第4章 覚醒者との出会い
氷川彩華と別れてから数日。
俺の日常は、表面的には何も変わらないように見えて、その実、根底からひっくり返っていた。
「覚醒者」だの「制御者」だの「黒の輪」だの、まるで出来の悪いラノベみたいな単語が頭の中をぐるぐる回っている。
あれ以来、俺は無意識に女子のスカートに視線がいかないよう、細心の注意を払って生活していた。
廊下を歩く時も、階段を上り下りする時も、視線は常に斜め上!
おかげで首が痛い。
そして、時々すれ違う氷川さんからのプレッシャーが半端ない。
彼女の紫色の瞳は、まるで俺の心の奥まで見透かしているようで、目が合うたびに寿命が縮む思いだ。
「はぁ……俺、これからどうなるんだろ……」
そんなことを考えながら、放課後の人気のない廊下をとぼとぼ歩いていた時だった。
どこからか、アップテンポな音楽が聞こえてくる。
それも、かなり激しいやつ。
ドッドッドッ……という重低音が壁越しに響いてくる。
なんだ? 誰か音楽室で爆音パーティーでもやってんのか?
音の出どころは、旧校舎の第二音楽室のようだ。
普段はほとんど使われていないはずだが……。
好奇心に引かれて、俺はそっとドアに近づき、隙間から中を覗いてみた。
「なっ……!?」
思わず息を呑む。中にいたのは、意外な人物だった。
高城美咲だ。
彼女はピアノの前に座り、一心不乱に鍵盤を叩いていた。
いや、「叩いている」という表現が生ぬるいほどの超絶技巧だ。
指が、見えない。
残像しか見えないレベルで鍵盤の上を滑っている。
しかも、奏でているのはクラシックなんかじゃない。
さっき聞こえてきた、激しいEDMのメロディだ。
ピアノでEDM? しかも、こんな人間離れしたスピードで?
よく見ると、彼女の身体から、うっすらと紫色のオーラのようなものが立ち上っている。
耳にはいつものワイヤレスイヤホン。
そこから流れる音楽に合わせて、彼女の身体がリズムを刻み、尋常じゃない速度を生み出しているように見えた。
間違いない。これは「覚醒」だ。
「美咲……?」
俺が思わず声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、演奏をピタリと止めた。
慌ててイヤホンを耳から外し、立ち上がる。
紫色のオーラも、すぅっと消えていた。
「あ、駿! い、いつから見てたの?」
明らかに動揺している。
顔も少し赤い。
そりゃそうだろう。あんなの見られたら、誰だって焦る。
「いや、今来たとこ。でも、今の演奏……すごかったな。人間業とは思えなかったけど」
俺はカマをかけるように言ってみる。
美咲は一瞬言葉に詰まり、困ったように視線を彷徨わせる。
そして、観念したように小さな声で言った。
「……秘密にしてくれる? 私、普通じゃないの」
キタ! やっぱりだ! 俺は確信に変わった興奮を抑え、一歩前に出る。
「もしかして、美咲も……『覚醒者』なのか?」
「ええっ!?」
今度は美咲が素っ頓狂な声を上げる番だった。
彼女の大きな瞳が、これでもかというくらい見開かれている。
「どうしてその言葉を……! ま、まさか、駿も!?」
俺たちは顔を見合わせ、数秒の沈黙の後、どちらからともなく吹き出した。
「ぷっ……あははは!」
「マジかよ! お前もだったのか!」
なんだか、急に世界が開けたような気がした。
俺だけじゃなかったんだ。
このわけのわからない現象に巻き込まれているのは。
俺たちは音楽室の隅にある長椅子に並んで座り、互いの秘密を打ち明け始めた。
俺が視覚覚醒者であること、そして例の、あまりにもアレな発動条件……。
「で、俺の能力は、その……パンチラを見ると……」
説明しながら、自分の顔がみるみる赤くなっていくのがわかる。
「ぷっ……くくく……ご、ごめん! 笑っちゃダメだってわかってるんだけど……あははは! パンチラって! 駿らしいというか、なんというか!」
美咲は腹を抱えて笑い転げている。
おい、人の気も知らないで!
「笑うなよ! 俺だって好きでこんな能力になったわけじゃねーんだぞ!」
「ごめんごめん! でもさ、能力使うたびに見なきゃいけないって大変じゃない? 発動条件、コントロールできるの?」
笑いながらも、彼女は心配そうに尋ねてくる。
「いや、それが全然……。今のところ、偶然見えちゃった時にしか発動してない」
俺は肩を落とす。
「ふーん。私の場合は、このイヤホンで特定のEDMを聴けばいつでも発動できるんだけどね。『ビートダッシュ』っていうの。超速で動けるようになるんだ」
美咲はそう言って、ポケットからスマホを取り出し、一瞬だけイヤホンを耳につける。
すると、彼女の姿がブレたかと思うと、次の瞬間には音楽室の反対側の壁際に立っていた。
「うおっ! はやっ!」
「まあ、こんな感じ。便利だけど、燃費が悪くてすぐバテるのが難点かな」
彼女はけろりとした顔で元の場所に戻ってくる。
「聴覚覚醒者か……。いろんなタイプがいるんだな」
俺は感心する。
「ねえ、覚醒者って、世の中にどれくらいいるのかな?」
「さあ……私が直接知ってるのは、駿で二人目だよ。でも、この鳳凰市には結構いるっていう噂は聞いたことあるけど。なんでそんな特殊な人がこの街に集まってるのかは謎だけどね。駿はどうやって覚醒者のこと知ったの? やっぱり氷川さん?」
「あー……それは……」
俺が答えに詰まっていると、音楽室のドアが静かに開いた。
そこに立っていたのは、氷川彩華だった。
彼女は俺と美咲を見て、わずかに眉をひそめる。
「あなたたち……ここで何をしていたの?」
静かだが、有無を言わせぬ迫力がある。
「えっと、これはその……」
美咲が慌てて立ち上がる。
彩華は美咲の全身を値踏みするように見つめ、すぐに核心を突いた。
「あなたも覚醒者ね? さっき、微弱なエネルギー反応を感じたわ」
「えっ!? わ、わかるの?」
美咲が驚きの声を上げる。
「氷川さんも覚醒者なの?」
「私は違う。私は『制御者』。覚醒者の能力を安定させ、時には増幅させる特殊な体質を持っているだけ」
彩華は淡々と答える。
俺は慌てて二人の間に割って入る。
「待ってくれ! 美咲は味方だ! さっき、偶然知って……」
彩華は俺の言葉を聞くと、少しだけ表情を和らげ、美咲に向き直った。
「驚かせてごめんなさい。でも、状況はあまり良くないわ。あなたも気をつけて」
「状況が良くないって……どういうこと?」
美咲が不安そうに尋ねる。
「二人とも聞いて。覚醒者を狙う危険な組織『黒の輪』。彼らは覚醒者を見つけ出し、その力を利用しようとしている。すでにこの学園にも潜入している可能性があるわ」
彩華の言葉に、俺と美咲は息を呑む。
「そんな……どうして私たちが狙われるの?」
「それは……覚醒者の持つエネルギーが、彼らの目的達成に必要だから。詳しいことはまだ……」
彩華が説明しようとした、その時だった。
彼女の言葉が途中で切れる。
その視線は、音楽室の窓の外に向けられていた。
俺もつられて窓の外を見る。
校舎の影に、人影が見えたような気がした。
一瞬、銀色がかった紫の髪が翻ったような……。
「あれ、今の……月詠先生……?」
俺が呟くと、彩華の表情がさらに険しくなる。
「……やっぱり。監視されているわね」
彼女は苦々しげに呟く。
「とにかく、今は警戒を怠らないで。そして、むやみに能力を使わないこと。いいわね?」
彩華は俺たちに鋭い視線を向け、釘を刺す。
「わ、わかった……」
美咲も俺も、緊張した面持ちで頷くしかなかった。
黒の輪。月詠先生。そして、監視の目。俺たちの周りには、確実に危険が迫っている。
仲間が見つかった喜びも束の間、俺たちは否応なく、覚醒者をめぐる戦いの渦へと引きずり込まれようとしていた。