第2章 異変の兆候
翌朝。
昨日の衝撃的な出来事がまだ頭の中でリフレインしている。
あの超人的な身体能力、スローモーションに見えた世界、そして氷川彩華の…………いや、やめよう。
思い出すのはやめよう。
あれは事故だ、うん。
気怠い体を引きずって教室のドアを開けると、けたたましい声が俺を迎えた。
「おはよう、駿!」
声の主は高城美咲。
俺の幼馴染で、クラスでも一、二を争う陽キャだ。
腰まである明るい茶髪をツインテールにして、今日も元気いっぱい。
いつも耳には最新モデルっぽいワイヤレスイヤホンを装着している。
ファッションセンスも抜群で、俺みたいな地味系男子とは対極の存在だ。
「よう、美咲。朝から元気だな、相変わらず」
俺は欠伸を噛み殺しながら答える。
昨日のアレコレで若干寝不足気味だ。
「当たり前じゃん! それより聞いた? 今日から新しい先生が来るんだって! しかも、めちゃくちゃ美人らしいよ!」
美咲は目をキラキラさせながら俺の肩をバンバン叩く。
おい、地味に痛いぞ。
「へぇ、美人教師ねぇ」
その時、教室の入り口付近が、水を打ったように静かになった。
まるでスポットライトが当たったかのように、全員の視線が一人の女子生徒に集まる。
氷川彩華だ。
今日も彼女は完璧だった。
長い黒髪を寸分の乱れなくポニーテールに結い上げ、背筋をピンと伸ばして、誰とも視線を合わせることなく自分の席へと歩いていく。
その姿はまるで、近づくことすら許さない氷の彫像のようだ。
昨日、屋上で見た少しドジな(そして無防備な)姿が嘘みたいだ。
彼女が俺の席の横を通り過ぎる。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、彼女の紫色の瞳が俺を捉えた。
……気がした。
すぐに逸らされたけど。
気のせいか?
いや、でも確実に目が合った。
そして、その瞳には昨日と同じ、いや、昨日よりも強い警戒の色が浮かんでいたような……。
「あれ? 彩華ちゃん、なんか今、目ぇ合わなかった?」
美咲が不思議そうに小首を傾げ、俺に耳打ちする。
鋭いな、こいつ。
「い、いや! 昨日ちょっとした事故があってだな……」
しどろもどろに言い訳しようとした瞬間、教室の扉が再び開き、噂の人物が登場した。
息を呑むような美貌。
腰まで伸びる、滑らかな銀色がかった紫の髪。
知的な切れ長の瞳は、どこか妖艶な光を宿している。
黒いタイトスーツに身を包み、完璧なプロポーションを惜しげもなく晒している。
年齢は……二十代半ばくらいか?
とにかく、高校には不釣り合いなほどの色気を放っていた。
「皆さん、おはようございます。今日から皆さんのクラスの担当になりました、月詠鈴音です。専門は古典ですが、皆さんと楽しく学んでいきたいと思います。どうぞよろしく」
声まで、なんだか艶っぽい。
鈴が鳴るような、それでいて少しハスキーな、聞いているだけでとろけそうな声だ。
クラス中の男子生徒が、口をぽかんと開けて見惚れている。
……まあ、俺も人のことは言えないが。
しかし、俺の頭の中はそれどころじゃなかった。
昨日の出来事だ。
あの力は一体何だったのか?
発動条件は?
まさか、本当に氷川さんの…………。
授業が始まっても、俺は上の空だった。
月詠先生の美しい声も、黒板の文字も、頭に入ってこない。
ちらちらと氷川さんの後ろ姿を見てしまう。
別に下心があるわけじゃない。
いや、全くないと言ったら嘘になるかもしれんが、今はそれよりも、あの力の正体を知りたいという好奇心が勝っている。
(もし、もう一度見たら……また発動するのか?)
淡い期待を込めて、彼女のスカートの辺りに視線を送ってみる。
……いや、ダメだろ俺! 何考えてんだ!
しかも、当然ながら何も起こらない。
やっぱり偶然だったのか?
それとも、あの状況、あのタイミング、そして氷川さんじゃなきゃダメなのか?
混乱する俺の思考を遮ったのは、隣の席の美咲だった。
彼女はノートを取ろうとして、うっかりイヤホンを床に落としてしまったらしい。
「あ、やば」
慌てて拾おうと前屈みになる美咲。その瞬間だった。
ふわり。
彼女のチェック柄のスカートが、ほんの一瞬、めくれ上がった。
鮮やかなピンク色が見えた。
「っ!」
まただ! 昨日と同じ、あの電流が走るような感覚!
全身の神経が逆立ち、視界の端で青白い火花が散る。
持っていたシャープペンシルを握る手に、意図せず力がこもる。
バキッ!
鈍い音と共に、愛用のシャーペンが無残にも真っ二つに折れた。
「うおっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
クラス中の視線が一斉に俺に突き刺さる。
やっちまった!
「相澤君、どうかしましたか?」
月詠先生が、面白がるような、それでいて何かを探るような視線を俺に向けてくる。
その琥珀色の瞳の奥は、まったく笑っていない。
「い、いえ! なんでもないです! ちょっとシャーペンが寿命だったみたいで! アハハ……」
俺は必死にごまかす。
折れたシャーペンを慌てて机の中に隠す。
冷や汗が背中を伝うのがわかる。
チラリと氷川さんの席を見る。
彼女は相変わらず無表情で黒板を見つめている。
……ように見える。
そして、月詠先生の視線は、明らかに俺と氷川さんを交互に見ていた。
その瞳には、冷たい好奇心と、獲物を見つけた狩人のような光が宿っていた。
◇
放課後。重い気分で教室を出ようとすると、ドアの前で氷川さんが俺を待ち構えていた。
まるで仁王立ちだ。
その迫力に、思わず足がすくむ。
「……昨日のこと、誰にも言わないで」
有無を言わさぬ、絶対零度の声。
「あ、ああ。もちろんだ。言うわけないだろ」
俺はぶんぶんと首を振る。
「……あなた、何か変わったことない?」
彼女の紫色の瞳が、俺の心の奥底まで見透かそうとするように、じっと見つめてくる。
「え?」
「体調とか……気分とか。今日の授業中も、何かおかしかった」
やっぱり気づいてたか。
俺は正直に話すべきか迷った。
でも、彼女の真剣な表情を見ていると、嘘はつけない気がした。
それに、このままじゃ俺、自分の力に振り回されて、とんでもないことになるかもしれない。
「実は……」
俺が口を開きかけた、その時。
ふと視線を感じて廊下の向こうを見る。
そこにいたのは、月詠先生だった。
彼女は壁に寄りかかり、まるで偶然通りかかったかのように立っていたが、その視線は明らかに俺たちに向けられていた。
俺と目が合うと、彼女はにこりと微笑み、優雅な足取りで去っていく。
「……今の、月詠先生……」
俺の呟きに、氷川さんの表情が一層険しくなる。
「……今は、何も話さないで。場所を変えましょう」
彼女はそれだけ言うと、足早に歩き出した。
俺は黙って彼女の後をついていく。
月詠先生のあの笑顔が、妙に頭にこびりついて離れない。彼女は一体何者なんだ?
ただの美人教師じゃない。
それだけは、確かだ。
俺たちの周りで、何かが確実に動き始めている。そんな不穏な予感が、じっとりと首筋にまとわりついていた。