藍色の魔術師
「エル・インファン!エル・インファンはおられるか!」
「うひっ―――あわ、あああああっ」
昼食後、師匠に出された課題の新しい魔術構成を組み立てていると、玄関の方から大声が聞こえて私は椅子から転げ落ちた。
がたがたどたーんという自分でもびっくりする音が響き、床に突っ込んだ顔がその瞬間平らになる。痛みに一瞬星が飛び、慌てて起き上がると両方の鼻の穴から生暖かい液体がだらっと落ちた。
「ひ、ひぃっ!血痕が!血痕が!」
殺害現場のように!
ぼたぼたと床を濡らした鼻血に私のパニックは最高潮に達し、律していた魔術が乱れた。あっと思ったときにはもう遅く、練り込んでいた魔術言語は霧散し二時間の作業が空に消えた。
「あ、ああああ…!二時間、私の二時間があぁぁ…!」
どうしましょう師匠ぅぅぅ、と嘆いて涙混じりに顔を上げて、そこでやっと師匠がいないことに気づいた。あれっと瞬きして見回すと、テーブルに師匠の字で「声をかけたが気付かないようなのでメモを残す。私は森にいく。一時間ほどで戻る」とメモ書きが残されていた。ああ、またやってしまった…。
私は師匠に置いていかれた悔しさと消えた魔術構成にがっくりと項垂れ、ため息をつきながらまだだらだら流れている鼻血をローブの裾で拭った。せっかく師匠に新調してもらったローブだけれど、真っ黒だから別に気にならないはずだ。うんほら目立たない。
「エル・インファン!おられないのか?誰か居ないか!」
「はっ忘れてた!―――いますー!留守番がおります!」
「ならば早く出てこないか!僕は暇ではない!」
「す、すみません!」
ごしごし鼻血を拭うのに必死になっていたらさっきの声に怒鳴られ、私はあわてて玄関へ走った。
魔術師には位がある。それは名前の前につく二文字で表され、一番下がユン、二番目がダラ、三番目がイヴ、四番目がロア、五番目がリム、そして最高位がエル。私の師匠はこの国いちばんの魔術師でいちばん強く素敵なので、当然エルだ。まぁそのせいで魔術協会にしょっちゅう呼び出されると煩わしがっているのだけど。
「すいませんお待たせしまし、あだっ!」
ばん、と勢い良くドアを開け飛び出した瞬間、何故だかごいんと殴られた。とっさの事になにも言えず頭を押さえてうずくまると、頭上から更に怒鳴り声がおちる。
「…馬っ鹿っ者っ!よく確認もせずそんな力の限りにドアを開く奴があるか!もう少しで顔にぶち当たる所だったぞ!」
「ひっひえっ!すみませんー!」
見上げると若干焦った顔の綺麗な男の人が立っていて、そしてやっぱり怒っていた。私は飛び上がって謝りながらも、人間のお客さんが珍しくてじろじろと眺めた。
不機嫌そうなその人は、黒いローブに藍色の長い髪を後ろでひとつに束ね、少し長い前髪を両サイドでみつあみにするというちょっと変わった出で立ちをしていた。ローブは師匠の外出用のものとそっくりだから協会支給のやつだと思うけど、そうだとすればこの人は魔術師ということになる。私が師匠に弟子入りして七年経つけど、今まで魔術師が来たことは一度もない。一体何しに来たんだろう。
そこまで考えて、ぴんと思考が輝いた。そうか、わかった!
「閃いた!解りましたよ、怒りに来たんですね!先月師匠が会議を途中でバックレたのを怒りに来たんでしょう!」
「はぁ?エル・インファンが会議に最後まで出ないのはいつものことだぞ、何故今更怒らねばならん。――おい留守番、いつまでボケてるつもりだ。お前は何だ、エル・インファンの下働きか」
髪と同じ藍色の瞳にじろりと見下ろされ、私は慌てて両手をふった。
「いえっ私は師匠の弟子です!ええと、すみません師匠は今森にいっていないので、中で待っていて貰えますか?」
「―――弟子だと?」
男の人が片眉を上げて、何か見えにくいものをみるように目を細めて私を見た。じぃっと突き刺さる視線に思わず一歩後退ると、その両目がぱっと見開かれる。
「ああ、そうか。お前六年前エル・インファンが弟子だと連れてきたあの坊主か。へぇ、そうか、……これはこれは」
「え、え?」
「ふん、お前一度協会本部へ来たことがあるだろう。そこに僕も居たのさ。―――ふぅん、良い感じに育ったじゃないか。悪くない」
にや、とあまり上品ではない感じで笑われ、私は何故だか身震いした。悪寒の意味はわからないもののたぶん誉められてるんだとは思う。でも坊主って言ってたから、間違いなく私少年と思われてる。
ちくしょう来年成人するのに、と私が軽くうなだれていると、突然むぎゅっとお尻を握られる感触がして飛び上がった。
「―――ぎゃっ!?」
「おお、これはふむふむ、良い。実に良い。よし決めたぞ、中で待たせてもらおう。おいお前、名は何と言うのだ」
「ひ、ひええっ、グググ、グリフです!グリフ・デラールです!」
「そうかデラール、エル・インファンはどのくらいで帰宅予定だ?」
「あわわわっ、い、一時間ほどで帰るって言ってました!」
「ほーう、そうかそうか。それは良いな」
何もよくはないと思うけど、藍色の魔術師は普通にそんな会話をしながら私の尻を離さなかった。私は自分に起きた前代未聞の出来事に混乱して、部屋に案内した後も隣に立たされ藍色の魔術師のなすがまま尻を揉んだり撫でさすられたりしていた。
な、何だろうこの儀式。師匠はこんなことしたことがないけど、これが魔術協会では当たり前なんだろうか。
「あ、あのっ」
「何だねデラール」
最初の怒りはどこへやら、なぜだか上機嫌に微笑まれてぞっとする。
「ひっ、いえあの、わ、私のお尻に何かあるのかと思いまして」
「ん、ここにか?」
「ぎょえっ」
むぎゅっとまたやられて思わず逃げたが、藍色の魔術師は怒らずにっこり笑う。
「ふふ、そうだよデラール。まだ青い少年の尻には夢と希望が詰まっているんだ」
「夢と希望が!?」
肯定するように微笑む魔術師に私は己の尻を振り返り、驚きの面持ちで見詰めた。じゃあ二つに割れているのはまさか、そういうこと?これはどちらが夢でどちらが希望なんだろう。
「ふふふデラール、君はバカだな…そして実にかわいい。エル・インファンも人が悪いな、僕の趣味を知っていてこんなかわいい少年を隠しているとは…。なぁデラール、君私の弟子にならないか?あんな呪われた爺さんより僕のほうが美しいだろう?」
「えっ、えええっ!?」
「おいでよ、さぁほら、僕と来るんだ!」
「わああああっ!しっ師匠ー!!」
叫んだ瞬間、どーん、と凄い衝撃音がして藍色の魔術師が消えた。風圧で舞い上がったホコリや塵、たぶん扉が碎けた破片の木屑がばらばらと降ってきて、衝撃に目を閉じる。けれどギシギシ言う部屋に怖くなってそろりと開けると、目の前に消えたと思った藍色の魔術師がうつ伏せに倒れていた。良く見ると、髪が焦げてちぢれている。
「ひっ!?なっなっなっ、」
「―――グリフ」
先程の衝撃が攻撃魔術だったことに気付いて、ひえええ、と腰を抜かして座り込むと、破壊された玄関から聞きなれたしわがれ声が聞こえた。見ればこの世の者とは思えないほど悪鬼の形相を浮かべた師匠が、長い白髪を風に揺らしながら立っていた。
「しっ、師匠ー!」
どう、と涙を流して抜けた腰のせいで立てずシャカシャカ四つん這いで走り寄ると、師匠が手を貸して立たせてくれた。そのままひしと腰に抱きつくと、皺だらけの手が優しく頭をぽんぽん叩く。
「よしよし、怖かったな。帰宅が遅れて済まないグリフ。何もされてはおらんか」
「はい師匠!お帰りなさい!」
「ああただいま。―――で、お前は一体何をしにきたのだ、リム・ディルドラ。私の弟子を拐かしに来た訳ではあるまい」
師匠がこめかみをひくつかせ、不機嫌に藍色の魔術師を睥睨した。両目は気のせいか氷のように冷たく、私はドライアイスに首まで浸かった気分になってちびりかけた。師匠の顔が怖いのはいつものことだけれど、今日の顔は怖いを通り越して魔王だ。どうしよう師匠が魔王になった。
「ぐ…ゲホ!エル・インファン…。魔術協会の役員共から、貴方の魔力が異様に増した事について調査を任されてきた。何があったのだろうか。あとデラールをくれないか」
「ああその事か。封じられていた力が戻っただけだ、連中には呪いが解かれたと伝えておけ。グリフはやらん」
むくりと起き上がった藍色の魔術師に師匠が冷たい口調で言い捨てた。
「呪いが!?馬鹿な、年寄りの姿ままではないか。それが本来の姿だと言うのか?頼む、デラールほど理想の尻を持つ少年はいないんだ、くれ」
「お前のようなものにグリフは絶対にやらん。そしてそもそもグリフは女だ、リム・ディルドラ。お前の性癖とは合わぬ。そして姿は―――」
ゆら、と師匠の姿が波打つ水面のように揺れて、次の瞬きの時にはあの綺麗な黒髪の麗人になっていた。藍色の魔術師、ディルドラさんが唖然として師匠を見詰める。
「この通りだ。この姿は弟子が慣れんから、慣れるまでという約束で老人へ変化している。役員にはまたこちらから報告に出向くと伝えるがいい。去れ」
「そ、そんな…………デラールが女だと!!」
美しい顔の師匠に睥睨され、ディルドラさんがショックを受けて床に沈んだ。ショックを受けるところが私の性別というのが何か納得いかない。
私は師匠の後ろで恐々と成り行きを見守っていたが、ふいにこちらを見た師匠にどきーんと身をすくませて固まる。
「…ふむ、まだ慣れぬか」
「なっなっなれっなれっ」
「無理はせんで良い」
くすりと笑われて、私は顔を伏せた。師匠のこの顔の笑顔は凶器だ。不意うちの笑顔に硬直していると、また師匠の体が揺らぎ、元のじーちゃん師匠に戻った。申し訳なさに顔をあげられずにいると、ぽんと手が降りてきて頭を撫でられる。
あ、あああ、ひどくいたたまれない。
「お、お、女だなんて!僕のデラールが女だなんて!あんな、あんな理想の尻だというのに!」
「ひぃっ!」
突然、ディルドラさんがくわっと起き上がってそう叫び、私は師匠の背後へ逃げ隠れた。師匠がふむ、と小さく呟き、私の頭へ手をやりながらグリフ、と呼ぶ。
「はい師匠!」
「どうもさっきからリム・ディルドラがお前の尻がどうとか言うておるが、どういうことだ?意味はわかるか」
「はい師匠!良くわかりませんが、尻には夢と希望が詰まっているそうです!」
しゅたっと手を上げて覚えたてのそれを答えれば、師匠が顔を不思議そうに恐ろしく歪めて首をかしげた。
「ふむ、確かに良く解らんな。そしてどうした?」
「はい師匠!私の夢と希望をディルドラさんが一生懸命揉んだり握ったり撫でたりしていました!師匠、あれは魔術協会の儀式ですか?」
言った瞬間、何故だかその場が凍りついた。
師匠もディルドラさんも絶対零度とはこの事かと実感するほど冷ややかな空気をまとい、私は何か言ってはならないものを口にしたらしいと悟った。
「――――グリフ」
「ひっ、はっはい師匠っ!」
「私は今からリム・ディルドラと少々話すことができた。一時間ほど留守にするが、留守番は頼めるか」
「はははい師匠っ!るっ留守番がんばりますっ」
「ままま待てエル・インファン!誤解だ、僕は別に不埒な思いがあったわけでは…!デラール!助けてくれ!」
「行くぞリム・ディルドラ。力が解放されたばかりで丁度体を動かしたかった所だ、存分に話し合おう」
「ひぃっ、やめろ、やめてくれ……あああああ!」
結局その日、師匠が帰ってきたのは夕方になってからだった。でも疲れた様子は微塵もなく、師匠はじーちゃん変化を解いたまま私を見るなり腕に抱き、私はそのままこんこんと「人間は家に入れるな」「体を簡単に他人に許すな」「魔術師は変人ばかりだから信じるな」と説教を受けた。
でも最後のものに関しては、師匠もその魔術師見習いである私も無関係ではないんじゃないかなとちょっと思って複雑だった。