第五話
週末をまたいで迎えた月曜日の朝、クラスの空気はあまり変わらなかった。お互いを探り合うような視線のやり取りは続いているし、声を抑えた噂話も漏れ聞こえてくる。それだけでなく、教室を出て廊下を歩いていても同じような視線を感じることがあった。クラスで生まれた空気は学校全体に広がり始めているのかもしれない。
深森はそんな空気に嘴を突っ込むことはせず、自分の席で静かにしている。俺はそんな彼女を見ながらも自分から声をかけることはできずにいた。彼女に話しかけて、噂が盛り上がるようなことがあってはならないと思った。
変化があったのは四時間目の英語の授業だった。妙な空気を引きずったクラスで教師の解説が続く。解説が一区切りついたところで、ペアを組んで会話をするように指示が飛んだ。俺は、椅子を斜めにして深森の方に身体を向けた。
彼女はペアを組めという指示に少し肩を揺らし、身を引くような動作をしてから、こちらに向き直った。授業中もいつも平然としている彼女らしくない、そう思った。それでも、最初の違和感の後、彼女はそつなく課題を進めてみせる。そこには動揺やおかしなところはなく、“普通”の生徒の立ち振る舞いだった。
彼女のおかげもあって、課題は難なく終わった。ペアワークを終えた彼女は静かに椅子を直し正面を向いて座り直した。周囲も順に課題を終わらせていき、最後の組が終えると教室に静寂が訪れた。教室を見渡しそれを確認した教師が次の解説に移る。そこにはいつも通りの授業風景があった。先ほどの違和感は単なる気のせいだったのだろう。
英語の授業が終わり昼休みがやってきた。椅子を引く音やあちこちの会話が重なりあい、先ほどまでの静けさが嘘のように薄れていく。俺は席を立ち、健斗と共に教室を後にした。今日は一緒に購買に行くことにしていた。廊下に出るとやはり周りからの視線を感じた。クラスから学校全体に広がった空気はまだ続いているらしい。
「…なんか変だと思わないか?」
視線の圧に耐えきれなくなり、たまらず健斗に問いかける。
「まあな」
階段を下りながら健斗が答える。
「みんな、ちょっと気にしてるだけだろ。変に騒がなきゃ、そのうち収まるって、こんなの」
こんなの、というぼかした言い方が便利に思えた。
「…そうだな」
俺も健斗も示し合わせたわけではないが、この話はおしまいだという空気が漂っていた。健斗の言う通り、余計なことをしないままで良いのだ、そう思えた。
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放課後、深森のいつもの誘いに応えて校舎裏へと足を運ぶ。健斗との会話によって少し軽くなった胸で向かうことができた。
彼女は今日もベンチで待っていた。姿勢を正して座る膝には小さな袋がのっており、その上で指先を遊ばせている。
「お待たせ」
声をかけてベンチに腰掛ける。彼女は顔を上げずにちらりとこちらを確認すると、袋をこちらに差し出してくれた。
「…どうぞ」
「ありがとう」
袋から菓子を一つつかむ。今日はクラッカーだった。口に含むと塩味が広がる。深森は袋を膝に戻し、自分の分を手に取ると静かに口にする。彼女は噂話についても学校の空気についても何も言わなかった。今はそれがありがたかったし、これで良いのだと思った。俺たちは何も言わなくて良いのだ。
そのまま無言の時間が過ぎ、そろそろ帰ろうかと腰を上げかけた俺の動きを彼女の声が遮った。
「白石くん」
「どうした?」
ベンチに座り直し、彼女の方を見る。視線を地面に落とし、唇を閉ざしている。黙って彼女の話の続きを待つが、口を開く様子はない。
「どうした?」
もう一度尋ねると、彼女はようやく言葉を続けた。
「…近いうちに転校するかもしれません」
いつも以上に静かな声だった。だが穏やかというわけではない、耳に残る声だった。彼女の言葉を頭の中で反芻する。意味が飲み込めるまでには少しの時間を要した。
「えっ、だって、そんな…」
詳しく話を聞きたいと思うのに、口から出るのは意味をなさない言葉だけだった。結局、まともな質問はできなかった。
二人を沈黙が包む。黙って過ごすのはいつもと変わらないはずなのに、ひどい居心地の悪さを覚えた。
そうこうしているうちに、深森が立ち上がった。
「今日は帰ります」
彼女は俺の言葉を待たずに足早にベンチを後にした。彼女を止めようと上がりかけた腕と出かけた言葉が残されていた。俺が立ち上がることができたのは、しばらく後だった。




