第一話
教室の後ろの掲示板には、でかでかと「多文化共生月間」と書かれたポスターが貼られていた。上手に書かれた笑顔のイラストに、カラフルな文字が踊っている。きっと美術部あたりの仕事だろう。
–––––違いを知る、違いを尊重する。
そういうのは嫌いじゃない。特別嫌いな人はいないだろうと思う。けれど、毎朝その前を通る人の視線は、一度もそこに止まっていない。そんな気がした。俺、白石蓮もその一人だ。
「白石、プリントー」
前の席のやつが眠そうな顔を隠すこともなく振り返って言った。俺は「はいはい」と返しながら、紙の束を受け取る。
いつも通りの朝。いつも通りの二年二組。
誰かがあくびをして、誰かがスマホで動画を見て、誰かが先生の悪口を言う。
違いを尊重する、なんて言葉が収まる場所はあるんだろうか。
窓の外は五月の光で白く見えた。新しい教室と変わらない顔ぶれ。どこか浮ついた空気と、変わりない空気が同居している。
俺は席に座り直すと隣の席を横目で見た。深森結衣。隣の席に座るクラスメイトだ。教科書とノートを整えて、筆箱を添えて、シャーペンの芯を少しだけ出して座っている。動きが静かで、無駄がない。
特別美人というわけではない。どちらかと言えば、“普通”の生徒の一人だ。本人が“普通”に徹している、と言ったほうが正しいのかも知れない。なのに、時々目で追ってしまう。
こちらの視線に気がついたのか、深森がこちらに顔を向けて首を傾げた。
「どうかしましたか?」
面と向かって聞かれると困ってしまう。
「なんでもない」
俺はそれだけ答えると、顔を前にむけ授業の開始を待つ生徒のフリをした。深森は少しの間こちらを見続けていたが、俺が答える気がないとわかったのか、顔を戻し姿勢を正した。
クラスの中で浮いているわけではないが、どこか噛み合っていない。けれど話ができるくらいには、そこに存在している。深森はそんな人だ。
誰かの些細な違いを、ささやかな違和感を、意識せずに拾い上げてしまう。気がついたところで、何かをするわけでも、何かをしてあげられるわけでもない。俺の悪い癖だ。
そんな俺たちの周りで教室のざわめきは続いている。まるで最初からそこにいないみたいに。
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「よ。新しいクラス、どうだ?」
授業の合間の休み時間、相田健斗が楽しげに話しかけてきた。
「変わらないよ。お前こそそうだろ」
苦笑い混じりに返答すると、健斗もニヤッと笑う。
「クラスは変わらないけどさ。席替えはしただろ」
そう言いながら、隣の席をあごで示す。
「深森さんと仲良くなったりは?」
「別にないよ」
こればかりは肩をすくめるほかない。そもそも彼女も俺もクラスの真ん中ではしゃぐタイプではない。
「そっか。…でもさ、」
健斗は少し周りを見回した後、声を抑えて続けた。
「深森さんって少し変わってるよな。最近そういう話、ニュースでも見るしさ」
そう言いながら、掲示板のポスターにちらっと目をやる。
言いたいことが分かった瞬間、眉間に皺が寄りそうになった。ムッとしたことがバレないように、声を抑えて俺は答える。
「さあな。…最近はそういうのも色々ごまかせるんだろ」
「お前、そういうところは真面目だよな」
健斗の言葉に今度は隠すことなく眉間に皺を寄せてみせたところで、チャイムがなり、二人の会話は断ち切られた。
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次の時間は英語の授業だった。席順に当てられた生徒が英文を読んで訳していく。順番が進み、深森の番がやってくる。静かに立ち上がった深森は、小さな、しかし聞き取れないほどではない声で、淀みなく英文を読む。訳もそのまま答えてみせた。そのまま授業は次の生徒へと進んでいく。
深森はまるで授業の背景のようだった。
何番目かの生徒が椅子を引いた音に紛れて、深森の消しゴムが床を転がった。
深森が屈もうとするのと同時に、俺の身体も勝手に動いていた。消しゴムを拾って、深森の机にそっと置く。周りの目を引かないように、音を立てないように。
「…ありがとうございます」
小さな声が返ってきて、俺は一瞬固まった。顔を向けると、深森がこちらを見つめていた。
「いや、別に」
なんとなく気まずくて、よくわからない返事をする俺に、深森はもう一度、はっきりした声で「ありがとうございます」と告げると、顔を前に向け直した。
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放課後のホームルームの最中、俺は手の甲を突かれる感触に隣を見た。そこにはシャーペンの尻をこちらに向ける深森がいた。
小首をかしげてこちらを見る深森に、俺は小さく頷きを返した。二人だけの小さな放課後の約束だ。
ホームルームが終わると深森は荷物をまとめて、静かに教室を出て行った。
俺も荷物を片付けようと教科書に手をかけたところで、その声は聞こえてきた。
「ねえねえ、うちの学年に“いる”って噂知ってる?」
いつもなら気にもかけないような女子のグループの噂話がなぜか耳に入ってきた。
「“いる”って…あれのこと?」
そう答える女子が教室の後ろに顔を向ける。掲示板のポスターが視界の端で目立って見えた。
「そうらしいよ」
「あんまり言っちゃいけないんでしょ?」
「でもなんとなくやだよね」
そんな言葉が飛び交い、噂話は熱を帯びていく。いつの間にか教室の空気ごと彼女たちの話に引っ張られていた。
「多文化共生とか難しいこと言われてもよくわかんないよね」
女子の言葉を背後に聞きながら、俺は無言のまま教室を出た。
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頭の中に残る声を追い払うように心なしか歩調が速くなる。そんな俺をたしなめるように胸ポケットのスマホが振動した。通知を確かめ、下駄箱で靴を履き替えると校舎裏へと向かった。
目的地に着いた俺をベンチに座った深森が出迎えた。
「遅かったですね」
静かな声が耳に届く。
「…おう」
苛立ちがバレないように、てきとうな返事をしてベンチに腰掛ける。そんな俺に気づいてか、気づかずか。深森が小さな菓子の入った袋をこちらに差し出す。今日はドーナツだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
お礼のやりとりをしてドーナツを手に取る。二人の間に沈黙が落ちた。ビニールの掠れる音だけがした。
深森とは付き合っているわけではない。けど、放課後を一緒に過ごすくらいの距離にはいる。きっかけははっきりしている。俺が–––––見てしまった日だ。
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それは二年生になって一週間くらいたったころだった。毎朝、新しい席に座るのにもようやく違和感を覚えなくなっていた。今の教室で受ける授業にも慣れて、いつも通りの放課後が訪れていた。
俺はホームルームが終わった後もぼんやりと窓から見える校庭を眺めていた。準備運動を終えたサッカー部がボールを追いかけて走り始めていた。
隣の席の深森は帰り支度を終えたのか、席を立ち荷物を肩にかけた。窓越しに彼女が髪を直すのが見えた。そのとき、一瞬窓に彼女の“耳”が映った。
椅子が鳴った。その音と同時に、窓の中の深森と目が合った。
「…ごめんなさい」
何か言おうとしても言葉が口から出てこなかった。その沈黙に深森の声が落ちてきた。
胸が跳ねた。何か言わなきゃと思うのに、言葉がまとまらない。
「俺は、…言わないから」
結局、それしか言えなかった。
「…ありがとうございます」
深森と目が合った。目に映る彼女は至って“普通”だった。
「白石くん。甘いもの、好きですか?」
なんと答えれば良いか分からず、ただ首を縦に振る俺に深森は小さな菓子を手渡した。小袋に入ったクッキーだった。
「…また」
そう告げると、彼女は俺を置いてけぼりにして教室を出て行った。静かな教室に残ったのは、俺と手の中のクッキーだけだった。
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「何かありましたか?」
口の中で崩れるドーナツの甘さと深森の声が、俺を現実に引き戻した。隣に目を向けると、こちらに顔を向けて首を傾げる彼女と目が合った。
「…なんでもない。ドーナツ美味しいなって」
どこか意固地になった俺の口からそんな言葉が漏れた。深森はそんな俺を静かに見ていたが、諦めたように問うた。
「もう一つ食べますか?」
「ありがとう」
差し出された菓子袋からドーナツを一つつまみ取る。そんな俺の耳に彼女の呟きが届いた。
「白石くんは何も言わないんですね…」
毛布をかけるような声だった。その柔らかさが俺の喉をつまらせた。
彼女は俺の返事を待たなかった。膝の上の菓子袋をたたんだ。いつも通りの静かな動きだった。
俺は誤魔化すようにドーナツを噛んだ。咀嚼音が大きく聞こえた。
二人の間にはそれきり会話がなかった。




