第3章 謎の能力
「こっちよ」
氷川彩華はそれだけ言うと、俺を促して人気のない方へと歩き出す。
俺は戸惑いながらも、彼女の後に続くしかなかった。
さっきの月詠先生の視線が、まだ背中に突き刺さっているような気がする。
あの人は間違いなく何かを知っている。
彩華が俺を連れてきたのは、学校の裏手にある、古びた倉庫と塀に挟まれた狭い路地裏だった。
夕日が差し込み、長い影が伸びている。
ゴミ収集の曜日でもないのに、どこからか生ゴミの酸っぱい匂いが漂ってくる。
野良猫が一匹、警戒するようにこちらを見て、すぐに塀の向こうへと姿を消した。
お世辞にも良い雰囲気とは言えない場所だ。
「あの、氷川さん……ここで何を?」
彩華は立ち止まり、油断なく周囲を見回してから、俺に向き直った。
夕日に照らされた彼女の横顔は、普段の冷たい印象とは少し違って、どこか儚げに見える。
だが、その紫色の瞳には強い決意の色が宿っていた。
「単刀直入に聞くわ。あなたは昨日、あの看板が落ちてきた時、普通じゃない動きをした。そして今日、授業中にシャーペンを折った。何か……特別な力が発現している自覚はある?」
核心を突く質問。
ごまかしは効かない。
俺は観念して頷いた。
「ああ。昨日、あんたを助けた時……それから今日の授業中も。身体に電気が走るみたいな感覚があって、力が湧いてくるような……」
「それは『覚醒』よ」
彩華は静かに告げる。
「覚醒?」
「そう。世の中には、ごく稀に、特定の刺激を受けることで常人離れした能力に目覚める人たちがいる。私たちは彼らを『覚醒者』と呼んでいるわ」
覚醒者……。
まるでラノベかアニメの世界だ。
だが、自分の身に起きたことを考えれば、否定はできない。
「じゃあ、俺もその覚醒者ってやつに?」
「正確には、なりかけている、という段階ね。まだ不安定で、制御もできていない」
「制御……」
「私の家……氷川家は、代々そうした覚醒者の能力を安定させ、時にはその暴走を抑える役目を担ってきた。『制御者』と呼ばれているわ」
制御者。
だから彼女は俺の異変に気づき、近づいてきたのか。
納得がいった。
同時に、彼女が背負っているものの重さを垣間見た気がした。
学園のマドンナ、完璧超人。
そんな仮面の下で、彼女はずっと一人で戦ってきたのかもしれない。
「それで……俺の場合、その『特定の刺激』っていうのは……やっぱり……」
言いかけて、言葉に詰まる。
顔がカッと熱くなるのがわかる。
頼むから、口に出して言わないでくれ!
彩華もわずかに頬を染め、気まずそうに視線を地面に落とす。
長いまつ毛が影を作る。
「……ええ。残念ながら、そのようね。あなたの場合、極めて特殊なケースだけど……女の子の、その……スカートの中を見てしまうことが、能力発動のトリガーになっている。視覚刺激による覚醒……『視覚覚醒者』だわ」
「マジかよぉぉぉっ!」
俺は思わず頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
よりにもよって、パンチラがトリガーだなんて!
神様、いくらなんでも俺に厳しすぎやしませんか!?
もう少しこう、格好いいやつはなかったのか!?
例えば「友情の力で覚醒!」とか、「正義の心に反応!」とかさぁ!
「なんで俺だけこんな……こんな下世話な能力なんだよ!」
「……下世話かどうかはともかく、あなたの能力は非常に強力な可能性を秘めているわ」
彩華は冷静に、しかしどこか呆れたような声で言う。
「強力って言われてもな……発動条件がこれじゃ、全然嬉しくないぞ……」
というか、社会的に抹殺されかねないレベルだろ、これ。
「でも、昨日は……その力で私を助けてくれた」
彩華の声が少しだけ和らぐ。
「え?」
「もしあなたが飛び出してこなかったら、私はあの看板の下敷きになっていた。……感謝している」
真剣な瞳で俺を見つめる彩華。
その真っ直ぐな視線に、俺の心臓がトクン、と跳ねた。
(そっか……俺、氷川さんを助けたんだ……)
能力がどんなにアレでも、結果的に人助けができた。
それは、紛れもない事実だ。
そう思うと、少しだけ気分が軽くなった。
「とにかく、覚醒者である以上、あなたは狙われる可能性がある」
彩華の表情が再び険しくなる。
「狙われる? 誰に?」
「『黒の輪』……覚醒者の力を悪用しようとする組織よ。彼らは強力な覚醒者を探している。今日の月詠先生も、おそらくその一員」
月詠先生が……。
あの美人が、そんなヤバい組織の人間?
信じられないが、あの時の妙な視線を思い出すと、妙に納得してしまう。
「覚醒したばかりのあなたは、特に危険よ。能力を制御できなければ、暴走して自分や周りを傷つけるかもしれないし、敵に利用されるかもしれない」
彩華は続ける。
「俺が……暴走?」
想像もつかない。
だが、あのシャーペンを握り潰した力を思い出すと、ありえない話ではないのかもしれない。
「だから、私があなたのそばにいる必要がある。私の『制御者』としての力で、あなたの能力を安定させ、暴走を防ぐことができるから」
「氷川さんが、俺を……」
「誤解しないで。これはあくまで、氷川家に課せられた使命。そして、あなた自身と、周囲の安全のためよ」
彼女はきっぱりと言い切る。
だが、その言葉とは裏腹に、俺には彼女が少し寂しそうに見えた。
「わかった。俺、どうすればいい?」
「まず、自分の能力についてもっと理解すること。そして、それを制御する術を身につけること。私も協力するわ」
「協力……」
「ええ。ただし、条件がある」
彩華は人差し指を立て、厳しい表情で俺に告げる。
「第一に、決して能力を私利私欲のために使わないこと。第二に、制御できないうちは、絶対に人前で能力を使わないこと。そして第三に……」
彼女は一瞬言葉を切り、意を決したように続けた。
「……故意に、私のスカートの中を見ようとしないこと」
「…………………………はい」
ぐうの音も出ない。
最後の条件が一番キツいが、自業自得だ。俺は力なく頷いた。
「よし! それなら、俺も協力する! ちゃんと能力を制御できるようになりたいし、氷川さんにも迷惑かけたくない! ……それに、あんたを助けたい!」
最後の言葉は、ほとんど無意識に出ていた。
彩華は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものクールな表情に戻る。
「……そう。なら、これからよろしく頼むわ、相澤君」
「おう! よろしくな、氷川さん!」
俺は差し出されたわけでもないのに、勢いよく右手を突き出す。
彩華は一瞬戸惑った後、仕方ないわね、というように小さくため息をつき、そっと俺の手を握った。
彼女の手は、少し冷たかった。
その時、背後から、誰かに見られているような感覚。
俺は勢いよく振り返るが、夕暮れの路地裏には俺たちの伸びた影以外、何も見えない。
「どうしたの?」
彩華が怪訝そうに尋ねる。
「いや……なんでもない。気のせい、かな」
俺は首を振る。
だが、胸騒ぎは収まらない。
俺たちの秘密の会話を、誰かが聞いている。
そんな確信に近い予感が、夕暮れの冷たい空気と共に、じわりと広がっていくのを感じていた。
これから始まる戦いは、思ったよりもずっと近くで、すでに始まっているのかもしれない。