1章 蘇生
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ある夏の日、冷房の効いた監督室で僕は目を覚ました。外からは甲高い金属バットの乾いた音が残響のように聞こえてきていた。いったいどうしてこうなってしまったのか、その記憶は朧げで、僕はいきなり再起動をかけられたロボットのようにくらくらと辺りを見渡す。けれどもそうしてどこからどこまで見渡しても、そこは一面の白で、それは白堊のように味気なく、どこまでも平面的で、そして唐突に我に帰るように、僕は練習中に気を失い倒れたのだと思い出した。
そのとき僕と同学年のマネージャ―が監督室に入ってきて、「あ、起きた?」となにげない調子で訊いてきた。それに対して僕は特になにを言えばいいのかも分からず、「うん」とだけ言って、すぐ近くに用意されていた普段より濃い味をしたスポーツドリンクを口に含んだ。すると、その感覚はまさに寝たきりの老人が体内に落とされた点滴によって、瞬間的な死者蘇生をするみたいで、僕は自身の身体が次第に元の状態へと向かうように潤されていくのをひしひしと感じながら、一息にコップ一杯のスポーツドリンクを飲み干した。
「覚えてる?桐沢くん、ミーティングのときにいきなり倒れたんだよ。」
彼女が言って、僕は頷いた。
「うん。確かにそうだったかも。」
そうして既にそのときの大半のことについて、僕は思い出しつつあった。練習メニューの真っ只中で動き回っているときはまだ良かったが、立ち止まって話を聞き始めた途端に、いきなり視界が無色から黄色、黄色から紫へと変貌し、最終的には眼前が一面黒く染まって、僕はその場で倒れたのだった。
けれどもこうして安静にしているうちに、前後不覚であるかのような僕の体調も幾分かよくなってきたため、僕はふと思い立ったように練習に戻ろうとした。しかしそのとき僕はすぐ隣にいたマネージャーに制止された。
「あ、今日は帰っていいって、先生が。明日はしっかり体調を整えてから練習に参加しなさいって。」
じゃあ私ももうあっち戻るね。そう言って彼女もまた、急いだ調子で練習へと戻っていった。そうして僕はなにをするでもなく冷房の効いた監督室にぽつんと取り残されて、けれどもいったいどうしたらいいのかもよく分からずに、練習をさせてほしいと直接言いに行ったほうがいいのか、はたまた監督の忠告通り帰ったほうがいいのか、そんなことをぐるぐるぐるぐる思案しながら、そして呆れたような表情をした監督のことを想像しながら、そこでひたすらぼうっとしていた。けれども結局僕はひとり部室へと戻って、他の部員が練習しているさなか、ひとり自宅へと帰っていった。
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期末テストの結果は散々だった。前日に徹夜して勉強をしたにも関わらず、全体で見ると赤点が二科目もあって、そして案の定寝不足により、テスト明け最初の練習では、途中離脱する羽目になってしまった。そして次の日練習に出ると、何も声をかけずに自宅に帰ったことや杜撰な体調管理について監督から叱られ、また更にその後日、テストの点数についても、他の先生から情報を仕入れてきたのか、どうしてそんな点数をとったのか、普段の自学自習を怠るからそんな結果になるのではないか、そもそもテスト期間中、勉強に集中できていたのか、とどこまでも正論めいた言葉を突きつけられてしまい、僕はただ「すみません。」と謝罪の言葉を並べ立てることしか出来なかった。しかし、そんな僕のまごついた言葉を聞いた監督も「いや、すみませんじゃなくてさ。」と次の注意点を再度突き立てようとするみたいに粘着質に言って、そこから僕は練習中にも関わらず三十分程度連続して叱られ続けたのだった。
そうしてその日、僕は練習から出され、グラウンドの草むしりをずっとしていた。僕がこの野球部に入ってからというものの毎日がだいたいそんな感じの酷い有り様だった。同学年の部員は真面に練習に参加しているのに、僕だけはなにかしら毎日のように問題点を指摘され、叱られるような毎日だった。今日のように練習から出されることも多々あった。監督は日頃から野球以外の生活態度について厳しく口にしていて、僕は毎度のこと、意図せずしてその生活態度のしきたりから外れてしまっていた。言うならば僕には他の部員が持っている一般常識的な感覚が致命的に欠如していたのだった。
けれども実はそんな経験をするようになったのも、高校になってからが初めてだった。実際僕が中学生のときは、相対的に見ても勉強が出来るほうだった。そしてこれは単純な摂理であると思うのだけれど、ある程度勉強が出来ていれば、公立の中学校という極めて幅広い生徒のいる環境においては、少しの生活における欠陥は目立たないようになっていた。実際、ノートの提出を忘れる、課題を忘れる、といった至って小さなことよりも、校内で喫煙をし、町の文房具店で万引きをするといった、犯罪に関わるある種大きなことを教師は監視しなければならなかった。それに、僕は授業を一回聞けば大抵のことは理解できたし、勉強についても定期テスト前に詰め込みでやればそれなりの点数を取ることが出来た。つまり教師から見ても僕はどこまでも手のかからない生徒だった。そして僕自身、自分より学力の低い生徒が簡単な問題に四苦八苦している様を横目に見ながら、どうしてこんな簡単なことも理解できないのだろうと半ば軽蔑していた。しかし、そんな現状も高校に上がって劇的に変化した。周囲には僕と同程度、もしくはそれ以上の学力の者しかいなくなり、生活においても極端な非行に走るものはいなくなった。そうして僕を相対的に引き立てるものは誰一人としていなくなった。授業の内容も中学校とは比べ物にならないくらい高度になり、次第に授業を聞いているだけは分からないことが増えていって、今では逆に僕自身がその引き立て役に成り下がりつつあった。
練習の終わり際、僕がひとり草むしりをしているところに、仏頂面の先輩がやってきて、ミーティングをやるからこっちに来いと言った。そしてそのミーティングで新人戦の背番号が発表され、十八人いる部員のなかで、僕のもらった番号は「18」だった。
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新人戦は平常運転のごとく一回戦で負け、そして僕は、当たり前のように試合に出ることはなかった。それは惜敗というのもおこがましいような圧倒的な負け方だった。相手は私立の高校であり、先頭打者から三塁打で出塁されると、二番にはタイムリーヒットで一点を取られ、三番も二塁打、四番もタイムリーといった形で連打が止まらず、結局初回で七点を取られた。それからも一点、二点と点を取られてゆき、最終的には十三対一で五回コールド負け。あまりにもあっけない幕切れだった。初めてベンチ入りした僕の公式戦は、試合前にした整備とメガホンを叩いた記憶だけが残り、ものの二時間でサイレンの渇いた戦慄きとともに幕を閉じた。
試合が終わると、そのまま現地解散ということになった。僕以外の同級生は一緒に自転車に乗って、どこかへと遊びに行ったみたいだけれど、僕だけは彼らとはいち早く離れるように逆方向にひとりで歩いていった。とはいえ家に真っすぐ帰る気にはならなくて、僕は球場からまた高校の近所へと戻り、それからすっかり暗くなった通学路を歩きながら、高校の近くにある公園に行って、ベンチにひとり腰掛けていた。手持無沙汰になってたまに手元にあったグローブを握ったりしてみたけれども、なんだかここまでつまらないことがこの世界にあるのかとそんな風に思えて、僕はグローブを触るのを辞め、ただあちこちを見渡していた。畳むこともなくそのまま仕舞い込んだ綺麗なユニフォームが、エナメルバックのチャックの隙間から少しだけはみ出していた。
「不要だって言ってくれればまだ楽なんだけどな。」
夜空に向かって、気が付けば僕はそう呟いていた。そしてそれは、どこまでも切実な自身の感情の発露だった。他の部員からも監督からも軽蔑され、自身の身の回りのことすらままならず、かといって野球の技術も稚拙であり、チームのなかでの存在感は限りなく無に等しい。他者に誇れるものはなにひとつとしてなく、一年生であるということを差し引いても、他の部員と比較して劣っている部分のほうが多く、それなのに誰も僕のことを不要だとは言わず、けれどもかと言って必要だと言ってくるわけでもなく、ただ何か僕が問題行動をしたら軽蔑の眼差しを向けてくる。僕は今までこのチームにいて楽しかったことなんてひとつもなかった。三年生がいたときも仕事が覚えらずに怒られ、言葉遣いを指摘され、応用の効かなさを皮肉られた。そしてただ練習が終われば魂を吹き込まれた死体のように家に帰り、傀儡のごとく操られたように束の間の眠りについて、そのたびに単発的に死者蘇生をするだけだった。
でもそのとき、いきなりひとりの少年が僕に向かってこう呟いたのだった。
「それは無理だろう。」
僕は驚いたようにその声のするほうを振り向いた。するとその声の主は、ひとりで僕の座っていた隣のベンチに座っていて、何か本を読んでいたそんな彼は、まるで後ろにある木葉に擬態しているかのように存在感が薄く、現にこうして彼から話しかけられていなければ気付くことが出来ないほどだった。
銀縁の丸眼鏡、着崩されることなく纏われている濃紺のブレザー、真っ直ぐそこにある真紅のネクタイ、皺なくアイロンのかけられたグレーの制服のズボン、どうやら彼は僕と同じ高校の生徒みたいだった。
「どうして無理だって分かる?」
僕は訊ねて、それに彼は答える。
「だって星もそうだ。」
彼は言った。
「星?」
訳も分からず僕は鸚鵡返しのようにまた訊ねる。
「そう、星さ。例えば、今だってどこかの星は人知れずひっそりと消滅している。それはきっとどこまでも劇的なことだ。一つの星が消滅してしまうんだからね。でもよく考えてみたら、あの星が好きとか、あの星が嫌いとか、俺たちはいくらそういう感想は持てても、その終の棲家までは興味が持てない。なんならあそこの星とあっちの星、それらがいきなり訳もなく入れ替わっていたとしても俺たちは気付くことすら出来ない。」
彼は言った。
「そういうものかな?」
僕は腑に落ちず訊ねた。
「ああ、そういうものだよ。」
「でも僕は死ぬほど嫌いな人には地獄に落ちてほしいと思うけど。」
それに対して彼は口を開く。
「でもそれが業火だろうが水責め地獄だろうが、そんなことは別にどうだっていいだろう?苦しければそれで別に納得出来てしまう。」
そう言われて僕は、少し戸惑うように考えてから頷く。
「まあ確かにそんな気はする。」
「そう。結局どうだっていいんだ。つまりね、他人事ってことさ。」
そう言いながら彼は、僕のエナメルバックの脇に置いてあったグローブを手に取り、それを放るように僕に渡した。そうして彼は右手で赤い縫い目の綺麗な白球を弄びながら、ひとこと「座ってくれ。」とだけ言った。僕はいきなりのことで訳も分からずその申し出を渋っていたが、彼が「一球で済む」と言っていたので、僕は特に気が進まなかったけれども、彼の忠告通りそこに座った。そうして彼はそこからおおよそ十八歩、自身の感覚で離れていった。
「なあきみは、キャッチボールは会話だと思うか?」
彼は訊いてくる。僕は少し考えてから答える。
「相手のことを思って、捕りやすいところに投げる。相手がミスして暴投してしまったときには、なんとかしてカバーする。確かに言われてみれば似てるかも。みんながみんなそう喩えるのも分かる気がする。」
それに対して彼は頷く。
「そう、似ている。けれどもそれらは実際、似て非なるものだ。会話がキャッチボールだとしたらこの世界にここまで言葉は生まれない。ここまで言葉は多様に溢れていない。つまり会話というのはピッチングのようなものさ。どこまでも身勝手に思い切り投げたボールを受けることの出来るキャッチャー。そんな奴とだけ俺は本当の会話が出来る気がする。」
そうして彼は思いのほか豪快なワインドアップで振りかぶる。その瞬間、まるで別の生物に生まれ変わったかのように、どこまでも躍動的なフォームで放られたそのボールは、地面すれすれを通り、唸りを上げながら僕のグローブをすり抜け、真後ろの緑のネットに鋭く食い込んでいた。
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「きみと会話するにはまだ少し時間がかかるみたいだな。」
そう言って彼は、僕を置いてひとりで帰っていった。再び僕は取り残されて、けれどもそのとき不思議と嫌な気分はしなかった。結局彼がいったい誰なのか、どうして突然僕に話しかけてきたのかということは分からずじまいで、ただ恐ろしく迫ってくるような白球の軌跡だけが頭のなかでちらついて、けれども、それでも確かなのは、きっと彼だけが僕と本当の会話をしようとしてくれたということだった。
高校の最寄り駅の自動販売機でスポーツドリンクを買う。そしてそれに口をつける。それはさながら点滴のように。そうして僕はまたまた蘇生して、明日叱られる準備をする。少しの間だけ熱病に犯されたかのような感傷に浸りながら。