第1章 平凡な日常と運命の出会い
「よし、今日も無事、聖域確保っと」
俺は、相澤駿。
私立鳳凰学園に通うごく平凡な男子高校生だ。
昼休み終了を告げるチャイムの残響を聞きながら、俺は得意のステルススキル(自称)を発動させていた。
目指すは旧校舎の屋上。
しかもご丁寧に『危険・立ち入り禁止』なんていう、いかにも「秘密基地にしてください」と言わんばかりの札がぶら下がった扉の向こう側だ。
まったく、こういう抜け道探しに関しては、俺の右に出る者はいないだろう。
平凡な俺の、数少ない非凡な才能だ。
初夏の強い日差しが容赦なく降り注ぐ。
コンクリートの照り返しが目に痛い。
じりじりと焼けるような熱気の中に、微かに埃っぽい匂いと、遠くグラウンドから聞こえてくるサッカー部の掛け声が混じり合う。平和だ。
実に平和な、いつも通りの午後。
屋上の隅、古びた給水タンクの影。
ここが俺のお気に入りの昼寝スポットだ。
風が吹き抜けて意外と涼しいし、何より人目につかない。
俺はカバンを枕に、コンクリートに寝転がる。
緩めたネクタイが、火照った首筋に心地いい。
「あー……天国。やっぱ、こうでなくっちゃな」
真っ青な空を白い雲がゆっくりと横切っていく。
まるでラノベのワンシーンみたいだ。
……なんて、呑気に考えていたのが間違いだった。
平和な日常なんて、案外もろい。
ギィィ……。
不意に、すぐ近くで錆びた金属が軋む音がした。
まさか。この聖域に、俺以外の侵入者が?
慌てて上半身を起こし、給水タンクの影に身を潜める。
心臓が早鐘を打ち始める。
いや、ビビってるわけじゃない。
これは状況把握のための適切な生理反応だ。
コツ、コツ……と、硬質な、それでいて軽い足音が近づいてくる。
教師の革靴の音じゃない。
ヒールでもない。
ローファー? 生徒か? こんな場所に?
息を殺して見守っていると、立ち入り禁止の扉がゆっくりと開かれ、そこに現れた人物を見て、俺は文字通り息を呑んだ。
氷川彩華。
腰まで伸びる、濡れたような艶のある黒髪。
それを高い位置で束ねたポニーテールが、風にさらさらと揺れている。
寸分の乱れもなく着こなされた制服。
白い肌は、強い日差しを照り返して眩しいほどだ。
そして、全てを見透かすような、深い紫色の瞳。
学園の誰もが憧れる完璧超人。
高嶺の花。
孤高のマドンナ。
そんな彼女が、なぜこんな場所に?
疑問が頭を渦巻く。
彼女は周囲に誰もいないことを確認すると、ふぅ、と一つ、誰にも聞かせないような小さなため息をついた。
その横顔は、教室で見る完璧な彼女とは少し違って、何か重いものを抱えているような、そんな翳りが見えた気がした。
彼女は手に持っていた、弓道で使うのだろうか、細長い袋をそっと地面に置くと、おもむろに制服のブラウスのボタンに手をかけた。
「ちょっ……!?」
嘘だろ!? ここで着替える気か!?
いやいやいや、ダメだって!
高校生として以前に、人として!
見るわけにはいかない! 絶対に!
俺は固く目を閉じ、心の中で念仏のように「見ない見ない見ない……」と唱える。
だが、悲しいかな、男子高校生の性というやつか、あるいは単なる好奇心か、瞼の裏で想像が暴走し始める。
ああ、神様、俺に鋼の意志をください!
「見られたくないものがあるなら、もっと安全な場所を選べよな……」
なんて、心の声が漏れそうになった、その時。
ビュオォォォッ!!
まるで何かの合図みたいに、強い風が屋上を吹き抜けた。
それは明らかに、状況を最悪の方向へと導く、悪魔のいたずらとしか思えなかった。
ふわり、と。
風に煽られ、彼女の紺色のプリーツスカートが、まるでスローモーションのように舞い上がる。
視界に飛び込んできたのは、一瞬の白。
清楚な白地に、淡い水色の細いリボン。
「っ!!!」
脳がショートしたような衝撃。
全身の血液が逆流し、沸騰するような感覚。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打つ。
やばい。これは完全にアウトだ。犯罪だ。俺は社会的に死ぬ!
パニックになった頭で自己弁護を繰り返す。
「事故だ! 不可抗力だ! 俺は何も見てない!」
だが、その弁解も虚しく、俺の身体には、先ほどとは比較にならないほどの強烈な『異変』が起きていた。
ビリリリリッ!!!
まるで高圧電流を流し込まれたみたいに、全身の神経が激しくスパークする。
視界の端で青白い閃光が明滅し、脳の回路が無理やり繋ぎ変えられるような、痛みと……ほんの少しの快感が混じり合ったような感覚。
「な、なんだこれ……!?」
自分の身体に起きている異常事態に戸惑う間もなく、俺の聴覚が、すぐ傍で何かが軋み、崩れる音を捉えた。
ゴトン……ミシミシッ……。
嫌な予感がして顔を上げる。
視線の先、旧校舎の壁。
そこに取り付けられていた、かなり年季の入った大きな木製の看板。
取り付け金具が錆びて朽ち果て、ゆっくりと、しかし確実に、壁から剥がれ落ちようとしていた。
あれ、確か用務員さんが「危ないからそろそろ外さないとな」って言ってたやつだ!
そして、その真下には――何も知らずに立ち尽くす、氷川彩華がいる。
「危ないっ!!」
叫び声は、自分でも驚くほどスムーズに出た。
だが、間に合うか?
あの距離、あの看板の大きさ。
普通なら、絶対に無理だ。
そう思った瞬間。
カチリ、と。
何かのスイッチが入ったかのように、俺の世界は再び変貌した。
時間の流れが極端に遅くなる。
落下してくる看板の動きが、まるで低速再生の映像のように、ゆっくりと、しかし克明に見える。
風に舞う砂埃、光の粒子、彩華の驚きに見開かれた瞳に映る俺の姿まで、全てが異常な解像度で認識できる。
(なんだ……これ……? まるで、世界が……俺に合わせて動いてるみたいだ……!)
混乱? している暇はない。
恐怖? 感じている余裕もない。
頭で考えるより先に、身体が動いていた。
給水タンクの影から弾かれたように飛び出す。
地面を蹴る力が、まるで爆発したかのように身体を前へと押し出す。
速い。
信じられないくらい速い。
ゲームで鍛えた動体視力が、落下物の正確な軌道とタイミングを捉える。
コンマ数秒先の未来が予測できるような、全能感にも似た感覚。
「うおおおおっ!!」
雄叫びを上げながら、瞬く間に彩華の傍まで到達する。
彼女の細い腕を掴み、力強く引き寄せる。
「えっ!?」
驚きと困惑に彩られた紫色の瞳が、間近で俺を映す。
その瞳に、俺自身の姿が青白いオーラのようなものを纏っているのが見えた。
「伏せろっ!!」
彼女の柔らかい身体を抱きしめるようにして、地面へと倒れ込む。
ほぼ同時に、俺たちのすぐ背後で、世界が壊れるような轟音が鳴り響いた。
ゴッシャァァァァァン!!!
衝撃波と土埃が俺たちを襲う。
コンクリートの破片が雨のように降り注ぎ、耳鳴りが止まない。
「…………っは…………はぁ…………」
全身の力が抜ける。
荒い息を繰り返しながら、抱きしめた彩華の身体が小刻みに震えているのを感じる。
彼女から漂う、石鹸のような清潔で甘い香りが、妙に現実感を際立たせる。
やがて、身体を支配していた電流のような感覚と、世界をスローモーションに変えていた力が、まるで潮が引くように消えていく。重力が戻ってきたかのように、身体が急に重くなった。
「…………」
「…………」
静寂。
舞い上がっていた土埃が、きらきらと光を反射しながらゆっくりと落ちてくる。
俺はまだ、彩華を腕の中に抱いたままだった。
「……っ!」
自分の状況に気づき、慌てて飛びのくように身体を離す。
「だ、大丈夫か!?」
至近距離で、再び彼女の瞳と視線が絡み合う。
その紫色の瞳には、さっきまでの驚きや困惑に加えて、何かを見定めるような、鋭い光が宿っていた。
その視線に射抜かれ、俺は思わず息を呑む。
彼女の唇が、わずかに開く。
何か感謝の言葉でも……?
そう期待した俺は、次の瞬間、奈落の底に突き落とされた。
「……早く離れて」
氷のように冷たい声。
温度も、感情も感じられない、絶対零度の声。
「は…………へ?」
彼女はそう言って、俺から視線を外し、まるで汚いものでも払うかのように制服の埃を手で払い始めた。
その指先が、微かに震えているように見えたのは、きっと気のせいだろう。
立ち上がる姿は、いつものように完璧で、凛としていた。
「い、いやいやいや! 今のは完全に事故! 不可抗力! それに、俺があんたを助けただろ!?」
俺は必死に抗議するが、彼女は完全に無視。
くるりと背中を向け、瓦礫を避けながら立ち入り禁止の扉へと歩き出す。
おいおい、マジかよ!?
人助けした結果がこれか!?
さすが氷川彩華、クールビューティーなだけあって、対応も氷点下だな!
……って、感心してる場合じゃない!
彼女は扉の前で、一瞬だけ足を止めた。
そして、ほんの少しだけ、振り返った。
逆光で表情は読み取れない。
「…………ありがと」
さっきよりは少しだけはっきりと、でも蚊の鳴くような声でそう言うと、今度こそ扉の向こうへと消えていった。
後に残されたのは、破壊された看板の無残な姿と、あまりの理不尽さに呆然と立ち尽くす俺だけ。
俺は自分の手のひらをじっと見つめる。
まだ微かに、あの不思議な感覚が残っている。
身体の奥底が熱い。
世界が違って見えた、あの瞬間。
まるでゲームの主人公にでもなったかのような、あの全能感。
「一体、何なんだよ、これ…………」
答えは、風の中。
ただ、確かなのは、俺の退屈で平凡だった日常は、この瞬間、完全に終わりを告げたということ。
そして、目の前には、とんでもなく厄介で、もしかしたら少しだけワクワクするような、非日常が口を開けて待っている。
そんな予感が、夕暮れの生暖かい風に乗って、俺の心をざわつかせていた。