(2)
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フィアナの住むリジエラ王国の隣国、ブロス帝国。
両国の間には、精霊たちが住むと言われている広大で深い森がある。
精霊と魔獣が住む森は人に優しくなく、王国と帝国をつなぐ道が一本あるのみ。この道の安全は王国と帝国が整備して、ある程度保証されている。
王国と帝国は昔からあまり仲が良くない。
巨大な森が両国を隔てているため、細々とした交易と交流があるのみ。
大きな戦争こそないが、小競り合いは珍しいことではない。
とはいえ、国力の差は大きく、帝国は王国の数倍の領土を持ち、とても豊かだ。
ブロス帝国の帝都からほど近い山の奥に、剣の道場がある。
この道場に入門して十か月、レオナルドはひたすら修行をしてきた。
娯楽など皆無、会う人も道場関係者のみという、隠遁生活だ。
その日も一日の練習を終えてから素振り用の重い剣を持ち出し、広い稽古場の隅で黙々と素振りをしていた。
鍛え上げられたがっちりとした体には汗が光り、力が入るたびに筋肉が盛り上がる。
癖の強い金髪は首の後ろで一つにまとめられ、人目をひく華やかな美貌はむき出しになっていた。
十か月前のレオナルドを知る者が見れば、とても驚いただろう。
頬が痩せ、青い目に浮かぶ冷徹な光のせいか、以前のレオナルドよりも精悍に、老成したように見えた。
体は一回り大きくなり、首が太くなったせいか、第一印象もかなり変化した。
いつも楽し気で余裕があって、軽妙洒脱で笑顔の似合う男だったというのに、今はどこかピリピリとして余裕などなく、切れ味鋭いむき身の剣のような男に変わっていた。
レオナルドは集中して素振りをしていたのだが、ふと手がとまる。
素振りを始めると無心になれるのだが、期限の一年が迫るにつれ、雑念が増えてきていた。
思うのは、フィアナのこと。
王国で元気にしているだろうか。泣いていないだろうか、誰かに付け回されたりしていないだろうか。そして、今も身勝手な夫のことを想ってくれているだろうか。
別れ際、信じて待っていると言ってくれたフィアナの笑顔が目に焼き付いている。
(フィン、会いたい)
フィアナのいるリジエラ王国の方向を向き、彼女の笑顔を想う。
(利己的な夫で本当にすまない)
レオナルドにもわかっている。フィアナの命と幸せを考えれば、離婚して姿を消し二度と会わないべきなのだ。
だがどうしても、レオナルドは離婚はできなかった。二度と会わないなんて、考えるだけで気が狂いそうだった。
(フィンの幸せを一番に考えることこそ愛だというのなら、俺のこの気持ちは愛ではないかもしれない)
いきすぎた独占欲、執着、束縛。
フィアナのためには自分などいないほうがいい。
わかっているのだが、レオナルドはフィアナを離せなかった。彼女が恋しくて愛おしくて、たまらなかった。
「レオ、夕食の時間だよ」
訓練場の奥から、まだ十代の若い娘が姿を見せる。
だが、レオナルドはフィアナのことを想う時間を邪魔されたくなくて、無視を決め込む。
「レオったら!」
無視されて帰るか、より大きな声で叫ぶか、確率は半々ぐらいなのだが、今日は叫びたい気分だったらしい。
さすがに無視はできず、レオナルドは素振りの手を止めた。
「やあ、レスリー」
「夕食の時間だよ、レオ」
「わかった」
いつの間にか、日が落ちて闇が濃くなっていた。
今日は日差しが強く暑かったが、ぐっと冷え込んできているのを感じる。
食事の前に汗を流そうと、レオナルドは訓練場の隅にある水場に向かう。汲み上げポンプを上下させて水を出すと、頭から豪快に浴びた。
「あんまり見てるなよ」
薄い訓練着が肌に吸い付き、レオナルドの見事な体躯を浮かび上がらせる。
じっと見てくるレスリーを、レオナルドは横目で睨んだ。
「み、見てないし!」
レスリーは真っ赤になって反論するが、レオナルドは無視して彼女の横を通り抜けていく。
とても面倒なことに、この道場主の孫娘レスリーは、初めて会ったときからレオナルドに夢中だった。
既婚者だということも、妻にすべてを捧げていることも何度も明言しているのだが、諦めようとしない。
以前は雑談ぐらいには応じていたレオナルドだったが、レスリーがいつまでたっても諦めようとしないので、積極的に冷たく接している。
足を速めてレスリーから離れようとしたレオナルドは、胸に火を押し当てられたような熱を感じ、足を止める。
鋭い痛みだったが、長くは続かない。一呼吸ほどで、熱は消えていった。
(まさか)
肌身離さずつけているネックレスの鎖をひき、服の中から引っ張り出す。
「どうしたの?」
立ち止まったままネックレスを凝視しているレオナルドの前に、レスリーが回り込んでくる。
「あれ、割れちゃったの?」
いつもレオナルドがつけているネックレスを、レスリーは見たことがある。
ネックレスにはガラスの小さな小瓶が通されていて、その小瓶の中には紫色の薄い水晶の板が入っていた。
レスリーは宝飾品としか思わなかったのだろうが、これは魔法のこもった水晶だ。
レオナルドが大金を積んで手に入れた貴重なもので、二枚一組の水晶の片方を割ると、もう片方の水晶は熱を放ち割れるという魔法がかかっている。
王国と帝国、馬で何日もかかる遠距離でもすぐに連絡が取れるように、フィアナのそばにいるロッシュに片方を渡してある。
レオナルドが割るときは、一刻も早くフィアナを連れて王国を脱出しろという合図。
そしてロッシュが割るときは、フィアナが危険な状態で、ロッシュだけでは安全を確保できないときだ。
レオナルドはぎゅっと小瓶を手の中に握りこむ。
二つにぱっきりと折れた水晶が、瓶の中で揺れて、軽やかな音を立てた。
「テオドルはどこにいる?」
「おじいちゃんなら、食堂だよ。夕食だって言ってるじゃん」
「そうか」
レオナルドは突然走り出す。
取り残されたレスリーが背後で騒いでいたが、もう彼女の声がレオナルドの耳に届くことはなかった。
訓練場を囲むように、平屋の建物がたっている。
中央の母屋に食堂や風呂などの設備が集まり、左右に広がった二棟は小さな個室が十ずつ並ぶ。
数年前まで、光の剣の主人を目指す剣豪たちがテオドルの教えを乞うために押し寄せ、これら個室は常に満室だったらしい。
だが現在、個室を使っているのはレオナルドただ一人。
年を取ったテオドルが弟子を取ることをやめていたからだ。
押しかけて断られても諦めず、粘り勝ちして居座ったレオナルドを、テオドルは最後の弟子にすると公言している。
「テオドル、俺、行く」
食堂の扉をがらりと開けると、レオナルドはそう言い放った。
「こんなときにすまない」
「ちょっと待て。いきなりすぎるだろうが!」
そのまま食堂を出ていこうとしたレオナルドの後頭部に、テオドルが投げた丸めた雑巾がヒットする。
「だから、謝っているだろ」
「先に飯を食え。どこに行くにしても、腹が減っては動けないぞ」
「……」
気持ちは先へ先へと進もうとするが、テオドルの言うことはもっともで、レオナルドは仕方がなくテーブルについた。
肉を中心としたボリューム満点の夕食を黙々とかきこみ始める。
「何があった」
「妻が危険な状態にある。すぐに戻らないと」
「なぜわかる。お前の妻は王国にいるんだろう?」
「これ」
と、レオナルドは食事を続けながら、空いている手でネックレスを引っ張り出し、テオドルに見せた。
「水晶か、割れているな」
「妻の護衛を頼んでる幼馴染に、俺がすぐに帰る必要が生じたときに知らせてくれるように言ってある」
「ふむ。奥方には敵が多いのか?」
「まあな。俺以外の男にとっても、彼女は価値ある人だ」
「ほお。だがレオ。奥方のそばにお前がいると、奥方の命が危険だと言っていたじゃないか。危険の迫っている奥方のそばにお前が戻ったら、もっと危険になるんじゃないのか?」
「それは……そうかもしれないんだが……」
ロッシュが水晶を割るときは、予言の危険よりも、レオナルドがフィアナのそばにいないほうが危険なとき。誰よりも信頼しているロッシュが、そう判断したときだ。
それでも、レオナルドに迷いがないわけではない。父の予知がどれほど正確なのか、誰よりもよく知っているからだ。
フィアナが結婚一年以内に死ぬのは、レオナルドをかばうから。
愛する妻の死因は、レオナルド。レオナルドさえそばにいなければ、フィアナは死なない可能性が高い。
今、フィアナを守るためにレオナルドが戻るせいでフィアナが死ぬ可能性があることを、レオナルドは誰よりもよくわかっていた。
だが、レオナルドが戻らないことで、フィアナが命を落とす可能性だってある。
どちらの可能性が高いかは、わからない。
「十か月前より、俺は強くなっている。フィンを守れるはずだ。いや必ず守ってみせる」
自分を鼓舞するように、レオナルドは強い口調でそう言い切り、食事を再開する。
「光の剣はどうする。この十か月、お前は光の剣の主人になることだけを目指し、修行に明け暮れた。あと一試合勝てば目標がかなうというのに、お前は出ていくと言うのか?」
テオドルに顔を覗き込まれ、レオナルドはごくりと口の中のものを飲み込んだ。
「俺の一番は妻だ。光の剣を望んだのは、彼女を守るために必要だから。剣のために彼女を見放したら、本末転倒だろう」
「お前はあきれるぐらい一途だな」
「とはいえ、剣はどうしても必要だ。試合の延期に、闇の剣主は応じてくれるだろうか?」
「多分、大丈夫だろう。陛下には私から伝えておこう」
「ありがたい」
そこにテオドルの孫、ラエルという青年が食堂に入ってきた。
「ラエル。レオのために弁当を用意してやってくれ。携帯食もだ」
「え! レオさん、これから出るの? もう外、真っ暗だけど」
テオドルとレオナルドのため、ラエルはここで炊事をしている。
十六歳の気のいい好青年で、光の剣に手が届きそうなレオナルドを尊敬し、世話を焼いてくれた。
「王国まで行ってくる」
「ええ!? それならちゃんと準備して行ってよ。王国行くなら、森を抜けないとでしょ。装備がないと、レオさんだって危険だよ」
「ラエルの言う通りだ。焦る気持ちはわかるが、しっかり準備して行きなさい」
「わかった。ありがとう、テオドル。ラエル、手伝ってくれ」
食事を食べ終わったレオナルドは、ラエルを追い立てて準備のために食堂を出ていく。
「レスリー、お前も手伝ってやれ」
食堂の扉にもたれて立つレスリーは、むっとした顔でレオナルドの背中をにらんでいる。テオドルに声をかけられても無視だ。
十八歳のレスリーはラエルの姉で、テオドルの孫。ラエルと一緒に手伝いに来てくれるのは助かるのだが、彼女の目的がレオナルドだというのに誰もが困っていた。
「……私も行こうかな、王国」
「何を言っている、レスリー」
テオドルがぴしゃりとしかりつけたのだが、レスリーはやはり知らん顔で、ふいっと姿を消してしまった。
next. 4.森へ
*申し訳ありません。連載休止しております。




