失恋の後遺症
胸が痛むことがある。
それは、もう一日中その人のことを考えているわけでもなく、会いたくてたまらないわけでもない、そんな何でもない日のことだった。
朝、カーテンを開ける。顔を洗い、朝ごはんを食べる。仕事に行き、いつもの人たちと挨拶を交わす。帰りにスーパーに寄って、夕飯を食べる。お風呂に入るのが少し面倒だと思いながら、結局、明日のために髪を乾かす。
そんな、ごく普通の一日。
それなのに、ふとした瞬間、胸の奥がきゅっと痛む。
何かを思い出したわけでもない。悲しいことがあったわけでもない。ただ、身体のどこかに、まだ治りきっていない傷が残っているようだった。
彼女は、その痛みを失恋の後遺症と呼ぶことにした。
後遺症という言葉は、少し大げさかもしれない。
けれど、失恋そのものは、もうずいぶん前に終わっていた。
好きだったことを認めるまでに時間がかかった。好きだったと認めてからも、どうしてこんなに苦しいのか、自分でもよくわからなかった。
相手と結ばれなかったことが悲しいのか。
自分が望んだようには思われていなかったことが悲しいのか。
それとも、自分の中にあった未来の可能性が、ひとつ消えてしまったことが悲しいのか。
きっと、全部だったのだと思う。
彼女は、自分の気持ちを理解しようとして、何度も考えた。考えて、考えて、ようやく少しずつ、考えることをやめられるようになった。
忘れようとすることも、やめた。
忘れようとするたびに、その人の存在を確かめることになってしまうからだ。
代わりに、思い出してもいいことにした。
好きだったことも。
期待していたことも。
傷ついたことも。
全部、自分の人生にあったことなのだから、なかったことにする必要はない。
そして、いつの間にか、彼女の生活は静かになっていた。
仕事が終われば、家に帰る。家族と話をする。好きなものを食べる。休日には本を読んだり、友人と出かけたりする。天気がよければ、少し遠くまで歩いてみる。
もちろん、胸の痛みがなくなったわけではない。
仕事中、パソコンに向かっているとき。
帰り道、信号待ちをしているとき。
夜、布団に入って、明日は何をしようかと考えているとき。
何の前触れもなく、胸が痛むことがある。
そんなとき、彼女は以前ほど慌てなくなった。
ああ、まだ少し痛むんだな。
そう思うだけだった。
無理に理由を探さない。
この痛みはいつまで続くのだろうと、先のことを心配しない。
もう立ち直ったはずなのに、と自分を責めない。
痛むなら、少し休もう。
温かいお茶を飲んでもいいし、好きな音楽を流してもいい。何もしたくなければ、何もしなくてもいい。
痛みがあることと、幸せであることは、両立するのだと、彼女は少しずつ知っていった。
ある休日、彼女は近所の公園を歩いていた。
木々の葉が風に揺れていた。少し肌寒くて、空は高かった。特別な予定はなかったが、帰りにおいしいものでも買って帰ろうと思っていた。
そのとき、ふと胸が痛んだ。
彼のことを思い出したのかもしれない。あるいは、ただ身体が覚えているだけなのかもしれない。
彼女は立ち止まった。
以前なら、この痛みをどうにかしようとしていたと思う。理由を探し、意味を考え、また同じところをぐるぐると回っていたかもしれない。
けれど、その日は違った。
彼女は胸に手を当て、ゆっくり息を吐いた。
「そっか。まだ痛いんだね」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
それから、また歩き始めた。
痛みはすぐには消えなかった。
それでも、空はきれいだった。
風は気持ちよかった。
帰ったら、温かいごはんが食べられる。
痛みがあるからといって、今日という一日を諦める必要はなかった。
彼女はそれを、少し誇らしく思った。
*
失恋をしたからといって、人生がそこで終わるわけではない。
けれど、何もなかったかのように元に戻れるわけでもない。
人を好きになったことで知った喜びがある。
叶わなかったことで知った悲しみがある。
自分の心が思っていたよりも深く傷つくことを知り、同時に、思っていたよりも長い時間をかけて回復していくことも知った。
その経験は、もう彼女の一部になっていた。
傷つく前とまったく同じ自分に戻ることは、できないのかもしれない。
でも、戻る必要もないのだろう。
彼女は今、あの頃とは違う場所にいる。
毎朝、起きることができる。
仕事に行くことができる。
大切な人たちと笑うことができる。
自分のこれからを、少し楽しみに思うことができる。
そして、ときどき胸が痛む。
それだけのことだった。
痛みが残っていることは、まだあの人を愛している証拠なのだろうか。
彼女には、もうわからなかった。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
もしかしたら、ただ深く傷ついた記憶が、身体のどこかに残っているだけなのかもしれない。
どちらでもよかった。
もう、痛みの正体を突き止めなくてもいい。
彼女は彼女の生活を生きている。
好きな人と結ばれなかった人生を。
それでも友人に恵まれ、家族と食卓を囲み、明日の予定を考えながら眠りにつく人生を。
あの日、叶わなかった願いの代わりに、別の何かが手に入ったのかどうかはわからない。
人生は、何かを失ったら、必ず同じだけの何かを与えてくれるようにはできていない。
ただ、失ったあとにも、生活は続いていく。
そして、続いていく生活の中には、思いがけず、穏やかな日々が待っていることもある。
彼女はそれを、今、自分の暮らしの中で知っていた。
夜、家に帰る。
夕飯を食べる。
明日の天気を確認する。
布団に入る。
胸が少し痛む。
彼女は目を閉じる。
大丈夫。
痛くても、大丈夫。
無理に忘れなくてもいい。
完全に癒えていなくてもいい。
この痛みを抱えたままでも、私はちゃんと生きていける。
そう思いながら、彼女は眠りについた。
明日もきっと、いつもと同じような一日がやってくる。
そして彼女は、その一日を生きていく。
少しだけ胸を痛ませながら。
それでも、確かに、自分の人生を。




