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研究所内にあるフィアナの研究室に戻ると、もう定時を過ぎてしまっていたこともあり、ほぼ無人だった。
まだ残っていた研究員に帰るように声をかけながら、奥の個室に入る。
お気に入りの肘掛け椅子に腰を下ろすと、ほっと長い息をついた。
(所長、私が秘密の畑でヴェネラを育てているって思ってるのかな)
研究所内の畑でどれぐらいヴェネラが咲いて、種が取れたか、苗があるか、所長のマルタは絶対に把握している。そしてギリギリの数を奪っていった。
それなのに、まだ種や苗を要求してくるということは、他にもあると本気で考えているとしか思えない。
実際、フィアナは自宅の庭に小規模の畑を作り、黄色のヴェネラを栽培していた。
(自宅の庭が怪しいって思われるのは仕方がないか)
夫レオナルドが購入した屋敷は、フィアナが畑を作れるようにと、敷地がとても広い。
しかも、フィアナを守るためだと言って高い柵を作り、中の様子は伺えない。
マルタが疑っても仕方がない、かなり堅牢な造りなのだ。
疑いつつもマルタが引き下がっているのは、フィアナの夫レオナルドのご機嫌を損ねることを気にしているからだろう。
レオナルドの実家ハーヴェイ伯爵家は、リジエラ王国内の伯爵家の中で最も裕福な家。一家の財産は侯爵家と肩を並べると言われている。
先代がとても商売上手な投資家で、誰も注目していなかった鉱山に大規模な投資をして、ダイヤモンドを掘り当てたのは有名な話だ。
レオナルドの個人資産もかなりなものらしく、フィアナと結婚するとすぐ、研究所に巨額の寄付をした。
所長のマルタが喜びの奇声をあげるほどの額だったらしい。
それ以来、マルタがフィアナへの態度を変えたのは言うまでもない。
フィアナに助手がついたのも、研究室という個室が与えられたのも、レオナルドの寄付のおかげだ。
(もしかして、レオの留守を聞いてきたのって……)
レオナルドが帰ってこないのなら、フィアナに遠慮する必要はないと考え始めているのかもしれない。
このままレオナルドが戻ってこなかったら、マルタはますますフィアナへの要求を強め、苗や種を隠し持っているのではないかと強引なことをしてきそうだ。
そしてそれは、マルタだけではなく、ヴェネラを欲しがる多くの王侯貴族たちも同じだろう。
平民で孤児のフィアナには、抗うすべなどない。
助けてくれる有力者といえば、夫のレオナルドぐらい。
だが、レオナルドはもう長く不在にしている。結婚してすぐ、一年後の帰宅を約束して出て行ってしまい、不在はすでに十か月を超えた。
(心配していても仕方がない。一番いいのは、私がたくさん黄色のヴェネラを咲かせることよ)
夫レオナルドの帰宅予定まであと二か月ある。
それまで毎日帰ってくるのかどうか心配していても何も変わらない。
フィアナは机の大きな引き出しから、大きな箱を取り出す。
箱の中には、ヴェネラの種がたくさん入っている。
黄色でなければ、ヴェネラの花はまだ探せば咲いているところがある。そこから集めてきた種だ。
種を一つ手に取ると、フィアナは指先ですりすりと優しくなで始めた。
(あなたはどんな花を咲かせてくれるのかしら)
心の中でそう問いかけると、フィアナの頭の中にぼんやりと美しく花開いた映像が浮かび上がってくる。
ヴェネラが何色の花を咲かせるのかは、種が取られた時の状況や、その後の保管管理、種がまかれた場所が影響する。フィアナが研究で明らかにしてきたことだ。
だがやはりそれだけが原因ではなく、黄色になりやすい種とそうでない種が存在する。
フィアナは植物と意思の疎通が少しだけできる特殊能力を持つ。
この特別な能力で、黄色の花を咲かせやすいヴェネラの種を探し出すことができた。
水が足りない、栄養が足りないなどの植物の苦情がわかるので、ヴェネラを育て黄色に咲かせることに成功したのだ。
だが、黄色のヴェネラを咲かせる種はとても少ない。
黄色を咲かせる可能性が高くても、栽培に失敗すれば他の色になってしまうため、すべての種が黄色になるというわけでもない。
種は一粒でもおおいほうがいい。フィアナは種探しに没頭した。
扉にコツコツとノックがあり、集中していたフィアナは我に返る。
時計を見れば、もう帰宅する時間になっていた。
どうぞと声をかけると、フィアナの屋敷で働いているロッシュという若い騎士が姿を見せる。
夫レオナルドの幼馴染で、今はフィアナの護衛をしてくれている。
「こんばんは、フィアナ様。帰る時間ですよ」
「ええ、ロッシュ。もう帰るわ」
ロッシュはレオナルドと同い年の二十二歳。
落ち着いた雰囲気の、誠実で信頼できる人だ。
レオナルドの実家領地で騎士をしていたのだが、レオナルドに頼まれて王都に来てくれた。
家を留守にしているレオナルドに代わり、フィアナを守ってくれている。
「ねえ、ロッシュ。やっぱり、ヴェネラをもっと増やしてから公表すべきだったかも」
護衛としてずっとフィアナに付き添っているロッシュには、本当に迷惑をかけてしまった。
黄色のヴェネラを咲かせる前、フィアナの護衛はとても簡単だった。
なにしろ、屋敷と研究所、畑にしか行くことがなかった。時々、国境の森に植物採取に遠出することがあるぐらいで、のんびりしていたのだ。
だが、黄色のヴェネラが咲いたことを公表した途端、フィアナの行動範囲は急に広がった。
これまでまったく縁のなかった王宮に呼ばれ、国王陛下の謁見もあった。
王国の偉い貴族たちに夜会やお茶会に招待されることになり、フィアナは知らない知り合いや友達が大勢、屋敷におしかけてきた。
それだけではなく、黄色のヴェネラを狙う泥棒が屋敷やフィアナの周囲に現れるようになった。
フィアナの馬車が襲撃を受けたことも一度ではない。
そのたびに、ロッシュは全力でフィアナを守ってくれた。
ヴェネラの騒動がなければ、護衛もずっと楽だった。
ロッシュがレオナルドに護衛を頼まれた時は、こんな激務になるとは思っていなかったはずだ。
それなのにロッシュは文句ひとつ言わず、フィアナの成功を喜んでくれる。常にフィアナに寄り添い、励まして助けてくれた。
彼なしでこの冬は乗り越えられなかったと思う。
「後悔なんて、フィアナ様らしくないですよ」
ロッシュはそんな風にからかって笑ってくれた。
「私らしいわ。いつもくよくよしてばかりだもの」
「決めるまでは長いようですが、決めてしまえばあとはもう一直線なところありますよね」
「そ、そうかな」
なんでも一人で考えて決めてきた人生だから、フィアナはこうと決めたら周囲に何を言われても変えない、頑固なところがある。
それでレオナルドには何度も注意され、懇願された。
今はもう一人ではない。夫がいるのだから、なんでも相談してほしいと。
「また、あの所長に無理難題を押し付けられましたか」
「押し付けられてないわ。ちゃんと押し返しました」
フィアナは胸を張って主張したが、ロッシュはむすりと顔をしかめる。
「まったく、あの所長にも困ったものだ。職員のフィアナ様を守るのは、所長の役目だろうに」
「レオが帰ってきたのかって、今日、聞かれちゃったわ」
「……どうやら、レオが出かける前に刺していった釘が緩んでいるようですね」
「釘って、それ寄付のこと? レオはそういう意図で寄付をしたの?」
「どうでしょうね」
わざとらしくロッシュは答えをごまかす。
「ロッシュ、教えてくれてもいいと思う」
「あの溺愛男が何したかなんて想像できるでしょ? あいつが帰ったら直接聞いてください」
ロッシュは当たり前にレオナルドが帰ってくる話をする。
レオナルドがフィアナを愛していることも疑ったりすることがない。
だから、フィアナもロッシュといると安心ができた。
約束通り、一年後にレオナルドは帰ってくるのだと、当たり前に信じられた。
「さあ、帰りますよ、フィアナ様」
「はーい」
フィアナは急いで鞄とショールを取ってくると、ロッシュと肩を並べて研究室を出た。




