File.03 ちょっと不思議なプロブレム
若い女の子がみっともなく口を開けたまま数秒、沈黙が続いた。
はっと我に返ったわたしは、顔を火照らせながら額面の書かれた名刺を取り上げ、大きな声で叫ぶ。
「ちょ、ちょっと! どうして知っているんですか!」
「まあ、そう声を上げないで」赤石探偵はまだ、へらへらと嫌らしい笑顔だ。「このくらい、簡単なことなのさ」
「ま、まさかストーカー?」
「……その発想に至るほうがよほど驚きだよ。
あのね、ヒントはとてもたくさんあったんだ。地元は近くて、文政大学の学生だから、自転車を使って通学しているらしい。そんな大学生がこの時間に自転車でうろうろしているとすれば、大学のサークルだ。サークルがないとなれば、駅前に遊びに来たと考えられる。しかし、それにしては喫茶店を探しているようだったから、目的の店を決めずに遊びに来たとすれば妙だ。そういうわけで、アルバイトの帰りだと当たりを付けた」
「そんな! 喫茶店を探していたなんて、ひとことも言っていません! アルバイトをしていることだって!」
独り言を漏らす癖があることは棚に上げる。
「最初に見たときから解っていたよ。財布を手に取って、建物をきょろきょろと眺めていてさ、それはもう、おいしいお紅茶が欲しい、って感じだったよ」
黙って俯くしかありませんわ。
「それに、自転車を使っていることからして、きみの活動範囲は文政大学の近辺だ。すると、バイト先がこの近くにあってもおかしくない。『親からお小遣いをもらっているか』と訊いたときに『一応』と言ったのが引っかかったしね。他の条件と合わせれば、アルバイトと考えるのがちょうどよかったのさ。そうそう、喫茶店を探すのも、アルバイトでお給料なりお小遣いなりをもらったからだろう?」
「は、はい……臨時収入がありまして」
「やっぱりね。あとは簡単だ。住んでいる地域と通っている大学から家庭環境を考えて、ついでにきみの身なりなんかを加味すればいい」
バーゲンのお洋服で悪かったわね。
「……そして、アルバイトで稼ぎが欲しくなるような月々のお小遣いはどれくらいかを推察する。これで、ぴったりさ」
「参りました……」
顔から火が出そうだ。相手は大人、しかも本物の探偵、調子に乗るんじゃなかった。お小遣いの額を知られたことも、家庭の潤いを見抜かれたことも、当てられまいと甘く見ていたことも恥ずかしい。
でも同時に、わたしの抱えている問題を解決するチャンスだとも思った。なぜなら、わたしが喫茶店でゆっくり考えようと思っていた問題も、お金にまつわることだからだ。
お金の謎を解くプロがいるなら、頼ってみよう。
「じゃあ、その……わたしの相談にも乗ってくれますか?」
「うん、いいよ。カネにまつわることなんだよね? もうプロの探偵ではないから、この場で解決できるなら報酬はゼロだって構わないよ」
「本当ですか!」
「ああ、遙のためならもちろん」
「…………」
やっぱり信じてよかったのだろうか? 相変わらずの呆れた軽さである。『ちゃらちゃらしている』が赤石さんにおあつらえ向きの形容だ。
「それに、大まかな依頼内容も解っているよ」
「へ?」
こくり、と赤石さんが笑いながら頷く。
「臨時収入の話だよね?」
わたしは子供のように勢いよく首を縦に振った。赤石さんが濁した言い方をしたことで、充分に彼が理解していると伝わってきた。
「そうなんです! 臨時収入だったんです」
「正解だったね。感じのいい喫茶店に寄って贅沢をしたい気分の人は、たいてい思いがけずカネを手にした人だ」
「おっしゃる通りで恥ずかしい限りです……それで、その、詳しく話しますね」
わたしは赤石探偵に対し、時間をかけて懇切丁寧にかくかくしかじか云々かんぬんその不思議なできごとを可能な限り詳しく話した。
きょう、アルバイト先の『大衆食堂きよたけ』に、地元の中学校でPTA会長を務める門倉おばさんがやって来た。四軒寺市民でないわたしでも知っているくらい地域で有名で、慣用的な意味でも物理的な意味でも顔の広い人である。その門倉おばさんが『きよたけ』に来たことはわたしが知る限り初めてで、おっかなびっくりしながら見守った。
中年太りと言うと失礼極まりないが、ぽっちゃり体型の門倉おばさんは、店の中でも厨房に近いカウンター席を選び、大儀そうに座った。それから、何を頼もうか悩んだ末に、メニューにおすすめと書かれた当店自慢の『からマヨ丼』を注文した。
六百円で売っているその『からマヨ丼』は、キャベツを敷いたご飯の上に唐揚げをどっさり五個乗せて、マヨネーズと特製の甘辛いタレをかけた丼ぶりで、そのボリュームと安価から若い男の人や学生に人気がある。ゆう子曰く『悲劇の親子丼』――からっと揚げられた親の鶏と、酢と一緒に攪拌された鶏卵という、変わり果てた親子の再会を語っているらしい。ゆう子のこのジョーク、わたしは好きだ。
さて門倉おばさんは、悲劇の親子丼六百円を食べ終えると、油っこいものを食べたお腹を休めるためかしばらく休んでいた。わたしはホールとして注文を受けながら、回転率が下がるから早く帰ってくれないかと念じていた。すると門倉おばさんは突然、わたしに話しかけてきた。
『店長はいない?』
『すみません』わたしは営業スマイルで応じた。『いつもならこの時間、確かにいるんですが、急な用事でして。あと二時間もすれば戻ると聞いています』
『あらそう……』
門倉おばさんは困ったようにそう言った。厨房を覗けばそこに奥さんとゆう子しかいないことくらい解るじゃないか、とわたしは内心毒づいた。
やがて、門倉おばさんはレジの列に並び、会計にやって来た。
『じゃあ、お会計はこれで』
そう言って差し出してきたのは、一万円札。せっせと健気にレジを打つわたしになんという仕打ちかと心の中で嘆いていると、門倉おばさんはこう言う。
『あ、おつりはいいのよ』
『はあ?』わたしは営業スマイルすら忘れていた。『そ、そんな、こんな額を!』
『ああ、その……』わたしの返答に門倉おばさんは少し躊躇った。『いいの、持っていって。門倉さんからだって店長に言えば解ってもらえるから。できれば電話をかけるよう、お願いしてね。ごちそうさまでした』
『ちょ、ちょっと……』
門倉おばさんは店を出てしまった。
わたしはこうして、差額九千四百円の臨時収入を得てしまったのだ。