第6話 名もなき少女
朝の森は、ひんやりとした空気に包まれていた。
かすかな霧が木々の間を漂い、草花の上には夜露がきらめいている。
少女は、小屋の前でゆっくりと深呼吸をした。
森の香りが胸いっぱいに広がり、心が少しだけ落ち着いたような気がした。
昨夜――あの星降る夜。
彼と出会ったことが、まだ夢のように思えていた。
「……リュシオン」
思わず、彼の名を口にしていた。
それはまだ不思議な響きを持っていて、けれど心に静かに馴染んでいく。
彼の瞳には、迷いと、何かを探し続けているような光が宿っていた。
あのときの言葉、あのぬくもり。
どれもが胸に残っていて、少女は知らずに自分の指先を見つめていた。
彼の手が触れた場所が、まだあたたかい気がした。
「……私は、誰なんだろう」
ぽつりと呟くと、そばで揺れていた木の葉が、はらりと一枚、地に落ちた。
それは、まるで少女の胸の奥に沈む問いに、森が応えるようだった。
今日も、小屋で静かな時間を過ごした。
古い本を読み、魔法の練習をし、シエラと少しだけ話をした。
けれど、心のどこかでは、ずっと彼のことを考えていた。
――名前を聞かれたとき、私は答えられなかった。
その瞬間、少女は初めて「名を持たないこと」が、こんなにも空白のように感じられるのだと知った。
「ねえ、シエラ。名前って……そんなに大切なものなの?」
肩に止まっていた小さな妖精は、少しだけ考えてから答えた。
「名前はね、自分を見つける鍵みたいなものよ。誰かに呼ばれて初めて、その名が生きるの」
「呼ばれて……」
「うん。大切な人に呼ばれるとき、その名前はきっと、特別な意味を持つのよ」
少女は目を伏せ、そっと胸元に手をあてた。
名前も、記憶もない。
けれど、自分という存在が、誰かの記憶に残っているのだとしたら――
「……いつか、私にも名前ができるのかな」
シエラは微笑んで、ふわりと舞い上がった。
「きっとできるわ。星の導きがあるなら、ね」
そう言って、夜空を見上げる。
その先には、まだ薄明るい空が広がっていた。
やがて陽が傾き、森の木々は橙色に染まり始めた。
小屋へ戻る途中、少女は空を見上げ、一番星を見つけた。
あの夜、彼と出会った場所――
それは、ただの偶然じゃなかった気がする。
まるで、あの瞬間のすべてが、何かに導かれていたような
小屋に戻り、ベッドの縁に腰を下ろす。
扉の外では、虫の音が静かに響いていた。
「……私は、ただの少女。名前も、過去も、まだ持っていない。でも――」
宵闇の中に、静かに言葉が溶けていく。
胸の中で、小さな灯火がともるような気がした。
それはきっと、星の導き。
まだ知らない未来へ、そっと背中を押す光。
そう――
物語は、静かに動き出していた。