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私が死ぬのを、夫は待っているらしい。  作者: 須東きりこ
1.植物学者フィアナ

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2/10

(1)


 十か月後。


「すでに期日を一週間も過ぎているのよ。このままでは信用を失います。なんとかしなさい、フィアナ」


 所長室の長椅子に腰を下ろした初老の女性、この研究室の所長マルタは、向かいの長椅子に座る若い女性所員フィアナに向かって、力一杯怒鳴りつけていた。

 大柄でふくよかな所長マルタに対し、フィアナは小柄で大風に吹かれれば飛んで行ってしまいそうな頼りなげな風情。

 だがフィアナは、困り顔をしつつも、泣き出しそうにはまったく見えない。

 泣くどころか、マルタが息継ぎをするのに怒鳴り声がやんだ隙に、口を開いて反論までした。


「所長、なんとかと言われても、ヴェネラが春に咲かないのはご存じではありませんか」

「私に口答えするなんて! 偉くなったものだね、フィアナ!」


 フィアナは慌てて縮こまり、深く俯いてみせる。

 マルタが怒鳴っているときは、縮こまって静かにしているのが一番いいというのに、うっかり反論したのは大失敗。

 おかげで、マルタの怒鳴り声はますますひどくなり、慣れているフィアナでも耳が痛くなってきた。


 マルタが怒って怒鳴っている時は、怖がって怯えているふりをするのが一番。

 そうすればマルタは満足し、説教も短く済むと、夫のレオナルドが教えてくれた。


『怒鳴ることで、自分の優位を確認したいだけさ。弟子のフィアナのほうが優秀だから、焦っているんだ』


 レオナルドは人を見る目がある。

 少し話せば、その人の考え方や人となりまで見透かしてしまう。


『フィアナのほうが優秀なのに、あの所長を立てたいなんて、フィアナは義理堅い。植物学を教えてもらった恩はあっても、とっくに返したと思うぞ』


 レオナルドはそう言っていたが、マルタには本当にお世話になった。

 子供の頃からなので、勉強や研究だけではない迷惑もかけている。

 孤児のフィアナにとって、レオナルドと結婚するまで、マルタは一番頼りになる存在だったのだ


『でもまあ、フィンらしいのか。……所長に怒鳴られるときは小動物みたいに怯えて縮こまっているのが一番だ。言われたことは気にするなよ。負け犬の遠吠えみたいなものだ。聞き流すんだ、いいな?』


 喧嘩も陰謀も大好きなレオナルドだから、所長のマルタをこてんぱんにやっつけることなど造作もないことだっただろう。

 だが、恩のあるマルタを尊重したいというフィアナの意見を尊重してくれた。そして、怒鳴られてばかりのフィアナのメンタルを何より心配してくれた。

 派手な容姿に見落とされがちだが、レオナルドはとても優しい人なのだ。


(レオ……、会いたいなぁ)


「フィアナ! 聞いているの!」

「は、はい!」

「あなた、種を隠し持っているんじゃないの? それを出しなさいと言っているのよ!」

「いえ、持っていません」


 さらりとそう言い返し、フィアナはにっこりとほほ笑んでみせる。


「本当に? 持っているんじゃないの?」

「もう全部使ってしまいました。ありません」

「……」


 マルタはまだ疑わしそうな顔でフィアナを見ていたが、フィアナは完璧な笑顔を崩さない。

 レオナルドと出会う前なら、フィアナは申し訳ありませんと嘘をついたことを謝り、隠し持っている種を差し出していただろう。だって、所長の命令は絶対だからだ。


 だが今は、これは必要な嘘だと腹をくくっている。

 すべての種を手放してしまったら、新たに育てて花を増やすことも、新たな種を取ることもできなくなってしまうのだから仕方がない。

 恩があるとはいえ、何もかもを差し出す必要はないと言ってくれたのはレオナルドで、必要な嘘は有用な処世術だとフィアナを納得させてくれた。


「まったく、種を独り占めだなんて、いやしい子だよ。黄色のヴェネラがどれほど貴重な花かわからないのかね。大規模な畑でたくさん育てれば、どれほどたくさんの人が喜ぶことか」


 そう言われても、花の種はそう簡単には増やせない。

 フィアナの研究用の畑がとても狭かったのだって、フィアナのせいじゃない。

 所長のマルタだって学者だし、畑の割り当てを決めた責任者でもあるのだから、ちょっと考えてくれればわかるはずなのにわかろうとしない。無理難題ばかり押し付けてくる。

 それはなぜかというと、黄色のヴェネラという花にはとんでもない金額を出す人が大勢いて、マルタはすっかりお金に目がくらんでしまったから。


 ヴェネラという植物は、色とりどりの花を咲かせる。

 大昔はそこらへんの野原に咲くありふれた花だったのだが、いつのまにか数を減らし、自然に咲いているのを見ることはなくなっていた。

 特に黄色は絶滅したとされ、この二十年、誰も見たことがなかったのだ。


 黄色のヴェネラは、女神ヴェネラが王を祝福して与えたと言われる花。

 女神ヴェネラの王権に対する加護の証と言われていて、この大陸にある国ならば必ず国王の印や旗などにデザインとして取り入れている。


 黄色のヴェネラが咲いていない国は、女神の加護を失ったとみなされる。

 何か悪いことをして女神に見放されたのではないか、国が亡びるのではないかと囁かれてしまう。

 なので、フィアナが咲かせることに成功したという噂が流れるや否や、ものすごい数の栽培依頼と買取依頼が殺到した。

 しかも、欲しがっている人が王侯貴族ばかりなので、値段はあってないようなもの。手に入るならいくらでも出すという申し出ばかりだった。

 マルタの目が輝くのも致し方ないのかもしれない。


 一方、フィアナは根っからの研究者で、黄色のヴェネラで一儲けしようという気持ちはない。

 孤児だったこともあり、質素倹約が当たり前で、これまでまったく縁のなかった王侯貴族に接近され、戸惑うばかりだ。


「畑を拡張したんだから、そこに種を植えなさい。そうすれば、次の冬には咲くでしょう」

「ですから、種はないんです」

「苗はないの? あるんでしょう? それを研究所の畑に植えなさい」

「苗だってありません」


 畑を急に広くされても、植える苗がない。

 種だって、ほとんど取れなかった。

 花を切ってしまえば種にならないのに、どうしてもと請われて切り花をギリギリの数提供したからだ。


(もっと増やしてから、黄色のヴェネラを世に出すべきだったわ)


 後悔したところで、なかったことにはできない。

 マルタを始めとしたこれまでの恩人に結果を出すことで報いたいという気持ちが強かったフィアナは、公表を急いでしまったのだ。


 だが、黄色のヴェネラは、フィアナの手には負えないほど大きすぎる結果だったのかもしれない。

 フィアナを孤児だと蔑んでいた周囲の人々は、手のひらを返したように笑顔ですり寄ってきて、黄色のヴェネラを譲ってくれと頭を下げる。

 嬉しかったのは最初だけ。今はその変わりようが気持ち悪いし、あまりのしつこさに恐怖を感じるようにもなった。


「申し訳ありません。次の冬には、今年以上にたくさん咲かせて、種も取れるように頑張りますので」

「……わかったわ」


 フィアナの手元に種も苗もないことなど、あるだけ奪い取っていったマルタが一番よくわかっているのだ。

 文句をたっぷりと言えたからか、マルタは渋々といった顔で頷く。

 フィアナも内心で安堵のため息をついた。


「ところで、フィアナ」

「はい?」

「あなたのご主人はもう帰られたの?」

「い、いえ、まだ、です」

「そう。長い留守なのね」

「はい。あの、では失礼します!」


 夫レオナルドのことを根掘り葉掘り聞かれるのはイヤで、フィアナはかなり強引に話を切り上げる。

 立ち上がって頭を下げてもマルタは引き留めようとしなかったので、フィアナは素早く所長室を退室した。



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