第8話 忘れられた記憶の頁
朝露が光る窓辺に、静かな風が吹き抜けていた。
名もなき少女は、目を覚ますと、夢の余韻をそのままに小屋の棚を見つめていた。
昨日、日記を綴ったことで、自分の中にぽっかりと空いていた何かが、少しだけ埋まった気がしていた。
けれど、それと同時に――新たな違和感も生まれた。名を持たないままでいることが、妙に落ち着かなくなったのだ。
「……何か、手がかりがあれば」
呟きながら、少女は棚の隅に積まれた本の山を一冊ずつ手に取った。
どれも古く、ページは黄ばみ、文字はかすれていた。
それでも、彼女には何となくわかる。言葉の意味が、心にすとんと落ちてくるような、不思議な感覚があった。
ふと、その中の一冊、革の装丁が施された薄い本をめくった瞬間、微かに光がこぼれ落ちたような気がした。
『星の巫女は、名を持たずに生まれ、名を得て使命を果たす』
その一文に、少女の指先が止まる。
「……星の巫女?」
その言葉は、どこか懐かしく響いた。けれど、思い出そうとしても、記憶の霧は晴れない。
さらにページをめくると、いくつかの名前が、星々の記号のような印と共に記されていた。
古代の言葉だろうか。意味までは読み解けないが、ひとつひとつの音に、何か力が宿っているように感じられた。
「名は、ただの呼び名じゃない……」
それは、誰かから与えられるだけでなく、自分で選び、織り上げていくものなのかもしれない。
少女は胸の奥で何かがかすかに動いた気がして、本をそっと閉じた。
その瞬間、小屋の中にふわりと風が流れ、机の上の羽根ペンが揺れた。
ふと気づくと、傍らにいたシエラが小さな声で囁く。
「ねえ、あなたの名が、きっと近づいてきてる。私、そう思うの」
少女は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
その夜、彼女はまた星空を見上げる。
自分に呼びかけるような風の音と、遠い記憶のような月の光。
すぐに答えは見つからないかもしれない。でも、それでも――
「名を持つことが、こんなにも、あたたかいなんて」
そう呟いた声は、夜の静けさに溶けて、どこか遠くへ届いていった。




