第7話 名前を探して
朝の霧が森を包み、柔らかな光が木漏れ日となって地面を照らしていた。
小屋の前に佇む少女は、いつものように深呼吸をしてから、そっと草花に手を伸ばした。
彼女の指先に触れた葉がわずかに揺れ、妖精たちがふわりと舞い降りてくる。
「おはよう、シエラ」
「おはよう、昨日はよく眠れた?」
肩に乗った小さな妖精が、目を輝かせながら尋ねた。
少女は少し微笑み、頷く。
けれど心の中には、昨日の夜、交わした言葉がまだ静かに残っていた。
――名前は?
リュシオンの問いかけに、少女は答えられなかった。
自分には、名がない。そう伝えるしかなかった。
「ねぇ、シエラ。名前って、やっぱり必要なものなのかな」
歩きながら、少女はぽつりと問いかけた。
シエラは羽音を立てながら、少し考えるように空中をくるくると回った。
「そうね……名前は、その人だけの音。呼ばれるたびに、自分が誰なのかを確かめられるものだと思う」
「じゃあ、私には……それがないんだね」
少女は立ち止まり、自分の胸元に手を当てた。
風がそっと吹き抜け、草花のあいだから星形の小さな花が揺れた。
「仮でもいいから、呼び名をつけてみたらどう?」
「自分で……?」
「うん。呼ばれたとき、胸がふっとあたたかくなるような名前が、きっとあるはずよ」
少女は少しだけ目を伏せた。
思い浮かぶ言葉はたくさんあったけれど、どれも「本当の名前」とは違う気がした。
けれど――それでも、名もないままではいられない。
夜になって、小屋の窓辺に座った少女は、小さなノートを開いた。
昨日、シエラが見つけてきた古びた紙の束。
その中に、一枚だけ空白のページがあったのだ。
そのページに、彼女はそっと言葉を記していく。
“今日の空は澄んでいて、一番星がきれいだった。
リュシオンという人に出会った。
私はまだ、名前がない。
でも、名前を持ちたいと思った。”
月の光が紙面を照らし、ペン先が静かに動いていく。
“私を呼んでくれる人がいて、その声に振り向けるような
そんな名前が、欲しい。”
少女はそっとページを閉じると、星のきらめく夜空を見上げた。
遠く、森の奥でふと木々が揺れた気がした。
それは、風のせいだったのか。
それとも――
心が名前を求めているからこそ、何かが応えてくれたのか。
少女はそっと目を閉じ、まだ見ぬ名の響きを夢見て、静かに微笑んだ。