第三話
次の日も、何も変わらない朝がやってきたと思っていた。しかし、教室に入った瞬間、いつもより多くの視線が集まっていることに気がついた。観察するような、どこか品定めするような視線も混じっていた。訳も分からぬままいつも通りを装って自分の席に向かう。席に座ってもしばらくの間視線が離れることはなかった。
結局、俺に向けられる視線は別の生徒が教室に入ってくるまでそのままだった。俺に向けられていた視線の多くは次の対象へと向けられていった。どうやら俺だけでなく、全員が視線に晒されているらしい。
隣の席に座る深森はいつも通り、教科書とノートを並べて座っていた。姿勢を正し、静かにしている。教科書の角はいつも以上に机に合わせられ、息をひそめて座っているようにも見えた。そんな彼女の様子を横目に、俺は何も言わず、机の上に視線を落とした。
やってくる生徒がえも言われぬ視線に囲まれる光景は、遅刻ギリギリで最後の生徒が駆け込んでくるまで続いた。
**********
「みんな知っての通り、今月は多文化共生月間だ。色々と噂もあるみたいだが、変なことはしないようにな」
教室を包む不思議な空気の正体は、朝のホームルームでの担任の言葉によって明かされた。当たり前のように繰り返される、多文化共生の言葉。違いを知る、違いを尊重する。俺はその意味が未だに分からずにいた。
その日一日、教室に広がった空気は消えなかった。高校生の空気を作る力や空気を読む力は、担任の言葉一つで消えるほど甘くはないのだ。授業中もみんなどこかそわそわしていて、中にはお互いを警戒するような視線もあった。
教師の解説とノートを取る音が教室に響く。板書の写し間違いに気がつき、消しゴムを使おうとして取り落とす。消しゴムを拾おうとして手を伸ばすとき、深森がページをめくるのが目に入った。音を立てないようにそっと指先が動かされていた。
それきり俺は前を向いた。それ以上見るべきではないと思った。
帰りのホームルームでも、担任が紋切り型の注意を繰り返す。もはや気に留めている生徒はいなかった。そんな空気の中、手の甲に触れるものの感触があった。隣に顔を向け、いつもと同じように頷きを返した。
頷きを返すと深森はすぐに顔を前に戻した。その動きはいつもと変わらないようだった。けれど、少しだけ速かった気もした。俺はそれ以上気に留めなかった。
ホームルームの後、帰りの準備をする深森の動きは、いつもより少しだけ早く見えた。鞄のファスナーを閉める音が、妙にはっきり聞こえた。
声をかける理由はいくらでも思いついた。ノートのことでも、明日の時間割でもいい。けれど、どれも今ではない気がした。
今は、何も言わないほうがいい。そう判断して、俺は自分の荷物に視線を戻した。
**********
逸る気持ちに突き動かされるように動く足を抑えながら校舎裏に向かうと、いつものベンチに深森が座っていた。いつもよりも早くやってきた俺を見て、彼女は少しだけ目を開いた。
ベンチに腰掛ける俺を見て、深森は菓子の袋を差し出してくる。心なしか差し出す手がぎこちない気がした。
「どうぞ」
「ありがとう」
今日はチョコレートらしい。一つ受け取り、個包装を破いて口に放り込むと甘さが口に広がった。
「どういたしまして」
小さな声で返事をした深森は、自分の分を手に取ると、行儀よく丁寧に袋を開けチョコレートを口に含む。チョコレートの袋を小さく折りたたみ、膝の上に置いた。
二人の沈黙の間に風が吹き、木の葉が揺れる音がした。風に運ばれるように、遠くから誰かの笑い声が聞こえてきた。
深森は何かを言いかけるように何度か口を開いては閉じてを繰り返していた。
「白石くんは…今日、気になりませんでしたか?」
「何が?」
「…いえ、何でもありません」
少し間をおいて、俺は答えた。
「俺はいつも通りだったけど」
「…そうですか」
そう言うと、深森は口を閉ざした。チョコレートの甘さが去って、苦味が口の中に残っていた。彼女は最後までこちらを見ることはなかった。俺はそれに気がつかないふりをして、手元の包みをいじった。




