第2話 古書のささやき
朝露がまだ葉の先に残る時間、少女は古びた書物を抱えたまま、小屋のテーブルに座っていた。
昨夜、夢の中から現れたその本は、重厚な革表紙に銀の糸で魔法陣が刻まれており、ただの魔導書とは違う気配を纏っている。ページをめくるたび、淡い光がふわりと立ち上がり、指先をくすぐった。
「これは……わたしの記憶を導くって……?」
少女は静かに呟いた。声に出してみても、自分でもまだ信じ切れていない。
ページをめくると、見知らぬ言語と、紋様に似た図形、魔法陣が描かれていた。それらはどこか懐かしい。意味も知らぬはずの文字が、なぜか頭の中で自然に響き、理解できてしまう。
「読める……?」
書かれていたのは、世界の理、魔法の起源、そして“魂の記憶”についての記述だった。
“魂は記憶する。肉体が滅びようとも、深く刻まれた想いは、時を超え、巡りゆく”
その言葉を見つけた瞬間、少女の胸がふっと締め付けられた。
「想い……?」
そのとき、小さな羽音とともに、見慣れた妖精たちが窓辺から入り込んできた。
「おはよう、森の少女」
一番近くにいた淡い水色の妖精が、にこりと笑って舞い降りる。彼女――「リン」と名乗るその妖精は、少女の傍にいつも寄り添っていた。
「その本、特別なものね。とても、古い記憶の匂いがする」
「記憶の匂い?」
少女は目を見開いた。
「そう。森に流れる風や草のささやきには、いつも過去が宿っているの。でも、その本からはもっと強く、何かを伝えようとする力を感じるの」
リンは書物の上にそっと手をかざすと、小さな光の粒が立ち昇り、空中に魔法陣の幻が浮かび上がった。
「この印……あなたの腕の紋様に似ている気がする」
「えっ……」
少女は慌てて袖をまくる。そこには、あの日見つけた緑と金の紋様が、微かに光を宿して浮かんでいた。
「これは……」
「あなたが、どこかで受け継いだものだよ。血ではなく、魂が選んだ証」
リンの言葉は、まるで風が囁くようだった。
その後も少女は日々、書物を読み進め、森の自然と語らいながら、魔法の練習を続けていった。魔法は言葉よりも感覚で覚えるものだった。花を咲かせ、風を呼び、火を灯す。それらが彼女には驚くほど自然にできた。
けれど、魔法の力を使うたびに、胸の奥がわずかに痛んだ。
それは、誰かの名前を呼ぶ声。忘れてはいけない何かを、ずっと置き去りにしているような、そんな気配だった。
「わたしは……何を思い出さなきゃいけないの……?」
風が木々を揺らす音の中で、少女は小さく問いかけた。
すると、リンがふと浮かび上がり、そっと少女の肩に乗った。
「それは、あなた自身が選ぶ道。けれど、近いうちに“誰か”があなたを見つけるわ。そのとき、世界はまた動き出す」
「……誰か?」
「ええ。森の外からやってくる。あなたの魂が、待ち続けてきた人よ」
少女は何も言えなかった。ただ、小さく息をのむだけだった。
そうして、また一日が終わり、夜の帳が森に降りる。少女は静かに魔法陣の光を見つめながら、知らぬ記憶の扉の前に立ち尽くしていた。
その先に何があるのか――まだ、誰も知らない。