魔術の材料にしてやってもいいぞ」
魔法使いの勝利を確信した笑い声が部屋中に響いた。
レイファは観念して目を閉じた。……が、いっこうに鐘の音は響かなかった。おそるおそる目を開けると、時計塔の屋上にいた人影がのそりと下に降りていくところだった。
「な……!? バカな……」
狼狽する魔法使いの背後から、追い打ちをかけるように黒い影が襲いかかった。
「お師匠様、逃げてください!」
それは下の階で聞いた覚えのある若い男の声だった。だがその警告と、影ーールードが魔法使いの肩口に食らいつくのとほぼ同時だった。
ルードは右半身にひどい傷を負っていたが、流れる血を構うことなく魔法使いに牙をたてた。見れば魔法使いの弟子も這々の体で階段を上ってきている。
魔法使いはあまりの痛みに悲鳴を上げながら、手に持った杖で黒犬を打ち据える。
「ルード、こっちにきて!」
その機を逃さず、レイファは樫の杖を頭上に掲げた。ルードが魔法使いから離れたのを確認し、そこにかかれた呪文を一息で唱える。地下道を巡っている間、ずっと口の中で練習してきたのだ。一言一句間違えるはずがなかった。
レイファが呪文を唱え終わるのと同時に、杖が瞬き、魔法使いの体は糸のように引き延ばされ、杖の上に鎮座したアヒルの頭の中に音もなく吸い込まれていった。
「お師匠様ぁ!」
弟子が悲痛な声をあげ、入り口でがっくりと頭を垂れた。困り眉がひ弱な印象を与える14、5歳ほどの童顔の少年だった。
「やった……の?」
魔法使いを閉じこめた杖をおそるおそるのぞき込むと、突然アヒルの目と口がカッと開き、
「畜生! やってくれたな小娘! 今に見ていろよ、きっと仕返しをしてやる!」
と罵倒をし始めた。思わず杖を落としそうになる。
アヒルはギャーギャーと騒ぎ立てるが、この姿のままでは魔法は使えないらしい。レイファはホッとして、「うるさい!」とアヒルの頭にげんこつを落とした。魔法使いは「きゅう」と言ったまま目を回してしまった。この姿でも痛みは感じるらしい。
「お師匠様に何をする、きさま!」
魔法使いが取り落とした杖を拾うと、弟子は短い呪文とともに床を打ち叩いた。
途端に、レイファの足下の床が揺れ、沈み、崩れだし、蟻地獄のようにみるみる体を飲み込んでいく。
「きゃ……!」
咄嗟に床にしがみつこうとするが、触る先から砂となり、ぼろぼろと崩れていく。出ようともがけばもがくほど、身動きできなくなっていった。
レイファの傍らに、ぼすんと黒い固まりが落ちてきた。顔をふるわし、長い鼻先から砂を振り払う。
「ばかっ、あんたまで来ちゃ……」
そう言いながら、ルードが何かくわえているのを発見した。ペンダントのような鎖だ。手に取ると、先端に赤いルビーのような宝石がついている。
「これは……」
魔法使いが身につけていた魔法の媒体だ。魔法使いは宝石や杖などを使い、自分の魔力を増幅し使役する。例の魔法使いは杖でもって魔法を使っていたが、宝石を常備することでその威力を強めていたのだろう。複数の魔法を同時に使えていたのもおそらくこれのおかげだ。
レイファはそれを握りしめ、覚えたばかりの呪文を力の限り唱えた。
「エアマティコ ウォハマテラ レカキネラゥ……エアマテアンカ……魔法破り(ディスペル)!」
一瞬の閃光が魔法使いの弟子の目を焼き、思わず手で覆う。涙ぐんで瞬いた瞳に、先に二つの人影が映る。それは立派な痩躯の黒髪の戦士と、きらめくような金髪をたたえた美しいエルフだった。エルフは戦士に抱えられた状態で、2、3短くささやいた。それは弟子の聞いたことのない、風をふるわすような言葉の羅列だったが、それが何を意味しているのかは本能に近いところでわかった。
これが、エルフの使うという精霊魔法なのだ。
二人の体はふわりと舞い上がり、魔法の砂漠はそのまま風に吹き飛ばされて跡形もなくなった。空洞になった床からは、さっきまで自分がいた部屋が見える。
ルードは三階に残った床に器用に舞い降りたが、レイファは宙に浮いたまま魔法使いの弟子をにらみつけたまま動かない。
弟子は理解していた。こと魔法に関しては、自分の中途半端な力ではーーいや、自分が尊敬していた師匠ですら、生粋の魔法使いであるエルフには叶わない。無駄と知りつつ、エルフの鋭い視線から手にした杖で体をかばう。
「……あんたたちよくも……」
その口がようやく開く。それはエルフの美しい旋律に似合わない、恨みのこもった低い声だった。
「よくも人をあんな姿にしてくれたわね」
レイファは怒っていた。この騒動が魔法によって起こっているとわかってから、あの夢が夢でないと気づいてから、あの黒光りする関節が正真正銘自分の姿だったと理解してからずっと、この事件の元凶を許しておかないと決めていた。
レイファの体に風が逆巻く。しかしそれはだんだんと大きくなり、部屋中に嵐のような風が吹き荒れた。
「お、おいレイ……」
ルードは床に大剣をつきたて、飛ばされないように踏ん張る。魔法使いの弟子も真っ青になりながら入り口の壁にしがみつく。
やがて屋根が飛び、梁が吹き飛び、土壁がべりべりとはがれていった。
「ぜったいに、ゆるさない!」
建物は一陣の竜巻となって、跡形もなく崩れ去っていった。
魔法使いの弟子を回収して、街の入り口にたどり着いたときにはすっかり日も暮れていた。まさか二日連続で同じような時間に門をくぐることとなるとは、2人とも思ってもみなかった。
街の魔法は解けているようで、門はきっちりと閉じられ、両脇に門番の姿が見える。あれ以来塔の鐘は聞こえなかったが、果たして入れてもらえるだろうか?
しかしそんな心配も無用とばかり、2人の姿を認めた門番が破顔して迎え入れた。
「こんばんは。昨日の夜、デニムラックに来られた旅の方ですね?」
門番は自分たちを知っているようだった。その親しげな感じに、レイファはぴんときた。
「もしかして、昨日のフクロウ?」
門番はにっこりと笑って肯定すると、大きな門の傍らにある小さな扉に招き入れた。
「今、まだ街の中は混乱しているので扉を閉ざしているのです。しかしあなた方は村長がお待ちしておりますので、特別にお通ししろとの通達がきています。どうぞ、こちらへ」
レイファとルードは顔を見合わせた。この街に来て村長とはーーそれどころかビーフィーター以外の人間にはほぼ面識はないはずだが。
もしかして食堂の食料を勝手に失敬したのがばれたのだろうか。いやあの時点でほかの住人にくい荒らされていたし。魔法の巻物を無断で使ったことだろうか。いやしかしあの時は持ち合わせがなかったし、多分店長公認だし。いやしかし。門番の後に付いていきながら、今日あったあれこれに思いを馳せて次々といやな予想が浮かんできた。
到着したのは時計塔を背負うように街の中心地に建てられた立派な建物だった。遅い時間にも関わらず、門番が衛兵に説明すると、あっさりと通してくれた。2階にあがる大きな階段を過ぎ、真正面の扉を開く。
あらかじめ連絡を受けていたのだろう、恰幅の良いちょび髭の中年男性が大げさな身振りで出迎えてくれた。
「おお、あなたがレイファ・ロヴァンヌ! この街の危機を救ってくださった英雄ですな! このたびは本当にありがとうございました」
村長はレイファの手を取り、ふりまわさん勢いで熱烈な握手をした。もちろん、ルードにも同じように。
「え、ええと、私の名前を、誰に……」
「ご本人に聞きましたよ、直接、この耳で」
満面の笑みで答えるその顔に、やはり見覚えはない。自分がこの街に来て自己紹介したのは、ビーフィーターと、後一人……
「……もしかして、巻物の店で会った踊り子の……」
「思い出していただけましたか」
マジか。
老師のメモによると、変身した姿はその人がその姿に生まれたときに辿る人生だという。この人は男性に生まれなければ、ケバい化粧の踊り子になっていたということだろうか……それより、昼間の姿と村長の顔と体が一致する様を想像して、いささか気持ち悪くなった。
「本当に、あなた方がいてくださって助かった。お恥ずかしながら、我が町の魔術機関は全く機能できませんで……」
無理もない、皆一斉に突然人ならざる姿に変身させられたのだから、対応するどころではなかっただろう。
「私たちも、たまたまここに来ただけですよ」
「それでも、あのタイミングでいらしたのがあなた方で良かった。是非、お礼をさせていただきたい」
「お礼、と言われてもーー」
街を救うためというより、自分たちのためにやったようなものだ。レイファは助けを求めるようにルードを仰ぎ見た。
「そうだなぁ、俺たちが望むことっていったら……朝食を勝手に失敬したことを大目に見てもらうとか……」
村長はその言葉に爆笑した。
「それくらいのこと! 今回の件で破損したり消耗したものはこちらで責任を持ちますからご安心を。まぁ、突然このようなことを言われてもかえってご迷惑かもしれませんな」
そう言うと、秘書に合図をしてひとことふたこと言付けた。
「今日のところはもう遅い。私の方で宿を手配しましたので、ゆっくり体を休めてください。明日、またお訪ねください。それまでにじっくり考えておいてくださいね」
村長は慇懃に礼をし、2人を見送った。
「宿へご案内いたします。こちらへどうぞ」
秘書に連れられ、役所のすぐ側の宿へ向かった。宿と言っても昨日の晩に泊まったような質素な建物ではなく、ほとんど迎賓館のようなものだった。
何となく落ち着かない気分で秘書の後ろについて歩いていると、ルードが思い出したようにレイファを小突いた。
「なぁレイ、村長の言ってたお礼の話なんだけどさ……」
ルードの提案にレイファは一も二もなく賛成した。実は同じようなことを考えいたのだ。
翌日、再び村長の元へ出向いた2人がそのことを告げると、村長は驚き、戸惑い、そしてにっこり笑って快諾してくれた。
その足でレイファたちは村長と、村の腕利きの大工を従え、時計塔に向かった。塔のてっぺんには、昨日からずっと灰色の旗がはためいている。
「ビーフィーター、起きてるんでしょ。出てきてよー」
まるで子供が遊びに誘うように、無遠慮に扉を叩く。中から不機嫌そうな顔をした猫背の男が顔を出した。
「なんだお前たち? 飯ならさっきーー」
「ビーフィーター!」
レイファは感謝の気持ちを込めて彼を抱きしめた。ビーフィーターは突然のことに目を白黒させ、しどろもどろになりながら必死でレイファを引き離した。
「な、な、なんだお前は。ど、ど、どういうーー」
「私よ、レイファよ! あなたのおかげで魔法が解けたわ。ありがとう!」
「レイファ? バカいえ、レイファはもっと小さくて、人間の……お前のような……」
ビーフィーターは記憶を辿り、分析し、ようやく昨日の子供の目の前の女性が同じ名前を名乗ったことに気が付いた。
そういえば、確かにこの街に魔法がかけられ、姿を変えられたと言っていた。しかしまさか、こんな美しい女性だったとは、にわかに信じがたいことだった。
「も、も、もしかして、本当にレイファなのか? あの時、地下道でいなくなった……」
「そうよ。心配かけてごめんね。でもこの通り、本当の姿に戻ることができたの。あなたのおかげよ。ありがとう!」
レイファは自分の姿を改めて披露するように嬉しそうにくるりと周った。だが、その美しい眉をひそめて声を落とす。
「あれだけ時計塔の仕事に誇りを持っていたのに、曲げちゃってごめんなさい」
「べ、別に曲げちゃいない。俺は俺の仕事をしただけだ」
「時計塔に掲げられている旗は灰色でしたでしょう」
村長がビーフィーターの言葉を補足するように言う。
「あそこにあがる旗は、時間のほかに街で起こった様々な出来事を伝えるのにも使われるのです。赤は祝い事。要人の結婚式などですな。黒は葬式など……。灰色は不測の事態によって街の活動を停止するという緊急の意味があり、その日は一日鐘を鳴らさず、町民のほとんどは家からでないで過ごすのです」
「な、何が起こったかは知らないけど、なんだか大変なことが起こったって言ってたから、その方がいいと思っただけだ」
村長は一歩前に出て、ビーフィーターに頭を下げた。秘書があわててそれを制する。
「村長、あなたという立場の方が軽々しく頭を下げるべきでは……」
「いや、下げるべきだよ。レイファ殿や彼のおかげで我々は助かったも同然なのだ。灰色の旗を掲げ、鐘を鳴らすのを止めてくれたのは英断だった。本当に、感謝するよ」
「お、俺は別に……」
「そのお礼に、数年前落雷の火災で焼失された3階部分を修復させてもらおうかと思う。レイファ殿のたっての希望でね。叶えさせてもらえるかね?」
ビーフィーターはぎょっとしてレイファを見た。レイファは手を合わせて彼に詫びた。
「ごめんね、よけいなお世話かもしれないと思ったけど、放っておけなくて……」
この塔は街のシンボルでもあるので、落雷が起こったときも一時は修復を望む声があちこちから挙がった。しかし、ビーフィーターは頑としてそれをはねのけていた。余所者がーーそれが街の人間であっても、塔に入ることを良しとしなかったからだ。
それに塔を修復するとなると、しばらく余所で暮らさなければならない。この塔守衛は、今まで一度も街の人間を時計塔に入れたことがなければ、街に出たこともない。時計塔から一歩外に出ることは、異界に飛び出すようなものだ。
だがーー
「い、いいよ。と、友達の、お願いならな……」
そっぽを向いたビーフィーターの目には、レイファのはじけるような笑顔が映っていた。
「さてと」
塔の修繕のために大工たちが寸法を測ったり準備をしているのを眺めながら、村長はレイファ立ちに向き直った。
「実は、お二人にお願いがあるのです。お世話になりっぱなしで、心苦しいことではあるのですが……」
これは正当な依頼なので、今回のこととは別に報酬を用意する旨を話した後、
「例の魔法使いの弟子の処遇についてです」
今回の事件の黒幕はレイファが封印した老魔法使いだが、関与した弟子を無罪放免にするわけにはいかない。しかし彼は老師の弟子でもあった。
魔法使いの修行は、はっきり言って地味だ。呪文を覚え、正しい発音をマスターし、一通りの魔法が使えるようになったら新しい魔法を生みだし、論文を書き、世に提出する。言ってみれば一生勉強、一生研究の日々だった。派手な魔法を使って敵を殲滅させるなどといった輝かしい経験は、レイファたちのように己の身一つで冒険の旅に出るか、軍属として魔法を行使する以外方法はなかった。しかしそれも、魔法協会に認められて初めて「我は魔法使いである」と名乗れるのだ。
魔法協会は大陸の東にある大きな街で、そこで勉強、訓練、研究などが行われる。それと同時に、魔法使いが世の中に示す力、その際に必要となってくる道徳や常識を教育するのだ。それが必要な意味は……今回の事件を鑑みれば簡単に考慮できるだろう。魔法使いはその力を良い方向に使わなければならない。そうしなければ、世の中にとって魔法使いは通報されなければならない存在となってしまう。
それらをわきまえて初めて、魔法使いは世にも協会にも認められ、魔法使いとしての資格を授与されることとなる。
だが魔法使いの弟子……コニーにはそれがおっくうだった。地味な勉強なんてまっぴらごめんだし、せっかく大きな力を手に入れたのに、制御されるなんて言語道断だ。老師のようにせせこましく魔法を使って、ただ搾取されるのなんて我慢できないと思った。
だから、かの黄土色の魔法使いケイシン様にあこがれた。あの自分のためにこそ魔法を酷使する自由、他人に迎合しない自信、れこそ自分の求めている姿だと思った。
一言で言えば、中二病というやつだ。
その中二病の少年は、今牢屋で腐っていた。
「くそっ、見てろ。絶対にお師匠様を助け出して……」
「お前の師匠は、昔も今もワシのはずじゃが?」
物心付いたときから親代わりに叱咤され続けてきた声に飛び上がる。寝てるのか起きてるのかわからない恵比寿顔の老人が、つえを突いて目の前に立っていた。
「え、あ、お、お師匠様……」
そう、正真正銘コニーの師匠である、コーザ老師だ。表情は温厚なままだが、その気迫はコニーが今まで見たことのないものだった。
コーザは怒り、それと同じくらい失望していた。ケイシンがこの街に雇用の口を求めたとき、少し派手な魔法を披露した。その時のコニーの輝いた目といったら。確かにケイシンの魔法の腕は相当なものだったが、コーザは彼のローブの色に難色を示した。正当な手続きを得た魔法使いは、赤いローブを着るのが習わしだ。しかし、ケイシンは魔法協会に申請したことも、そこで学んだこともないという。さもありなん、と言ったところだ。
魔法協会では魔法を使う際の道徳も教え込まれる。その知識がない者が、街の要職に就くことなどもってのほかだった。
それを不採用の理由として伝えると、ケイシンは呪いの言葉をはいて人々の元から姿を消した。街のはずれに奇妙な形の塔が出現したのはそのすぐ後だ。当然コーザにはそれがケイシンが生み出したものだということがわかった。予想外だったのは、塔ができたのと同時に弟子のコニーがいなくなったことだ。
自分の元を去ったまでは良い。しかし街に起こった大きな混乱を見て、きっとコニーも改心してくれるものと期待していた。だからこそ、自らは手を下さずヒントだけを記したメモを残したのだった。
しかし、街を救ったのは生まれた街を蹂躙された弟子ではなく、旅の者だという。
孤児だったコニーの魔法の腕前を見込み、彼を引き取って今まで育ててきたが、魔法使いにとってもっとも大切な道徳心という者がまるで育っていなかったことに失望し、今や憤りを隠せないほどになっていた。
「恥を知れコニー、お前は魔法使いとしてもっともやってはならんことをした。自らの欲望のために魔法を使い、関係のない他者まで巻き込んだ」
コニーは首をすくめた。コーザ老師の目には、もはや慈悲のかけらすら見いだすことができなかったのだ。
「本来ならお前の魔法をすべて封じるべきじゃが……」
コニーの才能は正直惜しい。まだ早いと思いつつ先送りにしていたが、この機会に彼を遠くへ旅に出すことに決めた。魔法協会がある東の地、エンバだ。
「後のことはこのお二方に任せておる。くれぐれも失礼のないようにな」
そう言うとすぐ背後から長身の女エルフと恐ろしく巨大な剣を持った戦士が現れた。
俺が? こいつらと旅をする? 悪い冗談だとコニーは思った。
「い、いえしかし、見も知らない方と旅をするのは……」
「そうか? お前なら大丈夫だろう。会ったばかりの魔法使いの元へ転がり込むくらいじゃからな」
コーザはそう言ったきり、振り返りもせずに牢屋から出て行った。コニーが始めてみる、育ての親の魔法使いらしい冷徹な対応だった。コニーはいまさら自分が取り返しの就かないことをしたことを悟り、呆然とコーザを見送った。
「本当にいいのかレイ、やっかいな仕事引き受けちまったんじゃないのか?」
大剣をかかえ直し、ルードが聞く。レイファは「大丈夫よ」と気軽に答えた。
「魔法が使えればその辺の魔法使いなんてものの数じゃないわ。未熟者の魔法使いの弟子君なら特にね」
そう言ってウィンクをすると、コニーの目の前に一本の杖を放り込んだ。
樫の木にアヒルの頭がついている。これは……
「し、師匠!」
「お、おおコニーか……こんな姿になってもワシを師匠と呼んでくれるとは……」
当然封印されたままでは魔法は使えない。それで少しは気弱になったのか、弱々しく礼を言う。
「私は人間の魔法は使えないから、旅の間彼に教わると良いわ。やったことはともかく、魔法使いとしての知識は確かみたいだしね」
「ふん、いつかコニーと共にこの忌々しい杖から出る方法を探し出してやるわ。その時は覚悟しろよ、小娘」
「あらそう? 楽しみにしてるわ」
レイファは何気なくにこっと笑って見せたが、その笑顔はコニーのトラウマに直撃したらしい。
「い、いえ、……やめときましょうお師匠様、こうして助かっただけで良いじゃないですか……」
「な! 何を情けないことを言っとるのだコニー! ええい、もうお前は当てにせん。こうなったらワシだけでも……」
「やめてください、今度こそ叩きおられますよ!」
新たな弟子と師匠のやりとりを聞きながら、レイファとルードは牢屋を後にした。街は復興でにぎわっている。レイファは昨日の悪夢から解き放たれた人々の笑顔と街の雰囲気に気をよくしながら、思いがけず決まった次の目的地に思いを馳せた。
魔法研究都市エンバ。奇妙な同行人が2人も増えて、しばらくは退屈せずに済みそうだ。