(2)
迎えに来た馬車に乗り込み、ようやく人目から逃れ一人きりになってから、フィアナは深く息を吸うことができた。
(気にしちゃ駄目よ)
王侯貴族たちの間に入って、陰口を言われなかったことなどない。いつものことだ。
彼等にすれば、黄色のヴェネラを咲かせたというだけで自分たちの世界に泥靴で入り込む孤児が許せないというだけのこと。
フィアナだって、大切に耕している畑を王侯貴族たちにとがった靴で踏み荒らされたら、腹が立つ。それと同じことなのだと、無理矢理納得している。
(でも、レオの悪口は許せない。ヴェネラ目当てで結婚したなんて、そんな人じゃないのに)
二人が出会ったのは、結婚する一年以上前。ヴェネラを咲かせる前のこと。
フィアナが町の男にしつこく言い寄られていたのを、レオナルドが助けてくれたのがきっかけだった。
貴婦人たちにはみすぼらしいと馬鹿にされるフィアナだが、男たちにとっては違う。
手足はほっそりしているが、胸や尻は女らしい曲線を描き、頬もふっくらと柔らかそう。
いつもうつむきがちな猫背なのと、豊かな栗色の巻き毛に隠されているが、とても可愛らしい顔立ちをしている。
分厚い睫毛に縁取られた大きな目は、美しい緑色。頬はふっくらと薔薇色で、こぶりな唇はいつもぷるんと潤っている。
警戒心の強い小動物みたいで、つい手をのばしたくなる。男の庇護欲をかきたてる。フィアナはそんな風に言われ、男たちの間では密かに人気があるのだ。
レオナルドに出会ったときも粘着質な男に追い回されて困っていたときで、それからしばらくレオナルドはフィアナのそばにいてしつこい男を追い払ってくれた。
『フィアナは一人でいるには可愛すぎるし、無防備すぎるんだ。俺が守ってやる。俺にしておけ』
強気な口調でそう言われ、フィアナは目を丸くして驚いた覚えがある。
だって、レオナルドは大人気の近衛騎士様だし、ブロンドに青い目の美形。爵位はなくても伯爵家出身だ。
キラキラ輝かしい華やかな美形で、交友関係もびっくりするほど広く、どこにいても声をかけられる。彼を慕う女性も多く、華やかな美女ばかり。
みっともなくて見栄えのしない孤児である自分とレオナルドは真逆。住む世界の違う人だった。
勿論、即座にお断りをした。
だが、レオナルドは諦めなかった。それからずっとフィアナの護衛をするようについて回り、どこにでも現れ、毎日のように口説いてきた。
愛している、フィアナを守りたい、ずっとそばにいたい、誰より君が大切だ、俺もフィアナの一番になりたい。
毎日のようにこんな言葉を浴びせられていたら、とても正気ではいられない。
フィアナは孤児で家族もなく、恋人ができたこともなかった。
これまでフィアナを一番だと言ってくれる人はいなかったし、一番になりたいという人もいなかった。
この先もずっと一人で生きていくのだと思っていた。
植物の研究を続けられるのなら、孤独でも生きていけると思っていたのに、フィアナはレオナルドに甘やかされ、包み込むように守られ、過剰なほどに愛され、レオナルドにほだされた。
そして、レオナルドなしで一人でどう生きていけばいいのか、わからないぐらいになってしまったのだ。
(……帝国でレオを見た人がいるって……本当なのかな)
とてつもなくモテていたレオナルドは、短期間で次々に恋人を変えるようなお付き合いを楽しんでいたらしい。
とっかえひっかえだったと、彼の友人から聞いたことがある。
だが、フィアナと出会ってからのレオナルドは、他の女性に目を向けなかった。
誘いを断るのは勿論、女性と二人で会話することも避けていたし、笑顔まで封印した。
にこりともしないのは失礼だと怒られるより、フィアナに誤解させたり、傷つけることのほうが怖いと、レオナルドは怒られても知らん顔だった。
フィアナはやりすぎだと思ったけれど、少し嬉しかったのは事実だ。
だから、レオナルドが他の女性と腕を組むなんてあり得ない。
もしそれが本当なのだとしたら……。
(まさか、心変わり?)
もう十か月。人の心が変化するのに、十分な時間だ。
帝国になら美人もたくさんいるだろう。フィアナなどよりも、ずっとずっと魅力的な女性にレオナルドは囲まれているに違いない。
『レオナルド殿も、なぜあんな貧相な娘と結婚なさったのか』
もしかしたら、今頃、レオナルドもそんな風に考えているのかも。
『レオナルド様と結婚できたから、貴婦人気取りなんじゃない?』
『ああ痛々しい。勘違いってイヤね。結婚できたのは花のおかげでしょ』
「違うもん」
あえて声に出す。
震えていたけれど、きちんと音になって外に出た。
「私はレオを信じるって決めたんだもの」
ぎゅっと祈りの形に手を組み、額に押し当てる。
だが、いつものように胸の中の不安は消えて行ってくれない。
レオナルドを疑うと、彼を裏切っているよう。
信じると決めたのに、簡単に揺らいでしまう弱すぎる自分がすごくイヤで。
フィアナは指の関節を額にぐりぐり押し当て、自分を痛めつけた。
馬車の速度が遅くなる。
屋敷についたのだと、フィアナは慌てて姿勢を正し、表情を改める。
使用人たちはいつでもレオナルドの味方だから、フィアナが彼を疑っていると知られたら幻滅されてしまいそうだ。
「おかえりなさいませ、奥様」
「ただいま戻りました」
屋敷の執事ヨハンはいつも通り優しい笑顔でフィアナを迎えてくれる。
ここだけは、レオナルドが出ていく前も今も何も変わらない。フィアナに悪口を言う人も、レオナルドを馬鹿にする人もいない。
「とてもお疲れのご様子、ゆっくり休んでください。お一人で王宮に行かれるのは大変だったことでしょう。このような招待があるとわかっていれば、ロッシュは休みを取らなかったのですが」
そうヨハンに言われ、なぜこれほどレオナルドを信じられなくて落ち込んでいるのか、フィアナは理由が分かった気がした。
護衛のロッシュがそばにいないからだ。
不在のレオナルドの代わりに、ロッシュは常にフィアナのそばにいてくれた。
今日だって、ロッシュがいればフィアナは一人で馬車を待つこともなかっただろう。
これみよがしに悪口を言っていた令嬢たちにだって、ロッシュは睨みをきかせ、黙らせてくれていたと思う。
『まったく、花が目当てだなんて、レオの溺愛ぶりを知らない奴らは見当違いなことばかり言いますね』ぐらいのことを言って、怒ったかもしれない。
そして、フィアナの不安は消え失せただろう。
レオナルドの幼馴染で、生まれた時から双子のように育ったというロッシュは、フィアナよりもレオナルドをよく知っている。
そのロッシュが言うことだからと、フィアナは疑うことなく信じることができた。
これまで、フィアナが強くレオナルドを信じていられたのは、ロッシュが信じさせてくれていたというのが大きかったのだ。
(あと二か月よ。大丈夫)
きっと待てる。信じて待ってみせる。
そう強く思う心の片隅で、レオナルドはもう帰ってこないのではないかという、疑いの気持ちが強くなってきているのも自覚する。
帰ってこなかったらどうしたらいいのだろう。
この屋敷は、使用人たちは、結婚はどうなってしまうのだろう。
そんな風に考え出してしまうと、足元がぐらぐらしてきて息をするのも苦しくなってくる。
レオナルドを信じて待つのだと、フィアナは心の中で何度も何度も繰りかえし、息を吹き返した。




