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失恋の後遺症

作者: ごはん
掲載日:2026/10/18


 胸が痛むことがある。


 それは、もう一日中その人のことを考えているわけでもなく、会いたくてたまらないわけでもない、そんな何でもない日のことだった。


 朝、カーテンを開ける。顔を洗い、朝ごはんを食べる。仕事に行き、いつもの人たちと挨拶を交わす。帰りにスーパーに寄って、夕飯を食べる。お風呂に入るのが少し面倒だと思いながら、結局、明日のために髪を乾かす。


 そんな、ごく普通の一日。


 それなのに、ふとした瞬間、胸の奥がきゅっと痛む。


 何かを思い出したわけでもない。悲しいことがあったわけでもない。ただ、身体のどこかに、まだ治りきっていない傷が残っているようだった。


 彼女は、その痛みを失恋の後遺症と呼ぶことにした。


 後遺症という言葉は、少し大げさかもしれない。


 けれど、失恋そのものは、もうずいぶん前に終わっていた。


 好きだったことを認めるまでに時間がかかった。好きだったと認めてからも、どうしてこんなに苦しいのか、自分でもよくわからなかった。


 相手と結ばれなかったことが悲しいのか。

 自分が望んだようには思われていなかったことが悲しいのか。

 それとも、自分の中にあった未来の可能性が、ひとつ消えてしまったことが悲しいのか。


 きっと、全部だったのだと思う。


 彼女は、自分の気持ちを理解しようとして、何度も考えた。考えて、考えて、ようやく少しずつ、考えることをやめられるようになった。


 忘れようとすることも、やめた。


 忘れようとするたびに、その人の存在を確かめることになってしまうからだ。


 代わりに、思い出してもいいことにした。


 好きだったことも。

 期待していたことも。

 傷ついたことも。


 全部、自分の人生にあったことなのだから、なかったことにする必要はない。


 そして、いつの間にか、彼女の生活は静かになっていた。


 仕事が終われば、家に帰る。家族と話をする。好きなものを食べる。休日には本を読んだり、友人と出かけたりする。天気がよければ、少し遠くまで歩いてみる。


 もちろん、胸の痛みがなくなったわけではない。


 仕事中、パソコンに向かっているとき。

 帰り道、信号待ちをしているとき。

 夜、布団に入って、明日は何をしようかと考えているとき。


 何の前触れもなく、胸が痛むことがある。


 そんなとき、彼女は以前ほど慌てなくなった。


 ああ、まだ少し痛むんだな。


 そう思うだけだった。


 無理に理由を探さない。

 この痛みはいつまで続くのだろうと、先のことを心配しない。

 もう立ち直ったはずなのに、と自分を責めない。


 痛むなら、少し休もう。


 温かいお茶を飲んでもいいし、好きな音楽を流してもいい。何もしたくなければ、何もしなくてもいい。


 痛みがあることと、幸せであることは、両立するのだと、彼女は少しずつ知っていった。


 ある休日、彼女は近所の公園を歩いていた。


 木々の葉が風に揺れていた。少し肌寒くて、空は高かった。特別な予定はなかったが、帰りにおいしいものでも買って帰ろうと思っていた。


 そのとき、ふと胸が痛んだ。


 彼のことを思い出したのかもしれない。あるいは、ただ身体が覚えているだけなのかもしれない。


 彼女は立ち止まった。


 以前なら、この痛みをどうにかしようとしていたと思う。理由を探し、意味を考え、また同じところをぐるぐると回っていたかもしれない。


 けれど、その日は違った。


 彼女は胸に手を当て、ゆっくり息を吐いた。


「そっか。まだ痛いんだね」


 誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。


 それから、また歩き始めた。


 痛みはすぐには消えなかった。


 それでも、空はきれいだった。

 風は気持ちよかった。

 帰ったら、温かいごはんが食べられる。


 痛みがあるからといって、今日という一日を諦める必要はなかった。


 彼女はそれを、少し誇らしく思った。


     *


 失恋をしたからといって、人生がそこで終わるわけではない。


 けれど、何もなかったかのように元に戻れるわけでもない。


 人を好きになったことで知った喜びがある。

 叶わなかったことで知った悲しみがある。

 自分の心が思っていたよりも深く傷つくことを知り、同時に、思っていたよりも長い時間をかけて回復していくことも知った。


 その経験は、もう彼女の一部になっていた。


 傷つく前とまったく同じ自分に戻ることは、できないのかもしれない。


 でも、戻る必要もないのだろう。


 彼女は今、あの頃とは違う場所にいる。


 毎朝、起きることができる。

 仕事に行くことができる。

 大切な人たちと笑うことができる。

 自分のこれからを、少し楽しみに思うことができる。


 そして、ときどき胸が痛む。


 それだけのことだった。


 痛みが残っていることは、まだあの人を愛している証拠なのだろうか。


 彼女には、もうわからなかった。


 もしかしたら、そうなのかもしれない。

 もしかしたら、ただ深く傷ついた記憶が、身体のどこかに残っているだけなのかもしれない。


 どちらでもよかった。


 もう、痛みの正体を突き止めなくてもいい。


 彼女は彼女の生活を生きている。


 好きな人と結ばれなかった人生を。

 それでも友人に恵まれ、家族と食卓を囲み、明日の予定を考えながら眠りにつく人生を。


 あの日、叶わなかった願いの代わりに、別の何かが手に入ったのかどうかはわからない。


 人生は、何かを失ったら、必ず同じだけの何かを与えてくれるようにはできていない。


 ただ、失ったあとにも、生活は続いていく。


 そして、続いていく生活の中には、思いがけず、穏やかな日々が待っていることもある。


 彼女はそれを、今、自分の暮らしの中で知っていた。


 夜、家に帰る。


 夕飯を食べる。

 明日の天気を確認する。

 布団に入る。


 胸が少し痛む。


 彼女は目を閉じる。


 大丈夫。

 痛くても、大丈夫。


 無理に忘れなくてもいい。

 完全に癒えていなくてもいい。


 この痛みを抱えたままでも、私はちゃんと生きていける。


 そう思いながら、彼女は眠りについた。


 明日もきっと、いつもと同じような一日がやってくる。


 そして彼女は、その一日を生きていく。


 少しだけ胸を痛ませながら。


 それでも、確かに、自分の人生を。

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